長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

全国城めぐり宣言 第34回 「大和国 多聞山城」資料編

2019年01月24日 08時32分56秒 | 全国城めぐり宣言
大和国 多聞山城 とは

 多聞山城の主要部は若草中学校にあり、西部は仁正皇后陵、聖武天皇陵、南部には佐保川が流れ、東は空堀を隔てて善勝寺山(現・若草中学校グラウンド)、その東は奈良への入り口である奈良坂と京街道になり交通の要衝を占めている。奈良の町の北方に位置する標高115メートル、比高30メートルのこの山は、元来「眉間寺山」と称されていたが、奈良の統治者を自認する松永久秀が、仏教で北方の守護神とされ、自身も信貴山城入城以来信仰している多聞天(信貴山には多聞天を本尊としている朝護孫子寺がある)にあやかって「多聞山」と改称し、眉間寺を仁聖武天皇陵裾に移して、近辺の西方寺も移転させ築城。多聞山城もしくは多聞城と称し、南東に東大寺、南に興福寺をそれぞれ眼下に見る要地に位置し、久秀の大和国支配の拠点となり、奈良の町を威圧、統治した。
 その周辺には、現在も多聞山城の石垣として使われた石仏がいくつか残っている。

 松永久秀は当初、畿内大名・三好長慶の執事として仕えていた。三好長慶は最盛期には8カ国を領有し、信長の上洛以前には最大の勢力であった。そのような中、大和国も支配に治めるべく、久秀に命じ、永禄二(1559)年八月、当時の大和国の支配者であった筒井順慶を圧倒して対峙するとともに国人衆を支配した。信貴山城を改修し、以後久秀は大和国の実力者として台頭する。興福寺を抑え、大和国支配と南都への強権性を伴った領地支配の拠点として多聞山城は築城された。

 築城前は、発掘調査によって中世の墓地があったことが明確になっている。瓦、骨壺、石塔、墓石等が出土しており、特に現在の若草中学校の体育館前辺りから多数出土した。築城前には眉間寺があり、その関係も指摘されている。 多聞山城の築城時期は、同じく久秀の大和国信貴山城の改修時期と同時期で、側近と重臣の屋敷から建設が始まったようである。多聞山城は築城途中であったが、永禄四(1561)年から重臣たちの屋敷はすでに使用されていた。永禄五(1562)年八月十二日午前八時頃から多聞山城の棟上げ式があり、久秀は奈良の住民を招待していた。

 永禄七(1564)年七月、河内国飯盛山城で主君・三好長慶が病死すると、三好政権は三好三人衆と松永久秀の連立政権という形で運営されるようになる。しかし永禄八(1565)年五月の永禄の変以降、三人衆と久秀との関係は次第に悪化していく。同年十一月には三好政権は分裂し、三人衆は筒井順慶と連合軍を組み、永禄九(1566)年六月には筒井城を奪還し(筒井城合戦)、ついで永禄十(1567)年四月には東大寺に布陣し大仏殿を要塞化して多聞城に対峙し、南都(奈良)を制圧しようとした。だが、久秀も多聞山城から東大寺周辺の屋敷地を破却しつつ進撃し、同年十月十日、東大寺を襲撃し東大寺大仏殿合戦となる。これに勝利した久秀ではあるが、その後も争いは続き、永禄十一(1568)年六月の信貴山城合戦ではついに信貴山城を失った。

