サンマルコ寺院のファサード
上部半円の部分を拡大すると ↓
マルコの遺骸がアレキサンドリアから運び出される場面が極彩色で描かれています
こちらはサンマルコの遺骸がヴェネツィアに到着したところ
遺骸がヴェネツィアに到着した時には総督はじめ多くの市民が大歓迎し熱狂的に迎えたようです
マルコの遺骸はヴェネツィア本島のこの寺院の中にありますが 現在ここで亡くなった人の遺体は
ヴェネツィア本島にはありません ここには墓地も火葬場もありません
ここで亡くなった人の棺はゴンドラに乗せられます そしてその脇には神父さんなり牧師さんが付き添うといいます
その後ろを遺族を乗せたボートが続き 供花や親族、友人などを乗せたボートがそれに続くようです
向かう先はサンミケーレ島 ヴェネツィア本島からは水上バスで10分ほどのところで本島北側からは島が見えるそうです
このサンミケーレ島は糸杉とレンガの壁でかこまれた上から見ると四角の島だそうです
ここはいくつかの教会と墓地のみがある言わばお墓の島です
もともと本島で亡くなった方々の遺体は本島の各教会の墓地に埋葬されていたといいます
しかしヴェネツィアは東方貿易の拠点ともいうべき場所だった為 交易品のみならずペストやコレラなどの感染症も
運ばれてきたようです 感染症で亡くなった人は衛生上の理由などで外の小島などに埋葬されていたようですが
18世紀に当時ここを支配していたナポレオンの指示によりサンミケーレ島と近くのサンクリストーフォラ島のあいだの
運河を埋めて墓地専門の島として一斉に墓を移動させたようです
墓地はカトリック、プロテスタント、ユダヤ教など各宗派に分けられているそうです
各墓には花が供えられ一年中花が絶えないそうです ほとんどは造花とのことですが・・・
この島には入れますが墓所の撮影は禁止されています
ここには日本人のお墓もあるそうです ヴェネチアの日本語学校に教師として派遣されていた方だそうです
明治維新のころの様です・・・
ビザンチンのモザイク画
マルコといえばあの(東方見聞録)で有名なマルコポーロもヴェネツィアの出身です
彼はヴェネツィアの商人だった父親と叔父とともにフビライ・ハンの支配する元を目指して陸路で旅に出ます
その時マルコは17歳 ペルシャやアフガニスタン、パミール高原などを通り元の夏の都である上都に着いたときには
マルコは21歳になっていたといいます
フビライには大変歓迎され政府の要職にもついていたようで滞在中には元の国内はもとより
ビルマ、ベトナム、スリランカなども訪れていたようです
17年間ここに滞在した後イル・ハン国(現在のイランを中心としたあたり)に嫁ぐことになった王女一行に同行し
今度は海路での船旅に出発します ベトナム、シンガポール,スマトラなどを経由しインドの南を通りアラビア海を通り
イル・ハン到着
2年間にわたる船旅は過酷だったようで ここにたどり着いたのは出発時よりはるかに少ない人数だったようです
その後マルコはコンスタンティノープルを経てヴェネツィアに戻ります
ヴェネツィア出発から実に24年の歳月が流れていました
その後ヴェネツィアで貿易の仕事につきますが ジェノヴァとの間で戦いがはじまり
ガレー船の指揮官として従軍したマルコは捕虜としてとらえられ収監されてしまいます
この収監先で出会ったのがルスティケロという人物です
彼はピサ出身の著述家でマルコと同じ牢でマルコの体験談を聞き それを口述筆記の形で書き留め
のちにそれをまとめたものが東方見聞録として世に出ることになりました
マルコは結婚して3人の娘をもうけ 70歳ころに亡くなったといわれます