緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

消えゆく公団住宅

2019-09-24 20:44:42 | その他
この連休は父の法事のために帰省した。
父はこの世にいなくなったが、残された家族が集まってささやかであるが一緒に時を過ごせるということは滅多に無いだけあって、何か一種のくつろぎのようなものを与えてくれた。
母は体が不自由で病気も持っているし、姉や兄は忙しい身であるが、精一杯生きているという実感が伝わってくる。
とくに姉の精神的ヴァイタリティにはいつも感心させられる。
昔よく母が「お姉ちゃんは本当に男に生まれた方がどんだけ良かったか」と言っていたのを思い出す。
そしてその時暗に、「兄と私は女に生まれた方が良かったのに」と言われているような思いがしたものだった。

21日に実家のテレビでNコン北海道地区ブロックコンクール高等学校の部と中学校の部のハイライトを見た。
何と全国大会に出場が決まったのが、札幌第一高等学校。
初出場だそうだ。
札幌第一高等学校と言えば、今から40年前、高校受験ですべり止めで受けた学校だ。
この時私はIランク(Gランクがオール3のレベル)の公立高校を受けたのであるが、滑り止めとして札幌第一高等学校を受験したのである。
この時の札幌第一高等学校といえば、一応共学なのであるが、殆どが男ばかりで、ガラの悪い、成績の悪い連中が行く高校だった。
成績が中の上以上が札幌光星高等学校、中の下以下が札幌第一高等学校という位置付けだった。
そしてもっと成績の悪いヤツは札幌商業高等学校(高校野球で有名だった)に行くのである。
私の中学時代の親しい友だち2名がそこに行った。
授業中におにぎりが飛んできたり、他校と暴力事件を起こすことで有名な学校だった。
そういえば私の母校がこの札幌商業高等学校と乱闘事件を起こし、かなりの生徒が停学を食らったことがあった。
そして中学時代最も仲の良かった友達で、共に新聞配達をやったヤツが私の入った高校に落ちて札幌第一高等学校へ行った。
これは正解だったと思う。
私は高校時代、入った高校が物凄く嫌だったので、何度も札幌第一高等学校へ行った方がましだったのではないかと思ったものだった。
当時の札幌第一高等学校は特待生制度があり、成績優秀であれば授業料免除だった。

今から15年くらい前だったと思うが、青春18きっぷを使って実家に帰省したことがあったが、その時は上越線から只見線に入り東北方面に向かった。
どこか途中で長い乗り換えのための待ち時間があったので、駅周辺を散策した後で駅前のそば屋に入ってそばを食べた。
そのそば屋で何気なく置いてあった週刊誌めくっていたら、東大合格者数高校別ランキングみたいな記事があったので、ほう、どんな高校が東大なんて入るのか、などと興味本位で見ていったら、何と、信じられないことに札幌第一高等学校の名前があったのである。
これは全くありえないものを見たようなものだった。
あの札幌第一高等学校から東大合格者が出るなんて、全く予想だにしていなかった。
もしかすると高校時代の私のように、全ての時間を勉強に捧げたがり勉がいたのかもしれない。
そいつも私と同じように、行きたい高校に行けずに、そのくやしさから国立大学を目指したのかもしれないと思った。
それにしても東大とは。

北海道地区ブロックコンクールでの札幌第一高等学校の演奏は確かに他の高校と比べて数段上のレベルに居るように感じた。
それにしても女生徒が多いこと。
昔は男子校のようなものだったのに。
何がこの高校を変えさせたのか。経営者が変わったからなのか。

21日は関東甲信越地区のブロックコンクールの録画も放映されたが、この日は関東に居なかったので録画しておいた。
今日その模様を見ようと思ったが今度の休日にゆっくりと鑑賞させてもらうことにした。

