思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

新・「空気」の研究

2011年08月27日 | 風景

[思考] ブログ村キーワード

 『新・「空気」の研究』という特集見出しが目にとまりました。新潮45の9月号にはその他に「釈迦とドラッガー」と題した対談集も掲載されています。

 『「空気」の研究』というとあの山本七平先生の著書を思い出しますが、この表題はそれを意識しての特集です。山本先生の著書も最近再版され文庫本コーナーに山積みになっていますので、それなりの世の中の流れにあるのかと思ったりします。特集に掲載されている執筆者は、

吉崎達彦・蓮舫・堀井健一郎・中野翠・正高信男・片山杜秀

の6氏で、筆題ではありませんが

時代の趨勢

メディアの風向き

古代からつづく同調システム

座持ちの笑いに見る強さ

「心のケア」ということばへの批判

明治憲法と戦争自爆への道筋

という内容の小論が掲載されています。今朝はこの中から表題にもなっている山本七平先生が現況を読むとしたらという視点で双日総合研究所取締役副所長吉崎達彦氏の『日本を覆う「3・11シンドローム」』から最後の部分を引用紹介したいと思います。

<引用新潮45・9月号から>

・・・・・略・・・・

 エコノミストとして興味深いのは、今回の震災があのリーマンショックからわずか3年後に起きていることだ。せめてこれがリーマン以前であれば、財政状態もここまで悪化してはいなかった。今後の復興は、少子・高齢化現象が続く中で、財政再建との二兎を追わなければならない。つくづく「有年に一度」の経済危機の後に、「千年に一度」の天災が続いた不運を感じるところである。
 
 とはいえ、このような不運が過去に絶無だったわけではない。わが国は戦前に、「関東大震災」(1923年)の6年後に「世界大恐慌」(1929年)に見舞われたことがある。今回とは天災と国際金融危機の順序が違うが、どちらも「踏んだり蹴ったり」の経験であったことに変わはないだろ。

 当時の日本も、大方の予想を裏切って関東大震災からの復興を迅速に成し遂げた。恐慌からの脱出も、高橋財政によって世界に先駆けて成功した。つまりは2つの試練を立派に乗り越えた。この国の人々にはそういうDNAが流れているのであろう。
 
 しかしながら、あまりに不運な1920年代を経験した日本は、それ以後、満州事変(1931年)、二・二六事件(1936年)、真珠湾攻撃(1841年)と、破局への道をひた走ることに在る。政策判断にミスが続いたのは、その前の2つの不運と無関係ではなかったのではないか。今と同じように、「異常な空気」に支配されていたことは想像に難くない。
 
 1920年代がそうであったように、日本は今回の危機を乗り越えるだろう。それは災害の多いこの島国に住む人々が、昔から繰り返してきたことでもある。日本は震災ではつぶれない。だがそういうとき、政策の方向を誤りやすい。それはきっと「空気の支配」が強まって、政治が暴走してしまうからであろう。
 
 昨今の原発論議などはすでにその兆候が表れていて、うかつな発言をすれば人扱いをされかねない。が、一時の感情的な勢いで国策を動かすべきではないだろう。
 
 かの山本七平翁は、「空気の支配」に対抗するために「水を差す」ことが重要であると説いた。「3・11シンドローム」も放置しておくと、国の進路を誤るかもしれない。従って、われわれも積極的に水を差さなければならない。
 
 あの北野武は、震災直後に「僕たちには歌うことしかできません、と言って知らない歌手がテレビで歌っている」などと、いつも通りの毒舌を振りまいていた。今必要なのは、そんなノリではないかと思うのだ。  

<以上上記書から>

 NHKのさかのぼり日本史や終戦記念日頃の戦争関係の番組などを見ていると、今の時代は確かに戦争への道であった、過去の日本の歴史に重なる部分があります。

 大きな違いは軍事官僚が内政までに入り込んではいないだけだろうと思います。しかし自衛隊、検察、警察関係いわゆりある種権力畑の空気を吸った者の国会議員がいないわけでもなく、昔の軍関係者とは質が異なりますので懸念がないわけでもありません。

 国民もそれほどまでに、毒に弱いとは思われませんが作られる風評に乗りやすい面は昔も今もまったく同じで、現代社会は昔よりもその風評の流れる速さが切なくなるほど刹那です。

「そんなノリ」もこれまたある種の流れでありますが、愚かな政争を見ていると不謹慎ではありますが「そんなノリ」でクリアーしないと「やってられない」・・・・・そんなご時世ではないかと思います。