 そんな中、同年九月に織田信長は足利義昭を奉じて上洛し、義昭を室町幕府将軍位に就けた。窮地に陥っていた久秀は義昭に降り、摂津国芥川山城で信長と手を結ぶ。織田軍2万の援軍を引き連れて久秀は信貴山城を逆に攻城して、落城から4ヵ月に筒井順慶と三好三人衆の連合軍から城の再奪取に成功する。だが戦闘は継続し、元亀二(1571)年八月の辰市城合戦では筒井軍が大勝するが、筒井順慶は明智光秀の仲介により織田軍に降伏した。すると将軍・義昭も順慶の参入を認めたために久秀と順慶は同格となり、両者の対立はさらに深刻化する。このため久秀は、武田信玄の西上作戦に伴い、将軍・義昭が画策した信長包囲網に加わり三好義継と共に信長に謀反を起こし信貴山城に籠城するが、天正元(1573)年四月に武田信玄が病死、七月に義昭が信長に追放され、十一月に三好義継も若江城合戦で討たれると、織田家重臣・佐久間信盛の軍に多聞山城を囲まれ、十二月に降伏した。多聞山城を明け渡す条件で久秀は許されたが、信長はすでに初戦の十一月二十九日の段階で佐久間に多聞山城を没収して赦免するよう指示しており、信長が久秀の影響力とともに同城の様々の宝物や御殿など建物を惜しんだためと言われる。十二月二十六日、多聞山城が開城すると信長は家臣・山岡景佐を城番に置き、以後は信長家の武将が留守番役として順に入り、天正二(1574)年一月十一日、明智光秀が二十四日と二十六日に城内で連歌会を開催し二月五日に美濃国へ出陣。その後は細川藤孝、三月九日に柴田勝家が入り、翌日に興福寺と春日大社への保護と、神鹿と猿沢池魚殺しの密告に百両報償を与える触れを出した。
 同年三月二十七日、信長が多聞山城に入城し検分してから、翌日には東大寺正倉院に伝わる名香「蘭奢待」を長持ごと多聞山城に運ばせ、同城の舞台で蘭奢待を一尺八寸切り取り配下に観賞させた。天正三(1575)年三月二十三日、織田家重臣・塙直政が南山城国に続き大和国の守護に任じられ多聞山城の城主となったが、天正四(1576)年五月三日、石山本願寺との天王寺城合戦で織田軍司令官として指揮をとっていた直政は討死した。その後、大和国守護には筒井順慶が任命された。織田信長は郡山城以外の、多聞山城を含めた大和国内の他城の破却を命じ、順慶は同年七月から京都所司代の村井貞勝の監督のもと破城を始め、天正五(1577)年六月には多聞山城も破壊され、城があった期間はわずか16年間だった。建材は、村井貞勝が差配して京に運ばれ信長の二条御所に活用された。久秀は同年八月に再び信長に対して謀反をおこし、信貴山城合戦で自害した。なお二条御所もまた、本能寺の変で信長の嫡男・織田信忠とともに焼失した。

 久秀が信貴山城で自害した八月頃、多聞山城の破壊はほぼ完了していたが、城内には諸石類が残っており、これらは郡山城に転用された。豊臣秀吉の時代に、郡山城に代わる大和国の拠点として整備する計画があり普請担当大名たちの配置も決定したが中止となった。江戸時代に入ると、城跡には南麓には南都奉行所の与力や同心の屋敷が立ち並び、幕末には丘上が練兵場となり、廃城後も跡地は活用されていたが、昭和中期まで地形は築城当時のまま残されていた。しかし1948年に若草中学校が建設され、1978年には校舎新築のため、北側にわずかに残っていた土塁跡も破壊された。

 中世の仮城形式から大きく進歩し、曲輪全体にそれまで寺院建築や公家などの屋敷にしかなかった礎石と石垣を使用して、壁には分厚い土壁、瓦葺の屋根の恒久的な建物を築いて奈良の街の支配と大和国全体を睨んだ拠点となる、先進的な平山城だった。城内には本丸(詰ノ丸)に主殿、会所、庫裏の座敷など豪華な建築が建ち並び、庭園、金工の太阿弥の引手などの内装や狩野派絵師の絵画、座敷の違い棚や茶室の落天井(客座に対して亭主の座る点前座の天井を一段低くして客に対する謙譲を示した作り)等の造作があり、本丸は、室町時代に守護邸などで全国各地に造られた、伝統的な室町将軍邸「花の御所」の模倣を志向したものだったと思われる。庫裏は久秀の常御殿で、天正三(1575)年に訪問した島津家久の日記によると、御殿は2階建てで「楊貴妃の間」があったとしている。西日本随一の豪華な城郭であり、有数の至宝である絵や茶道具も集められていた。連結した西ノ丸は通路沿いに重臣の屋敷や、家臣の家が建てられていた。城郭考古学者の千田嘉博によれば、本丸でも同様に久秀の屋敷と重臣の屋敷が並列していたが、西ノ丸は一段低い西隣の小丘(聖武天皇陵)に築かれたとしている。
 また、天正五(1577)年の解体時には「高矢倉」と呼ばれた四階櫓があり、これが四重の天守ならば、安土城をはじめとする近世城郭における天守閣の先駆けと言えることになる。しかし、当時すでに存在した近江国坂本城も山城国勝龍寺城も御殿機能を備えた重層建築を「天守」と呼んでいたが、それと相違する4階の高層建築を「櫓」と呼んでいる以上、千田は多聞山城に存在した高矢倉は天守閣ではないと推測している。城郭用語の「天主」や「天守」はすでに元亀三(1572)年十二月二十二日に明智光秀の坂本城に対して『兼見卿記』で使用され、翌天正元(1573)年に坂本城小天守の下に立つ小座敷で連歌会を開く、同十(1582)年に小天守で光秀と面会したと記述している。天正元年の連歌会は、参加者への普請中の坂本城の竣工部分の披露も兼ねていた。それに対し多聞山城に関して「天守」という言及はない。だが、塁上に長屋形状の櫓が築かれ、これが多聞櫓の始まりとなったとされている。このように多聞山城は先駆的な要素を持った城で、中世の城郭様式から脱するものだったが、本丸と家臣居住区が一括化しているという以後の近世にはない形式で、その後の近世城郭に移行する過程として重要な城であったと位置づけられている。

