教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

これからの教師の研修―教師の研修履歴をどう管理すべきか

2021年12月20日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 12月10日に中央教育審議会総会で、同「令和の日本型学校教育」を担う教師の在り方特別部会「「令和の日本型学校教育」を担う新たな教師の学びの姿の実現に向けて(審議まとめ)」が審議されました。これが報道されてから、免許更新制廃止の代わりに研修履歴管理システムを構築することが、一部で話題になっています。
 忙しすぎるので、詳細を踏まえての検討は別の機会にしたいのですが、私は次のように思います。
 まず、一部に研修を「管理」されることに対する拒否感があるようですが、教員制度が国の制度の一部であり、「研究と修養」に努めるべき存在として法的に定められている限り、教員の研修が「管理」されることを免れることはできません。管理されるべきか否かそのものを議論しても、有効な議論はできないと思います。もっと肝心な問題は、行政・管理職がどのように教員の研修を管理するかです。すなわち、「その管理は教職の専門性を確保できる管理か」、または「教職の専門性はいかに管理されるべきか」という問題です。今の中教審の議論を踏まえれば、「教師の研修履歴の管理システムが対象とすべき研修をどう作り、認めるか、そのシステムをどのように運用すべきか」という問題です。
 行政が教職に対してやるべきことは、公的権限の委譲であり、教職の専門性の権威づけであり、最低限の専門性が備わっているかの確認であって、教職の専門性の上限を制限することではありません。管理は物事をなるべく均一にして公平さを保障するための働きですから、状況に応じてうまく対応したり、よりよいものを生み出したりすることはあまり得意ではありません。専門性の質のうち、均一にすべきものはあります。質の下限のところです。逆に、均一にしてはならないものもあります。それは質の上限のところ、「よりよい」ところです。そのため、教職の専門性の質保証と向上を企図するなら、管理されるところをなるべく最小化して最低限の質を保障するシステムを作るとともに、教員の自主的な研修を最大化して奨励し、教員個々の個性やキャリアに応じて必要な個々の専門性の向上を図るシステムを構築することが必要です。そういうニーズに応じるなら、研修プログラムを政府・行政に任せきりにしないことが大事です。政府・行政の第一の仕事は管理ですから、政府・行政に任せていると、当然、管理的に必要な研修プログラムしか出てきません。
 教職の専門性を高めていくには、政府・行政は最低限の質を保障することに徹して、教師自身が主体的に質の向上に取り組むことが必要です。しかし、教師個人でこれをやるのは大変なことです。だから、組織的にやる仕組みを作らなければならない。それこそ教育関係の団体の出番です。日本教育史を振り返ると、かつての日本にはたくさんの教育関係団体が、教員や地域のニーズを掘り起こしながら、様々な教員の研修機会を積極的に生み出してきました。教育会史研究の成果は、教員たちがテーマ出しや研修計画の立案に関わってきた史実を明らかにしています(白石2017)。戦後にも、教育研究団体などのたくさんの団体が様々な研修機会を提供して、たくさんの教師が主体的に学び、レベルアップして教育の質向上に寄与してきました。それらの仕組みや実績が、正式に教員の研修システムの中に取り入れられてこなかったのは、日本教育史上残された重要課題の一つです。戦前は、私立団体が提供した研修履歴といえど、教員たちは履歴書に記録して、採用・資格上進などの際に参考にされていた事実があるのですから(小学校教員検定史研究参照)、こういう仕組みがまったく実現不可能なわけではないはずです。
 既存の教育関係団体は、これから研修プログラムの開発にもっと積極的に取り組むべきです。行政や行政の関連機関、そして大学がやってもいいのですが、それだとこれまでと同じです。私は、それら以上に、教師を構成員に含む教育関係団体や教育学会がもっと積極的に研修プログラムの開発に取り組むべきだと思います。単独で無理ならコンソーシアムを作ってできることを出し合えばいいと思います。研修プログラムには、すぐ使えるスキルトレーニングから、学術的な深い研究につながる講義・演習まで、教師のニーズを取り入れながら様々なプログラムが開発され、それらを教師たちが自主的に選んで受けていける仕組みが今こそ必要です(もちろん、研修のための時間と資金を確保する仕組みも併せて必要です)。今、歴史はあっても、現代的な存在意義を問われている教育関係団体は多く存在します。研修プログラムの提供は、教育関係団体にとって存在意義を保障するきっかけにもなると思いますので、悪い話ではないはずです。
 現代日本の状況から見て、行政は「研修としてカウントされるべき」研修をどうしても管理しなければならないのでしょう。それなら、研修プログラムの届出制・登録制・ライセンス制などの仕組みをつくるのが良いのではないでしょうか。行政が全部を用意しなければならないということはありません。また、その基準がおかしいならば、その仕組みの在り方を議論すればいいのです。

