昨日は大阪城落城の日、今日は淀殿・秀頼母子がなくなり豊臣が絶えた。400年という節目を考えると感慨一入と云ったところではある。
大阪城では 大阪夏の陣400年 などというプロジェクトで賑わっているのだろう。
この後の豊国廟の扱いは誠に悲惨なものがあり、徳川家康以来のやり様もいささか度が過ぎている。明治維新後からは豊臣秀吉は再び英雄となった。
津田三郎著「秀吉・英雄伝説の軌跡」を読むと、江戸時代はまさに豊臣家受難の時代であったことが判る。
秀吉の墳墓の場所さえ定かではなく、明治三十年に至り4月13日、豊国山廟修築の起工式が執り行われ、工事の途中4月28日地中より経文が書かれた瓦が多数発見され、さらに地下2.4mのところから秀吉の遺体を納めた壷が発見されたという。
腕を組み胡坐姿がみとめられたが取り出す際の不手際で、遺骨は一瞬にバラバラになったという。一片/\を集めて絹の布に包み納められた。
300年回忌を前にしてのことであった。
豊国山廟の完成をみた300年祭では、阿弥陀ヶ峰は参拝者が陸続してごった返したといわれる。
くしくも豊臣家が絶えて400年の年、大阪は今「大阪都」問題で揺れている。その成否は予見しがたいが、徳川の江戸(東京)に対する豊臣の大坂というような意識はもうないのだろうか・・・・興味ある現代の戦である。