教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

学校制度における部活動の異質性と依存性―学校で学びの楽しさ・喜びをいかに追求するか

2021年06月21日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 部活動は、「わざ」の習得を通して人間形成を目指す日本の伝統的学習文化の系譜に位置する(辻本雅史『「学び」の復権―模倣と習熟』角川書店、1999年)。部活動は「稽古事」である。そう理解すると、その国民的支持とその根強さを読み解ける。
 近代学校は近代科学を言葉で伝達することを主とする制度である。また、現代日本の教師は、高い識見と専門的技術をもって生徒の学力向上を期待されるが、学歴社会や情報社会の進展によってその識見や専門性は相対化され、社会的な尊敬を得ることはできなくなった。教科指導だけでは、生徒や保護者に尊敬されることはとても難しくなったのである。そんな現代日本の学校・教師にとって、部活動は異質かつ有益な機能を果たしてきた。
 特定の部活動に関する専門性を有する教師は、生徒や保護者に尊敬・信頼され、学校内で強い権威を持つことができる。近世の手習塾や学問塾、徒弟制のように、そこには教師と生徒・保護者の間には信頼関係が結ばれ、師弟関係が成立する。生徒は、素直に能動的に教師の指示に従いながら、言葉よりも身体で「見て、やってみて」(模倣と習熟によって)、逸脱や失敗を教師に注意されながら、わざや立ち振る舞いを学んでいく。社会的に高く評価される部活動は、褒めることよりも叱ること、言葉で伝達するするよりも教師の立ち振る舞いによって、教師の直接の指導よりも生徒の自主的な学びによって上達し、成果を上げた部活動であることも多い。ここに見られる学びの姿は、いずれも稽古事の伝統的学習文化に連なるものである。西洋の伝統文化のなかで作り上げられた近代学校制度の得意とする言葉中心で能率的な学びの姿とは、かなり異質である。
  一方で、部活動に関する専門性を有しない教師は、自分の時間と労力を限界まで費やして献身的に奉仕することで、生徒や保護者の尊敬・信頼を確保し、学校内の地位をようやく維持することができる。教師の希望や専門性にかなう部活動を得られるかどうかは、たまたまそのような部活動の担当が不在であるなど、運次第である。教師の専門性と部活動に必要な専門性とをマッチングする仕組みは、現代の学校にはない。従って、教師の大半は大量の時間と労力を部活動に捧げるしかない。かくして、日本の部活動は教師の多忙化を促進してきた。教師は生徒や保護者との信頼関係を形成・維持するために部活動に頼らざるを得ないため、多忙化を甘んじて受け入れてきたのではないか。
 教師の働き方改革として部活動の外部化が画策されているが、その資金源や担い手の不足、部活動に長年依存してきた学校文化などの問題が山積している。生徒や保護者は部活動的な学びを必要としている。多くの国民も、部活動をエンターテイメントとして消費することを望んでいる。現状で部活動廃止はまず世間に受け入れられないから、外部化によって教師の職務から切り離すことが考えられる。社会には部活動を指導したい人はたくさんいる。部活動指導をしたい教師についても、公務員の副業を認めれば問題ない。また、学校から切り離すことで生徒が指導者を選び、自ら望むわざの習得や人間形成を経験することができる。ふさわしくない指導者は、それこそ消費・市場社会の原理によって淘汰されるべきである。社会が外部化された部活動を必要なものとしてきちんと補助すれば、費用の問題や格差の問題は縮小することができる。条件面では部活動の外部化は不可能ではない。
 しかし、最大の問題は、部活動によって教師の権威や教師と生徒・保護者との信頼関係が形成・維持されてきたことにある。教師は、部活動への依存をやめ、教科指導によって教師の権威や信頼関係を取り戻すことはできるだろうか。そもそも情報社会・知識基盤社会・AI社会において、学校や教師のあり方そのものの見直しが必要だろう。これからの教師は生徒・保護者といかなる関係を結び、生徒の主体的な学びを確保する手だてを見つけることができるだろうか。
 私は、これらの問題に対応するために、学びの喜びに注目することを提案したい。生徒や保護者が学校や教師に求めるのは、主体的な学びを支援してくれることである。今のところAIには情動面での支援は難しい。ICTを活用すればいくらでも情報を得られる社会において、教師が教科の知識の量や深さで優位を保つことも容易ではない。学びの楽しさ・喜びを伝え、導く仕事は、人間しかできない。学びの楽しさ・喜びを知り、学ぶ方法を学べば、生徒たちは生涯自ら学んでいくことができる。そして、それは生徒たちの学びのそばにいて並走する教師にこそふさわしい。そのためには、教師自身が学びの楽しさ・喜びを知っていなければならないし、学びの楽しさ・喜びに近づく方法を知らなければならない。楽しさ・喜びに基づいて学ぶ方法について、知らなければならない。部活動の人気は、学びの楽しさ・喜びを存分に経験できるからであろう。しかし、部活動は学校制度になじまず、教師の働き方改革と両立させることはできない。部活動は学校から切り離し、別の制度と担い手によって担われるべきである。
 これからの教師は、部活動への依存を断ち切り、代わって教科や教科横断の学びの楽しさ・喜びを伝えていく役割を担っていくべきである。それは、部活動に「逃げる」ことなく、授業で「勝負する」ことでもある。それは安易な道ではない。しかも、そもそも教師にとっては、本来望むところではないだろうか。
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部活動の外部化をめぐる文化的・歴史的課題