さて本題であるが、今日の夕刊に東京都中野区にある「中野住宅」と呼ばれる古い公社住宅が取り壊されるという記事が載っていた。



戦後の1950年代前半に建設された4階建ての2kの間取り。
戦後の復興や高度経済成長の庶民の暮らしを支えたのがこのような公営の集合住宅だった。
私もこのようなタイプの集合住宅で生まれ育ち、中学1年生で親が家を新築するまで過ごした。
そして1990年代半ばから、今から3年ほど前まで、このような構造の集合住宅で昭和40年代に陸の孤島のような場所に多数建設された5階建ての団地に23年間住んでいた。
単身者でも入居でき、家賃は入居当初は1か月2万7千円。
その後いくらか値上がりしたが退去したときは3万4千円くらいだったと思う。
つくりはさすがにマンションとは違い、上下が殆ど筒抜けに近く、物音のみまらず話声も結構聴こえた。
私はそこに住んでいた時、ギターを休日だけ弾いた。
もちろんギターの音はあっちこっち(といっても周囲6世帯くらいかな)に聴こえていたようだ。
下の階に住んでいた方はいい人だった。
とても貧乏そうな家庭(こんなこと言ってすみません)だったが、いい家族だった。
娘がピアノをやっていて、その子がギターをよく聴いているようだった。
こういう音が筒抜けの住宅って、なんか気配が分かってしまうものなのだ。
下の住人のお父さんのお気に入りの曲はドメニコーニの「砂山変化」。
奥さんが気に入ってくれた曲はポンセの「ソナタ・ロマンティカ」の第2楽章。
娘が気に入ってくれたのは、ブローウェルの「キューバの子守唄」とプジョールの「熊蜂」。

下の住人は入れ替わりが無かったが、上の階の住人はかなり入れ替わりがあった。しかし、あまりいい人に当たらなかった。
ある時、原嘉寿子の「ギターのためのプレリュード、アリアとトッカータ」のアリアを弾いていた時だった。
この曲は物凄く暗く不気味な現代音楽なのであるが、上の住人の小学生の子供が、この曲に聴き耳を立てていたようで、このアリアの最もインパクトのある下の写真の箇所を弾いたとたんに、何かお化け屋敷でお化けに出会ったときに上げるような「うわー!」という声を発したのである。



ある時は、野呂武男作曲の「コンポジションⅠ 永遠回帰」の第3楽章の次の部分を弾いた直後だった。
隣の住人から何か紙をクシャクシャに丸めるような音がするのであった。
この部分を弾くと必ず音を立てるので、この部分がよほど不気味に感じていたのであろう。





こういうことがあったが、それはそれなりにいい暮らしでもあった。
この団地も、27年間通い続けている団地内の床屋のおかみさんから聞いたのであるが、3分の1を取り壊すそうである。
私が入居したときは何回か抽選を受けないと入れないほどの人気だったが、次第に入居者が減少、今では4階、5階を中心に空き家が目立っているとのこと。

こういう昔ながらの団地が姿を消していき、味気ない高層マンションに取って代わっていくのであろう。
私は今まで低家賃の住宅に住み続けてきたせいか(現在でもそうであるが)、こういう古くて粗末であるが味のある集合家屋が好きだ。
今まで住んだ集合住宅で最も印象深く思い出に残っているのは、大学時代に住んだお化け屋敷のような超おんぼろアパートだ。
築50年以上は経過していると思われるような建物で、観音開きの鉄製の扉のある蔵を増築したアパート、というか古い旅館といった風情の建物で、1階は小さなオレンジ色の裸電球が切れたら、真っ暗闇となり、壁を手探りで行かないと歩けなかった。
床が真っ黒に染まった古い板で、部屋の造りは粗末、共同の汲み取り便所、共同の炊事場、風呂はもちろん無い。
昔は遊郭だったとか、首つり自殺した人がいたとか、こうもりが出たとか、色々伝説のあるアパートだった。
貧乏な留年した学生と年金で一人暮らししている老人が住人の殆どだった。

こういう古くて安い住宅は何故か安心する。
長い人生での生活の過程で、常に共にしたせいであろうか。
そのせいか、旅行に行くときは古くて安くてこじんまりした和室のビジネス旅館または簡易宿泊所を探す。
こういう建物は今後急速に減っていくだろうが、その前に写真を撮ったり、実際に泊るなどしていきたい。
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