「清水谷」の伝説 その4 「小鍛冶宗近」は音羽に住んでいた?

2021-09-20 14:39:54 | 「清水谷小鍛冶伝説」を追う
いよいよ、「清水谷(ショウズダニ)」の伝説も終幕。
島ケ原の「宗近住居跡」(ここで生まれたらしい)に辿り着いたので
 (再掲)
ここで終わろうと思っていたのですが、自己完結まであと一息なので…

諏訪から音羽辺りの地図を調べても「宗近住居跡の地蔵様」は出てこないし、
ストリートビューで見てもわからないし
資料の写真を見ても、なんだか山の中にありそうだなぁ、と。
結局、島ケ原と同じように誰かを頼るしかなさそう…
これは地域色の違いもあるかもしれませんが、誰を主人公に仕立てて物語を作っていくのか?
こういう人物に「興味を惹かれた」のがたまたま城下町の人間であって、
別の場所では、あまり深く追及もされずに粛々と生活は営まれていたのかも…
なんとなくそういうことは理解できました。
まぁ、自分で乗っかかってしまったのできちんとケリはつけよう、と。

「小鍛冶(三条)宗近が住んでいた、かもしれない」跡地を探すために訪ねた先は、
・丸柱地区市民センター
・波敷野の知人
・阿山支所
・河合地区市民センター
・阿山公民館 等々
これだけの皆さんにお世話になりましたのでお礼を兼ねて列記させていただきます。

意外と「小鍛冶宗近」さんのお話はマイナーやったのかなぁと思いました。
「弘法の井戸」は全国至る所に残っています、
そんな井戸のあるところ各所にその数だけの「民話や伝説」がありそうですが。

先ず、最初に教えていただいたのが、
みのいし地蔵】(伊賀市丸柱)ではないか?ということ。
長谷園から音羽に下る道の途中に、看板もあります、長靴に替えて
小川への土手を少しだけ下りますが、雨降りだったのでちょっと滑ります
 源流のような小川の傍に
大きな杉の木、その根元に埋まるように
 「お地蔵様」が抱かれていました。

  左上に見えるのは道路デス
チャンスに恵まれて「みのいし地蔵」に会えて良かったです。
でも、持参した写真と見比べても目的のお地蔵様とは何かが違う??
木の根っこの中のお地蔵様ではなく、「石の祠」なんだよなぁ ……

音羽を通り越して、頼るは隣の波敷野在住の知人宅へ
 知人宅裏山の彼岸花を愛で、
河合の市民センターに行き、「阿山公民館」を紹介され、
そこで「音羽の歴史」に詳しい方(Aさん)に会ってみたら?ということで、
直接伺うことに相成りました やっとです(笑)、少し光が見えてきました。

いろんな方のつながりの「おかげさま」という感謝を何とか伝えたい一心で、
長い説明になってしまいました…

Aさんに案内されたのがまず敷地内にある「井戸跡」。
「井戸跡」はすぐ目の前に見えるのですが、お地蔵様はどこ?
振り向くと石の祠の中に「お地蔵様」がおられます。
「井戸」と「お地蔵様」は、相対していたわけです。
  
赤井の井戸】と【宗近住居跡の地蔵】様

  お地蔵様に導かれました、
「そうそう、この祠の中のお地蔵様に会いたかった」
「ここに、小鍛冶宗近さんが住んでいたんですか?」
Aさん「そういう話が伝わっているんですよ」

いろいろ口伝の話をまとめてあるので、読んでみて…と、
突然訪れた厚かましい人間に快くお話をしていただいた上に、
資料までいただき、感謝してもし切れないほど。
ワタシも城下町で何か聞かれたら「きちんと答えられる人間になりたい」と思った次第。
《資料》
  (blog掲載の許可有)