2021年06月13日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 中高教員の労働改革において、部活動の問題はとても大きいです。現在、部活動は学習指導要領に定められた特別活動ではありません。クラブ活動にあたるという可能性はかつてはありましたが、クラブ活動は2008・9年告示の中学校・高等学校学習指導要領から削除されました。現在は、特別活動的な意義のある活動であることは確かですが、学校が自主的に行っている教育活動にすぎません。実際に中高教員の労働時間を大幅に圧迫しているだけに、「減らす改革」において真っ先に検討の俎上にあげられる活動です。財務省が教育予算増額を拒否する理由の一つにも、部活動という教育課程外の活動に時間を割いて教員増員を要求することが筋が通らないというのがあると言われています。
 しかし、部活動に熱心な教員は実際に多く、管理職にも、生徒や保護者、地域住民にも熱心な人々が多くいます。部活動を題材とした作品も多く、一般の人々にも人気が高いものです。いま、部活動の外部化が求められていますが、社会全体を巻き込んで議論しないと、この問題は解決しません。 部活動を日本社会全体の問題とするには、日本文化の問題として検討する必要があると思います。つまり、日本独特の歴史的問題として扱うことです。そうすると、戦後日本、特に高度成長期以降の中高の荒れに対する部活動の位置づけを取り上げるのはもちろん大事ですが、ここではもっと長期的な視点を指摘しておきたいと思います。
 辻本雅史『「学び」の復権―模倣と習熟』(角川書店、1999年。※岩波現代文庫に復刊)は、部活動は、江戸時代の手習塾(寺子屋)やお稽古塾の伝統に連なる、「わざ」や人間としての基本的能力を身につけるための学習文化を継承したものであると述べています。また、さらに重要なこととして、このような伝統的な学習文化は近代の学校文化とはまったく異質なものであると指摘しています。辻本氏はその異質さから現代の学校制度を見直すべきと主張していました。部活動が日本社会に今なお生き続ける伝統文化に連なる学習活動だとすれば、単純な部活動廃止論は日本文化の否定論になりかねません。部活動の国民的支持がこのような「日本人らしさ」ともいうべき学習文化とのつながりにあるとすれば、部活動廃止論はあまりに分が悪い立場にあると思われます。また、部活動の外部化論は、日本社会における学校制度のあり方を本質的に見直すような大きな議論につながらなければ有効なものにはなりません。
  部活動は近代学校制度が日本に定着する過程で現れたもので、近代学校制度の日本化の結果であると考えられます。そうだとすれば、部活動の外部化は、日本の近代学校制度のあり方を再検討した上でなければ十分に実現されないといえます。私は部活動は外部化すべきと思っていますが、ことはそう簡単なことではなさそうです。部活動の文化的・歴史的研究が一層必要です。
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教員制度改革の方向性

2021年06月12日 11時38分25秒 | 教育研究メモ
 立教大学の中原淳さんが『教育新聞』の特集記事インタビュー(2021.6.10付)で答えたことが大事なことだったので、引用します。

 日本の教師は極めて優秀です。真剣で真面目な教師が多いので、子供のためにやったらいいことは、無限に出せます。しかも、このやったらいいことは、一度始めてしまった場合、良くてやっているのだから、後から取り下げにくい。そうすると、どんどんリソースがなくなってきます。
 そうした「増やす改革」はもう限界にきているので、「減らす改革」をやっていかなければなりません。正直に言うと、今までは先生たちの真面目さと勤勉さ、そして頑張りに甘えてきたのだと思います。教員の長時間労働は、民間企業だったら、労働基準監督署に摘発されるレベルではないでしょうか。


 中原さんは、長年教師の職場の問題を研究対象とされて実績を積み上げてきた人で、いま中央教育審議会の「令和の日本型学校教育を担う教師の在り方特別部会」で委員をされています。「教員のウェルビーイング実現が一丁目一番地」だという方向性のもと、発言されています。本当にその通りだと思います。やりがいや外部人材活用などを強調することではなく、教師の働き方そのものを問題にしなければ、これからの教員制度は立ち行かず、すなわち教育制度そのものも立ちゆきません。言葉だけ・呼びかけだけのごまかしではなく、具体的な制度改革とその施行のための行政・運営体制の整備までにつながることを期待しています。
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