長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

ついにゲット! My Favorite 八つ墓村  ~1991年版『八つ墓村』~ やっときたきた感想編

2016年02月18日 22時16分15秒 | ミステリーまわり
≪前回の資料編は、こちら!

 そんでまぁ、『八つ墓村』1991年版のお話なんですけどね。

 2016年現在の時点で、映像作品化された『八つ墓村』は全部で9バージョンありまして(その他に舞台版やラジオドラマ版もあり)、今のところ、うろ覚えであっても私が視聴した経験のあるバージョンは、1977年渥美清金田一版、78年古谷一行金田一版1、95年片岡鶴太郎金田一版、96年豊川悦司金田一版、2004年稲垣吾郎金田一版、そして今回とり上げる91年古谷一行金田一版2の6つとなります。1951年片岡千恵蔵版や69年テレビ朝日版、71年NHK 版もいつかこの目で観てみたいのですが、叶いますかね……

 そんで、このようにかなり豊富な『八つ墓村』の映像化作品の中でも、私そうだいが一番大好きなのが、他でもなく91年版なわけなのです。しかしこれは、なにぶん TVドラマの2時間サスペンス枠で放送されたものなので、今なお絶大な知名度と人気を誇る77年版や、あの巨匠・市川崑がついに手がけたということで当時大いに話題となった96年版といった映画作品に比べると、視聴する機会が少ないということで分が悪い部分もあったのですが、ななんとなんと先日、古谷一行金田一シリーズの全作品 DVD化という偉業に挑んでいる『横溝正史&金田一耕助シリーズ DVDコレクション』さまから、ついにこの91年版がリリースされましたので、これ幸いにとさっそく購入してみたわけだったのです。長い! 一つの文章がムダに長いよ!! でも、これも愛あればこその長さ。

 ということですので、どうせならば今回 DVDをじっくり観て、どうして私がこのバージョンを好きなのかを考察してみようと流れになったのでございました。そこで、我が『長岡京エイリアン』で過去にやった「1977年版『八つ墓村』をちゃんと観てみよう」企画の手法を踏襲して、前回に91年版の簡単な概要と、ざっくりした本編内容のタイムスケジュールをあげた訳です。いつか、78年版とか2004年版のタイムスケジュールもやってみたいですねぇ。96年版だけは絶対にやらないと思います。横溝正史ファンを自称する私としましては、原作小説に1ミクロンも出てこないアイテムを勝手に持ち込んで、作品の推理要素を金田一さんとこのお孫さんやコナンくんレベル以下に幼稚にしてしまった96年版だけは、許すわけにはいかないのです……あんなの、ちゃんとした警察が捜査したら辰弥くんが脅迫状を提出した時点で犯人逮捕ですよ!

 ただ、本編の内容に入るまでにこれは言っておきたいのですが、私がこの91年版を偏愛する理由については、多分に「思い入れ補正」が含まれていることも白状しなければなりません。

 1980年代に生まれた私にとっての生涯初の「金田一体験」は、いうまでもなく当時全盛期を迎えていた TBSの古谷一行金田一スペシャルドラマシリーズとフジテレビの片岡鶴太郎金田一シリーズでして、具体的には、初めて断片的にテレビで見て恐れおののいたのが古谷金田一の『薔薇王』(1989年10月放送)で、テレビ放送でちゃんと最初から最後まで観たのが鶴太郎(千恵蔵さんがいるので「片岡」とは表記しません)金田一の『獄門島』(1990年9月放送)ということになります。人を殺す機能のついたからくり人形、こえぇ!! 鶴太郎さんとフランキー堺さんのペアは、私の生涯で最初にハマった NHK大河ドラマが『太平記』(1991年放送)だったこともありまして、このバージョンの『獄門島』も大好きですね。ちなみに、私が映像化金田一作品の決定版とも称される石坂浩二の金田一シリーズを観るのは、96年前後の映画『八つ墓村』の公開に伴うブーム再燃の中でテレビ放送された『悪魔の手毬唄』だったので、石坂金田一よりもだいぶ早く古谷金田一の洗礼をじゃぶじゃぶ浴びていたということになります。テレビの力は強かった……

