教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

「公教育」としての学校改革の意味するところ

2022年02月22日 21時37分00秒 | 教育研究メモ
 「教育」という言葉は一般的によく使われますが、その意味するところはいろいろです。相手がどういう意味の「教育」を論じているか理解しないと、議論はかみ合いません。教育学は、様々な「教育」を扱いますが、その中核概念に「公教育」・「私教育」があります。とくに現代日本では、公教育と私教育とを区別して話さないと話が混乱します。実際に、2000年代には、公教育と私教育との違いを十分に理解せずに議論が行われ、大変な騒ぎになりました。

 あまり話を複雑にするとわかりにくくなるので、ここでは大雑把に定義します(とくに「私教育の組織化」の話は今回は除きます)。
 公教育とは公共のための教育のこととし、私教育とは私事のための教育とします。公教育の代表は学校教育です。学校教育は、公共のための教育であり、国家や社会を良くするための教育、特定の個人や集団のためでなくみんなのためになる教育を目指します。私教育の特定はかなり難しいのですが、特定の家族や個人が私事として私事のために行う教育で、子育てやしつけなどが代表です。なお、塾は、特定の家族や個人の立身出世・学歴取得のために行う教育ですので、私教育に属すると私は思っています。企業内研修や社員教育も、経済活動が個人や特定集団の利益や欲望を基盤とする限り、実質的に私教育と見るべきだと私は思います。
 私が先日から主張しているのは、公教育の改革です。私教育の改革は提唱していません。

 私は学校改革はすべての子どもの被教育権・学習権保障を目的とすべきと言ってきました。その意味するところは、主に志水宏吉さんの「学力保障」概念が近いと思っています(「学力保障」については、志水宏吉『学力格差を克服する』ちくま新書、2020年がおすすめです)。
 「すべての子ども」というところは強調します。できる子どもだけ学ばせればいい、特定の職業や進路に就く(就きたい)子どもだけ教えればいい、といった考えは私のとるところではありません。能力や障害の程度、出身家庭・地域・国籍などを問わず、「すべての子ども」が、憲法の保障する教育を受ける権利と、国連が保障しようとしている学習権とを保障されるための制度を求めます。全員に同じ内容を同じ方法で同じだけ教育すべき、という過剰な平等主義もとりません。幼児教育・初等教育・中等教育・高等教育・職業教育・社会教育・生涯学習など、それぞれの段階・領域で程度やあり方は異なりますが、基本的には子ども・学習者の興味関心や進路に応じた内容・方法・程度(課程)を教育・学習することを保障することを目指しています。
 ここで保障されるべき教育・学習の内容は、知識・技能だけではなく、社会性や人間性なども含みます。これらの知識や人間性などは、国益や経済発展、個人の栄達のために限らず(もちろん結果的にそうなるのは結構ですが)、社会の連帯や公正、個人の自由・人権の保障などのためのものです。知識・技能は、学歴・資格取得や試験通過のためのものには限りません。社会性や人間性だけ育てて、知識・技能はどうでもいい、という考えにも賛同しません。知識・技能は生きていく上、教育・学習を充実させる上など、様々な場面で必要です。 
 少子化によって学校は淘汰されざるを得ないと思いますが、それが良いこととは思っていません。地域に学校がなくなったら、働く人々は子どもを預けられず、地域・社会は必要とする人材を育てられず、民主主義の担い手も自然に任せては育ちません。廃校は当該地域・社会の崩壊の危機だと思います。廃校の続く現代日本において、教師・国民の「一部」に危機感がない(と言われる)のはなぜでしょうか。それは学校のことを他人事だと思っているからだと思っています。学校にノルマがないからではないと思います。
 また、競争によって学校が淘汰されることも私はよいこととは思いません。競争にあたって、学校に課せられる「ノルマ」とは何でしょうか。例えば、全国テストの点数上昇や国公立大学進学者数、部活動の大会出場実績がノルマになったとしたら、私教育的には「よい」かもしれませんが、公教育的に「よい」と本当にいえるでしょうか。実際これをノルマ化する学校が全国的に広がったのが2000年代以降の日本ですが、教師の働き方問題を深刻化させた一因だと思っています。公教育に不適切なノルマ化が、補習やテスト対策、書類・事務仕事、部活動を過剰に増やし、教師の長時間労働を深刻化していったのではないでしょうか。

 説明が下手なのでわかりにくくて恐縮ですが、まずはおおざっぱな概要・方向性まで。
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校教育改革・働き方改革とカリキュラム研究

