津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■天草島原の乱の終結

2017-02-27 07:11:13 | 歴史

 天草島原の乱は、寛永15年2月27日午後から攻撃が開始され、28日に至り昼頃にはほぼ終結を見た。
一揆勢37,000人に対し幕府軍125,800人が戦い、一揆軍はほぼ全滅したとされる。幕府軍においては死者1,147人、手負い6,950人と細川家資料は伝える。
ここに至る経過を見ると、24日に幕府軍では評議が開かれ、26日に火攻めによる総攻撃をすることが決定された。
しかしながら当日は雨となり、総攻撃は28日に日延べとされた。
ところが27日正午すぎ鍋島勢仕寄から出丸の一揆勢が後退しているのが確認されたため、鍋島勢は二の丸出丸の端に竹束を付け置き足がかりを付けたいと申し入れがあり上使松平伊豆守がこれを許した。
八つ時(午後二時)頃に作業も終わり出丸に鍋島勢が二三人入った処一揆勢が気づき攻撃、鍋島勢の幕府目付榊原職直勢が応戦して射る矢に一揆勢が後退するに及んで鍋島勢が進撃し、止む無く上使の下知を以て幕府軍の総攻撃が開始された。
終結の切っ掛けを作った鍋島勢だが、軍律を破ったとして鍋島家並びに目付の榊原家が後に処分された。
細川家においては松井寄之(細川忠興末子)が三の丸の仕寄に詰めていたが、鍋島勢の抜け駆けを知り三の丸に乗り込んだ。
また細川光利(光尚)も鍋島勢の抜け駆けを知り三の丸攻めを下知した。三の丸攻めは難攻を極め、本丸攻めも熾烈を極めた。
細川勢においても死者285人、手負い1,826人を出す人的大被害を蒙った。
日が変わって白々と夜が明け始めたころ本丸北側に小屋が見受けられたため、忠利の下知で火矢が放たれたちまち火に包まれた。
その中に居た人物を陳佐左衛門が仕留めて首をとった。これが首実験で天草四郎だと判明し、佐左衛門はのち1,000石を加増され鉄砲20挑頭に栄建した。
正午頃には大方を制圧して、天草島原の乱の長い闘いが幕を下ろした。

    

                      日本の城 古城絵図・九州(2)から引用

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