津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・清水氏

2008-05-03 18:17:44 | 歴史
 清水氏の消息は、初代道是に関する「於豊前小倉御侍帳」の、「京都牢人・御客分・清水大納言五十石・清水数馬殿御先祖」とあるのが初見であろうか。御存知、女・吉は細川綱利公御母・清高院である。「京都住であったが、慶安三年肥後下向、城内竹之丸居住 万治元年、合力米三千俵・百人扶持、寛永三年二月三日歿」している。
 清高院が妊娠(綱利)した折、光尚付きの岩間十兵衛の報告に次のようにある。
「(前文略)懐妊之者御満足ニ被思召候通被仰下候、是ハ前かとより被召置候おきちと申候、親ハたいこうのそうせふ様御内ニ而内海但馬と申候、此そうせふの儀ハ只今之広橋大納言殿御舎弟ニ而御座候、すしやうもあまりあしき物ニては無御座候間、正月御誕生可有と奉存候(以下略)」
「素性もあまり悪しき者にては御座無く候」と、六兵衛がほっとしている様が伺える。

 ぴえーるさんの「略系図」には次のようにある。

  勝就─────────────+─●勝元
   兼栄 兵部卿             |  竹之助 但馬守        
   内海兵部               |  清水道是           
   実 広橋兼秀男           |  寛文三年二月没        
   寛永九年十二月没         |  享年八十           
                         |  妻 長塩忠勝女        
                         |                 
                         +─女子              
                         |  土山久次妻          
                         |                 
                         +─長栄              
                            内海主計 
 
 六丸が誕生すると大納言殿(?)は光尚にとっては「岳父殿」だから、そうそう無碍には出来ない。慶安三年の肥後下向となるのだが、それは光尚の死(慶安二年十二月)の直後である。光尚の意向を得てのことだったのだろうか。(重賢の側室・嘉門の小陳家の扱いとは雲泥の差がある)

 二代目数馬(勝昌)は、道是跡合力米扶持直に拝領 寛文五年七月合力米二千俵加増、都合五千俵、百人扶持上る。元禄三年五月致仕、隠居料百五十人扶持 宝永四年二月十八日歿。妻・小倉小笠原右近将監一門・帯刀姉
 
 三代靭負・勝貞(養子 実・清閑寺大納言国宗四男・壬生是観 初・市正、縫殿 室・綱利女伊津)人持衆併組迯衆、綱利の招きにより下向、元禄三年家督・御一門 合力米を地方に直、四千石拝領。元文四年二月致死、隠居料百五十人扶持 寛保二年正月ニ十四日歿。後妻、長岡興知女ハナ

 綱利にとって生母清高院の実家である清水家は、絶やしては成らぬ家であったのだろう。わが娘を勝貞に嫁がせて継嗣となし、血脈を保とうとしている。

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