自慢の「伊賀上野城」、もっと好きになる…きっと。

2023-04-08 10:46:08 | 三重の城郭めぐり
城、その「美しさ」の背景』(香原斗志(カハラ トシ):歴史評論家)【美術展ナビ】の中の連載物。

第36回 伊賀上野城 ケタ外れの高石垣と「未完」が映す時代の移り変わり
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後編「亀山菖蒲園」から「伊勢亀山城跡」を行く、最後に石垣のお勉強。

2022-06-03 17:50:08 | 三重の城郭めぐり
旧亀山城多門櫓」のあらましは「過去ログ(2021/10/15)」をご覧いただくとして、
今回は「菖蒲園」から昔の「堀」であったであろう「公園池」を半周しました。
 (再掲)
池の上に上がる階段の上で、この景色に遭遇。
 
亀山西小学校の裏手になりますが、復元整備が行われたらしく、
なかなか見ごたえのある「帯曲輪(オビクルワ)」を下から見る感じ…

ここは駐車場にもなっていてじっくりと整備された「帯曲輪」を見られます。
本当は、上から見てみたいのですが…
説明版より
 ≪二之丸帯曲輪(オビクルワ)及び周辺整備事業
 二之丸帯曲輪は、城主居館のあった二之丸の北側を防備するために設けられた小規模な曲輪です。
 明治時代以降に亀山城の大部分が取り壊されたなかで、かつての二之丸北側にあたる一帯は、
 埋門(ウズミモン)とあわせて本来の城の姿を良好にとどめています。地域を代表する文化遺産である
 亀山城跡を永く後世に遺すとともに、多門櫓を中心とした城としての景観を現在に活かして、
 都市公園・学校との一体化を図り、個性ある景観を創り出すための整備を行いました。
 この整備事業では、城跡の一部を江戸時代末期の状態に復元しました。
 当時の人が見ていたであろう景観を現代に生きる私たちも共有することで、
 ここが「歴史を学ぶ場」であるとともに、城下町かめやまのシンボルとして
 「地域の個性を体感する場」となることを期待しています。   
   平成十八年三月 亀山市教育委員会 ≫

ここで「伊勢亀山城」パンフレットより
『復元図』と当日のおおよその徒歩ルート図、
このパンフレットに散歩モデルコースが載っているので、
いつかまた挑戦しましょう~
 
 ≪城と城下町
 伊勢亀山城は、地形条件を上手く利用して城作りが行われています。
 本丸・二之丸西出丸の城の中心部分は丘陵の最も高い位置に配置され、
 その周囲は急な崖で守られています。
 唯一丘陵がつながる東側には東三之丸が、比較的広い平地の南側には西之丸が設けられ、
 重臣の屋敷などが構えられていました。他の武家屋敷がこれらを取り囲むように配置されていました。
 東海道は、東の江戸口門で城下に入り、城を迂回するように何度か折れ曲がりながら、
 西の京口門で城下を抜けました。 東海道沿いの東町・西町が城下町で、亀山宿の一部でもありました。
 また、寺院・神社は、城がある丘陵の端に、崖を背にして配置されいます。
 1691年3月4日(元禄4年2月5日)、亀山の地を通った長崎オランダ商館のドイツ人医師エンゲルベルト・ケンペル
  (Engelbert Kaempfer 1651~1716) は、亀山の町を見て「町は平坦な丘陵の上にあり、
 私が見渡した限りでは、石垣と門と番所のある整然とした町である。
 その南側には荒く築き上げた城壁と櫓のある、かなり堅固な城がそびえ立っていた。
 狭い通りはこの土地の地形のために曲がりくねっているので、われわれが第二の番所を通って
 郭外のはずれに行き着くまでには、ほとんど1時間を費やしてしまった。」
  (『江戸参府紀行』 東洋文庫303 平凡社 1977 斎藤信訳) と記録に残しています。≫

さて、「帯曲輪」を出て、亀山の城下町の中でも風情ある道だと思いました。
木陰もあって静かに散策できるように整備され「姫垣外苑通り」と命名されています。
通りの写真は撮っていませんが、「太鼓櫓跡」があったとのこと。
 
亀山市役所と亀山西小学校に挟まれた通りでは
 西小の通用門?
歴史ある城下町に似合う門構えですねぇ。

ここを通り抜けると、お馴染み「亀山城址」石碑のある場所から
「多門櫓」のある石垣を下から見るべく下りていきます。
  

 
ちょっとボケましたが、「鉄砲狭間」のある白壁が見えました。
ここの石垣は「中学校の運動場」と隣り合わせ、
先般も「上野高校」の裏の校舎から「石垣が見えた」あの光景と重なり合いました、
石垣のある風景」、いつまでも大切にしたい思いはどこでもきっと同じだと…

 ≪亀山城多門櫓
 天正18年(1590)、岡本宗憲によって築かれた城。
 築城時には、本丸・二之丸、三之丸からなり天守もあげられていたとされます。
 この天守は、寛永9年(1632)、丹波亀山城(現在の京都府亀岡市)の修築を
 幕府より命じられた堀尾忠晴が間違えて解体してしまったという伝承があります。
 現存する「多門櫓」は、18世紀後半頃に武器庫として建てられ、
 明治期には士族授産の木綿段通 (モメンダンツウ)工場として使用されていたため破壊されずに
 現在まで残り、三重県で唯一現存する城郭建造物として
 県史跡及び県有形文化財(建造物)に指定
されています。
 かっては天守閣が建っていた場所に建てられた多聞櫓がこの城郭の遺構として残っています

「多門櫓」のあるお隣には「亀山神社」、
久しぶりにお参りさせていただき、ここの境内から「旧城内を歩く」感じかなぁ。
右手には市民の憩いの場でもある「亀山公園一帯」を眺めつつ進むと、
亀山城西出丸跡」碑に遭遇。
テニスコートと駐車場のあるこの辺り一帯が「西出丸」でしょうか。
  
亀山城西出丸跡」説明
 ≪寛永十四年(1637) (『九々五集』より)から城主本下総守俊次が三ヶ年かけて
 亀山城改修を行った際に整備した曲輪である。
 この曲輪は西北と南側に帯曲輪があり、西端に二重層である関見櫓があった。
 曲輪内には米蔵があり、近世前半には幕府の兵糧米(城米)が備蓄された。≫

 車の多い道を避けて細い道に入ると、「マンホール亀山版」撮った(笑)。


目の前にこんもりとした森っぽい丘がみえたら、そこは
古城」があったかもしれない、とのこと。


ぼちぼち最初の駐車場に戻りましたが、そこは
「亀山市歴史博物館」、企画展「亀山高校とその歴史:100周年記念」とか。
(私的に、今度ハハを連れてきてあげようかと、戦中に志摩方面に疎開していたハハが
 最後に高校生として卒業できたのは「亀高」だったと聞いているので…)


そこには「亀山城石坂門の石垣」の遺構です。
  
 ≪(前・中略:石垣部の説明に特化)
 普段、わたしたちが見ている石垣は、石垣全体の構造からすれば、表側の石だけです(立面図)。
 しかし、隠れた部分には、ご覧のように、裏込石(ウラゴメイシ)がぎっしり詰まっており、
 それが、表側の石を安定させるとともに、水はけをよくし、石垣の崩壊を防いでいます。
 また、土台と呼ばれる土の部分によって、表側の石と裏込石を支えているのが断面図から分かります。(断面模式図)
 つまり、石垣は、表側の石、裏込石、土台の組み合わせで出来ているのです。≫

 (石垣部分のみ平面・立面等)

再度、チャンスを作らねば…亀山の城下町も奥が深そうです。

長くなりました、ではまた
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日本100名城「伊賀上野城」、観光三重HPで紹介。

2022-02-19 17:06:21 | 三重の城郭めぐり
「観光三重取材レポート」に掲載されています。
「散歩コース」に組み込むことが出来る城下町人間としては嬉しい限り。
観光三重FB

 ≪築城の名手 藤堂高虎 が改修した歴史があり、
 城好きな方からも大人気の 伊賀上野城 。
 白亜三層の端麗な姿で白鳳城とも呼ばれており、
 そんな伊賀上野城の歴史や文化を、語り部さんに解説・案内していただきました。
 「語り部と行く伊賀上野城。
  日本100名城に選ばれた白亜の城の歴史」を詳しくご紹介≫とのことです。

じっくりお読みください。
☞ 「日本100名城に選ばれた白亜のお城 『伊賀上野城』」(掲載日:2019.06.28)続編あり

過去「三重の城郭めぐり」+αとして、
鳥羽・松阪・津・亀山・伊賀上野・玉城の各城郭へ行き、
それぞれ特徴があり、どのお城も「石垣」に違う歴史を感じました。
伊賀人として「おらがお城はいいなぁ」と自画自賛してしまいます
先人のおかげのお城とその城下町、大事に守っていきたいものです…

今日の梅、
 (月ケ瀬長引にて)

ではまた、
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「田丸城跡」(玉城町)、三重の城郭巡り番外編④「二の丸跡」~「搦手(カラメテ)」「外堀」へ

2022-02-08 12:41:52 | 三重の城郭めぐり
『田丸城跡パンフレット』から拝借した宝暦年間の「田丸城縄張図」、
多分、こんなところを歩いたかもという記憶之図、です。
 

「本丸跡」から「二の丸跡」へ。
二の丸跡」石垣の縁へ進むと、ちょっと先に「景色の説明板」が見えます、
どんな風景が見えるのかワクワクする一瞬。
  
東方面!ということは、もしかして、もしかする…
パンフレットを見ると「富士見台跡」。
「玉城中」の校舎やグラウンドの遥か向こうに
  
知多半島、渥美半島
空気が澄んでいると「富士山が見える!」…とのこと

さて、同じ「二の丸跡」でも、少し場所を変えると…
  「朝熊山」が見える!
ということは、「伊勢志摩スカイライン」。
盆地育ちの伊賀人としては、個人的に「海の風景」に憧れを抱いている

二の丸跡/富士見台跡」から「二の丸虎口跡」へ下りていきます。
   

修復後の石垣は、色が違うのでよくわかります
  
二の丸跡の石垣」に沿って歩ける細い道が続いているので、
しばらく石垣を真横に見ながら進みます、
   
突然視界が広がり、そこを下から撮ったのが3枚目、
そのまま道なりに下りていくと…
織田信雄時代の「搦手道(カラメテ)」に出ます。
 
搦手道」を行ったり来たりして撮ったのですが、
最後に見上げた景色がコレ!

信雄が城主であった当時から変わらず、この空を見ていたのかなぁ…と。
「搦め手(搦手)」とは、≪もともとは城の裏門、また、敵の背後のことで、
 そこを攻める軍勢のこともいった。裏門や敵の背後は守りが手薄になりがちで、
 攻めやすいことからたとえていうもの。
 ちなみに、「搦め手」の反対は「大手」という。≫

そういえば、ワタシは「大手門跡」はまだじっくりと見ていない気がします。
地図を見直すと「外堀沿い」に歩けば、元に戻りそう(=城跡正面=玉城中入口)なので、
今度は「城跡」を外から眺めるつもりで歩きます…
「田丸城跡」のすぐそばを「JR参宮線」が通っています。
  
ここで列車が来れば最高!なんですが、思うように列車は来ません(笑)。
ちょっと気になって、通ってみた「城山架道橋(シロヤマカドウキョウ)」。
なかなかこういうチャンスはないので、好奇心丸出しでした…

ではいよいよ「田丸城外堀」です。
  

  
「外堀」と「城跡」が借景になっている「玉城保育所」。
この日、子どもたちの姿は見えなかったけど、(昼食時間だったかな)
寒さに負けずきっと賑やかに遊んでるんだろうなぁ、と想像力をかき立てられます。
  
(左)保育所」と茶色い建物の「(右)玉城町役場」の間に見えるのは「桜橋」。
  
大手門橋」が見えてきました…
 大手門橋」と「白鷺」
   
「大手門」界隈と「水鳥」。
ここから登城すると「村山龍平記念館 玉城町教育委員会」へ。
ここで城跡回りを一周してきた感じですね。

最後に城内に合った「奥書院」が移築されているとのことで、
  裏へ回ると

  
なぜか「SL」、そして「北畠氏築城から685年」の幟。

楽しかったです、三重に残る「城郭・城跡」、制覇したぞ!
 ご城印!

見慣れた伊賀上野城周りの「算木積み高石垣」や「筒井城跡の野面積み石垣」、
それよりもっと古いであろう「田丸城跡の野面積み石垣」を見ることができ、
念願叶ったという満足感でいっぱいです。
詳しいことはわからないなりに、
時の流れと共に「石垣の造り」も進化しているのだなぁ、ということだけは確信。
まだまだ知らないことの多いことに気づきましたけど、いいお城探検ができました。
長々としかも中断しながら「田丸城跡」見聞のお付き合いありがとうございました。

ではまた、
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「田丸城跡」(玉城町)、三重の城郭巡り番外編③ いよいよ「本丸跡」へ

2022-02-06 17:13:57 | 三重の城郭めぐり
本丸虎口」から登城です。
 (再掲)
ライトアップ用(仮想)「天守閣」ですが、
何百年前もきっとこんな感じだったのかと、
想像力をフル回転させるのは楽しいことです。
いろんな方角から見てみました…
  
山茶花と天守、冬の青空に映える天守、いい感じです(笑)。
(ライトアップ期間が終わったので、ボチボチ解体準備に入っているかもしれませんが…)

ここで「田丸城史」をパンフレットから抜粋、


1336 延元 1 北畠親房顕信 玉丸山に南朝義軍たてこもる
(中略)
1616 元和 2 藤堂高虎代官支配 ( →伊賀とのご縁も感じます)
1619 元和 5 久野丹波守宗成 紀州藩領となり家老久野氏城主
1649 慶庵 2 久野氏二代宗晴 正月13日雨風で天守崩落
1833 天保 4 / 2月 城内鉄砲場始
1843 天保14 /9月 火薬製法始
1869 明治 2 / 6月 田丸城は紀州藩に返上
1953 昭和28 三重県史跡に指定
1336年・延元元年に北畠氏が築城して685年』(2021年時)という「幟」があちこちに立っており、
中世の古城」と言われる由縁かなと思います。

現場写真に戻りまして、
先客がおられたので、皆さんが下りられたあとゆっくりと
東西南北の景色を独り占め!
天守跡」はここから上ります。


この「田丸城跡」史跡の中では一番高いところ、見晴らしはこんなん
  
東方面玉城中学校の遥か彼方に伊勢湾

  
西方面の山並み(山の名前は後で…)、手前△に見えるのは石垣の隅石!
足元近くにあって、そこから撮ってます。
滅茶苦茶高いわけではないので比較的安心して見ることが出来ます(笑)、
やっぱり伊賀上野城の「高石垣」を見慣れているので、ここは大丈夫です…
 
ほぼ南方面二の丸跡」の「村山龍平歌碑
どこを見ても見晴らしは抜群!
やっぱりこういう高台にお城は造るもの、敵は丸見え状態ということでしょうか。
進入されても「桝形虎口」で上から攻撃!

さて、「天守跡」を下り「本丸跡」説明版
見晴らしポイント/北西方面
  

見晴らしポイント/南西方面
  

南側の「櫓跡」から、下の遊歩道は桜並木です、
春が楽しみなところですが…
遥か彼方の山並みは伊賀のそれより厳しいかもしれませんね。
 

「天守」は南向き、北側は「北の丸跡」の木々で覆われ遠くは見えませんが、
訪問した日(2022/1/31)の「本丸跡」の景色がコレ
   
桜が待ち遠しいけど、晩冬のハモクレン蕾と青空と天守、
ハクモクレンの花が咲くとまた雰囲気が変わって見えることでしょう

次回は「二の丸跡」の風景と「外堀」を歩きます、
ではまた

付録:
伊賀市某所から輝く夕日 を見ました(2/4のこと)。
これはきっと玉城町からも見えたのではないかと…??
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「田丸城跡」(玉城町)、三重の城郭巡り番外編②

2022-02-03 13:58:15 | 三重の城郭めぐり
「玉城中学校」校門前に切り株を生かした花の植栽があり、
その横に「田丸城天守閣跡」の案内、手作りっぽく親切だなぁと…
そのまま進むと、江戸時代中期の建造物富士見門(長屋門)」。
  
移築されていますが当時のままの形で唯一残っている「門」です。

「門」の右横の「遊歩道」を進みましたが、途中で「土塁の案内」を見て、
そちらへ吸い寄せられていきます、はっきりそれが見えたので(笑)。

土塁
   

土塁沿いに進めば、
 
立派な「北の丸跡北東角の石垣」は、まさに「野面積み」そのもの。
石積みの荒々しさがよく見え、いにしえの石垣で歴史を感じます。
この長い石垣の上が「北の丸跡」。
  
そして「桝形の石垣」は現代技術による「野面積み石垣」に修復されています。
「苔生した石」と「新しい石」の混在型でしょうか…

この石垣の上を見ると、赤い鳥居が連なってますが、

実は、石垣と石垣の間に登れそうな隙間を見つけそこを登って撮りました、
(山歩きの成果かな(笑))
城山稲荷神社】(北の丸跡
  

 「北の丸跡」西の端

北の丸跡」を下り、いよいよ「本丸跡」へ
 ENEOSのGSから見た「仮想天守」が見える
では【本丸虎口】から上ります
  
振り向けば「玉城中学校の校舎」が見えます、
みんな、石垣を見ながら勉強してるのかなぁ…

ワタシも一時期そんな時代があったなぁ、小・中・高時代お城の傍だったもんなぁ、
これって城下町に住んでると当たり前のように思ってましたけど、
結構貴重な経験させてもらってたわけです、
思い起こせば小学生時代、写生に行くぞ!って言われたら、
みんなお城のある公園へ行ってたし、裏手の石垣をよじ登るガキたちもいたよね(笑)。
その時は気が付かないけど、今にして思えば有難いなぁと懐かしく思い出しました。

話が逸れちゃいました…
 
他の石垣とは異なり、整った石垣に見えるのは、
遺構が発見され、それを元に修復されているようです。

では、いよいよ「天守跡」目指しますが、
ここで一旦休憩いたします。
気になる「だいにっつぁん展望台記事」を読んだので次回はその訪問記です。
ではまた、
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「田丸城跡」(玉城町)、三重の城郭巡り番外編①

2022-02-02 15:24:16 | 三重の城郭めぐり
2022/1/31訪問、伊賀からは若干遠い、
ちょっと寄り道もあったけど(vison下見)往復約190㎞。

流石に、地道で行く自信はなく、往復伊勢自動車道利用で…
松阪までは、「松阪城跡」訪問時に行っているのでルンルンと行きましたが、
そこからがもうひと息遠い、準備怠り、玉城IC下車後ガソリンスタンドへ。
IC下りて、そのまま真っ直ぐ進めばそこにGS(ENEOS勝田SSだったかな)。
そのGSから

バッチリ城跡の杜が見えます、しかも「天守閣」付き。
店員さんにお聞きすると「冬の時期だけ天守のライトアップのために造ってます」とのこと。
また「ライトアップが終われば解体して、桜の季節を待ちます」って
何もない冬の時期のライトアップ作戦ですね、
「今からあそこへ行って『仮想天守閣』見てきます」とお別れ。

調べて見ると、玉城町観光協会FBに載ってました、
夜まで田丸城跡にはいられないので…
しかも、1/31まで って、見られないのが残念
どんな風景かと言うと、FBの画像を拝借しました、
  
左から「本丸跡」「富士見門から」「駐車場側から」。
≪田丸城跡ライトアップ🏯✨
 現在も毎日点灯中です✨!
 この時期だけ現れる天守や
 幻想的に照らされる石垣など
 見どころいっぱい。≫(観光協会FBより)

帰宅してから調べたので、これはどこ、それはあそこね…とわかります(笑)。

もう見られないライトアップですが、この城跡では「桜」「大賀ハス」など
楽しみはいろいろ、そしてなんたって「野面積み石垣」が素晴らしい

先ず、🚗は「玉城町教育委員会/村山龍平記念館」へ。
ここで、パンフレットをもらい、登城スタンプを押せるので。
 

  
幾重の石垣が見えるココ、お城への入り口でもあり、
「玉城中学校」入口でもあるのです。
中学生が石垣を見ながら登下校する姿、想像するだけで微笑ましい
歴史を感じられるいい環境だと思いました、
内堀には「大賀ハス」、初夏を待ちましょう。
そして、石垣の前には「玉城町役場」もあります!(イガシト チガウ)
 
二の門跡」、石垣の向こうに「玉城町役場」、左側は「村山龍平記念館」。

さぁ中学生になった気分で上りましょう~
  
石垣の上には「玉城中」のフェンス、
蝋梅香る坂道を登ると、正門でしょうか、
いつでも登城気分を味わえる中学生、いいなぁ

石垣や土塁を見ながらどんどん歩きます。
ではまた
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三重の城郭めぐり №5-⑥「松坂城跡」二ノ丸、遠見櫓跡、そして観光トイレは最重要。

2022-01-18 20:52:05 | 三重の城郭めぐり
「本丸上段」から「中御門跡」を何度も曲がるその途中、
上を見上げれば「太鼓櫓跡」。
登ってどんな風景になるのか?上から見てみたいと思いました…
  
これは、攻め入ったところで「矢」なり「鉄砲」で攻撃される!
「本丸」には簡単には入らせないぞ!と。

途中にある「史跡本居宣長旧邸」(有料施設)の門を見て、(後世に移築されたものらしい)
 
裏門跡」(【№5-①】のココ)に出ます。

前を見れば「御城番屋敷」入口「松阪まちあるきマップ」
 
ここは、宿題として残しておきます(笑)。

「裏門跡」を出て左側にこの「観光トイレ
これは  「二ノ丸」の下です、是非忘れずに行ってください。

行きたくなるトイレ」は重要選択肢の一つですので(笑)。

さぁ、滞在時間が長いということは書くことも多くなっちゃって、
端的にまとめられない自分が情けないですが、
備忘録ということでもう少しだけお付き合いくださいませ

昼食は、「本居宣長ノ宮」横の「本居庵」で…
 
鳥居の下では山茶花満開、自然薯は体にやさし

さて、「隠居丸」という場所に行きたくて入ったところは、
  
埋門(ウズミモン)」から「本居宣長旧宅・鈴屋」・「米蔵跡」など。

その先を進むと「二ノ丸」へ出ます。
ここは松阪市内南から東方面を見渡せる場所になります。
ここには「藤棚」があり、冬の選定作業真っ最中!
 
※明治23年(1890年)愛知県海部郡鍋田村(現・弥富市)から樹齢200年の老藤が移植された、とのこと。
二ノ丸」から東南方面の風景です、
   
見下ろせば、この「石垣」&真下に「トイレ」です。
 

時間も迫り、ぼちぼち帰ろうと「表門跡」「助左衛門御門」の石垣を眺めていたら…
まだ見落としていた「櫓跡」が見えます(不覚であった!)。
  
遠見櫓跡
  

  
無垢な「白い山茶花」に送られて松阪城跡を出ました…

松坂市役所に戻り

何度も曲がるややこしい出入口は「食い違い虎口」というんだって…
↓「最新松坂城平面図」です

より詳しいことは、松阪市HPより「松坂城概要」をどうぞ

平日はここへ止めるのがいいかもです🚙
 「松坂市営駐車場」

「完」
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三重の城郭めぐり №5-⑤「松坂城跡」いよいよ天守閣跡、そして

2022-01-17 14:54:36 | 三重の城郭めぐり
  
本丸下段」から「多聞跡」を見ながら、早く春になればいいなぁ、
梅や桜、ドウダンツツジ等など、折々の季節の風景が楽しみなところです。
天守台の石垣」をグルっと廻るように進みます。
 
「松坂城跡」やっとの「本丸上段」の広場着。
メインステージのような雰囲気であり、まさに市民の憩いの場!
「石垣」見物の方も多いし、ベンチで寛ぐ方も…
陽射しが暖かかったこともあるのでしょう、ほんと絶好の散策日和。

天守台(天守閣跡)」着きました!
  西方の山を望む

  
「天守閣跡」から前の「多聞跡」を眺め、
その横には「敵見櫓跡」です。
お城の真ん中からグルっと敵が来ないか見ていたのでしょうか。
※「松坂城跡天守跡」は、三層の望楼型天守であったが、
 正保元年(1644年)7月29日の大風で倒壊。
 天守台の石垣には、古墳時代の石棺材も積み込んであるそうです。

そうか、ここも風雨にやられましたか、残念、、、

 
「本丸上段の敵見櫓跡」から「本丸下段多聞跡」、その下方にグラウンド

さて、ここから「本丸上段」の「多聞跡」を進むと、「金ノ間櫓跡です。
  
「金ノ間櫓跡」から東方面遠くに海(伊勢湾)…
※「金ノ間櫓跡」は、「本丸上段」東角にあった二層の櫓。
 台所棟と付属舎が付いていたが、17世紀中葉に破損。
下から見るとこんな感じ、横には「鈴」型の石碑?(見間違イダッタラ ゴメンナサイ)
 

 

 (名称入り)
「金ノ間跡」から本丸上段に降り、その広場から写真を撮ったら、
例のごとくgoogleさんが「パノラマ」にしてくれました(笑)。

いよいよ残るは南側「二ノ丸」辺り、あと1回お付き合いください。
ではまだ続いちゃいます…


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三重の城郭めぐり №5-④「松坂城跡」多聞跡、櫓跡を歩く②

2022-01-16 11:50:08 | 三重の城郭めぐり
「松坂城跡」巡りに行って、もう一週間経ってしまいました。
だんだん記憶が薄れていきそうですが、毎日写真を振り返っては、
これは何処の「多聞跡」だっけ、この「櫓跡」はどの方角だったかな?と、
案内図とにらめっこ
見どころが多い上、四方違う景色も楽しめる、
おまけに曲がりくねった出入口を見ていると、
「ここを敵が通ると、U字型やクランク型の上の櫓から攻撃される、
これって一網打尽やな…」というほどの複雑な造りになっています。
そんなんを見てたら登ってみたくなるし…

今回は、できるだけ淡々と進めたいなぁと(笑)。
前回、遠くの「鈴鹿山脈」が見えたところで終わりましたが、
まだその続きの北側の「多聞跡」を歩いています。
外側の真下を覗くと、高くて怖い石垣…
内側は「本丸」「きたい丸」「二ノ丸」など広場になっています。

北東の多聞跡、グラウンドの少年野球の試合を見つつ進みます…
  
野面積みの石垣」を上から見ていますが、迫力満点です。
内側の石垣はこの高さで☟
  
右奥に見えるのは「天守跡」の石垣です。
そのまま多聞跡を歩くと
北東角の「藤見櫓跡」、「民俗資料館」も見えます。
 
ということは…ここで一回りかと思いきやまだまだ…
 ここで「散策マップ

一旦、かなり急な石垣の段を降りて、赤い芽は何かとgoogle lensに尋ねると
   
ドウダンツツジの冬芽」と教えられました(笑)。
「上」へ「下」へと大忙しですが、
次は、「本丸下段鐘ノ櫓跡
 
真下は「助左衛門御門となります。

いよいよ「本丸上段」へ向かいます、やっとです(笑)。
「松坂城」は御城番屋敷のある三ノ丸から、
二ノ丸・本丸下段・本丸上段・天守台と順に登るので、「天守までは遠い」ということです。
ここに来るまでの幾つかの門も複雑な造りなので、なかなか攻め難い城だった…と思われます。

では、やっとこさの天守跡」(天守台)

まだつづきます…
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