大谷選手が43-43 一体どこまで打つのか? 走るのか?
50-50も夢ではなくなってきた
当番なので4時過ぎに出かけた
日はカンカン照りで暑い 先月に1人亡くなりメンバーは17名、出席16名 欠席1名ずいぶん減ったものだ
現在最高齢は94歳、90歳が各1名、80歳代12名 70歳代3名
料理は従来通りのお弁当で、お酒は焼酎が無くなりビールと日本酒(冷や) 酒量もずいぶんと減った
話しも以前は席を立っていくつかのグループになって話していたが、今は椅子に座ったまま隣の人と話すだけ
私を含めて補聴器をつけている人も何人かいるはず 終わり近くになって席をもっと詰めようとなった
顔が近くなり話が弾みだした
そこで出てきたのが終戦当時(昭和20年頃)の話
私と同学年(終戦時小学校2年生)の人 との会話が弾みだし
夜、紀伊水道から侵入してくるB29の話から、上空で投下された焼夷弾が花火のようにきれいで
それが上空の風に流されて大阪湾に流れ落ちる
昼間は家の屋根スレスレに飛んでくる艦載機からの人を狙った無差別射撃・・・
防空頭巾を被って隊を組んでの登校、防空頭巾には名前と血液型が書いてあった
今思い出すと懐かしい話だがその当時は必死であった
戦争に負けてからは小学校ではクラス替え、小学校では男子組2クラス、女子組2クラスであったが2年生の途中で組み換えられ
男女混合の4クラスになった ここで初めて本当の男女共学となった
当時の中学生は男子、女子がゴチャ混ぜにされ、成績のいい女学生は中学校に、成績の良くない中学生は女学校に割り振られた
私の記憶では比較的かわいい女学生は女学校に残り、勉強が出来た女学生が中学校に割り振られたように記憶している
また、当時ノミ、シラミが多かったため進駐軍が各家を周り、土足で畳の部屋に上がり込み頭の上からDDTを振り掛けられた
同年代の人が5~6人いると思うが2人だけの話で他の人の話は聴けなかった
次回確認してみよう