続・浜田節子の記録

書いておくべきことをひたすら書いていく小さなわたしの記録。

マグリット『呪い』

2015-11-09 06:47:16 | 美術ノート

 『呪い』、この作品の中のどこに呪いがあるのだろう。
 青空と雲の行方は分からない。自然の成り行き・・・束縛を受けない自由・開放を羨望し、空を見上げた時の光景である。

 自然に意思があるとは思えない。
  「呪い」という感情は作品を見ている手前、鑑賞者(あるいは製作者)の側にあるというのだろうか。
  確かに災害は自然の猛威に因ることが多い。だから、恨めしく『呪い』などとしたのだろうか。

 呪い…悪意により不幸をもたらす精神的な行為である。「青空と雲」は物理的現象であれば、『呪い』の介在はないのではないか。「青空と雲」は、むしろ平和・平安であり、呪いという感情とは接点を持たない。

 雲は降水現象の発生源である。雷・嵐の暴雨は災害をもたらす、しかし降水は恵みの雨でもある。

 『呪い』は、人間だけが持つ汚れた感情であれば、この「青空と雲=自然」の時空に呪いは無いと結論付けられる。故に、この青空と雲=自然を見上げる眼差しに呪いがあるのではないか。しかし、呪詛などという行為があるが、『呪い』は自然との因果関係にはない。

 空を見上げ『呪い』を反復しても、その思いは通じず、霧消してしまう。呪いは「青空と雲=自然」に吸収され、あるいは虚しい木霊として響き渡るばかりなのではないか。
 『呪い』などという陳腐な感情は《青空と雲=自然》に対抗できる術を持たないが、大きく優しく包み込まれることはあるかもしれない。

《大いなる宇宙の神秘》に『呪い』は隠れているだろうか。否!その卑小さを、気づかせてくれるばかりである。

 『呪い』という作品に見えるものは、呪いの打消しであり、凡庸な光景に見える『青空と雲=自然』への崇敬だと思う。

『これは呪いである』のであり、マグリット一流の会話術である。


(写真は国立新美術館『マグリット』展・図録より)


『城』2139。

2015-11-09 06:08:23 | カフカ覚書

そういうわけで、バルナバスは、こういう服を支給されていないのです。これは、なにもわたしたちの恥や不面目だというだけではないのです。それだけのことなら、我慢することもできるでしょう。けれども、とくに気持ちが沈えんでいるようなときにはーバルナバスもわたしも、ごこまれというのではなく、とこどき気持ちが滅入ることがありますわーそのことを考えると、すべてのことが疑えてくるのです。


☆そういうわけで、バルナバス(生死の転換点)には、力がないのです。これは赤面したり辱められたりということではありません。耐えることも出来ますが、関係に影が差したりしたときには往々にしてやめてしまいます。バルナバス(生死の転換点)もわたしも、このようなことはまれではありません。全ては疑えてくるのです。