津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■天和二年の九州巡見使

2016-09-23 08:57:49 | 歴史

 ■水戸徳川家と細川家 でも書いた処だが、我が家の二代目太左衛門は御役目柄(歩之御小姓)公式に熊本に入られる方々の案内役を仰せつかっている。
今日ご紹介するのは水戸の佐々介三郎の来熊(貞享二年)から遡ること四年前の九州巡見使一行の案内である。

延宝八年将軍職についた綱吉は翌九年(天和元年)二月三日、諸国へ巡見使を派遣するにあたって次のような巡見使条目を発布した。
「国々領主、代官に仰出さるヽは、今度諸国巡見命ぜらるヽといへども、国城の図つくるに非ず。人馬、戸口の点検に及ばず。御朱印券の外の人馬は、定の賃とりて滞なく出すべし。いずくを巡察すとも、使者、贈遣一切あるべからず。郷導のものなくて叶はざる所は、中にまかせいだすべし。所在酒掃に及ばず。道橋修造すべからず。しかし往行たよりよからぬはこの限にあらず。駅々の客舎営作すべからず。茶亭新につくるべからず。駅米豆その他地価もてうりあたふべし。其他の物もこれ亦同じかるべし。旅館あたらしき筵席を用ふるに及ばず。旧くともくるしからず。浴室、厠なき所はかろく営むべし。諸調度旧しともくるしからず。もしなき所はかろく設置べし。やどるべき家ゐ一村に三軒なくば、寺にてもまた他村をへだてヽも苦しからず。其地になき売物、他所より搬送してうらしむべからず。」 (細井計氏の論考・巡見使に関する一考察から)

このような厳しい規律の中で九州に入る巡見使第一号を迎えるにあたっては、藩庁の緊張も大変であったろうと思われるが、案内を担当した我がご先祖様もさぞかしと思うのである。
馳走等が厳禁されているなかで、太左衛門は逆に「御吸物御酒迄被下候 罷帰」っている。
さすがにこれは報告せずばなるまい一事である。「覚書」を残しているが、膨大な永青文庫の資料の中に埋もれているのだろう。
案外その後の巡見使の来熊にあたっての、手本になっているかもしれない。
 

        一天和元年酉八月朔日御巡見之御衆奥田八郎右衛門様・
         戸川杢之助様・柴田七左衛門様御国内御巡見被成候
         就而御用被仰付 川尻より薩摩境迄相勤 同十六日罷
         帰申候

        一同年八月廿三日於御花畑大木舎人殿被仰渡者 右御
         巡見之御供衆日向より御帰之節所々御宿等見繕諸事存
         寄之通ニ可仕由ニ而 御役人等差添南郷より南関迄
         罷越御用相勤 同廿九日罷帰申候上ニ而御褒美御銀弐
         枚被為拝領候

        一同年九月七日より右御巡見之御衆日向より又御国内
         江御越被成候付而御用被仰付 南郷高森より南関迄相
         勤申候 於南関奥田八郎左衛門(様・欠カ)より被為召候而 御側
         方其外之御方江も右之趣相伺候処 罷越候様ニと被仰
         聞候故 早速八郎左衛門様御旅宿へ参上仕候処 御居
         間之次へ被召寄 彼方様御家老(来カ)米山太郎兵衛・御目附役
         楢原又市郎を以段々御尋之儀共御座候を 御首尾罷申
         聞仕候処 委細被聞召届候由ニ而 段々御懇之御意其
         ニ御吸物御酒迄被下候 罷帰右御尋之趣一々申披候趣
         をも御側方ニ申上候 右之御用始終申勤申候趣 委細
         覚書ニも仕置申候

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