津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■お三方様のお国入り

2017-01-14 09:51:57 | 歴史

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              幕末武家の時代相 (熊本藩郡代 中村恕斎日録抄〈上〉)  幕末武家の時代相 (熊本藩郡代 中村恕斎日録抄〈下〉)

 昨日のブログで書いた御三方のお国入りについては、「幕末武家の時代相・下」の「11章・文久の改革余波」で「夫人たちの帰国」「夫人たちの献立」「御前様の行列」という項をたててくわしく書かれている。
文久二年大名の参勤交代が緩和されるとともに、大名の家族の国元への帰国も許されるようになった。
これに伴い文久三年二月御三方が次々と帰国されるのだが、この著書では当時の玉名郡代中村恕斎の奮闘ふりが書かれている。
顕光院と鳳台院は前年の十二月十八日江戸発、二月十六日熊本着、韶邦夫人は四日遅れて十二月二十二日江戸発、熊本には二月十八日に到着している。
相当の日数を要しているのは瀬戸内の海路をさけ、中国路を陸路で進んでいるからである。
華々しい行列は相当の費用を要したであろうことは想像に難くないが、路銀もつきかけていたらしく、供の者は食事も侭ならず「枯れ腹」状態であった。
恕斎の奮闘で肥後領に入ってからは、結構な食事でもてなされ「枯れ腹を養った」と大喜びであったという。
これからは支払いの心配もなく「お替り」を重ねたとされる。印象に残る初お国入りであったろう。

御前様は花畑館に入られ、顕光院と鳳台院は二の丸御殿に入られた。
これから怒涛の幕末期をへて明治維新を迎え韶邦夫人は華族東京居住の命により明治四年東京今戸邸に入られた。
顕光院は明治八年、鳳台院は同七年それぞれ熊本で死去された。10年余を熊本で過ごされたことになる。 

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