 そして今回の91年版『八つ墓村』はと言いますと、私が生涯で初めて「ビデオで録画した金田一作品」ということになるのです。これは大きいですよ……小学校とか中学から帰ってきたら、なんべんも繰り返し観て脳裏に焼き付けることができるんですからね! たぶんベータビデオ。
 いや~、21世紀現在に比べて映像化基準のハードルがだいぶゆるい平成初期の2時間サスペンスドラマですからね……大金持ちのき〇がい息子が村のかわいい娘さんを拉致監禁するんですからね……アラフォーの夏木マリさんなんですからね!! わたくしめのその後の性格形成に、この91年版が与えた影響は甚大なものがあったかと思われます。完全に、親に見られてはいけない部類のアイテムですよ。わざとラベル貼らないで、『ウッチャンナンチャンの誰かがやらねば!』とかの録画ビデオの中にまぎれ込ませてたもんね。バレてたろうけど。

 ただ、今回そういった補正抜きでちゃんと映像本編だけを観てみますと、実はこの91年版って、殺人などのグロテスクきわまりない犯罪行為も、男と女のどろどろした愛情関係も、一部以外はどちらもかなり淡白な描写にとどまっているんですよね。ただ前回の資料編でも言及しましたが、その反動であるかのように、回想シーンにおける多治見(本バージョンでは田治見じゃない)要蔵の井川鶴子に対する蛮行の数々だけがかなりねちっこく描かれているのが非常に印象的です。小中学生が観るべき作品じゃあ、ないよね……

 そういった部分も含めて、この91年版は、あの伝説の77年版をかなり意識して制作された、「77年版の完全反転ネガバージョン」とみることができるのではないでしょうか。であると同時に、おなじく強大な77年版に果敢に挑戦した古谷一行金田一シリーズにおける78年版『八つ墓村』の、「原作小説に忠実であること」を目指したリメイク作品であるとも言えると思います。

 78年版に限った話ではないのですが、特に昭和における推理小説を原作とした映像化作品は、その原作が有名であればあるほど「小説をまんま映像化しても、ねぇ。」という制作側の意図が働き、「犯人が原作小説と全く違う」といったサプライズ展開が用意されるのが日常茶飯事となっていたようです。まぁそれ自体は、お客様に新鮮に作品を楽しんでもらいたいという映像集団のプロ意識の表れとも言えると思うのですが、それはとりもなおさず「推理トリックのプロ」たる原作者と真っ向から対決することを意味しているので、大体の場合は「原作通りに映像化してればよかったのに……」という残念な結果をもたらしてしまうような気がします。

 そういった意味で、まず77年版は犯人こそ原作と変わっていないものの、作品全体の雰囲気は推理小説というジャンルからかなり乖離したホラー映画となっていますし、犯人の犯行動機もだいぶ違った単純明快なものになっていました。そして、77年版の大ヒットを意識していることは間違いない78年の古谷金田一版1も、それこそテレビを見る日本人の多くが77年版を観たばっかなのですから、新規に何らかのサプライズ要素を加えんとしたがために、結果ああいった驚天動地のオリジナル展開を加えることになったのだと思うのです。いや~まさか、あの人があんな役割を担うことになるとは……それはそれで視聴者を十二分に驚かせる効果はあったでしょうが、その犯行動機があまりにもストレートというか、お涙頂戴でわかりやすいものなので、ある意味で原作小説以上に古臭い印象を残すものになっていたかと思います。ま、この因果応報的な多治見家崩壊のプロセスは、91年版でもしっかり継承されているんですけどね……

 ともあれ、77年版、78年版ともに、およそ原作小説に忠実とは言い難い映像化作品になっていたわけだったのですが、そこで満を持して世に出たのが、われらが91年版だったというわけなのでした。きたきた~!

