教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

地方中小私立大における教育学の卒論指導

2024年03月30日 12時38分05秒 | 教育研究メモ
 

 3月20日は学位記授与式でした。久しぶりに制限なしの式典が行われました。写真は、ゼミ生からいただいた贈り物です。すてきなものをいただきました。
 今年度は14名の教育学ゼミ生を卒業させました(うち1名は前期中の卒業)。今後は、教員になる人、会社員になる人、大学院で研究を続ける人と、多彩です。いつもながら、卒業論文のテーマも多彩でした。今年度卒業の皆さんの卒論テーマを列記すると、以下の通りです。
「多文化共生に向けた異文化間教育〜外国にルーツを持つ児童との共学」
「外国にルーツを持つ児童生徒への日本語指導・支援 」
「特定分野に特異な才能のある児童への教育や支援」
「「非標準家庭」の子どもにおけるペアレントクラシーの克服」
「自分を肯定できる児童を育てる道徳科授業」
「LGBTQ+の児童生徒への支援」
「インクルーシブ教育システムを目指す学級経営」
「中学校の通常学級におけるLD児への支援」
「小学校教科担任制の導入による効果と課題」
「主体的・対話的で深い学びを実現する「構造的な板書」」
「小学校におけるICT活用の現状と課題」
「地域移行時代における運動部活動の意義と課題」
「学びの共同体における校長の役割」
「スクールカウンセラーとの協働場面において見いだす教師の専門性」

 上記の通り、今年度のゼミ生たちは、児童生徒の多様性(外国ルーツ、ギフテッド、「非標準家庭」の子ども、自己肯定感の低い子ども、LGBTQ+、発達障害)に応じた教育・支援の在り方や、単独の教科指導にとどまらない教師・管理職の仕事の多様性(多文化共生・異文化間教育、メリトクラシー・ペアレントクラシー社会の学校、インクルーシブな学級経営、小学校教科担任制、板書、ICT活用、部活動、学びの共同体、他職種との協働)をとらえようとするテーマで卒論執筆に取り組んでくれました。これらは必ずしも私が誘導したわけではなく、私は学生たちの興味関心を学術的・実践的・政策的な用語に置き換える手伝いをした結果です。10年間、広島文教大で卒論指導をしてきましたが、教科教育学や心理学ではなく、教育学ゼミに入ってきた学生たちの選ぶテーマには似たような傾向があったように思います。
 どこまで一般化できるかはわかりませんが、地方中小私立大(教育系学部学科)における教育学の役割は、このようなテーマで卒論を書けるようにしてやるところにあるのかもしれません。すなわち、教師志望者や教育関係に関心のある学生たちが、幼児児童生徒の多様性を深く理解して、適切な手立てを計画することができるように手助けすることです。また、単独の教科指導や子どもとの二者関係にとどまらない学校教育の実践をとらえ、それらの仕組みや理論を分析して課題を見出していくようにしていきます。学生は自分の興味関心にしたがって単独のテーマに取り組んでいきますが、ゼミ生同士の研究交流を積極的に行うことで、お互いのテーマや研究に触れて視野を広げ、考察を深めていきます。こうして、教育学は、子どもの多様性や学校教育を広く・深く理解し、子どもや教職・職場を深く考察して、課題を見出し、その解決策を資料に基づいて案出する知識・技能を身に付けることに資することができます。
 このような教育学の役割を果たすためには、ゼミ指導にあたる大学教員、とくに教職課程担当教員自身の教育学的教養が重要です。教育学ゼミを担当する教員は、おおよそ研究大学で教育学の下位領域を専門的に修めた研究系教員か、自身の現職経験によって教師の仕事を実際的に教えていく実務家教員であろうと思います。私は前者でしたが、特定の領域の専門家であると同時に、複数の領域にも理解をもった「教育学者」としての仕事が求められてきました。大学教育に関わるようになって16年、長い時間をかけて「教育学者」として自らを鍛えてきました。その際、もちろん自分の修めた専門領域はとても役立ちました。私の場合は日本教育史を専門領域としましたが、その歴史的視点・考え方は学生たちの興味関心に応じる糸口になりました。
 大学院で専門的に修めてきた限られた専門領域はとても大事です。しかし、それのみでは教育学の卒論指導を行う教職課程担当教員という役割は十分に果たせません。教職課程担当教員を育てるには、この広い幅のある教育学的教養をどうとらえ、専門領域をもつ大学院生を対象に、広い教育学的教養を論文指導が可能な域までいかに育てるかというところにあると思います。広い教育学的教養を養うには、教育学の複数の領域の専門家が協働する必要があります。そういう教育をするためには、複数の領域の教育学者を集め、教職課程担当教員を育てる目的のもとに編成された一つの教育課程をもつ組織が必要です。こういった組織・課程をもてる大学はそうそうないので、もしその可能性のある大学があるとしたらそれはとても貴重です。
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現代日本における教育史教育の課題―歴史教育・高大接続・教員養成を意識した「教育学としての教育史」の教育の模索