 多聞山城は、永禄三(1560)年に築城が開始され、翌永禄四(1561)年に松永久秀が入城し、続いて永禄七(1564)年に完成するが、天正元(1573)年末に織田信長に引き渡され、その後天正三年三月に織田家家臣・塙直政が大和国守護として入ったが、天正四年五月の直政の討死後、天正五(1577)年六月に多聞山城は破却され、城が存在した期間はわずか16年間だった。城の建物や内装は京の二条御所(将軍・足利義昭の居城)に移築され、石材の多くは大和国筒井城に用いられ、更に大和国郡山城にも移された。天正五(1577)年、松永久秀もまた最終的には大和国信貴山城で自害した。

 ポルトガル人のイエズス会宣教師ルイス=デ=アルメイダの永禄八(1565)年十月二十五日付の書簡が、ルイス=フロイスの『日本史』に部分的に引用されているが、この書簡はアルメイダが松永久秀の家臣の招待を受けて多聞山城を見学した報告である。この書簡でアルメイダは、壁は白く光沢ある漆喰の壁で瓦葺の建物が建てられていて、どれも高い水準だと分析している。また、「都で美しいものを多く見たが、これとは比べ物にならない」、「世界中にこの城ほど善かつ美なるものはない」と絶賛し、本丸御殿については「壁は歴史物語を題材にした障壁画」、「柱は彫刻と金を塗り大きな薔薇」で飾られており、「庭園と宮庭の樹木は本当に美麗だ」と高く評価している。
 また、当時の公卿・吉田兼右の『兼右卿記』にも「華麗さに目を奪われた」と記されており、薩摩国の戦国武将・島津家久の日記『家久君上京日記』には「多聞城内から大和が一望できた」と見聞、評価している。アルメイダの書簡の末尾には「日本全国よりこれを見るために来る」とあり、久秀は多聞山城への見学者の来訪を排除してはいなかったようである。なお、後の坂本城や安土城も識者や住民に城内を公開しており、戦国末には城主が城の公開を通して周辺の賛同を求める考えが広まっていた様子がある。

 松永久秀は築城の名手との実績を残しているが、このような壮麗な城の築城が可能にするために、南都(奈良)の大寺院建築ノウハウが大きな要素になったとの説がある。瓦については西ノ京・斑鳩の橘氏などの世襲的瓦職人集団に、興福寺・東大寺の瓦工房の一部を取り込み再編成して、城郭専用の簡略化した瓦を焼成した初例となった。松永久秀は戦国時代末に現れた専制的な戦国領主の一人だが、城自体の構造は、重臣との一体性が強い状態を残している。
 また、松永久秀は茶人としても名が通っており、大和国や堺、京の豪商や著名人を招き、多聞山城で3回の茶会が行われたことが『松屋茶会記』に記載されている。この茶会記によると、多聞山城は6畳と4畳半の少なくとも2つの茶室もしくは茶亭があったと思われ、後に織田信長へ献上することになる茶入れ「九十九髪茄子」、また、信貴山城が落城する時に行方不明になった(伝説では久秀が爆死する時に粉々になった)茶釜「古天明平蜘蛛」の名も見受けられる。