 ここで91年版に課された使命は、「77年版に無い推理小説的要素」と、「78年版に無い犯人の孤高の魅力」の復権! これに尽きていたかと思います。すなはち、原作小説『八つ墓村』の忠実な映像化ですよね。そして、ベテラン関本郁夫監督の手によって完成された91年版は、その任を十二分に果たした出色の仕上がりとなっていたと思います。

 まずは何と言いましても、本作最大のトリックスターこと久野恒実によるはた迷惑きわまりない「殺人メモ」がフル活躍していることと、視聴者の疑惑の目を集めるサスペンスドラマ恒例の「怪しい人物」として麻呂尾寺の英泉ががっつり登場していること。これはポイントが高いと思います。これによって、本作の連続殺人事件は推理小説としてのレベルと面白さが格段にアップしているからです。ここらへんをしっかり押さえているのは素晴らしいですね。久野医師に英泉、夜中にウロウロしまくる里村慎太郎に小竹・小梅ペア、そして「あやしい」を絵に描いたような謎の妖婆・濃茶の尼と、まるでワールドカップ決勝進出レベルのサッカーチームのように、ほんとうの犯人から視線を反らさせるディフェンダーがひしめいているのがたまりません。守りが手厚いな~!! 双子がいるのが、なんか『キャプテン翼』みたい。

 ただ、そういった面白過ぎる要素がわんさとあるということは、それらをうまくさばいて93分の枠に納めなければならないという難題も控えているわけです。すなはち、原作小説『八つ墓村』は、角川文庫版にして約500ページ! この長編の、どこを残してどこをカットし、どことどこをつなげて簡略化するのか。この取捨選択を間違えれば、96年版のように惨憺たる結果を招くことは間違いないわけです。浅野ゆう子と宅麻伸のロマンスなんて10年遅いんじゃ!!

 その点、91年版のハンドルさばきはかなり神がかった名采配だったのではないでしょうか。
 具体的に見ていきますと、91年版はまず諏訪弁護士という、事件と金田一耕助をつなげる役割を持った重要人物を丸ごとカットして、多治見家が直接金田一を雇うというバイパス手術を行っています。これはまぁ、78年版でがんばってもらっちゃったし……というメタ的な配慮もあっての諏訪弁護士のベンチ入りかもしれませんが、何と言っても「名探偵金田一耕助の傑作推理シリーズ」と標榜している以上、原作以上に金田一耕助を手早く八つ墓村連続殺人事件に連結させる意図もあったでしょうし、何よりも金田一にとってはみすみす重要関係者(井川丑松)を目の前で死なせてしまったわけなので、事件解決への執念に火をつける発奮要素になったと思います。かといって、タイムトラベラーでもない限り丑松の死を回避させることは不可能なので、丑松が死んだからと言って金田一の名探偵としての資質を損なうものにはギリギリなっていないという深謀遠慮がすごいです。さすがは古谷金田一……

 また本作は、原作小説においてロマンたっぷりの恋愛関係におちいる主人公・寺田辰弥と里村典子の若々しい関係を、典子の存在をそっくりカットして森美也子に移し替えることで、登場人物の整理以上に、事件の展開と主人公の愛の行方を一本化させるという策も採用しています。ただ、これ自体は77年版、78年版の脚本もそうなっているのでさして新鮮でもないのですが、やはり本作でくだんの美也子を演じているのが異様に赤いルージュと衣装が目にささる熟れたてフレッシュ夏木マリさんということもあって、かなりエグみの強い恋愛関係になっている気がします。典子さんもビックリ!
 ただそれだけに、稀有壮大な犯行をなんとしても遂行させなければならないと暴走する復讐心と、若い辰弥くんをゲットして幸せになりたいという儚い孤独な心とが、同じ犯人の中で交錯し破滅するという、原作小説に無かった「犯人の人間的な苦悩」要素が過去作以上に強調される効果を生んでいるので、91年版の犯人は77年版ほどコワくはないのですが、その弱さ、もろさが非常に味わい深い魅力になっているのです。実にサスペンス劇場っぽいんですよね!
 原作小説の犯人にとっては犯行の動機そのものだった愛欲が、91年版では他ならぬ犯行意志(復讐心)のブレーキになっているという点が非常に興味深いです。さぁ、あなたはどっちのタイプがお好き!?