2024年03月08日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
 昨年末に出た本学紀要で拙稿を活字化しましたが、ウェブで公開されてからと思いながら待っておりましたが、年度が終わりそうなので先に紹介します。このペースだと、ウェブ公開は例年の通りで、おそらく5月か6月くらいかなあ? いまは図書館で複写依頼をしてくだされば読めます

白石崇人「現代日本における教育史教育の課題―歴史教育・高大接続・教員養成を意識した「教育学としての教育史」の教育の模索」『広島文教大学』第58号、2023年、11~25頁。

 はじめに
1.「教育学としての教育史」の教育という歴史的課題
(1)教員養成における教育学教育の一環としての教育史教育
(2)教員養成大学・学部の設立による教育学教育・教育史教育の問題化
(3)教員養成の構造変容のなかでの教育史教育の模索
2.歴史教育としての教育史教育の課題
(1)通史教育・問題史教育と問題史的通史教育
(2)どのような歴史的思考を何のために育成するか
(3)近代化・大衆化・グローバル化の歴史をめぐる解釈の複数性と対話
3.高大接続・教員養成・教育学教育としての教育史教育の課題
(1)能動的学修と「歴史的な見方・考え方」を働かせる問いの表現
(2)将来の職業・市民生活につながる教育史教育の内容
(3)「教育学としての教育史」の教育における教育問題の研究
 おわりに

 本稿は、歴史教育・高大接続・教員養成を意識した「教育学としての教育史」の教育を模索するために、現代日本における教育史教育の課題について明らかにすることを目的としました。
 ちなみに、「教育学としての教育史」とは、教育史研究・教育が同時に教育学研究・教育となることを積極的に目指す立場を指しています。教育史には多様な立場(歴史学としての教育史とか、歴史社会学としての教育史とか)があり、その中の一つの立場を指すために最近使ってきた概念です。
 学問の社会的機能には「研究」と「教育」の2つがあります。そのうちの「教育史研究」の課題については日本教育史に限って前稿(拙稿「日本教育史研究における「教育学としての教育史」」広島文教大学高等教育研究センター編『広島文教大学高等教育研究』第9号、2023年3月、1~14頁)でまとめたので、今回は「教育史教育」の課題を明らかにすることにしました。前稿と今回の稿は、もともと学問領域としての教育史の社会的機能(有用性)を明らかにするために1つの研究として合わせて書き始めたのですが、1つの論文に収まらなかったので、2つの論文にしました。いずれも、「歴史学としての教育史」という先行研究の立場(主には辻本雅史氏や沖田行司氏、橋本伸也氏、岩下誠氏らの仕事を想定しています)に対して「教育学としての教育史」を再構築し、ポストモダン以降の「現在の教育学の揺らぎ」に向き合う足場を固めよう、という意識の下に研究を進めてきました。

 本稿では、教育史教育の課題を明らかにするために、明治から現在までの教育史教育独自の歴史と、歴史教育としての教育史教育、高大接続・教員養成・教育学教育を同時に実現させる大学における教育史教育の5つの視点から研究を進めてきました。明らかにできたことは次の4つに整理できます。
 第1に、戦後の教員養成大学・学部の成立が旧制の教育史教育では見られなかった問題(個別問題や学生に応じた大学教育、教育史教育の現場の多様化など)を顕在化させたことを明らかにしました。第2に、1970年代の「問題史的通史」教育が、教育史教育独自の課題意識(通史の位置づけなど)と関わっていた可能性があることを明らかにしました。第3に、1980年代以降の歴史教育論を踏まえると、教育史教育において教育史や歴史学のディシプリンを教えることが必ずしも正当化されないことを明らかにしました(学習者自身が現代社会の諸課題に対して何ができるか、何をするかなどが問題)。第4に、教育史教育において学生の具体的ニーズや教育経験に応じて能動的学修を引き出し、授業者と学生がともに教育問題を研究することが重要であることを明らかにしました。
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歴史研究としての教育史研究