参考文献
・白石崇人『明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良―資質向上への指導的教員の動員』溪水社、2017年。
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社会システム論からみた教育会、それからわかったことを使って教育学する

2021年12月08日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 毎日忙しすぎて目が回りそう。とはいえ、2か月更新してないのに気づいて驚き。前に書きかけていたものがお蔵入りしていたので、このさい放出しましょう。

 私が約20年前からずっと専門的に研究してきたのは、「教育会」という教育団体です。早いものは明治期に誕生し、全国各地に結成されて地域に教育情報を循環させたり、日常的な職場を超えて教育関係者の交流を促したりした教育の圧力団体・職能団体です。昭和戦後にその多くが解体されましたが、今も活動している地域もあります。「教育会」とは何か、という問いはなかなか曲者です。教育会そのものが多様な機能をもっていたので、解答が難しいのです。昔、院生だったときに明治期に誕生した社会システムの一つとして考えたことがありましたが、当時は私の力不足でうまくいきませんでした。
 このたび、社会システム論を少し勉強したので、その練習問題として、社会システム論を使って「教育会」を分析してみるとどんなことがわかるか考えてみました。パーソンズの構造-機能分析理論に沿って考え始めましたが、途中で独特の理論の使い方になっているかもしれません。また、そこでわかったことを教育学に生かそうとするとどうなるか、考えてみました。

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 社会システム論を使って「教育会」を分析すると何が言えるか。まず、問題になるのは次の問題である。教育会はどのように出現し、どのような形で機能的要件を満たしたか。そして、その変動がいつ頃、どのように起こったか。
 教育会の機能的要件とは何か。教育会の原初的な機能的要件は、おそらく天皇制国家の形成または維持でも、ブルジョワ的資本主義革命の遂行でも、日本的封建制やファシズム体制の形成でも「ない」。教育会にとって天皇制教育が重要なものになってくるのは、おそらく少なくとも1890年の教育勅語成立以降のことであろう。教育会的な構造を乗り超えようとしたと思われる教員組合が社会主義の実現を目指すのも、早くて大正期以降である。因果関係で考えるときに時系列を踏まえることは、歴史的思考の基本である。時系列を逆転させては因果関係を捏造してしまう。そのように考えると、日本的封建制やファシズム体制については時系列の点からもはや言うに及ぶまい。教育会の原初的な状態はそれらよりも以前に起こり、早いものでは1873年には確認できる。明治初期社会の原初的構造は、天皇制や資本主義社会の形成の事実とつながっていたわけではなく、一定の理論に基づいて振り返ってみればそのように解釈できるかもしれないというにすぎない。それよりも、当時の日本社会の事実を踏まえると、教育会の原初的要件は、近代化にともなう社会の分業・分化の一側面、すなわち教職の専門職化や政治における教育領域の自立にあったと思われる。とくに、政治における教育領域の自立を目指すなかで教職の専門職化が一体的に進められた点に、教育会の特徴がある。そのために教育会は、「教育」の同業者意識を喚起して会員を広く集めて具体的な共同体となり、具体的な事業を継続的に立ち上げてその状態を維持していった。組織規模が大きくなっていくと直接的なコミュニケーションが困難・不可能になっていったので、教育会雑誌というメディア、集会、シンボルなどによって想像の共同体を形成し、情報や価値を共有して教育社会の中核部分を担った。また、早いうちから自立的に取り組まれた具体的事業には、教育政策(事務上・実践上)の意見収集・合意形成や、組織的な教育研究活動があった。これらの事業を通して教員改良を進め、教職の専門職化や教育領域の政治的自立を実現することが目指された。
 教育会の構造は、会長を頂点とした幹部組織と一般会員が区別された。幹部たちは一般会員から選ばれたわけではなく(のちには会長を会員から選挙しようという動きもあったが徹底していない)、行政機関とくに教育行政当局や学校の人事の影響が強い。そのため、教育行政・学校と課題意識を共有して協働しやすいが、行政・学校との関係に対して自律しにくい構造をもっていた。これは原初からそうであった。この構造が変動した原因は、第1に行政の補助金が財源の中の比重を高めていったことである。当然、行政課題の優先順位が高まった。第2に、国民国家形成の進行である。議会政治の形成(1870年代末以降)、天皇制国家の形成(1880・90年代以降)、国家総動員・総力戦体制の形成(1930年代以降)、戦後民主主義の形成(1945年以降)が目指されていく中で、政治における教育領域や教職の役割が変容していく。国家・行政の課題意識に強い影響を受け、教育会の構造は変わっていった。教育会は、議会による代表民主主義ではなく、専門家職能団体・利益中間団体による間接民主主義を目指したために、教育会と議会政治との距離感は重要な論点であろう。教育会は議会開設を目指した民権運動に影響を受けているのは間違いないが、民権結社と一直線で結びつけるべきではなく、両者は区別すべきである(だからこそ、民権運動と教育会の関係は研究的問いになり得る)。なお、教育会の財源のなかで一般会員の会費収入も無視できない比重を占めていたため、必ずしもどの教育会も行政の外郭団体化に一直線に向かっていったわけではない。その場合に重要だったのは、次の原因である。第3に、近代化が進み社会の分業・分化が高度化したことである。それにともなって、教育領域の政治的自立や教職の専門職化の条件が高度化し、その高度化を支えるために「研究」や「調査」の役割が重要になっていった。
 教育会は、重層的、少なくとも内外二重の構造を意識しなければ分析できない。まず教育会内部の構造であり、ここでは幹部組織と一般会員との関係が重要である。幹部組織における行政官の位置や、教員の学校種別や地域別の構成比、幹部の役割や選出ルールなどが具体的な分析対象となる。つぎに教育会外部に広がる構造であり、教育会を含む社会の構造である。ここでは教育会と教育行政、学校、議会、その他教育団体との関係が重要になる。