 そして、何と言っても本作最大の成功ポイントは、冬枯れの山なみを背景とした凄惨な連続殺人事件の、要所要所に哀しく響き渡る『アルビノーニのアダージョ』!! これに尽きるのではないでしょうか。これは本当にすばらしい。
 映画ファンにとっては、あのオーソン=ウェルズ監督の『審判』(主演・アンソニー=パーキンス!)で印象的に使用されたことでも有名な『アルビノーニのアダージョ』なのですが、これは1958年の発表当初は17~18世紀のヴェネツィアのバロック作曲家トマゾ=アルビノーニの新発見の楽曲として世に出ていたのですが、実は発表者のレモ=ジャゾットがアルビノーニに仮託して作曲した擬古体の完全新作であったことがのちに判明しているという、非常にミステリアスないわくつきの曲です。でもどっちにしろ、悲壮感に満ちた世紀の名曲であることに変わりはありません。

 91年版『八つ墓村』の中でこの『アルビノーニのアダージョ』は、「尼子の落ち武者の最期」、「多治見要蔵の邪恋と32人殺し」、「亀井陽一と井川鶴子の龍の顎での逢瀬」、「真犯人と辰弥の対峙」、「真犯人の告白」、そして八つ墓村の遠景をバックに流れるエンドロールの、都合6回もの頻度で使用されます。回想シーンがあると必ず流れるといってよろしいヘビーローテーションなのですが、聴いていても全く飽きがこないほど、セピア色に彩られた八つ墓村の悲劇にフィットしているのが、この曲のものすごさです。また、「多治見32人殺し」と「鍾乳洞内での真犯人の恐怖の追跡」という、77年版では芥川也寸志の迫力たっぷりの音楽が大音量でジャンガジャンガ流れていた2大名シーンさえも、哀切きわまりない『アルビノーニのアダージョ』一本で通しているところに、91年版のメガホンを執った関本監督の薩摩示現流にも似た武骨一徹の精神を感じずにはいられません。漢だ!!
 まぁ、ここには BGMに新曲を用意できないという裏事情もあるような気はするのですが、それだとしても、これ以上ないくらいに作品の悲劇性に合致した既成曲を発見して、しつこいくらいに投入する関本監督のこだわりと確固たる自信は、ここ91年版ではバッチリ成功していたかと思われます。それに、ふつうこの2時間サスペンス時代の古谷金田一シリーズの使用音楽といえば、シンセサイザーを多用した渡辺岳夫による楽曲の数々が挙げられるかと思うのですが、この91年版『八つ墓村』に関しては、1977~78年に放送された連続ドラマ『横溝正史シリーズⅠ・Ⅱ』で使用された真鍋理一郎による楽曲が復活登用されています。これも、使い古した BGMの再利用と言ってしまえばそれまでなのですが、人懐っこい笑顔が特徴の古谷一行さんに合わせたあたたかみのあるナベタケサウンドではなく、おどろおどろしさのある真鍋サウンドをあえて選んでいるところに、78年版のリベンジとしての91年版『八つ墓村』に賭けた関本監督の気合のほどを感じますね。古めかしくて、いいんです!!

 エンドロールもダメ押しと言わんばかりの『アルビノーニのアダージョ』で涙を絞りまくるわけなのですが、ここも、まかり間違っても古谷一行さん歌唱の『糸電話』とかは死んでも流さんぞ、という関本監督のこだわりを感じますね。古谷さんのボヨ~ンとした歌声は、確かに陰惨な金田一耕助シリーズの物語をおだやかに締めくくるには良い手かと思うのですが、この91年版の救いのない寂寞たる終幕にはまったく歯が立たないと思いますよ。いや、古谷さんの歌声も、いかにも古谷金田一の個性に合っていていいんですけどね!