 多聞山城は、北と東西は横掘だが南は一部のみにとどまり佐保川を総堀にした小規模な城下町があり、一部は佐保川を越えて南側に城下町の建設を図り、現在は宅地化され定かではないが、『日本城郭大系』は一条通から南下する法連通にその面影が残っているとしている。多聞山城は、元の市街地から離れた小規模な総構えの平山城となっていたとみられる。
 現在の多聞山城跡には、当時を思い起こさせるものはほとんど残っていない。本丸部分は現在は若草中学校が建っており、本丸の長さは140メートル、最大幅110メートルあり、発掘調査から元々この多聞山は平坦で、大規模な削平工事はなかったとみられている。また城跡の諸所で石材の抜き取り跡がみられ、これらを集積して積み上げた遺構もあり(五輪塔の一部の他に台座や箱地蔵、凝灰岩の自然石が乱雑に積み上げられていた)、天正七年に多聞山城の石材は大和国筒井城に移築されたが、これらの集石材から持ち去ったのか、または本丸の石垣を崩して持ち去ったのかは定かではない。土塁から外は今も土のままの急斜面で、石垣があったとしても撤去により土台が崩落するほどの大規模な高石垣は築かれなかったと見られる。また校舎と若草中学校グラウンドの間には大堀切(空堀)があり、多聞山と善勝寺山を分断する構造になっている。
 若草中学校の西側には曲輪跡が比較的良好に残っている。この北西から西にかけて高さ1.5メートルの土塁があり、角の高さは3メートル、幅2メートルの壇状になっており、ここに櫓の一つが建っていたと思われる。
 仁正皇太后陵は多聞山の南に突き出しており、現在も聖武天皇陵ともに立ち入りは禁止されている。そのような状況であるが、『日本城郭大系』は奈良文化財研究所作成の調整地形図から、仁正皇太后陵の西南隅に土塁と櫓台があったと想定している。また、この西側を切り落とし聖武天皇陵との間に堀切を作って本丸と分断してあり、この堀切からの道と虎口を見張っていたとしている。聖武天皇陵には、ここにも段状の帯曲輪のような部分が観察でき、出曲輪の役割を果たしていたのではないかと想定する。そのため両陵墓ともに多聞山城の城郭の一部であったと思われる。

発掘調査
 多聞山城は2回にわたり、若草中学校の建設工事および改修工事に伴って発掘調査を実施している。
第一次発掘調査 …… 1947年11月~1950年10月
第二次発掘調査 …… 1978年7~8月

第一次発掘調査
 1947年にはまだ文化財保護法が制定されておらず、若草中学校の建設工事に学術調査は行われなかった。しかし、若草中学校の職員が独自に地下遺構の調査を行った。この時珍しかったブルドーザーが使用され、工事の合間を見計らいながらという悪条件の中、実施された。
 この発掘調査で、築城前は墓地であったこと、沢山の墓石が出土した中で一番多かったのは五輪塔であったことが明確になった。これらの石は、角石に石垣が使われ、石垣が築きにくい場所には、土塁、溝を造るのに利用されたと思われている。また、その土塁は小さいもので高さ0.8メートル、幅1.5メートル、大きいものでは3メートル、幅12.5メートルであることが確認されている。

第二次発掘調査
 第二次発掘調査は若草中学校の木造校舎の改築工事に伴い奈良県教育委員会が実施し、校舎解体作業から立ち会い、どのような遺構が残っているのか期待されていたが、結局旧校舎建設時の基礎工事で地下遺構が全て失われていたことが確認できた。したがって発掘調査は、旧校舎の北側にあった土塁跡に限定された。

土塁
 城の北側にあった土塁の構造は、石造遺物(墓石など)を平面的に並べ基底部の地固めをし、その上部に瓦を重ねて並べられていた。また、北方に低くなるように傾斜を加えられていた。これは水抜きと、客土、雨水の城内への流入を防ぐ目的で設けたと考えられている。
石組排水溝
 東西22メートルにわたる排水機構が確認された。これが東南に延びていたと推察されている。
円形素掘り井戸
 この井戸跡は『大和国多聞城諸国古城之図』にも記載されている井戸跡と思われており発掘調査で明確になった。東西4.96メートル、南北5.16メートル、深さはおおよそ4.5メートルのすり鉢状井戸で、当時としては珍しく、極めてまれな大きさの井戸であると見られている。また4.5メートルの深さでは地下水脈に届かないため雨水井戸ではないかと推察されている。
出土瓦
 第一次発掘調査と第二次発掘調査から出土した瓦から、寺院との関係の深さが伺えるとしている。特に第一次発掘調査では「東大寺」と記載のある瓦が出土したり、第二次発掘調査でも数こそ多くなかったが、寺院から流用された瓦があると見られている。しかし大半の瓦は同一規格が認められ、城のために新規に用意されたものと考えてもよい。これらのことから、南都の諸寺が支配していた生産組織、瓦工集団に大きく依存していた可能性も考えられる。

最寄り駅 …… 近鉄奈良線奈良駅(奈良市東向中町)
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ご復活のときは……近い?