2022年02月19日 07時06分00秒 | 教育研究メモ
 一週間お疲れ様です。先週末から、教師の働き方改革と学校教育改革を両立させる改革案をつぶやき始めたところでしたが、平日はちょっと執筆するのは無理だったので少し空きました。以下、教務の先生なら分かり切った話をしますが、続きです。

 私は、教師の仕事時間の半分をカリキュラム研究(カリキュラムマネジメントと呼んでも可)に使うべきと思っています。PDCAのうち、Dだけでなく、P・C・Aにも多くの時間をかけるべきです。教師の教育研究は、個別の単元・授業や指導法の改善・実施につなげる必要がありますが、私はそれらを組織化・体系化したカリキュラム研究までもっていってほしいと思っています。そこまでできてはじめて、教師は専門職として認められると思います。数十分のプレゼンテーションをつくるだけなら一般人のゲストでも可能ですし、一対一の個別指導なら塾講師やボランティアでもできます。
 働き方改革を進めるといっても、やみくもに教師の授業時間を減らすことはできません。学校教育法施行規則は学校の標準総授業時数を定めています。まずはこれをクリアしなければなりません。小学校では、第1学年850時間、第2学年910時間、第3学年980時間、第4~6学年1015時間です。中学校では全学年共通の1015時間です。標準時間ですから普通はこれより時間数は増えますが、基本的には教師の授業時間の問題は、この標準1015時間をどうするかというところにあります。1015時間の授業時間をどう計画するかが、教師のカリキュラム研究の基本的問題となります。学習指導要領総則に記されている通り、カリキュラム編成の主体は「各学校」です。学校の構成員は教師ですから、最終責任者は校長であるとはいえ、実際にカリキュラムをつくるのは教師たちです。この場合の「教師たち」というのは、もちろん教務担当・研究担当の特定の先生たちという意味ではなく、すべての教師という意味ですね。

 カリキュラムをつくるときには、当然ながらまず目的を意識します。目的が定まれば範囲も決まります。学校改革・働き方改革の目的は先日から言っている通り子どもたちの被教育権・学習権保障です。ここでいう子どもたちの学習は教科の学習にとどまらず、その他の教育活動における学習も含みます。ペーパーテストの点数で測るような知識・技能の蓄積や認知的能力はもちろん、バランスのとれた様々な人間性や感情の成長も含みます。教育は、これらの多面的・全人的な学習を喚起・支援するものと考えています。このような意味での教育・学習を保障するカリキュラムをつくり、そのためにマネジメントしていく必要があります。
 さて、1015時間の標準授業時数をどう計画するか。授業時間については先日申し上げた通り、小学校教員がまず問題なので、ここでは小学校で考えておきます。1年間の授業日数を200日とします。教師の授業時間は半日午前中に必ず設定するとすると、1日4時間×200日で800時間を確保できます。つまり、残り215時間をどうするか、というのが工夫のしどころになることがわかります。
 教員4人につき1人の専科教員を加えて運用してもよいでしょう。もしそうでないなら、215時間分、午後の研究授業を計画しなければなりません。ここで留意すべきことは、毎日同じ時間数授業する必要はないということ、授業者は必ずしも同一の教員である必要はないということ、授業時間いっぱいをずっと説明し続ける必要はないということです。午後は、月・水・金曜を6時間目まで行い、2時間別々より連続の計画を意識的に立て、火・木曜は補習や特別教室など支援員・ボランティアに任せるなどする。また、複数学級で合同に授業するカリキュラムを立てれば、複数名の教員が隔週などで交代に指導できます。児童数が多くなる分、補助に複数名の支援員・ボランティアを入れる必要があるでしょう。一斉の指示はオンライン遠隔で出して、適宜教室を回っていってもよいと思います。ゲストやALTなどがT1になる授業や、演習的な内容で教え合いや調べ学習などを中心にした授業にしてもよいと思います。協同学習・調べ学習的な授業なら、異学年合同でも比較的効果的なカリキュラムを組みやすくなります。単発で計画してもあまり効果は期待できません。なお、1015時間以上の授業時数を組む場合も、増える分はこれら午後の計画と同じように考えるとよいでしょう。
 以上のように、子どもの被教育権・学習権保障と働き方改革とを両立する学校改革は、その学校の実態に合わせたカリキュラムが必須です。横断・活動全体で総合学習的なカリキュラムを組み、1日4時間・週20時間の担任による授業と、1日1〜2時間・週5〜10時間の複数教員や教員外による授業や活動とを組み合わせて計画することが有効だと思います。ですので、学校単位での全教員によるカリキュラム研究が必須であり、定期的に状況に合わせた調整が必要です。もちろん毎日の教材研究・授業づくりの時間も必要であり、それらを勤務時間内に設定する必要があります。時間外の教材研究・授業構想は教育の質を上げるものですが、それなしでも十分運用できる経営が必要です。となると、教員一人当たりの授業時間20時間以内・研究時間20時間程度の原則は重要です。事務は教員でもできますが、教員でなくてもできますので、事務要員の増員とICT等による効率化で、教員が事務にあたる時間はできるだけ減らさなくてはなりません。我々国民は、教員に事務をさせている場合ではない、と心得るべきです。