 ちなみに古谷金田一シリーズにおける既成曲の使用という観点から見ますと、『薔薇王』におけるサン・サーンス作曲によるヴァイオリンの名曲『序奏とロンド・カプリチオーソ』の使用も非常に印象的でしたね。実はちゃんと見るとムチャクチャな内容の物語を、ゲスト出演の榎木孝明さんの容姿とも合わせてなんとな~く高貴な雰囲気に押し上げているグッジョブな選曲だったかと思います。これもいつか記事にしたい~!

 とにかくこの91年版は、ともすれば凄惨な殺人のジェットコースターになりがちな『八つ墓村』の物語に、きわめて理性的なブレーキをかけつつ煩雑な諸要素を論理だてて整理しながら進行させていき、それでも「愛欲の導き出す悲劇」という部分は一貫して描写し続けるという芯を忘れてはいない大傑作になっていると思います。他の歴代映像化作品に比べて、77年版のようにここがものすごいゾという特化したシーンこそないのですが、あくまでも職人的に、冷静なタッチで原作小説の一部の要素を抽出して一貫性のあるエンタメ作品に仕上げているテクニックは、さすが名匠・関本監督の本領発揮といった感じですね。

 このような感じで、91年版『八つ墓村』は、よくよく観れば原作小説に忠実というわけでもない、原作小説と77年版・78年版の映像化作品のいいとこどり、中間的な位置にあるバージョンと言えるかと思います。それでも、あの名探偵・金田一耕助の頭脳をもってしても容易に解決できなかった複雑な事件の経緯(だいたい久野医師のせい)を可能な限りわかりやすく再現した脚本の功績は、大いに評価すべきものなのではないでしょうか。それに、里村兄妹の存在や尼子の落ち武者の隠し財宝など、まともに映像化すると本編時間の長大化と人間関係の煩雑化をまねいてしまいかねない原作小説の要素をバッサバッサと切り捨てているのは、単純明快を旨とする2時間サスペンスドラマとしては大正解だったかと思います。またしてもカットされてしまった里村典子さんにとっては恨み骨髄以外の何者でもないでしょうが……八つ墓明神以上に、出番のない典子さんが怨霊化しそうで怖いですね。

 ただまぁ、ここまでベタ褒めしておいてなんなのですが、やはりこの91年版においても「これはどうなのかな~?」と感じてしまう残念ポイントはあるわけでして。あくまでも本作が非常に優秀な作品であることは前提としつつも、私が観たところは2点になるかと思います。