≪宗近は阿山郡島ヶ原村大道生まれと云われ、17歳にして父母に死別、
18歳にして 京都にて修行、永延年間、京都三条白河橋の北にて名高い刀工として小鍛冶がすんでいた。
(中略)
刀工として不動の位置を占めていた。
ところが、どうした事か流浪の身となって、故郷伊賀に流れ来た。
そして、伊賀の里阿山町音羽 赤井の家で居候をしていた。 ≫

≪普段は自分の氏、素性を隠し農具等の野鍛冶を営んで平穏な日々を送って過ごしていたが、
ある日のこと、家の菜刀があまりにも切れないので一丁造ってくれた。
その菜刀で女が野菜を刻んだ処、うっかりと火箸を一緒にきざんでしまった
普通なら火箸を一緒にきざんだら、カチンと音をたてて、菜刀がこわれるか、
野菜が切れないかするが、名匠の造った菜刀だけに切味は抜群がために、
火箸ともどもきざんで炊き上げ食膳に出してきた。
野菜だと思って口にしたところ、中からきざんだ金くずがでてきた
当主はびっくりして大騒ぎになった。
「これ程の鍛冶屋は並の者ではない。お前は何者か」ときつく問いただした為に、
さすがの宗近もついにその名をあかした。
その後、その菜刀で岩でも切れるかと申したところ、
ではと云って佐々神社東300mの所に有る2m・3m角の大岩にいどみ見事に二つに切ったと云う。
その岩は、昭和28年の災害に町道に危険とあって割ってしまった。 ≫

≪その刀鍛冶に必要な良質な水は赤井の井戸で有名である。
宗近はその後、近江国長野へ流れたとも云われ、
またその後、彼は上野西清水 (現在、 上野市福居町。 鍵屋の辻の南東で伊賀上野農協の北のあたり) に小さな庵を建て
ここに 井戸を掘りその水を使って次々と名刀を造ったとも云われるが最後は奈良三笠へ流れたとも云う。≫
音羽にはこんなお話が残っているそうです…

因みに、Aさんがもうひとつ興味深いモノを見せてくださり、
  
伊賀上野城下町の老舗御菓子所「桔梗屋織居」さんの包装紙です。
伊賀國明細圖」の「音羽」に『小カヂ宅跡』と書かれていますよ…とのこと。

「上野の清水谷」の井戸水が弘法大師であれ宗近であれ、
清い水が湧き出ていたという事実に、間違いはないと確信した次第です。
「清水谷の伝説」は、ここで「完」といたします。

ではまた
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「清水谷」の伝説 その3 「三条小鍜治宗近」と「弘法の井(戸)」、そして島ケ原へ

2021-09-19 12:20:46 | 「清水谷小鍛冶伝説」を追う
能や歌舞伎の世界で「小鍛冶」といえば有名な演目ですが、
宗近は国宝の刀である「三日月宗近」を造り上げた人物として、
おおよそこんなかんじで表現されているかと…
『一条天皇の勅命を受けて刀を打つ際、
伏見稲荷大社の神様の狐に助けられて、
刀を造り上げることが出来た』

「当の刀【三日月宗近】」は国宝として現存しているのです。


さて、上野西部地区探訪シリーズでは、
≪菊岡如幻(じょげん)の「茅栗草子」(しばぐりぞうし) (1682 年刊) ・「伊水温故」(いすいうんご)(1687年刊)には、
「平安時代、京都の刀工三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)が伊賀の清水に渡り住み、
伊賀小鍛冶となり、井水を用いて刀剣造りを営んだ≫とあります。
≪この「宗近」とは日本古刀界の第一人者で、代表作 には
国宝「三日月宗近」※・「小狐丸」(こぎつねまる)・ 「祇園祭長刀鉾(なぎなたぼこ)の鉾先 (長刀)」 等があります。
(他に伝弁慶の長刀・義経の刀等) ≫
加えて、
≪「三国地志」 (1763年、 藤堂元甫・元福(もととみ)共著)には「三条宗近が島ヶ原で生まれ 音羽にも住す」とあり、
「本朝鍛冶考」 (1796 年、鎌田魚妙著)では
1300年代に宗近やその子が音羽に住した」ともあります。
果して、これらの叙述を繋ぎ合わせると、一体どのような史実が現れるのでしょうか。≫と。