2019年01月20日 22時54分06秒 | ゲゲゲの鬼太郎その愛
 今回はまぁ、特に何を観たとか、どっかに行ったとか言う話題もないんですけれども。

 いや~、アニメ版第6期『ゲゲゲの鬼太郎』、順調に放送第40話を数えましたね……
 第6期、わたくしの唯一の毎週チェックしてるアニメ作品なわけですが、やっぱりおもしろいですね!
 単にキャラクターデザインの一新だけでなく、お話の内容もちゃんと2010年代に放送するだけのオリジナリティを持たせてやるぞという、野心たっぷりのアレンジがほぼ毎回観られるのがうれしいですね。
 その点、原作の味わいをあえて捨てている部分も少なからずあるにはあるわけですが、それでも、

「水木しげるが今現在も現役バリバリだったら、この話題は絶対にネタにしているだろう。」

 という視点を常に持っているダークなテイストがしっかり入っているのはうれしいです。これには本当に大満足!
 個人的には、やはり第14話『まくら返しと幻の夢』が40話までの中でのベストエピソードでしょうか。まくら返しが登場した原作マンガとは全く違う内容なわけですが、「現代性」と「まくら返しが登場する意味」と「原作マンガのサイドエピソード(鬼太郎父子まわり)の補完」の全てをおさえた上に、「アニメ第6期ならではの声優ネタ(異常に強い復活親父)」まで盛り込んできたという大盤振る舞いには、まったくもって感服つかまつりました。
 そういえば、目玉の親父を演じておられる野沢雅子さまは、かつてプリキュアの映画で「絶対に死なない夢の世界の悪夢」を演じておられていた……それじゃあもう、さすがのかないみかさんでも勝てるわけがねぇよ! 岩崎ひろしさんのハイテンションも素晴らしかったですね。

 まぁ、そんなこんなで毎週毎週ありがたや~とアニメ第6期を堪能してはいるわけなのですが、そんなわたくしでも、少しずつ少しずつ、ふつふつとつのってくるフラストレーションはあるのです。
 そりゃあもう……このブログをパ~っと眺めておられる、そこの奇特なあなたさまなら、理由はご推察ですよね? ね!?

 「あのお方」が、まだ出てねぇ~んだよ……

 え? ドラキュラ親分? そうそう、彼もまだ出てないし気になるわけなんですが、彼は2番目ですよね。

 気になるなぁ……いつお出ましになるのかな……
 勝手に予想してたのは「演・島田敏」だったのですが、島田さんはすでに準レギュラー枠に入っておられるのでその可能性はうすい。今作でそうとう根の深いラスボスになりそうな感のある「名無し」の正体も気になるのですが、どうもあの方をにおわせる雰囲気は、今のところ無い。
 いくら「過去シリーズとの差別化をはかる」心意気高しとはいえ、まさか「一回も登場させない」つもりなのでは……いや、そんなバカな!

 そこで気になるのが「ご復活はいつなのか?」ということなのですが、ここで出てくるのが、

「第46話」

 というキーワードなわけです。

 これ、なんなのかといいますと、あのお方がアニメ版『ゲゲゲの鬼太郎』の過去シリーズに最も「遅く」初登場したエピソードが第46話だったんですよね。アニメ第4期です。
 第1期の続編という位置づけの第2期には登場していませんが、あのお方は第1期では第12話、第3期では第4話、第5期では第8話(本格的に登場)でそのお姿を現しておられます。
 それらの話数を華麗にスルーしていった第6期なわけですが、さすがに最後のラインである第46話さえも未登場で突破していってしまったら……私、泣いちゃうかも。

 制作スタッフさま、もう第40話になっちゃいましたが、第46話、期待してますよ! 勝手に!!
 だいたい、第4期であのお方を演じられた西村知道さんの悪魔ベリアル、あれで退場!? いやいや、もっと強いでしょ! 腕なまりすぎじゃない!?

