思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

ベッカム実存主義・ベッカムの本質(香水)

2014年11月03日 | 哲学

 サルトル哲学というと文学と哲学を結ぶ蝶番、その個人的行動を見ればキューバがまだ歴史的存在価値をもったころのアンガジュマンとしての行動の印象が強く日本においても多くの若者の心をつかんだようですが、そのサルトルも今は日本では忘れられた存在といったイメージが強くなっています。

 哲学者サルトルを知りたいと思い一般的な哲学の入門書を見るのですが、サルトルを全く扱わないものも多くありますし、あの中央公論社の『世界の名著』にはサルトルは入っていません。サルトルという人は哲学者なのか文学者なのか革命思想家なのかよくわからない存在です。今回Eテレでサルトル実存主義をもとにした番組が放送され、サルトルの実存に興味を持ちたくなりました。

 番組とは、フランス哲学と文学の専門家アンディ・マーティ教授の「ケンブリッジ白熱教室」全4回で先月(10月)にEテレで放送されました。哲学好きですが、解かったようで解らないと言った方が本音で、全4回はBD-R1枚にちょうどよく収まりくり返し見ればどうにかなるかと思っているところです。

 既にこの番組についてはブログアップしてあるのでいまさらですが、2回・3回と第1回「ベッカム実存主義」だけで見ていると何となくわかって来るものです。

 マーティン教授は、「人間の実在を思考の中心に置く実存主義が研究のテーマ」に研究をなされている方で、中心になるのがサルトルの実存主義、したがって番組は「実践的フランス哲学講座」という解説に、改めて「そういうこと」というなんとも軽薄な私自身を思い知らされます。

 考えるということが好きで、単なる哲学好き、当然のことなのですが、知らないから聞いても記憶に残りませんし、高齢化の一員になろうという年齢ですので無理もあります。

 しかし、アンディ・マーティ教授の基本テーマは「生きているということはどういうことか、ということを実存主義で明らかにする」ということで、興味は大いにあります。
 この基本テーマですが、「生きているということは」という言葉をよく考えれば今現在のその明確な立ち位置を語っているわけで、私の今現在思考の中心にしている実存における立脚点の根源的探求ではないということです。

 アンディ・マーティ教授の第1回「ベッカム実存主義」という題の講義、ワインの芳醇な香りを語るような話に、まず驚きました。番組中でベッカムの香水の香りの語りが出てきますが、まさにそれがベッカムを語るわけで、実におもしろい。

 サルトルの著『存在と無』などを読んでいれば気の利いたことも書けるのですが、あくまでも素人です、が、それでもと思い図書館へ行ったところ『真理と実存』(人文書院)がありました。番組内でも語られた対自存在、即自存在の発想思考は非常に興味を持ちます。まさに現象学です。

 くり返しになりますが、個人的に、個人の「実存」という言葉を人の立脚点として意味捉え、「意味への信仰」というスタンスを身に付けることが今のところ宜しかろうと考えている者のですので、非常に興味を持つ番組です。現在進行形で語るのは、正直意味がいまだによく解らないからで、常に愚かさを露呈していますが、まぁ個人的なメモなのでブログに書き残しますがおもしろい。

 私の場合、番組を見ながらホワイトボードにメモしていきます。しかし言葉を知らないので、録画をとめながら書いていきます。すると結局は番組の文起こしが最善な方法ということになるわけで、久しぶりに、第1回「ベッカム実存主義」の主に最後の部分で語られるベッカムの本質を文立てしてみました。あくまでも個人メモです。

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【マーティ教授】フランス実存主義とは、認知的不協和つまり私たちの内面と外界との対立に表現を与えるもの。言い代えれば生きているということを明確に表現するもの。

 この実存主義者は何処で生まれるのか。誰もが精神的危機に陥る時か、それとも危機から脱出する時か、ベッカムを例に哲学的な分析を行ってみたい。
 
 実存主義とは戦争のような極端な状況においてではなくむしろ過渡期の状態に関係が深い。だからベッカムがサッカー人生の災後、パリでプレーしていた時期は、ニーチェなら「心臓の黄昏」と呼ぶであろう非常に過渡的な状態にあった。誰もが生と死、主観と客観、現実と理想の間にあるように、ベッカムも現役人生と引退後の間に立たされていたのだ。・・・・・以下略・・・・