(写真は1893年頃の大日本教育会事務所前のスケッチ。『大日本教育会雑誌』第132号掲載。
大日本教育会は日本初の全国教育団体。)


 さて、ここまで社会システム理論を利用しながら教育会の説明を試みた。以上は、近代日本における学校教員の専門職化や教育領域の政治的自立の歴史的過程を説明するものであり、教育学研究の基礎的資料となる。しかし、当然ながら、このままでは教育学の素材・資料にとどまる。もう一歩踏み込んで考察しなければ教育学にならない。教育会の説明は具体的・個性的な歴史的・文化的説明であって、一般化・理論化はふさわしくない。「教育とは何か」「教育とはどうあるべきか」を歴史的に考察することに活用したり、そのために歴史を踏まえて現状を正確に把握することに活用するべきである。もちろん歴史的事実だけで語れることは多くない。教育学の理論との接続が必要である。
 教育とは、単に教えるー教えられる関係を指すだけではなく、学校教員の専門職化やその領域の政治的自立のために必要な共同意識のよりどころとなる。近代社会には、一つの政治的立場として教育(教育的立場)が存在する。教育的立場は、教育会の歴史を踏まえると、単なる理論や理念ではなく歴史的な事実であった。だから、近代日本における教育会の存在は、教育が、具体的な集団・団体を形成して一つの政治的な立場を形成する概念になりうることを証明している。次に問題になるのは、その立場がどれほどの自律性をもっていたかである。政治における教育的立場は、既成の立場に組しないどっちつかずの立場ではなく、それそのものを一つの立場として作ることはできるか。現実にある教育という政治的立場(しばしば「政治的中立」として都合の良いレッテルを貼られた立場)は、実はその立場が行政の立場を代弁しているだけなのか。それとも学校長や指導的教員たちの立場を代弁しているのか。一般教員の意見も吸い上げたうえで作られた立場なのか。教員以外の教育関係者や保護者・地域住民の意見はどうなるのか。現代日本において、これらの問題は強調されるべきである。その理由は、事実として教育会の大半は失われ、その超克を行ったはずのかつての日教組や民間教育研究団体は独自の政治的立場を形成する共同体の実体を失い(またはそれらが衰退し)、現存の教育会は校長や指導的教員だけでなく一般教員や保護者を加えた全国的な合意形成の場づくりを目指したが道半ばであり、教育的立場にはまとまりがなく、一部の団体や個人がばらばらに政治にかかわっているのが現状だからである。既成政党と結びついて議会や行政機関にコミットする団体もあるが、現代日本においては、議会政治や官僚制国家だけで民主主義を行うという認識がそもそも不十分であることがすでにわかっている。現状の政治システムは十分教育を考えられる構造ではないのではないか。その問題の根本には、先に見たような教育的立場の現状があるのではないか。過去の教育会を理想とみるつもりはないが、教育会史研究は、社会・政治における教育のあり方を批判的に考える知的基盤となる。
 日本教育史を通覧すると、日教組による教育会つぶし、そして自民党による日教組つぶしはある程度「成功」したように見える。一方で、日本は教育のあり方を考える政治システムづくりに成功したといえるのだろうか。教育会が日教組つぶしに利用され、教育的立場を内紛によって失うきっかけをつくったことも見逃してはなるまい。また、教育会も多様であって、すべての地域の教育関係者の集まる場として教組と協働する組織を作ろうとした教育会もある。繰り返すが、教育会が理想的なシステムであったといいたいわけではない。しかし、教育会史を見ていくと、教員の多数や保護者・地域住民が協働して教育研究調査を踏まえた教育政策の合意形成を進める仕組みは未完成のままであることがわかる。教育の歴史の中から未完のプロジェクトを発見・分析して、そこから残された教育の課題を発見する。これはまさに教育学である。