 まずはやっぱり、「落ち武者の隠し財宝」と「辰弥と典子の未来明るいカップル」がカットされてしまったことで、全体的に救いのないダークな物語になってしまった、ということです。横溝先生も、田治見要蔵(原作なので「田治見」です)という異常な人物によって、その後20年経っても一向に消えない暗い影を村に落とす陰惨な大量殺戮事件が引き起こされてしまったという、80作以上ある「金田一耕助シリーズ」の中でも屈指の憂鬱きわまりない設定を背景にしたこの『八つ墓村』の物語を、少しでも未来に希望を残すエンターテインメントにしたいと苦心して、主人公の辰弥と里村典子という行動的で利発なキャラクターを造形したのだと思います。そこには、田治見32人殺しに実在の事件のモデルがあるという事実も関係していることは間違いなく、その事件の影響をじかに受けている人々や集落を、当時岡山県に疎開していた横溝先生が実際に見聞きしていることから、プロの小説家としてなんとかこの世界犯罪史上に残る悲劇を大団円のある物語に変えたいという想いがあったのではないでしょうか。決して、好奇心とか事件のインパクトだけで作品の材料にしたわけじゃないと思うんですよね。
 ところが、そういった横溝先生一流のロマン性が反映された要素が、91年版ではそこに限って抜け落ちているような扱いを受けているので、結果として、多治見要蔵の身勝手な凶行の犠牲者である井川鶴子をはじめとする多くの村人と、今回の改変でそういった犠牲者の一人となった真犯人の、やり場のない悲しみだけを残す結果となってしまっているのです。特に、予算の都合なのかもしれませんが割とあっさり目に描かれている多治見32人殺しに対して、これでもかというほどにネチネチと映像化されている要蔵の鶴子・辰弥母子に対する暴虐の数々はひどいとしか言いようがなく、今作で鶴子を演じた小沢幹子さんの迫真の演技もあいまって、視聴者に強烈な衝撃を与えるシーンとなっています。これはちょっと見る人によっては、かなりの嫌悪感を抱いてしまうのではないでしょうか。また、多治見要蔵を演じるのがジョニー大倉さんという、それは線の細い娘さんが抵抗できるはずがないよなぁという体格の絶妙な人選になっているので、非常に生々しいんですよね。そりゃ見た目のインパクトでは過去の要蔵役の俳優さんがたに一歩遅れるかもしれないのですが、ストーカーには一番なってほしくない要蔵だと思います、91年版は。
 あと、そういった作風に引っ張られてなのか、鶴見辰吾さんが演じる辰弥も、なんだか陰というか、険のある不良っぽい若者になっているのもちょっと作品全体の印象を重くしていますよね。まぁ、これはしょうがねっか、見るからに妖しさムンムンの夏木マリさん演じる美也子を見て即、八つ墓村行きを決めるような辰弥なんだもの、そりゃ危険な香りもしますよ。

 つまり、91年版『八つ墓村』の脚本は、ミステリーとしての精度を上げている代わりにエンタメ作品としての視聴後の爽快感をかなり捨てているところがあると思うんですよね。そりゃまぁ、93分におさめなきゃいけないんだから、どっちもいいとこ取りってわけにはいかないやねぇ。難しいもんだなぁ~!!

