思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

空の名残・詠嘆的無常観から自覚的無常観へ

2014年11月19日 | つれづれ記

外は未だ暗く、山麓の中、物音一つしません。気温は低く霜が降りているのでしょう。

 学びの場として人様のブログを拝見し意味への問いを授かっています。久しぶりに徒然草の「空の名残」の出会い、今朝は「意味への信仰」として思うところを残したいと思います。

徒然草第20段
 某(なにがし)とかやいひし世捨人の、『この世のほだし持たらぬ身に、ただ、空の名残のみぞ惜しき』と言ひしこそ、まことに、さも覚えぬべけれ。

の「空の名残」という言葉を目にしました。「なごり」とよむ「名残」という言葉ですが個人的にとても優しさのある響きのある言葉です。感覚だけで心に足跡が現われるような感じです。

今朝は三省堂の『詳説古語辞典』を使用しますが、

なごり【余波・名残】[名]
1【余波】
(1)波が引いたあと海岸に残っている海水や海藻。
(2)海の荒れがおさまってもなおしばらく立っている波。
2【名残】
(1)物事が終わったあとにその気分や状態が残っていること。余情。余韻。気配。
(2)故人の代りに残されたもの。代わり。忘れ形見。子孫。
(3)別れたあと、おもかげなどがこころに残ること。また、その気分。
(4)別れを惜しむこと。
(5)連歌で、懐紙に書くときの最後の一折。最後の一面。

このように「なごり」は解説されています。

 執着とも解される「心残り」がそこにあります。同辞書には続いて「なごり」否定として、

なごりな・し【名残なし】

が解説されていて「心残りがない」「執着しない」「跡形もない」とあります。

 別室ブログ(10月11日付「地球イチバン・地球最後の航海民族~ミクロネシア・中央カロリン諸島~」)では、評論家で哲学者の故森本哲郎先生の「空の名残」を紹介しました。

 なにがしかとか言った世捨人が、「この世の何の執着も持たぬ身でありながら、ただ、空と別れることだけがつらい」と洩らした、と言うのです。そのことばに、兼好は深い深い感動をおぼえたのです。「空の名残のみぞ惜しき」、彼は千釣りの重さを、この一語に感じとったのです。

 思えば、このことばは、何と深く、何と重いものでありましょう。ことばは、「名残惜しい」と言う、その空(そら)のようなものです。空は私たちのすぐ上にあります。手のとどくところにあります。けれど、空は。同時に、無限の高さ、無限の深さを持っているのです。ことばも、同じです。

 「この世のほだし持たらぬ身」にとってさえ、空の名残は惜しいものではありませんか。私はその「空」を、「ことば」に置きかえて、さらに旅をつづけてゆきたいと思っています。(森本哲郎著『ことばへの旅第3集』「まえがき」から)

 改めて森本先生の、

「空」を、「ことば」に置きかえて・・・

がとても響きます。森本先生は「置き換える」と言っていますから、

「空」=「言葉」

となり、そこに森本先生の旅紀行が続きます。森本先生の旅紀行は有名ですが原点はここにあることが解かります。

 徒然草の吉田兼好にもどりますが、評論家で哲学者の唐木順三先生は『無常』(中公選書)で『徒然草』に「詠嘆的無常観から自覚的無常観へ」を読み解いていきます。

 そこで引用されているのが、国語学者の西尾実先生の『日本文芸史における中性的なるもの』中の次の言葉を紹介しています。

「無常を悲しむ生活感情としての世界観から、無常を実相として覚り、その無常に処して無常ならざるものを求めて生きる、生活創造としてのそれ・・・」

西尾先生、また唐木順三先生ともに信州人ですので個人的にも両先生には書籍上でしかありませんが影響を受けてきました。

※西尾実
西尾実の「道元の愛語」

 学者が仏教を語るのはと指摘を受けたこともあるのですが、どうも「遊行」という言葉が「自覚的無常観へ旅」「人生の旅」にも根源的探求の過程には現れてきます。

 矛盾でも差異でもない単純なる、純粋なる現れの中で「自覚」が現われてくるような気がします。

「空の名残」

 それが「ことば」として表現されるのですが、それは汝の根源的深淵からうつし出されてくるものなのだと思います。

 西尾先生、唐木先生ともに「絶対的無の場所」は自明の理です。

名残りはつきねど まどいは果てぬ
今日の一日(ひとひ)の幸
静かに思う