思考の部屋

日々、思考の世界を追求して思うところを綴る小部屋

絶対的虚無感の極

2014年08月25日 | 哲学

 さぁ、今朝は何を語ろう。ネットニュースを見るとアメリカのジャーナリストがイスラム国で斬首処刑されたという何とも酷い話が掲載されていました。

 最近のニュースの大半は自然災害を話題にしています。人間が自然の一部であるという生命誌の視点からの人災も自然災害に含めそう思うのであって、本当に「自然は人間に無関心」と痛切に考えてしまう。痛いほど心を曇らせるという意味で「痛切」という漢字を使いましたが、「痛い」という言葉には万人に共通の意味理解を与える働きがあります。

 幼少期の打ち身をしたときに、「痛いの痛いの飛んで行け~」とやさしく母の手が患部をさすれば痛みは本当に飛んでいった気がします。そんな母も既に亡くなって40年近くが経ちました。

 今年は2014年で、あのニーチェが死んで114年が経ちます。ニーチェは「狂人」に仮託して「神は死んだ」という言葉を残し「ニヒリズムの到来」を予言し、その後の大戦はその予言の的中が全世界を駆け巡りました。

 分析心理学のユングの提唱する集合的(普遍的)無意識には、聖なる元型として太母と老賢者があるとしていますが、ニーチェの言葉は、その元型の死も語っているように思えてなりません。

 トコトン自然は、人間に無関心なのです。なぜニーチェは「狂人」に仮託したのか。ご本人が自ら語ればよいのですが、それをしなかった。

 いまの世の中にはニーチェとは逆に「神は生きている」と自ら語るものが多くいます。

 「神の死」は狂人でないと語れない。私はニーチェの、いや狂人の言葉を踏襲するものではありません。

 私は文才が無いので主に専門家の文書を多用します。理解のうちに自分の言葉で語ればよいのではないかと思うのですが、ど素人の現実があります。まぁとにかく得意の引用です。今回は、V・E・フランクルの著書の翻訳で有名な哲学者の山田邦男先生の著書からです。当然フランクルの解説書になります。

<『フランクルの人生論 苦しみの中にこそ、あなたは輝く』(PHP2009.6.27)から>

 ニヒリズムとは、それまで二千年近くの長きにわたってヨーロッパ人によって信じられてきたキリスト教が、生きた信仰のリアリティーを失い、それによって象徴されてきた絶対的・超越的な価値が否定されることであり、その結果すべての価値が相対化され、根底においてすべてが無価値化すること、またその結果、人生そのものも無意味化することである。
 かつてドストエフスキーは、「もしも神がいなければ、人生はすべてがが許されている」と述べたが、このことは同時に「すべては空しくなる」ことと一つのことである。「すべてが許されている」ことは人間の絶対的自由を意味するが、この自由は絶対的な根拠と価値を欠いたところでの宙に浮いた自由、いわば「無の深淵」の上での自由にすぎず、根本的な不安を抱えた「すべては空しい」という空虚感ないしニヒリズムと一体のものである。このようなニヒリズムが二十世紀以後の数世紀にわたる人類の運命であるとニーチェは予言したのである。

<以上上記書p30-p31>

 過去のブログにも別視点から掲出しましたが、とても好きな部分です。小林秀雄先生もドストエフスキーを語っていますし、Eテレ100分de名著でも扱っていましたのでドストエフスキーという人がどういう人なのかは知っていましたが、「もしも神がいなければ、人生はすべてがが許されている」という言葉をこのように文の流れの中で提示される理解の感動を思います。

 理解の感動などとわけのわからないことを書きましたが、さらに困難極まる文章にすると、「一歩前の自分が、最も自分に近い所に落ち着くような気分」と表現したく思います。

 当然この言葉は以前にブログに書きましたが13世紀に生きたマイスター・エックハルトの言葉で、『神の慰めの書』(相原信作訳・講談社学術文庫)に掲載されています。

 10日ほど前にもブログで引用アップしたのですが、善いものは善いのでさらなる掲出に走ります。

<『神の慰めの書』から>

 ・・・神は実に私自身よりももっと私に近いというべきである。私自身の存在ということも、神が私に近く現存し給うことそのことにかかっている。私自身のみならず、一個の石、ひと切れの木片にとっても神は近く在し給う。ただこれらのものはそれを知らないだけである。・・・

<上記書p294から>

この文章の最初の「神は実に私自身よりももっと私に近いというべきである。」を書き換えているわけです。

 神というものが存在するのであれば人格性の神として、さきの元型として太母と老賢者のようなものを想い描きます、が「神は死んだ」となると無意味化します。

 ニーチェが狂人に仮託せずにはいられなかったのは、無信仰だったからではなく現実がそう言わせたということです。

「自分に最も近い神を求め彷徨う」

 ニヒリズムの空虚感とはこの彷徨いにあるとも言えます。

 カントのように型にはまった倫理性を説いたところで、それは他者に対する影響や、他者に対する配慮がない定言の戯言になってしまいます。現代人を悪の凡庸さに走らせる一つになっていると哲学者ハンナ・アーレントは説いていることは以前ブログにも書きました。

 神の似姿

 どう見ても人格性ではなく非人格性の、形而上学のさらなる高みに置かなければ、世の止まらない善悪は理解できません。

 神の自由、自然の自由、人間の自由

「無関心」がそれぞれにあることは否定できません。

それは「自由の本質」大いに語るものです。

そこを「無関心も選択の内にある」と理解するのは人間の思考の技。したがって冒頭でも書いたように、

「自然は人間になぜこんなにまでも無関心でいられるのか?」

と疑問が生じ、「我々は常に空虚な部分を欲求として欲している存在と言えるのではないか?」という問いにもなる。

これは前回も書いたように闇夜の烏の無底の叫びに思うのです。

 暗闇でどんなに叫んでも、叫ぶ主体もわからない。絶対的虚無感とはそういうものだと思う。

 脳天に銃口を突きつけられたその瞬間

 絶対的虚無感の極

叫べども応えず。それが現実である。

「神は生きている」と自ら語る「狂人」こそ恐ろしいものはない。

ここで閉じると余りのネガティブ、最後に

「自由の本質」

を大いに理解し、他者に対する影響や、他者に対する配慮がない定言の戯言には要注意ということで終わりとします。