<以上>

と、講義の冒頭にベッカム実存主義が説明されます。「認知的不協和つまり私たちの内面と外界との対立に表現を与えるもの。」という言葉に主観と客観が見えてきますし、現象学が現われています。そして現実存在(事実存在)と本質存在が、後の講義内にも出てくる「対自存在」「即自存在」も現れています。

 話は長くなりました。広義の後半は、ベッカムの本質(エッセンス)が語られます。これは解りやすいようで解らない部分がありましたので以下の通り文立てをしてみました。

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【マーティ教授】私はベッカムの形而上学的な精神の話をするわけではない。ボトルに入ったベッカムの香水の話だ。これを見せよう(ベッカム香水を取り出す)。これがベッカムのエッセンス、後で試してみるといい。私が選ぶとしたらクラッシックな香りの方が好きだ。宣伝文句を見てみると、ベッカムのエッセンスを特徴づけることができる。ピリッとしたグレープフルーツの印象と・・・・・更に宣伝文句には、男を定義する香り、同語反復だが、書いてある。・・・・

 香水はベッカムにとって付け足し、エッセンスはポスト構造主義者の哲学者のジャック・デリダの言葉を借りて付け足せば代補。
 ※ デリダ主張: 私たちの哲学の営みそのものが、常に古い構造を破壊し、新たな構造を先進していくという脱構築の概念を提唱した。

【マーティ教授】これは定義というよりも架空の世界でありさらに言えば、エッセンスは何んの付け足しなのか、その答えは「存在」、存在するもの、そう考えるとサルトルの粋な一文にもどって、それは実存主義の要約、「実存は本質に先立つ」、存在と無、エッセンスは言いかえるとサルトルをベッカムを通して読み直しているようなもの。つまり本質を、例えばアフターシェイブつまり、後知恵と言い代えることも出来る。厳格に自由選択のものであってそしていい香りがする。さらにそれは例えば、靴下とは違っている、エッセンスが言っていることは私たちを靴下やスパイクのようなものと比較してみろということだ。・・・・・

【マーティ教授】靴下は靴下でしかありえない。スパイクはスパイクにすぎない。これはサルトルの言葉でいう、即自存在の領域にある。でもベッカム自身はどうか、「対自存在」、ベッカム自身は対自存在だ。彼は常にサッカー選手以上かサッカー選手以下である。彼を定義することは出来ない。

 ※即自存在・対自存在の解説: サルトルが提唱する即自存在とは、それが何ものであるかを規定されて存在するもの、言わば本質。これに対して対自存在は何ものであるかを規定されず、自己に向かい合い、自己を作るもの、つまり人間は対自存在にあたります。

【マーティ教授】私とここにあるものを見比べて欲しい。この小さなリモコンは、ものであって、これには役割があって機能する。反対に私を見てみると、私の機能は何なのかはよくわからない。私の役割は何なのか?
 人間個人の存在理由についてはある程度の不確かさがある。対自存在はものには適用できない。

 ベッカムにも自分の経歴を書いた経験があるに違いない。

 自分とは何か?
 人との関わりとは?

 何を書くにしてもパスポートと合わせるだけではピッタリこない。だからサルトルの場合は、ベッカム実存主義者が言える唯一のことは、彼が何であるかにしても「彼はものではない」ということだ。
 サルトル『存在と無』からの引用をあげると、

「わたしはわたしであるものではなく、わたしはわたしでないものである。」

 最初は混乱しそうであるが、『存在と無』の中にスキーヤーについての一説がある。あるスキーヤーは唯一無二の存在になりたがるが、そうなることができない。サッカー選手について同じことが言える。ファーガソン(監督・本質主義者)の考えに対してサッカー選手の本質は存在しない。
 私たちのアイデンティティーとは何か? 私たちは何なのか、という問いの結論は無いままである。