あくまでも、そうかもしれない、そうであってほしい「伝説」がここ「清水谷」には残っている、
「三条小鍛冶宗近」と「伊賀小鍛冶」が同一人物なのかどうかは、
タイムスリップでもしない限り永遠の謎……

そして、上野城天守閣には、
「伊賀國宗近 (音羽住)」銘の脇差 (三重県指定文化財・1504 年作)が展示されている。≫とか、
これは「緊急事態宣言」が解除されたら、見に行こうと思っています。

「探訪シリーズ」のレポートを借りて文献などの紹介になりましたが、
ワタシはこの「三条小鍛冶宗近」が島ケ原に生まれ
音羽に住んでいたかもしれない、という伝説の残る場所へ行ってみたい!
という好奇心で猪突猛進です(笑)。(訪問日:2021/9/16)
 「上野西部地区・探訪レポートNo16」裏面
これらの写真を参考にしながら「伝説」を追いかけます。
いろんな人にお世話になり、そして教えられ、辿る楽しさもありました。
但し、この写真がなければワタシ一人ではどこへも行けなかった

では、生まれたかもしれない「島ケ原編」
出発は「清水谷」から、
旧街道長田地区を通りますが、国道への合流地点で『橋本地蔵』様にご面会。(これはまた後日)
島ケ原での目的地は、「正月堂の近く」らしい、ということなので、
正月堂の駐車場辺りで尋ねました、が
「地元の人間やのに、知らなくてごめんね」とのこと。
何となく正月堂近くを歩いて回りましたが、見つけたのは
 「島ケ原奥村の五輪塔石仏」
この五輪塔石仏のある所から「南山城・道の駅」へ道はつながっているし、
気になる場所もあったので、遠回りも覚悟しつつ、「島ケ原支所」を目指します。
寄り道先は「ココ」☟
『2021/8/13ブログより抜粋
   
島ケ原辺り、大和高原~室生火山帯、南山城村側の工事現場
全体が良く見えるので、通るたび現場の規模が大きくなっていくのがわかります、
一体何ができるのでしょうか?
(163号線ではダンプなどは通っていますが工事の様子は見えない現場です )』

まさにその工事現場が「ココ」☟
  納得の現場でした
この写真の右に見えるのが「三国越林道」が通る山並み。

国道163号線に出て、島ケ原の旧道(大和街道)沿いにある「島ケ原支所」。
ここで数人の職員さんに写真を見てもらいつつ、こんな「お堂」を探しています、と。
あそこかここかといろいろ話し合いながら、
熱心に「島ケ原の風景」を思い浮かべてくださり、
「この写真には獣害対策用の『柵』が写っているから、大道のココしかない!」と。
多分、きっと、ココだと思う!という場所をスマホの google map で教えていただき、
「赤い目印を目当てに経路探索して気を付けて行ってください」と…
本当に親切に探していただき、職員のみなさまに感謝感謝です。

google navi 通り進むと、確かに「正月堂」の手前の道を「山」に向かう、
道は細くなり、その先「林道」っぽいけど、まだ進むのか?
不安になりながらも走ること支所から10分ほど、(意外と近い?)
 感動

  島ケ原大道「南無地蔵尊
本当は、「お堂の前」まで行きたかったのですが、上に上ろうとすると
「獣害柵の警報機が鳴る」のです、ワタシは猪か鹿と間違われそうなので諦めました


ココに見える林道をそのまま進むと「三国越林道」に入ります…

ちょっとオーバーな表現ですが、いろんな方にお世話になりつつ辿り着いた「地蔵尊」、
「刀工三条宗近」さんがここで生まれた(かもしれない)伝説の場所、
伊賀上野城下町の西の端の「清水谷」を出発して、ココに来れたこと、素直に嬉しい。