 どうして政治家は愚か者になるのか「気高き使命感」を言うが、あの鳩山のお坊ちゃまが、刑事事件の被告人が何で日本の動かそうとしていることに不思議で仕方がありません。

 茶かしの世相、する方なのか、やっている方なのか、「そんなノリ」・・・・しかし、日本という国の凄いところは、底力があることでしょう・・・・どうにかこうにか今日があります。

 最後ですが、思うに本当に貧乏になりました。それでも生きています。

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頽落と心の磨草

2011年08月27日 | 哲学

[思考] ブログ村キーワード

 ある文章を読んでいたところ「頽落」ということばが出てきました。文章の流れから「人がどん底に突き落とされるような目に遇う」という意味ではなかろうかと思われるのですが、はっきりしないと落ち着かない性格ですので、サイト検索したところ、Yahoo知恵袋で

 たい‐らく【頽落】-日本国語大辞典
 〔名〕くずれ落ちること。

と説明されていました。さらにGoogle検索すると

唯物論者: 頽落
http://keio-jiro.blog.ocn.ne.jp/blog/cat11519427/

トンカ庵
http://kantkant.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/10-bc59.html
『存在と時間』を読む (10)頽落、逃亡、不安

などのサイトがあり、落ちる人間の哲学なのです。

『唯物論者』さんによると、

 頽落verfallenとは、人間的堕落のハイデガー的表現である。頽落という訳語は一般に馴染みの無い言葉なので、以下では堕落と表現する。ハイデガーにおいて堕落は、人間が自ら望む形で、人の形をした単なる物体に成り下がることを指す。そして人の形をした単なる物体とは、自由を放棄した人間、もしくは自由を放棄させられた人間を指す。なぜなら人間存在の本質は、自由だからである。・・・以下略


『トンカ庵』さんでは、

 日常的現存在の根本的様相、すなわち現存在がさしあたりたいていは配慮された「世界」にたずさわり融け込んでいること、世間話や好奇心や曖昧さによってみちびかれているかぎりでの相互存在のなかへ融け込んでいること、をハイデガーは頽落とよぶ。おのれ自身として存在しない(非本来性)というあり方がこのような日常的現存在の積極的可能性である。現存在は頽落するものとして、事実的な世界内存在としてのおのれ自身からいつもすでに脱落している。しかもどこに頽落しているかというと、それ自身現存在の存在にそなわっている世界に頽落しているのである。世間と配慮された「世界」とに融け込んでいる現存在のありさまは、本来的な自己としてのあることの存在可能としての自己自身から逃れる現存在の逃亡である。・・・以下略

以上他人サイトを参考にすることでこの「頽落」という言葉はハイデガーの言葉だと分かります。

 墜落と同じように解していいようで、「人はその場において常に落ちる存在である」これは仮想的で夢物語かも知れませんが、常にこのような冷たい風が我が身に吹き付けている、と考えて生きることも自分の日常における戒めになるように思いました。

 元漫才師でタレントの島田紳助氏の芸能界引退はには、この「頽落」がなぜか重なるのです。深イイ話などは好きな番組で多くのことを学ばせていただきました。

「存在者というものはさまざまに語られる。」これは『形而上学』(アリストテレス)の言葉です。

 存在者とは、自然に存在するものや制作されたものも含めて今現在現前にあるものと理解してもいいと思いますが、その存在者は可能態から現実態へ向かう運の内にあるというアリストテレスは言います。

 現実態になった存在者は、また可能態により更なる現実態へ向かう、まるで永遠回帰的な話です。

 目的論的運動と呼びますが最終目的は何か、それが「純粋形相」という話になるわけで、頽落の究極のテロス(目的)はどこにあるのでしょう。
 
 つまるところ「人間存在」という大きな問いが立ち現れ哲学が始まり、人間とのかかわりの中であらゆる学問が成り立ち、また思想や宗教があるのではないかと思います。

「頽落」といってもその目的性を考えると、現状の止揚がないわけではなく、それぞれの価値観の異なる善き生き方にも、また集団の普遍的な価値観における善き生き方にもなるわけで、善悪の価値観で「頽落」を考えると「みじめさ」や「ありがたさ」が立ち現れる機会でもあると思います。

 頽落を生かすも殺すも現状認識、いかに人間存在を考えるかで 「心の磨種(とぎぐさ)」になりそうです。

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