 さて君たちは知っているだろうか? ベッカムは中国プロサッカーリーグのための親善大使でもある。これは変ではないか?(中国での中国サッカーリーグの人々と一緒に撮った写真を示して)
 私は中国サッカーリーグの親善大使は、外国に行くのが普通で中国には行かないと思う。でもこのことが彼の脇腹に入れられた中国語のタテゥーについて説明してくれる。ベッカムはたくさんのタテゥーを入れているが、タテゥーは意味をもっていなければならないと言っている。ただそれがどんな意味かは語っていない。むしろ謎めいている。

【女性】私はベッカムは話すことよりも描かれた言葉を好んでいるのだと思っています。彼は全てを自分自身に代えています。絆創膏を額に貼ったのも言葉の一つだと思いましうが何もしゃべっていません。

【マーティ教授】それは面白い。ベッカムについてにとても異なった考え方だ。静かに座っていて何も言わない。ベッカムは実際にも何もいうことは無いということは正しい解釈とは言えないからだ。だから君は正しい。ブッダのようなものではないか。そこに座っている仏像があって、賢くすましているが、何も言わない。私はベッカムをそのように見ている。ベッカムの身体をよく見て、彼の身体に描かれた言葉を集めるとおそらく彼が今まで発した言葉より多くの言葉を見つけることができる。少し誇張しすぎかもしれないが、何を言わんとしているかは解るだろう。

 私はそれほど雄弁ではない。私の身体が私の代りに発言する。私はこのタテゥーを中国語を話せる人に確認した。彼女は出典を見つけ出し私に教えてくれた。

 孔子の論語の言葉、大まかに訳すと「生死は命にありて 富貴は天にあり」。ベッカムはこれで何を意味していたのか、全ては運命づけられているのか。それに対して出来ることは何もないのか。生から死までずっと・・・。これをベッカムの実存主義的発言と比較してみたい。

 私には過去への責任はない。私は未来のことしか頭にない。もしかするとベッカムは、中国サッカー界のことを言っているのか。しかしこれによって謎めいたサルトルの考えを理解することができる。「人はその人たるものではない、人はその人でないものである」言い替えると、私は過去に縛られてはいない。自分を縛るものは幼少期のトラウマや自分の階級、要は私は何か他のものになることができる、他のものにならなければならない。

 こうしてみるとベッカム実存主義者は未来志向だ。彼は少なくともこの原理をサッカー界に適用している。これはベッカム実存主義者が楽観主義者であるということを意味するのか。

 確かにベッカムの周りは、インフレを起こす傾向がある。たとえば彼のユニホームの値段。ジャンゼリゼ通りのショップに行ったときに値段を見たら100ユーロー以上だったと記憶している。ベッカムの話し方も重要な点だ。誇大広告されているだけではなく、ベッカム自身も誇大広告をしている。

 例えばジダンの話をしながらベッカムはこう言う。「彼はもっとも偉大なサッカー選手だ、可能性はある。」彼はもっとも偉大な人間だ。彼の妻は何と言うだろうか。とにかく重要なのは、彼の大げさな誉め言葉を使う癖は18世紀のヴォルテールの偉大な哲学小説『ザディーグ』からそのまま取り出したようなものだと思う。

 ※ヴォルテール: 18世紀のフランスの哲学者であり作家・文学者ヴォルテールことフランソワ・マリー・アルエ(1694~1778)啓蒙主義を代表する人物の一人。1759年に発表した「カンディードあるいは楽天主義説」はヴォルテールの冷笑的な視点のもと、天真爛漫な主人公カンディードにあらゆる不幸が襲いかかる風刺小説。

【マーティ教授】「この最善なる可能世界においては、あらゆる物事は最善である」これはヴォルテールの作中の哲学者のセリフ。そしてこれはヴォルテールのある哲学一派のただの楽観的思考に対する風刺的な見解だ。つまり真理へ向かう道すじを提供できると主張する哲学を茶化しているのだと思う。