2024年03月01日 19時56分00秒 | 教育研究メモ
 「教育学としての教育史」という立場は、教育史研究に歴史学と縁を切ろうと言っているのではない。まったくその逆であり、歴史学と連絡しつつ教育学として研究を進めようと考えている。教育史研究は歴史研究の一種であり、それゆえに教育学研究の欠かせない一つの方法となりうる。教育学研究と教育史研究と歴史研究は接続してこそ十分な研究が可能になる。

 歴史研究とは何か。過去の真理を明らかにすることか、過去の資料・事実を解釈することか。または、過去に対する共感/非難する実践か、それとも歴史像や概念の再構築を進める実践か。
 歴史研究の意味するところは研究者の立場や目的によって異なるので、歴史研究とはという問いに唯一の答えがあるわけではないが、研究に取り組むにあたって自分の研究が何を目指しているのかは自覚する必要がある。例えば、過去に対する共感を求めての研究であれば、共感できない事実や不都合な事実は見えなくなりがちである。自分の研究の立場を自覚しなければ、研究の課題や可能性・限界は見えてこない。
 歴史研究は何を問題にすべきか。言説や行為の倫理性か、事実の再現性の程度か。問題設定も研究者によって異なるので、この問いにも唯一の答えがあるわけではない。社会史・文化史の研究では、物事や関係者の関係性や集合性、親和性、そのネットワークの在り方、研究対象のおかれた状況や場の文脈を問題にしようとしている。歴史は、多様な文脈を総合的に把握しながら考察しなければならない。各時代独特の感情の在り方や、町・街(ストリート)レベルで起きたこれまでの経緯などを踏まえることも求められる。
 歴史研究において、現在の視点のみで過去を解釈しようとする「現在主義」に陥らないことは重要である。しかし、現在とまったく無関係に過去を研究することは不可能である。研究者は、現在に生きて物事を考えているので、時間を超越した考察はできないし、どんなに努力しても無意識・無自覚に一定の現在的な価値観をもって過去を見てしまう。そうであれば、現在を振り払おうとしてかえって困難に陥るよりも、現在を適切に踏まえて過去に向き合うことが、研究者としてふさわしい態度であろう。
 教育学は様々な方法で教育を研究し、現在の教育を見直し、未来の教育をよりよくすることを目指す傾向が強い。教育学として教育史を研究する場合、単に過去の教育を研究するだけでは教育史研究の有用性は疑われてしまう。教育学としての教育史研究は、「現在主義」の批判を前提として、現在を見る研究者自身の視点・考え方・問題意識等を自覚して、過去の同時代の視点・考え方・問題意識等を尊重しながら過去に向き合う姿勢を身につけなければならない。
 我々が教育について議論する場合、自覚的または無自覚的に教育史に触れざるを得ない。教育史とは、過去の教育から現在の教育に至るまでの過程であり、「教育」という概念によって捉えられる文化的な現象の流れである。教育史研究は、過去を検証することによって、現在までの歴史的経緯や現在に影響する基本的な構造を探究する役割を果たす。教育学は教育史研究によって教育を歴史的・構造的に検証・探究することができる。教育史研究は歴史研究として必要なだけでなく、教育学研究としても必要である。
 また、我々は、しばしば過去の教育の取り組みを顕彰・追憶しようとする。しかし、いま、我々の生きる時代は、近世以前の教育や近代の国民教育の取り組みを丸ごと肯定できるような単純な時代ではない。ジェンダーや身分、階層、障害、民族などの多様な立場に配慮しようとするとき、教育史(特に近代学校教育史)の理解・利用は批判的に検証される必要がある。
 我々が、教育の過去を検証して適切に賞賛/反省し、現在に至る歴史的経緯と課題を発見して、未来の教育をよりよくしていくために、教育史研究は必要である。過去の教育を味わい、過去から現在までの教育を反省し、未来の教育を創っていくのは、市民一人一人である。研究者にとってだけでなく、よき市民として生きるためにも、教育史研究は必要である。

参考文献:Johannes Westberg & Franziska Primus, "Rethinking the history of education: considerations for a new social history of education", Paedagogica Historica, Vol. 59, (2023), 1-18. https://www.tandfonline.com/doi/full/10.1080/00309230.2022.2161321


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