主要参考文献
・大澤真幸『社会学史』講談社現代新書、講談社、2019年。
・梶山雅史編『近代日本教育会史研究』学術出版会、2007年(新装版、明誠書林、2019年)。
・梶山雅史編『続・近代日本教育会史研究』学術出版会、2010年。
・梶山雅史編『近・現代日本教育会史研究』不二出版、2018年。
・教育情報回路研究会編『近代日本における教育情報回路と教育統制に関する総合的研究』日本学術振興会科学研究費助成事業(基盤研究(B))中間報告書(Ⅰ)、東北大学大学院教育学研究科内教育情報回路研究会、2013年。
・教育情報回路研究会編『近代日本における教育情報回路と教育統制に関する総合的研究』日本学術振興会科学研究費助成事業(基盤研究(B))中間報告書(Ⅱ)、2014年。
・教育情報回路研究会編『日本型教育行政システムの構造と史的展開に関する総合的研究』日本学術振興会科学研究費助成事業(基盤研究(B))中間報告書、教育情報回路研究会、2018年。
・教育情報回路研究会編『近現代日本の地方教育行政と「教員育成コミュニティ」の特質に関する総合的研究』2018~2020年度科学研究費補助金(基盤研究(B))中間報告書(Ⅰ)、教育情報回路研究会、2019年。
・教育情報回路研究会編『近現代日本の地方教育行政と「教員育成コミュニティ」の特質に関する総合的研究』2018~2020年度科学研究費補助金(基盤研究(B))中間報告書(Ⅱ)、教育情報回路研究会、2020年。
・教育情報回路研究会編『近現代日本の地方教育行政と「教員育成コミュニティ」の特質に関する総合的研究』2018~2020年度科学研究費補助金(基盤研究(B))中間報告書(Ⅲ)、教育情報回路研究会、2021年。
・白石崇人『明治期大日本教育会・帝国教育会の教員改良―資質向上への指導的教員の動員』溪水社、2017年。
・白石崇人編『『東京府教育会雑誌』解説・総目次・関連年表』不二出版、2017年。
・白石崇人「1975年における日本教育会の結成―全国校長会と教育改革・教職プロフェッション化のための公共空間の要求」広島文教大学編『広島文教大学紀要』第55巻、2020年12月、73~89頁。
・広田照幸編『歴史としての日教組』上・下巻、名古屋大学出版会、2020年。
・山本昭宏『戦後民主主義』中公新書、中央公論新社、2021年。
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