これはブログの中でベッカムがどのように考えたか想像したものだ。
<ベッカムブログ>

完璧な日 チェックOK
完璧な妻 チェックOK
完璧な子ども チェックOK
完璧な町 チェックOK
完璧な髪形 チェックOK

ベッカムのメンタル・トレーナーが皮肉を言う。そしてベッカムはこう答える。
「その通りだ。全くもって賛成。本当に先見の明があったに違いない。」

 本当のところ私は、ベッカム実存主義者の楽観主義は無条件で曇りの無いものでは無いと言いたい。イングランド代表チームでしかもキャプテンまでなった選手がどうしてこんな陽気な思考をすることができるだろうか。

 1966年以降の代表選手には無理だ。66年のワールドカップにいた人はいる?・・・ 私以外誰もいない?・・・ それは最後にイングランドがワールドカップで優勝した時だ。唯一ワールドカップで優勝した時。1975年生まれのベッカムにとって代表人生は失敗がくり返される悲惨なものだった。だからベッカムのキャリアの確信はユートピア的理想主義を批判し落胆から逃れられないことを知らしめることだったと思う。

【男性】人間は物事を過大に評価する傾向があると思いますか?

【マーティ教授】私たちはベッカムを過大解釈しているのではないかということだね?
君は、正しい。私たちは他人を持ちあげる傾向がある。サルトルは「全ての人は、神になりたいと思っている」と言ったが、もっと重要なのは私たちにはベッカムのような神が必要だということだ。
 ベッカム実存主義者からの最後のレッスンは「多様化」、自分らしくあろうとする罠に陥らないように、本物らしさは妄想だ。ベッカム実存主義者は「私は変身しなければならない、そうでなければ死んでしまう」と言う。これまでの考察においてベッカムは沈黙の哲学者だった。ではベッカムはどのように自分を表現をするのか、私はこのように主張したい。

 彼は、髪形を通して語る。私はこれを「毛根哲学」と呼びたい。ベッカムが問いかけているのは、「どのスタイルがお好みか?」。 私たちには選択肢がある。際限なく選択肢がある。これは奇妙な髪形(モヒカンスタイルのベッカム写真指して)。本当のところこれはチョット怖いと言うべきだ。まぁいい。もう少し見ると(丸刈りでガッツポーズの写真を指して)これは丸刈り。これがベッカムの言いたいことだ。

 全ての髪型は適正で同時に、そうでは無い。常に自己を再説明せよ!

 全ては流動的で予測不可能だということだ。サルトルに言わせれば、「偶然性と不確定性をもったヘアースタイル」。ファーガソンも不平を漏らしてしていた次々に変わる髪型。次にどんな髪型が登場するのか誰が知っているだろうか。

 髪型は自由主義の表明のようなものだと私は見ている。でも私は髪型はある種の詩でもあると考えたい。ベッカムに合うのはフランスの詩人ランボーだ。もしベッカムの髪が語るならこの言葉を引用するだろう。

「私は他者である」
 アルチェール・ランボー(1854~1891)『見者の手紙』から

『見者の手紙』としてで知られるランボーの手紙からの引用だ。

ベッカム実存主義をまとめてみるがそれはわたしたち全員にも当てはまると思う。

 「ベッカム実存主義者」、それは永久に満たされない。同時に永久に新しいチャンスを求め続ける、ゴールを狙い続けるものだ。ベッカムは哲学の古典的な命題である「肉体と精神の対立」を哲学者と同じレベルの哲学によって葬り去っている。そんなベッカム哲学は、見た目や行動で表現される。

 反哲学者、つまりベッカムのことだが、彼は、最終的に沈黙に美に頼る。ベッカムに代わってカミュのこの引用をあげよう。

「私の中の沈黙、この沈黙が私を全てから解放する。」

ここで終わりにしよう。

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 サルトルの「敵対する相互関係の二元的実践」という言葉も語られ、他の哲学者も多く登場しています。まぁNHK出版か早川書房などからこの番組の書籍が出るに違いないと思います。出版を切望しています。