思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

人が物事を語る時/意味への信仰

2014年09月02日 | 思考探究

 3.11東日本大震災に伴う福島の原発事故に関係する新聞に吉田調書が掲載されていました。それぞれの立場からの発言、言動を見ることができますが、やはり思うのは核エネルギーというものは、人間の制御可能性を超えるものであり、人の未だ知りえる存在ではない、という感慨を受けました。

 中沢新一さんが「・・・僕たちはおそらく生活感覚としては量子というレベルを自分たちの中に入れることはできなくて、いつまで経ってもニュートン力学の世界しか感覚できない。」と、月間文芸誌『2014.9新潮』の東浩紀さんとの対談の中で語っていますが、本当にそうだなぁとおもいます。

 なぜそんなものを自然から賜ったのか、贈与されたのか・・・そのようなことを考えることもすでに遅い感がありますが、誰もそのようなことを言いません。制御可能性を信じ、また外部からの破壊行動がない、防げるというような淡い希望を抱いているように見えます。

 遅かりし。

 そのような事態に今現在はあるのか。そのような問いは誰も持ちません。

過去にこのようなことを語られた哲学者がいます。

 人間は、自然法則を支配するという自己の自由の極限において、かえって人間性を喪失し機械化してゆく傾向を現わす。自然法則は、人間の生活をとおして全面的に支配してゆくその極限において、かえってあらゆる法と法則との外にあるかのような、欲求的自由の主体としての人間から支配されるものとなってくる。
人間生活の機械化ということと、人間が全く非「理性的」な欲求的自由の主体に化するということとは、根本において一つに結びついて成立しているのである。それゆえ、機械的技術のうちに-----つまり、機械の成立してくる場が人間生活の内面に開かれるということのうちに、-----さきに言ったような、法則に従うということが直ちに法則の支配からの解放であるという事態が最も徹底した相で顕れながら、しかも同時に、その事態自身のそういう真実の相が逆倒され最も深く隠されている。事態の本来あるべき相が、人間のうちではかえって逆の相となって現れている。そのことが、人間が作った機会に引きずられてゆくと通常言われていることの意味である。また、科学の進歩と人間のモラルの進歩との跛行(はこう)といわれる問題の根本に潜んでいる事柄である。根本に見られるのは、跛行という以上にむしろ逆行なのである。それらのことが核兵器の問題に集約的に現れることは言うまでもない。(『西谷啓治全集第十巻』p98から)

 世のなか綱渡りしているピエロのようです。戦後間もない広島・長崎の原爆における破壊力、原発事故における目に見えないものへの驚愕、そこにはリアルな現実がありますが、此方にない彼岸の話しになっています。

 過去にこんな記事を書いたことがあります。

 Eテレ100分de名著フランクルの『夜と霧』の、最終4回目のなかで姜尚中先生がゲストで出演され「運命の贈り物」について語られていました。

 この運命を贈り物として受け取る考え方をフランクルは次のように説明します。

<運命=天の賜物>

 苦しみの中身は人によって違う。そこに大きな意味がる。
 どんな運命も比類のない、どんな状況も二度とくり返さない。そしてそれぞれの状況ごとに人間が異なる対応を迫られる。誰もその身代わりになって苦しみをとことん苦しむことはない。
 この運名を引き受けるに当ったその人自身がこの苦しみを引き受けることに二つとない何かを成しとげるたった一度の可能性はあるのだ。
 誰もが、その人だけの苦しみとして運命をもっている。
 運命とは天の賜物である。
 その人だけに与えられた贈り物。

 運命とはドイツ語で Schik・sal(シックザール)という話がありました。運命、宿命というこの言葉、schi・cken(シッケン)が、送る、届ける、送り届ける、という意味があるので「神さまかのギフト、おくられたもの」ということになるということでした。

 辞書も見ると「Schik・sal」という言葉そのものにも「神の摂理・天命」という意味がありました。

 運命=天の賜物

というテロップが示されましたが、日本語に表記されると「畏れ多いもの」的に感じてしまいます。

 さらにこの運命の唯一性をもつものであるということです。二人として同じ人がいないようにその人にしか与えられていないもの、唯一その人にだけ与えられた賜物=運命だと強調されます。

 現実的存在が本質的存在に先立つ一般的な実在主義と異なり、運命は「最も本質的なもの」という認識が説かれます。そこがフランクルの実存の考え方のようです。

 それぞれの時代に、魂の言葉を人々に説いている方がいます。

 人類がこれからどのような運命をたどるのか分かりませんが、それぞれに投げかけられていることが一つになればどうにかなるのか。

 誰もそのようなことを言いません。