その帰り道、可愛いお地蔵様に会いました、


  名前はない…
こうやって、見守ってくれるのが「お地蔵様」ですね。

今日(2021/9/19)は「お彼岸の入り」なので、こんな風景を~~
   木興の田園~~

では、次回は「音羽編」。
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清水谷(ショウズダニ) その2 「大師堂」と「地蔵堂」、そして「(伝説) 弘法の井」とは…

2021-09-18 11:28:43 | 「清水谷小鍛冶伝説」を追う
「清水谷」という場所がどんなところか、実際に行ってみてわかりました。
googleの地図を拡大して上から見てみると『清水谷弘法』と出てきます。

が、これだけでは何も詳しいことはわからないので、
福居町にお住いの方何人かに聞いてみました。

・毎月「大師堂」と「地蔵堂」の清掃作業とお参りをしていて、
・町外の方も含め信心深い女性たちが協力しているとのこと
・10日、20日、30日と当番を決めている
・しかし、高齢化してきて坂の上り下りが辛くなってきている等々、
お話を伺いました。
出来る限りのこと、自分にできる範囲のことを細々と続けていく姿勢を
若い世代にもみてもらいたい、けどみなさん忙しそうでねぇ…と、
寂しそうにお話をしてくれたのは、そんな世話人の方のお一人で知己の方でした。

「今年は、お地蔵さんの『赤い前垂れ』をぜ~んぶ作り直したとこで、
その新しい『前垂れ』を見てもらえるのは嬉しい」とお話しながら、
「お堂の扉」を開けてくれました。
 (再掲)

清水谷地藏】は完全開扉とはいきませんが、
扉の隙間からお地蔵さまたちにお目にかかりました…
  
お地蔵様は、造られた当時のプロ?の作品ではないかもしれませんが、
みんなやさしい顔をしていて、ここに「集って楽しく」って感じですね。
「地蔵見守り隊」が強力です。
お堂の外には、だれが置いたのかわからない「お地蔵様一体」が
門番をしておられます(笑)。

さて、もうひとつは、【清水谷弘法大師のお堂
  (再掲)
お堂の中の両側の壁には「絵画」がたくさん飾られています、
 

   
写真を撮らせていただきましたが、これでごく一部。
書かれてから数十年以上は経ちますが、色彩が綺麗に残り、
大切に保存されていた様子が伺えますし、
呉耕の作品全容を見る機会はなかなか少ないらしいので、
清水谷の宝物」を見せていただいた気分です。

因みに、この絵を描いた方は、
≪伊賀上野で活躍した日本画家、前田呉耕(ゴコウ)(1886~1951年)。
前田呉耕は鈴鹿郡坂下村(現・亀山市関町)出身。
京都で絵を学び、江戸時代の円山応挙らの系譜に連なる日本画家。
大正に入り伊賀市内に移り住み、亡くなるまでの約40年間、伊賀上野で絵筆をふるった。
江戸時代の「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)藤堂高虎像」(国の重要文化財)を
写したとみられる作品なども知られる。≫とのことです。
(参考:歴史街道HP・「生誕130年展」)


さて、上野西部地区住民自治協議会の中で
当地区の歴史的な場所などの『探訪シリーズ』なる印刷物(A4判で)が発行されています。

清水谷の「弘法の井」』と『小鍜治(刀工)伝説
文責者の方にもお話を伺い、その伝説のご紹介を~~

≪(前略)その昔、空海の導きによって湧き出したとされる井戸があります。
(略・昔の文献によると)
「平安時代、京都の刀工三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)が伊賀の清水に渡り住み
伊賀小鍛冶となり、井水を用いて刀剣造りを営んだ」とあります。≫
   「清水谷の弘法の井」