 なお、以上のことを考える上で気を付けるべきことは、授業といわゆる既習内容とを明確に区別してカリキュラムを研究することです。指導要領はすべて取り扱い、教科書も使用しなければなりませんが、教科書のすべてを授業で取り扱う必要はありません。考えるべきは、どこを授業で扱い、どこを補習や事前事後学習で扱うか、どこを宿題にし、どこの自主学習を奨励するかということです。これらもカリキュラム研究の中でよく考える必要があります。
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校教育改革・教師の働き方改革の第一歩―学校ボランティア・支援員募集とコミュニティスクール制度

2022年02月13日 22時26分00秒 | 教育研究メモ
 私が思うに、働き方改革・学校改革でまず進めるべきは、学校ボランティア・支援員の募集と、コミュニティスクール制度の開始だと思います。これが始まってしまえば、「教師がしなくてもいい仕事」を特定することが本格的に可能になります。教師がやらないならやめるのか、やめてはいけないのではないか、じゃあ誰がするのか、という堂々めぐりの議論の突破口となる選択肢が増えるようになるからです。
 学校の業務見直しや、支援スタッフの配置などについては、中央教育審議会「新しい時代の教育に向けた持続可能な学校指導・運営体制の構築のための学校における働き方改革に関する総合的な方策について(答申)」(平成31年1月25日、51~54頁)や、文部科学事務次官「学校における働き方改革に関する取組の徹底について(通知)」(平成31年3月18日、6~7頁)に示してある通りです。すでに実践事例集(ページ中頃10)が複数年度作成されています。実行の時はすでに始まっています。
 ボランティア・支援員募集のやり方事例は、文科のまとめた事例集にも見られます。令和2年度版の「全国の学校における働き方改革事例集」では、大学・ハローワーク・シルバー人材センター・学習塾との連携が紹介されていますね(同115~117頁)。横浜市の職員室業務アシスタントの事例(平成27年度開始)もわかりやすいですね(令和元年度事例集PDF44枚目)。コミュニティスクール制度を基盤にした学校ボランティアの募集については、大阪府守口市立さつき学園の「さつきフレンド」の事例がとてもわかりやすかったのでおすすめです(文部科学省「地域とともにある学校づくり推進フォーラム2021(愛知)」の動画参照)。
 コミュニティスクール制度は即効性は感じられにくいけれど、うまく続けていけばだんだん効果が実感できるようになってくるようです。コミュニティスクールは学校運営協議会制度による学校のことですが、コミュニティスクール実施率全国一位の山口県では、学校運営協議会の効果に対する実感は、開始2年目に下がるが徐々に上がって、開始8・9年目に最高値に達した、という研究成果が出ています(長友義彦ほか「コミュニティ・スクールの効果と課題 : 教諭を対象とした調査から」『教育実践総合センター研究紀要』46、山口大学教育学部附属教育実践総合センター、2018年、127-136頁)。コミュニティスクール制度の有効性は、何と言っても、学校改革に取れる手だてが増えるところにある、と私は思います。

 これらを進め始めれば、停滞する学校教育改革・教師の働き方改革に一石を投じることができると考えます。たくさんの先行事例がありますから、思いつきではありません。
 この手だては、まずもって行政と管理職、地域住民の役割が重要になります。学校や子どもたちを救うには、教師だけでなく、みなさんの力が必要です。
コメント (3)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校教育改革・教師の働き方改革のビジョン(粗々の私案) (2)