 あと、私が感じた第2の残念ポイントというのは、まぁそんなに目立つ点でもないのですが、久野医師と、重病ということで劇中にいっさい登場しない西屋の森荘吉の2人が、多治見要蔵の弟(久野は要蔵の次弟、荘吉は末弟)という設定になっている点です。つまり2人とも辰弥の叔父にあたる、かなり近い親戚になっているんですね。もともと原作では久野医師は辰弥の「また叔父(久野の祖父と要蔵の祖父が同じ)」で、野村荘吉は田治見一族とは血縁関係がありません。
 この改変はおそらく、久野医師と森荘吉を事件の重要な容疑者にするための簡略化かと思われるのですが、だとしたら、「多治見家の財産を春代、辰弥以外の親戚に相続させて没落させる」という犯行動機のためならば、別に相続者が里村慎太郎じゃなくても良いという理屈になってしまうのです。そしてその場合、普通だったら原作小説のように特段の恋愛感情を抱いているわけでもない慎太郎よりも、相続した瞬間におっ死ぬ可能性もある病身の荘吉に相続させようと考える方が、真犯人にとっては一石二鳥の策なのではないでしょうか。どういうふうに一石二鳥なのかは、具体的に説明するとネタバレになるので詳しくは申せませんが……でもコレ、真犯人の名前を伏せる意味、あるかぁ!?
 ましてや、真犯人にとって荘吉は天涯孤独の身となった自分を救ってくれた大恩人なのですから、殺したくはないという感情は残っていたと思います。そして、慎太郎に相続させるためには、いずれ荘吉も殺さねばならなかったわけなので、今作のように改変された多治見一族の家系設定では、「最後に慎太郎を残す」という犯行計画は、いたずらにハードルとリスクをあげる下策としかなっていないような気がするのですが、どうなのでしょうか。
 う~ん、百歩譲って久野医師が辰弥の叔父になった改変はわからんでもないのですが(それにしても、そんなに近い血筋の人間が自分以外の相続候補者を全員殺そうとするか?という疑問は残ります)、荘吉を多治見家の一族にするというのは、その意図をつかみかねますね。だいたい、多治見32人殺しの時に真犯人は6歳だったということなのですが、いくらなんでも多治見家の人間や、今作で要蔵の弟となってしまっている荘吉が、真犯人の家族を根絶やしにされた復讐心を知らないまま一族に受け入れるということが果たしてありうるのか?という大疑問が残りますよね。せまい村の中だからさぁ……
 クライマックスでの真犯人の告白の口ぶりでは、少なくとも荘吉は真犯人が要蔵によって孤児にされたという素性は知っているようなのですが、小竹・小梅がそれを知っていたら、今回の連続殺人が発生した瞬間に真犯人を疑わないはずがないので、荘吉は知っていても多治見本家の人々は真犯人の素性を知らなかった、という感じになるでしょう。ましてや本作では、資金援助の願いをにべもなくはねつけて荘吉の長男を自殺させてしまっているわけなのですから、そんな険悪きわまりない関係にある真犯人を、警戒しないわけがないと思うのです。
 でも、まだ幼いとはいえ、事件の被害者の生き残りのその後を小竹・小梅ペアが知らないなんてこと、あるのかな……多治見家とその他の村人たちとで生活環境が全く違うといっても、あんなに広大な多治見邸に通いで下働きに行っている村人だっているはずですしね(作中ではお島という女中さんが登場している)。麻呂尾寺の英泉さんなみの容貌の変化がないと、すぐ怪しまれてバレると思うんですが。
 余談ですが、回想シーンで6歳の真犯人の役を演じている子役さんが、かわいいのにものすごい目つきで、家族を皆殺しにする要蔵を見ているんですよね! ただ恨むでなく、絶対に復讐してやるという念のこもったまなざし……かなり腕のたつ子役ちゃんとお見受けした! 顔立ちは成人した真犯人とは似ても似つかないのですが、その演技力はのちの真犯人の凶行を十二分に予見させる名演になっていたと思います。エンドロールのクレジットに名前が出てこないのが惜しすぎる! 今現在は30代なかばくらいにおなりんさっとるかのう。

 まま、ともかくこのように気になる点もあるにはあるのですが、ちょっとしたキズといった程度で、今作の魅力を減じるものではないでしょう。


 まとめますが、91年版『八つ墓村』は、世間に77・78年版の記憶もまだまだ根強く残っている平成初期に、満を持して発表された「ミステリーとしての原作に忠実な映像作品」となったかと思います。これを成功させるためには、原作のある程度の部分をカットするという勇断も必要となったわけですが、今作はだいたいにおいて理想的なスリム化を経て、古谷金田一シリーズ内ではもちろんのこと、金田一映像作品史上でも歴史に残る大傑作となったのではないでしょうか。全国の金田一耕助ファンにぜひとも一度は観ていただきたい、哀切きわまりない『八つ墓村』になっていると思います!

 だいいち何がいいって、本編時間93分ですから! 忙しい人のための『八つ墓村』としても、一番に推せるバージョンだと思いますよ。手っ取り早くミステリー作品『八つ墓村』のすごさを知りたいのならば、やっぱりこの91年版でしょう。まぁ、短いわりにズンとくる重さはありますが。

 さ~て、というわけでありまして、1977年の映画版に続きまして、今回私が最も好きな91年古谷一行版も記事にすることができました。他にも映像化された『八つ墓村』は7作もありますよ! 今現在、視聴が難しいバージョンがあるのはつらいところなのですが、次はどのバージョンを観ていこうかしら!? やっぱ、「金田一映像史における中興の祖」ともいえる、稲垣金田一シリーズの2004年版を避けて通るわけにはいかないか!?


 最後はやっぱり、この一言でしめましょうか。いち、にぃ、さん、たたりじゃ~っ☆

 ……91年版の濃茶の尼、けっこうフツーにきれいなおばさんでしたね。

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