また別の文献『ええもん探し隊見聞録より』(2004年頃の読売新聞掲載版)では、
≪城下町・上野の本町筋や二之町筋は水脈があり
昔から酒や醤油の醸造業が盛んであった。
その先には古くから弘法大師を祀るお堂があり、
境内に霊験あらたかな湧き水の井戸がある。≫との記述もあり、
≪御詠歌の三番に、刀鍛冶「宗短」の名が出てくる。
「さえわたる剣はふしぎ 宗短の ここに名をえし しょうず寺かな」≫ と。

案内してくれた方の話では今でも、「湧き水は出ています」とのことで
 
この「弘法の井戸水」は今のところ枯れることはない、そうです。
ワタシもこの霊験あらたかな「井戸水」を使い、手を洗わせていただきました、
さすが「井戸水」、冷たくて気持ち良かったですよ。

では、もう少し「清水谷の伝説」はつづきます。
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そぼ降る雨の中、「清水谷(ショウズダニ)」(城下町西の端)へ その1

2021-09-17 10:20:25 | 「清水谷小鍛冶伝説」を追う
雨はしとしと静かに…長靴履いて 傘さして、2021/9/14のこと。
伊賀上野城下町二之町筋(ニノマチスジ)の西の端、「彼岸花」のご機嫌伺いに…
 彼岸花が「撮って」と待ってます。
道より一段高いところで咲いてくれるので、
丁度 目線なのが嬉しい
  萩と彼岸花

 よくよく見たら「萩」と「蟻さん」。
その彼岸花の咲く前には、上野変電所。

その横には、
  「大福地蔵」の祠。
ここは、福居町(フクイチョウ)のおば様方が管理されていて、
いつ通っても綺麗なお花が供えられ、お掃除も行き届いており、
お地蔵様も大喜び、町の人たちのやさしさがあふれるお地蔵様です。

この福居町と向島町(ムカイジマチョウ)の境は、「谷」になっています。
「名張街道(=国道422号線)」が通り、その道の下が小さなトンネルです。


その谷の底へ下りる小道は急坂ですが、名張街道バイパスを通る車の音を聞きつつ、
小さなトンネルをくぐるのは、🚥を通らずショートカットができる嬉しい道。
(個人的見解デス、急な道が年齢と共にしんどいよ!という方もおられるので(笑))
木興の田園風景を見るために通う道で「上野の台地」の西の崖!みたいなところです。

(ところで、このバイパスはいつ頃できたのでしょう?記憶が曖昧なのです。
名阪国道が出来た1965年頃に、あったのかなかったのか?
家人が高校生の頃(S25年生)、古花地区(古山・花垣)から自転車通学していた時は、
「中之立町通り」が通学路だったと聞き及んでいますが…)

今日はたまたま、(そのいつできたか謎の)トンネルを出てすぐに「右側を見た!」。
その先に石碑らしきものが見え、ここは行けるんだ!ということに気づき、
ひょっとしたらこの辺り、昔から『清水谷(ショウズダニ)』と呼ばれているところ?
ということは、、、もうワクワク してきます…
冒険してる子どもみたいなもんです(笑)。

   
清水谷地藏堂】、その奥に【清水谷 弘法大師】の石碑?
山神・九頭天王・蔵王権現】の石碑も?

その奥(向島の崖の下辺り)には、
   満開に近い「彼岸花」。

『地藏堂』や『大師堂』を外から眺めてはみるものの、何故か気になります…
そしてここには確か『井戸』もあるはず。
ワタシ一人ではここで写真を撮るのが精一杯、詳しいことはわからず、
何か物語(伝え話)がありそうな予感がするので、一旦帰宅して、
情報収集することにいたします。
 『大師堂』の中、
訪れる人など誰もいないような寂しいところなのに、
何故かとても綺麗に整っていることに驚きました…
ちょっと異次元の世界に迷い込んだ気になってきました。

では、つづきはまた
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