2022年02月12日 22時30分00秒 | 教育研究メモ
 昨日の記事が爆発的に反応があったので、続きで補足。
 授業時間20時間以内とは多めに見積もった。また、そんなに実現のうえで非現実的な数字ではない。
 TALIS2018によると、日本の教師の週平均授業時間は、小学校で23.0時間、18.0時間であった。私が問題にするのは、これが平均時間数であり、多い先生と少ない先生がいるということである。全ての教師について、20時間以上増やしてはいけない、という意味でとらえてほしい。小学校では、平均が目標値を超えているので、全ての教師の授業時間を減らさなければならないだろう。中学校では平均が目標値を下回っているので、多い先生に焦点を当てて重点的にその時間数を改善する必要がある。なお、20時間以内という目標値は暫定的な数値であり、今後の研究と合意形成によってより適切な数値を定めていくべきだ。
 むしろそれ以上に重要な論点は、授業時間外の20時間をどう使うかというところにある。部活動や補習などの「教師でなくてもできること」に使うのではなく、授業改善やカリキュラム開発、学校経営などの「教師だからこそすべきこと」に使う必要がある。勤務時間の半分を、授業の効果を高め、学校教育の効果を高めるための時間として使っていくべきだという考えが基礎にある。
 最後に、もっとも重要なのは、高めるべき教育の効果は何のためのものか、という論点である。教師の働き方改革は、教師の多忙化解消を結果しないといけないが、それが目的になると話がややこしくなる。コミュニティスクール制度は、ガバナンス確立という側面はあるが、それが目的になると学校教育の役割を果たすことが二の次になりかねない。あくまで子どもたち一人一人の学習保障のために、働き方改革も学校改革も進めるというところに、目的を一貫させることが大事である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

学校教育改革・教師の働き方改革のビジョン(粗々の私案)

2022年02月11日 22時35分00秒 | 教育研究メモ
 思い切ったことを言いますとね、今後の教師の授業時間はもっと減らすべきだと思います。できれば一日4時間、週20時間以内。基準は法定労働時間の半分。
 それで何のために働くか。教師は、子どもの学習を保障するために働く。学習保障とは、人権の一つである教育を受ける権利と学習する権利を保障すること。学習とは、主体的・対話的で深い学びでいい。教師の独りよがりではダメで、本当に子どもたちが主体的・対話的で深い学びを経験し、充実した学びの喜びを実感できている必要がある。
 どうやってやるのか。まず、労働時間の半分は授業時間、もう半分は教育研究の時間。教育研究には、学術研究はもちろんだが、教材研究やカリキュラム開発、共同研究、教育調査なども含む。子どもの学習保障のために、子どもの実態観察や教師の省察・協議、教育効果の測定などを進め、カリキュラム開発や指導支援法の検討などを行う。学者や行政、地域などの協力体制も充実させる。研究のために子どもと関わるのもかまわないし、学外の研究会やセミナーに参加することも可能とする。
 教師の授業時間を減らすのは、子どもの学習を減らすためではない。教師の授業時間はピンポイントに必要な時間数に収束させ、教師以外の人々や機械による学習を進める。教師以外の人や機械による学習も、もちろん教師や担当が共同に開発したものであるが、担当者の責任と権限を保障する。担当者は教員免許をもってなくてもかまわないが、必ず研修を受けてから担当する。補習や宿題、読書、給食、掃除、行事、繰り返し学習、AI学習、部活動などはこのような形で実施してよい。もちろん目的は子どもの学習保障である。教師が参加してもかまわないが、観察や試行など教育研究として関わるのが望ましい。このようなカリキュラムを開発・運営するのは簡単ではないので、むしろ教師の定期的な観察や評価・フィードバックは必要だろう。そのためにも授業時間の制限は必要である。
 学校・学級運営も教師だけで進めるのではなく、教師・家庭・地域・行政・子どもの5者が適切に協議しながら進める。特定の誰かの学習保障や国家社会の利益、経済発展にとどまらず、全ての子どもの学習保障を実現するために、みな教育・学習の当事者として責任もって協議する。強制参加ではなく、可能な範囲と分野を見つけて主体的に参加できるようにする。学習保障の仕組みをより充実させるために、自分たちで企画して必要な研修を適宜行うことも必要である。また、学校評価の基準は学力テストの平均点や費用対効果だけではない。全ての子ども一人一人の学習を多面的に評価し、学習保障の程度を量的だけでなく質的に検討する。評価は教育・学習改善のために行う。自校のカリキュラムに適した試験を開発してもいいし、むしろその方が望ましい。
 要するに、教師を中心としながら教師だけで教育しない学校の制度と経営体制をつくる。そのために、教師の労働の効率化と権限移譲を行い、研究・研修を無理なく確実に保障し、教育の当事者を増やしてその質を上げて協働していく。全ては全ての子ども一人一人の学習保障のために、人材・時間・資源を運用していく。そのための教師の働き方改革、コミュニティスクール制度とする。

 上記は空論のように聞こえるかもしれないが、実はこれらを実際に行っている国・地域・学校は存在する。少なくとも部分的には実例が存在するのである。それらの実例が実際可能になっている条件は簡単にどこでも整うわけではないが、どこでも「無理」とは限らない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする