清水谷(ショウズダニ) その2 「大師堂」と「地蔵堂」、そして「(伝説) 弘法の井」とは…

2021-09-18 11:28:43 | 「清水谷小鍛冶伝説」を追う
「清水谷」という場所がどんなところか、実際に行ってみてわかりました。
googleの地図を拡大して上から見てみると『清水谷弘法』と出てきます。

が、これだけでは何も詳しいことはわからないので、
福居町にお住いの方何人かに聞いてみました。

・毎月「大師堂」と「地蔵堂」の清掃作業とお参りをしていて、
・町外の方も含め信心深い女性たちが協力しているとのこと
・10日、20日、30日と当番を決めている
・しかし、高齢化してきて坂の上り下りが辛くなってきている等々、
お話を伺いました。
出来る限りのこと、自分にできる範囲のことを細々と続けていく姿勢を
若い世代にもみてもらいたい、けどみなさん忙しそうでねぇ…と、
寂しそうにお話をしてくれたのは、そんな世話人の方のお一人で知己の方でした。

「今年は、お地蔵さんの『赤い前垂れ』をぜ~んぶ作り直したとこで、
その新しい『前垂れ』を見てもらえるのは嬉しい」とお話しながら、
「お堂の扉」を開けてくれました。
 (再掲)

清水谷地藏】は完全開扉とはいきませんが、
扉の隙間からお地蔵さまたちにお目にかかりました…
  
お地蔵様は、造られた当時のプロ?の作品ではないかもしれませんが、
みんなやさしい顔をしていて、ここに「集って楽しく」って感じですね。
「地蔵見守り隊」が強力です。
お堂の外には、だれが置いたのかわからない「お地蔵様一体」が
門番をしておられます(笑)。

さて、もうひとつは、【清水谷弘法大師のお堂
  (再掲)
お堂の中の両側の壁には「絵画」がたくさん飾られています、
 

   
写真を撮らせていただきましたが、これでごく一部。
書かれてから数十年以上は経ちますが、色彩が綺麗に残り、
大切に保存されていた様子が伺えますし、
呉耕の作品全容を見る機会はなかなか少ないらしいので、
清水谷の宝物」を見せていただいた気分です。

因みに、この絵を描いた方は、
≪伊賀上野で活躍した日本画家、前田呉耕(ゴコウ)(1886~1951年)。
前田呉耕は鈴鹿郡坂下村(現・亀山市関町)出身。
京都で絵を学び、江戸時代の円山応挙らの系譜に連なる日本画家。
大正に入り伊賀市内に移り住み、亡くなるまでの約40年間、伊賀上野で絵筆をふるった。
江戸時代の「絹本著色(けんぽんちゃくしょく)藤堂高虎像」(国の重要文化財)を
写したとみられる作品なども知られる。≫とのことです。
(参考:歴史街道HP・「生誕130年展」)


さて、上野西部地区住民自治協議会の中で
当地区の歴史的な場所などの『探訪シリーズ』なる印刷物(A4判で)が発行されています。

清水谷の「弘法の井」』と『小鍜治(刀工)伝説
文責者の方にもお話を伺い、その伝説のご紹介を~~

≪(前略)その昔、空海の導きによって湧き出したとされる井戸があります。
(略・昔の文献によると)
「平安時代、京都の刀工三条小鍛冶宗近(さんじょうこかじむねちか)が伊賀の清水に渡り住み
伊賀小鍛冶となり、井水を用いて刀剣造りを営んだ」とあります。≫
   「清水谷の弘法の井」

また別の文献『ええもん探し隊見聞録より』(2004年頃の読売新聞掲載版)では、
≪城下町・上野の本町筋や二之町筋は水脈があり
昔から酒や醤油の醸造業が盛んであった。
その先には古くから弘法大師を祀るお堂があり、
境内に霊験あらたかな湧き水の井戸がある。≫との記述もあり、
≪御詠歌の三番に、刀鍛冶「宗短」の名が出てくる。
「さえわたる剣はふしぎ 宗短の ここに名をえし しょうず寺かな」≫ と。

案内してくれた方の話では今でも、「湧き水は出ています」とのことで
 
この「弘法の井戸水」は今のところ枯れることはない、そうです。
ワタシもこの霊験あらたかな「井戸水」を使い、手を洗わせていただきました、
さすが「井戸水」、冷たくて気持ち良かったですよ。

では、もう少し「清水谷の伝説」はつづきます。

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