昨日、日曜美術館で「宮崎進~シベリア・鎮魂のカンヴァス ~」を見ました。
いや、涙なくしては見られませんでした。
(昨日、放映される前にブログでアップしとけば良かった・・・)。
以前、このブログでも紹介したように、
宮崎先生は大学時代、私が尊敬している恩師です。
先の大戦で中国に1年間出征し、
その後4年間シベリアに抑留された体験をお持ちと書きましたが、
志願兵として参戦し、中国に行く前、広島に駐留していたとは知りませんでした。
さらに帰国したあと、広島に戻って先生一人だけ助かったことに
自責の念を感じていたことなど、
現在パーキンソン病と闘っていること、
テレビを見てはじめて知ったことが多かったです。
2004年くらいに横浜美術館で個展をされた時はお元気だったけど、
すこしご病気がすすんでいるご様子でした。
しかし、喋ることはご不自由だったものの、
そこから出る言葉や、時折見せる目の光を見て、
まだ先生の意思は萎えていないと感じました。
言葉が不自由になりながらも、テレビ出演をしているところに先生のご意思を感じました。
横浜の個展のパーティーでは、シベリアの話を向けられて嫌な顔をされていたので、
話をしたくないのだなと思いましたが、
テレビを見て、ほぼ同じ時期にシベリアで抑留されていた地を再訪していたのに
反対に驚きました。
あの時、嫌な顔をされていたのは、話をしたくなかったのではなく、
軽々しく、その話をするなということだったのでしょう。
自分の個展にパーティーなんかする人じゃありませんから、それはなおさらだったのでしょう。
近年描き上げた作品には、シベリアの地で世を去った戦友たちの顏が
いくつも並べて描かれていました。
また再放送があれば、ぜひ見ていただきたいもの。
オンデマンドでも見られるかもしれません。
私などが言うのはおこがましいですが、これが本当の絵描きです。
画像は先生の若い頃の作品「漂泊」です。
いや、涙なくしては見られませんでした。
(昨日、放映される前にブログでアップしとけば良かった・・・)。
以前、このブログでも紹介したように、
宮崎先生は大学時代、私が尊敬している恩師です。
先の大戦で中国に1年間出征し、
その後4年間シベリアに抑留された体験をお持ちと書きましたが、
志願兵として参戦し、中国に行く前、広島に駐留していたとは知りませんでした。
さらに帰国したあと、広島に戻って先生一人だけ助かったことに
自責の念を感じていたことなど、
現在パーキンソン病と闘っていること、
テレビを見てはじめて知ったことが多かったです。
2004年くらいに横浜美術館で個展をされた時はお元気だったけど、
すこしご病気がすすんでいるご様子でした。
しかし、喋ることはご不自由だったものの、
そこから出る言葉や、時折見せる目の光を見て、
まだ先生の意思は萎えていないと感じました。
言葉が不自由になりながらも、テレビ出演をしているところに先生のご意思を感じました。
横浜の個展のパーティーでは、シベリアの話を向けられて嫌な顔をされていたので、
話をしたくないのだなと思いましたが、
テレビを見て、ほぼ同じ時期にシベリアで抑留されていた地を再訪していたのに
反対に驚きました。
あの時、嫌な顔をされていたのは、話をしたくなかったのではなく、
軽々しく、その話をするなということだったのでしょう。
自分の個展にパーティーなんかする人じゃありませんから、それはなおさらだったのでしょう。
近年描き上げた作品には、シベリアの地で世を去った戦友たちの顏が
いくつも並べて描かれていました。
また再放送があれば、ぜひ見ていただきたいもの。
オンデマンドでも見られるかもしれません。
私などが言うのはおこがましいですが、これが本当の絵描きです。
画像は先生の若い頃の作品「漂泊」です。
私も再放送含め2度みました。
私は去年、多摩美術館へ宮崎さんの展覧会、見にいきました。
10年程前に横浜美術館でした展覧会には残念ながら沖縄にいたため行けずでしたが。そのときに初めてシベリア抑留の事実を知りました。
私が大学生のときは全くそんなことはしらなかった。
今回のテレビでは、はじめて病気なのを知りました。
先生から出てくる言葉一つ一つぐっと胸に込み上げるものがありました。
そして、目の輝きはかわっていないです。大学の頃のままだと思いました。
あの鎌倉のアトリエもみんなでおじゃまさせてもらいましたよねえ。。
懐かしい。。。。
本当に尊敬する恩師です。
本当、、私が言うともっとおこがましいのですが
本物の絵描きです。
作品をまじかで見たいです。
もう亡くなられた方から、一度だけ、それも十数分だけシベリアで抑留されていた時の話をされました。
極寒の地での寝床の話でした。
その方の収容所では、まるで鰻の寝床のような、人が一人やっと入れる、木の箱を何段も棚のように重ねてあるだけだったそうです。
そこへ入って夜を明かす。人の体温で凄い湯気が上がり、下で寝るより上が暖かったと。布団はなく、具合の悪い人に着ている服を掛けてあげたり・・・。
その方から聞いた話の映像と、宮崎進さんの絵がまた、頭の中で重なるのです。
私は絵は余り知りません。けど絵は言葉ですね・・・。
先生の目から見て、学生の頃の私たちはどう映ったでしょうね。
ちょうど先生が兵隊に行っていた時と同じくらいの年(もう少し若かったか?)でしたから、
何て今の若者は平和な時代に育ったと感じたことでしょう。
まして、まだ日本が元気な時代だったから、なおさらでしょうね。
そんな能天気な私たちを、先生は何となく喜んで見ていたような気がします。
私たちのしょーもないパーティーにも、必ず先生はいくらか包んでくださいましたし(学生に3本は過分でした!)
でも人生はそのままではいられません。
あー、あの頃は良かった・・・なんてね。
先生のアトリエ訪問は楽しかったですもの。
描かれた風景は、おそらくは心象風景だと思います。
ただ、シベリア抑留の極寒で、先生は絵を描くことを許されていたそうですから、そんなスケッチを何枚も残していたに違いありません。
本を読めば情景が想像できるように、絵にもまた行間があります。
いっちゃんがそれを感じたことは大切ですね。
書き忘れたことですが、広島にいた先生の部隊ですが、
先生だけが中国に渡ることになり、
ほかの戦友は原爆で命を落としたそうです。