教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

現代日本の教育問題を解きほぐすには―学校の総合的機能と教師の専門職イメージ

2021年07月20日 23時55分00秒 | 教育研究メモ
 これまで学校・家庭・地域などで人間が自ずと育っていた当たり前が崩れている、とは何十年も前から言われ続けている。社会の人間形成機能の低下にこそ問題の本質はあるいう声も、何度も聞いた気がする。現代日本の教育問題は、「教育」にとどまらず、「学習」・「人間形成」・「人間生成」のレベルに至らなければ解決の糸口はつかめない、とも長年聞かされ続けてきた。現代日本の教育問題は、問題を長年指摘されながら、解決しないまま今に至っている。
 現代日本の教育問題は学校だけの問題ではないが、やはり学校は事実として教育制度の大部分を占めているので、問題にしないわけにはいかない。日本の近代学校制度は導入から150年経って、様々な機能を付与されてきた。これまでは、これを教員がほぼすべて担うことを前提にやってきた(学校医・学校事務員だけは例外だが、やはり学校内では「部外者」扱いだろう)。学校に付与されてきた機能は多岐にわたるから、それを教員がすべて担うなら、教員が境界の曖昧な職務を総合的に一手に担わざるを得なくなって「何でも屋」化したのは当然の帰結である。これまでの教員政策は、どちらかというと教員の努力に頼って来た。学校に新たな機能が付与(要求)されると新たな研修を積み重ね、教職課程に付け焼刃的に新たな科目を付け加えて、教員の個人的な努力によって切り抜けることを期待してきた。しかし、近年あからさまになってきた教育現場のブラック問題によって、すでに教員の努力にも限界がきており、このような付け焼刃的・弥縫的な政策では問題は解決しないことがわかってきた人もそろそろ増えてきたのではないかと思う。
 今一度、学校の総合的な機能を冷静に見直すことが必要だ。ビルド&ビルドで引き算をすることのできない職場や地域が多いならば、この際あえてすべて学校の機能として肯定してしまうのも、極端だが選択肢の一つだろう。すべて肯定した場合、必要なのは、教員がすべてを取り仕切るという旧来の学校運営の方法を根本的に見直すことである。2015年から「チーム学校」という学校運営の組織像が示されてきた。校長を中心とした教員集団と多職種との連携協働を求める重要な組織イメージである。教員はチームの一員であるが、常にその中心のイメージを持たない方が都合のよいときもあるかもしれない。障害の専門的支援や医療的ケアであれば容易にイメージがつくだろう。そのほかにもあるはずだ。学校全体を示す全体的なチームと、日常的な業務にあたるチームは区別すべきだろう。特定の児童生徒を支援するとき、必要に応じてそのつどチームのメンバーが変わることもあっていい。チーム学校が大事にすべきことは、児童生徒の福祉と教育の質であり、教員の専門性・学校での中心的地位の保持ではないからだ。授業も、すでに一斉指導のみが唯一の選択肢ではない。多様な授業の在り方を前提とすれば、チームの中の教員の位置づけも変わってくるだろう。スクラップ&ビルドも、多様な立場・経歴のメンバーが交じり合った方が実現しやすい。チーム、すなわち学校組織・経営の見直しの方が問題解決には優先すべきかもしれない。
 教員が、教員だけで閉じた専門職イメージを持つのはすでに過去のものとすべきではないか。教員の専門性は、その他の職種とのチームとしての連携協働のなかで見極めなければならない。そして、学校の総合的な機能を見極めた上で、それを教員だけでなくすべての関係者(児童生徒や、これからかかわってくる可能性のある職種も含め)でどのように分担していくか考えていかなければならない。「先生、全部かかえないでください」とみんなが言えて、先生たちもそれを受け止められる、そんな学校・社会を作らなければならない。これまでの教師の専門職像は「全部かかえさせるための像」だったかもしれない。教育学も、もう一度基本から考えなおさなければならない。教師像や学校の総合的機能の問題は、複雑に絡み合って何が問題なのかわかりにくくなっている。これらを歴史的・社会的に解きほぐすような基礎研究が必要である。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする