教育史研究と邦楽作曲の生活

一人の教育学者(日本教育史専門)が日々の動向と思索をつづる、個人的 な表現の場

オンライン学会・研究会について感想

2020年06月30日 22時55分00秒 | 教育研究メモ
 今年度に入って学会・研究会が軒並みオンライン化しています。私もこれまで、3つの研究会にZOOMで参加してきました。一つは所属する教育会史・教育情報回路研究会で、長年一緒に研究を続けてきた、お互い顔も性格も知っている集まりです。発表も質問もいつも通り、しっかりできました。もう一つは後輩たちとやっている読書会です。気軽に集まれるのでとても楽しく勉強させてもらっています。それからもう一つは、日本教育学会が企画した座談会1「新型コロナウィルス禍の中の学校を考える」でした。ウェビナー形式だったので講師の皆さんが発表・質疑応答される様を見ていただけですが、とても勉強になりました。自分の身の回りで起こったことを整理しながら聴けましたし、自分にはなかった発想・立場からの話を聞けてとても有意義な時間でした。
 我々の学会・研究会でこれまでよく見られましたが、発表を聴くだけ、シンポジウムを聴くだけの参加態度であれば、オンラインでの参加でまったく問題ないと思いました。議論するということになると、やはりまったく関係性のない中ではやりにくいでしょうが、話を聴くだけならオンラインの方がメリットがあるようにも思います。何より、地方に住んでいる者としては、関東・関西圏に住む実力のある学者の話を、自宅や研究室で聴けるというのは、すごいメリットです。これまでは前日や早朝から出発して、慣れない交通機関を使って長時間移動して出張しなければ聴けなかった話が、普段の通勤手段(場合によっては通勤すら不要)で聴けるのです。家族にも少し不便をかけるくらいで済みますし。正直少しうれしくなりました。今まで関東・関西圏の学者はこんな軽々と研究会・学会に参加していたのだなと思うと、今まで気づかなかったけれども、学修・研究機会の不平等は結構大きかったような気もします。オンラインはそういう機会の不平等を解消する有効な手立ての一つだな、なんて思ったりもします。今後のオンライン学会・研究会、少し楽しみになってきました。
 とはいえ、日本教育学会の座談会で松下佳代氏がおっしゃっていましたが、これからは、「オンラインでもできる/だからできる/ではできない」ということをしっかり考えていくといいと思いました。松下氏は学校教育の文脈でおっしゃったことですが、学会・研究会という学問共同体の在り方にもかかわると思います。「オンラインでもできる」というのは、発表や質疑応答を聴くだけならオンラインでもでき、むしろ地方在住者にとってはメリットは大きいです。「オンラインだからできる」というのは、まだはっきりしませんが、あちこちに住んでいる研究者を集めやすいという点かもしれません。教育会史研究会は九州から北海道までの研究者が集まり、日本教育学会の座談会は東京と京都の研究者が講師を務めました。外国の研究者とも比較的気軽に研究会が開けそうです(日本教育学会の座談会4はそういう試みを企画している様子)。講師・発表者にとってもオンラインのメリットは大きいようです。「オンラインではできない」というのは、開かれた集団のなかでの一歩踏み込んだ議論でしょうか。顔見知りの集まりではオンラインでも十分議論できると思いましたが、大きな学会のように(業績は知っていても)見知らぬ関係性の間で一歩踏み込んだ議論は難しいように思います。議場の文脈を飛躍した話題が提供されて議論が滞ったり、誤解が誤解を呼んでケンカになったりしそうです(リアルでもありますけども…)。また、「心のケア」や「つながりづくり」という面では(これらも松下氏の発言に触発)、オンラインではできないことも多いかと思います。
 今年度の学会・研究会は全面的なオンラインでの実施が多いですが、来年度以降、コロナショックが収まったらどうするか、今から考えておくことは意味のあることでしょうね。全面的にリアルのみに戻るのはもったいないくらい、オンラインにはメリットがあるようです。出席率も上がるようにも思います。私もこの状態にならなければ、オンラインで学会・研究会なんて違和感があるな、と思って、ずっと先まで利用することはなかったでしょう。しかし、今では、これまで行けなかった学会・研究会にオンラインなら積極的に参加したいな、と思っているくらいです。親しい友人や先輩後輩ともオンライン研究会をしたいなとも、密かに思っています。
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教育の思想と歴史を学ぶ意義とは?

2020年06月19日 23時55分55秒 | 教育研究メモ
(以下は、私家版の拙著講義用テキスト『教育の思想と歴史―教育とは何かを求めて』(教育の理論①、2020年)の序章からの抜粋です。)

 教育の思想とは、教育に関するまとまった考えを指す。教育の思想には様々なものがあるが、本書では主に現代日本に関わる教育の見方・考え方(歴史的に継続しているものも含む)を学ぶ。現代日本において、教育を見るときの基本的な枠組みについて理解することを目指す。また、教育の歴史とは、教育が現在まで変遷してきた過程を指す。本書では、主に現在の教育の思想・理論そのものやそれを支える考え方を取り上げ、それらがいつ、なぜ発生し、どのように変化しながら今に至ってきたか、その過程について学ぶ。思想や理論は、歴史の中で誰かがつくったものである。なぜ我々はそのような見方・考え方をするようになったか、それには必ず理由がある。理由を知らなければ、思想や理論を深く理解することはできない。歴史は年表ではない。年表は事実を年代順に羅列したものだが、歴史は個々の事実を因果関係で結びつけて意味づけたものである。教育の思想や理論について、その理由や意味を知り、または考えるには、教育の歴史(教育史)を学ばなければ十分にはできない。
 以上の問題意識から、本書は教育の思想と歴史を取り上げ、現代日本において重要な教育の見方・考え方を深く理解することを目指す。
 [略]
 理論とは、ある現象を統一的に説明できるように筋道を立てて組み立てられた知識の体系である。教育には様々な種類の教育がある。つまり、教育の理論を学ぶこととは、様々な種類の教育をとりまとめて説明するために、教育に関する体系的知識について筋道を立てて学ぶことである。
 残念ながら、今のところ、唯一の教育の理論というものは存在していない。世界には、様々な教育の理論が存在している。そして、その様々な理論に基づいて教え方(教育の技術)が無数に存在し、日進月歩の勢いで増殖を続けている。教育者を目指している皆さんの第一の関心は、「教え方を学びたい」というところにあると思う。ところが、教え方だけを学ぼうとしても、それらが無数にあり、常に増殖し続けるのだから、どれだけ頑張っても、いつまでたっても極めることはできない。教え方を学ぶことは大事だが、それだけを学んでも教え方は身に付かない。ここで大事なのがその教え方の根拠となっている理論を学ぶことである。個々の教え方は一定の教育の理論に基づいて成立しているから、その根拠となっている理論を学ぶと、関連する様々な教え方を効率的に学ぶことができる。また、それ以上に重要なことは、根拠となる理論を理解した上で教えないと、理論の意図したことと異なる教え方をして、気づかない間に子どもたちの育ちをゆがめてしまう危険性が高まってしまうということである。ある教え方(方法)がどのような理論に基づいたものか考える習慣がないと、いくら教え方がうまくても間違った教え方をしてしまうかもしれない。そんなことにならないためにも、教育の理論を学ぶことは重要である。また、教育の理論を学ぶことは、教育に関する観念(教育観)を育てる。皆さんは教育を受けながら自分なりの教育観を持っている。しかし、そのままでは、実感的であっても漠然・素朴なものに止まることが多く、教育のプロ・教職に就くには不十分である。教育観は普段意識にのぼらないが、普段の思考・実践を無意識に左右する。プロは、間違った教育をしないために、教育観を常に確かで適切なものにしていかなければならない。そのときに役立つのが理論であり、思想や歴史、制度などの個々の知識である。理論や個々の知識を学び、自分の教育観を育てて欲しい。

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反抗期の子どもにはどのように接するのが良いか

2020年06月03日 18時54分00秒 | 教育研究メモ
 ブログを書くことのできない、余裕のない毎日を過ごしております。遠隔授業形式になってから、学生からのメールが増えました。下記は、学生から質問を受けて回答したのですが、お蔵入りするのも(せっかく時間も使ったし)もったいないので公開します。ちなみに、質問者の学生さんには、ありがたいことに、満足していただけたようなのでホッとしました。

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(質問)
 先生は、反抗期の生徒や自分の子ども・兄弟にどのように接するのが良いとお考えですか?

(回答)
 私だったら、反抗期とはどういう時期かというところから考えるかな。
 反抗期とは自立をしようとしている最中の時期であり、それでいてまだ自分だけでは自立することは難しいという時期です。自立をしたいけど、できない自分もいる、自分がどうしたいのかもはっきりわからない。そんなモヤモヤにあふれた時期です。また、周囲の大人も、それまで依存していたり指示に従ったりしていた子どもの姿が頭に残っていて、まだ切り替えができずに、つい指示したり、信用することができずに手出ししてしまったりする時期です。子どもはそういう大人の態度にイライラします。自分でやりたい、できるのに、まだ回りは自分のことを子ども扱いして指示ばっかりしようとする、とね。自分の事を信用していないな、と思って、大人に対する不信感も募ります。自己防衛で先回りしたり、無視したりして、大人の言うことを聞かないことも増えます。自己防衛のために、言うことを聞かないように自分で習慣化するとでも言いましょうか。そんな状態にあるのが、反抗期という時期です。
 だから、基本方針は、本人の意思を尊重し、必要な支援をしてやることかな。具体的には、「やりたいこと」や「やろうと思っているけれどできないこと」をしっかり聞いてやることがまず必要かなと思います。すでに関係がこじれているなら少し時間がかかると思うけれど、「自分の考えを聞いてくれる」、「自分を尊重してくれる」と思わせることが大事です。そうすることで、多少やれていなくても「やろうとはしているのだな」と周りも思うことができて、じっくり関わることが出来ます。また、何を助けてやるべきかも、わかります。
 子どもに必要なことを勝手に大人が決めてかかるのではなく、子どもと一緒に考えていくことが大事ですね。反抗期の子どもは、何も出来ないのではなく、「出来るようになりたい」と思って挑戦を始めている(もしくは挑戦したいと思っている)人たちです。大人のやるべきことは、挑戦させてやって、見守り、失敗したら一緒に考えてやることなのではないでしょうか。
 子どもの考えは未熟・甘いかもしれないけれども、まだ自立し始めたところですから未熟なのは当然です。人は経験の中で学び、成長しますので、自分で考えさせ、やらせていかないと、いつまでも未熟のままで体だけ大きくなってしまうかも。せっかく「自分でやりたい・決めたい」という意欲が出てきたのですから、うまくその意欲を発揮させてやりたいものです。うまくいけば、勝手に自分で成長していってくれますよ。

 幼児教育や保育(福祉施設では高校生まで保育という言葉を使います)では基本なのだけど、教育は「養護」の土台あって始めて可能になります。「養護」というのは、たとえば「生命の保持」と「情緒の安定」がそれにあたります。安全で肯定的な環境において、安心して自分を出せるようになってこそ、人は一歩を踏み出すことができるのです。反抗期の子どもはすでに一人の人格です。大人の言うとおりに動かせるものではない。子ども自身を直接変えられないとすれば大人ができることは一つ。肯定的な環境をつくってやることです。これを「環境による保育」とか「環境を通した保育」とかと言います。
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