新熊本市史・別編第三巻にある、槇嶋家の住宅である。槇嶋真澂家とあるが、この人物は槇嶋家最後の当主である。つまり幕末・明治期の300石取の武家の住宅ということになる。このような資料が残ることは大変珍しい。
初代昭光は将軍義昭の側近だった。豊臣秀吉に仕え2,000石、義昭の死にあたってはその葬儀を差配するよう命じられた。
大坂の陣では西方に付、後隠居して云庵(うんあん)と称した。細川忠興などの嘆願により助命され、のち細川家家臣(1,000石)となり忠興(三齋)の側近として仕えた。
真澂は槇嶋家の12代目、半兵衛・真徴(澂)→冨次と名乗っている。間取り図にある「隠居」とは11代目の半之允であろう。
どこに住んでいたのかは判然としない。熊本市史の城下町図でも現況確認ができていない。数代前が「在宅」しており、この住宅も「在」にあったのかもしれない。南西角の部屋が当主の部屋であろうと思われる。五坪(10帖)とあるのは四坪の間違いか。
50坪ほどの大邸宅である。しかし本瓦葺・瓦葺・カヤ葺の屋根が混在していて建築的に見ても興味深い。
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