 ツンツンするのはテーマ性だけにしてほしいです! われら「おぬら様信者」にも、おめぐみを~!!

 いや~でも、どなたが演じられるのか、ほんとに楽しみですね。


≪追記≫
 あ! そういえば、沢城鬼太郎さまも、ご産休で休養されるんでしょ? そっちのピンチヒッターもどなたになるのか気になるなぁ!
 わたくしとしては、野沢~戸田~松岡~高山の週替わりシフト制でいっていただきたい!! 野沢さまが演じられる回では目玉の親父は登場させず『墓場の鬼太郎』テイストでいくとかだったら、もう言うこたありませんやね。
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全国城めぐり宣言 第33回 「山城国 槇島城」資料編

2019年01月18日 22時33分51秒 | 全国城めぐり宣言
山城国 槇島城 とは

 槇島城(まきしまじょう)は、現在の京都府宇治市槇島町大幡に存在した城。
 かつて山城国南部の宇治地域には巨椋池という巨大な池沼が存在し、槇島はそこに浮かぶ島であった。この地には真木島(槇島)家という豪族が根を張り、槇島城を築いていた。
 元亀四(1573)年七月三日、当時の室町幕府第15代将軍・足利義昭は織田信長に対して挙兵し、幕府奉公衆であった真木島昭光を頼り、昭光の居城・槇島城へ籠城した。信長は即座に入洛、槇島城を包囲して義昭を降伏させた(槇島城合戦)。
 その後、義昭は河内国若江城へ退去させられ、室町幕府は滅んだ。義昭の退去後、織田家家臣の細川昭元、塙直政、井戸良弘らが城将となったが、文禄二(1593)年八月に、太閤・豊臣秀吉が同じ巨椋池畔の指月に築城した伏見城に入城した後はその戦略的価値を低下させ、廃城となった。

 現在、遺構は完全に失われており、石碑を残すのみである。

最寄り駅 …… JR宇治駅
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過分のしあわせ!!そうだい二度目の上洛 ~奈良の都もすばらしかった~

2019年01月15日 21時10分06秒 | 日記
そうだいの第二次上洛(2019年1月12~14日)
 いや~まさか、生きているうちに2度も京の都の土を踏めるとは! 職員旅行さまさまでございます……今回も、有意義な旅にするぞ!!

行程
一日目(曇天)
・天台宗 頂法寺六角堂
 …… トップバッターは、京都市街地の宿泊ホテルから歩いていける距離にあった、こちら。ほんとにビル街の谷間にひっそりとたたずんでいるといった感じだが、やはり参拝客は多い。普通の入母屋造りの本堂の斜め奥に、二階建ての六角堂が半分融合しているような形でつながっているため、巨大なサザエのような異様な迫力がある。この複雑なデザインイメージは、いい! 明治建築になるが、山形の旧・済生館病院本館に通じる空間密度を感じました。あのゴツゴツ、ゴチャゴチャ感……たまんない!!

・京都万華鏡ミュージアム
 …… さらに、歩いていける距離にあった万華鏡博物館へ。これまたささやかな印象の建物なのだが、中身は充実しまくりで、精巧な手作りカレイドスコープやらテレイドスコープの宝石箱! こちらも親子客やカップル客でにぎわっていました。宮城県・仙台の秋保温泉にある仙台万華鏡美術館も華やかで良いのですが、こちらも負けていない、古都らしいおしゃれな雰囲気がありました。

・真言宗根本道場 東寺
 …… 前回に来た時は新幹線で帰る直前だったので五重塔のチラ見くらいしかできなかった東寺を、じっくりと拝観。金堂、講堂、食堂、五重塔~!! ほんとにこれだけのオールスターラインナップが現代も楽しめるのは、素晴らしい!! この東寺一ヶ所だけで、普通の観光地だったら十二分に成立してもいいくらいの見どころ満載っぷり。薬師如来さま、大日如来さま、四天王さまといった仏教界大スターも実際に拝むことができて、もう言うことありません……こういった神社仏閣は、実際に今もおつとめをしている神人さまやお坊様がいらっしゃる場合が多いので、城郭とは違った「生きている感覚」が建物にも横溢しているのがいいですよね。どんなに古い木材でできていても、やわらかさがあるんだよなぁ。使う人がいなくなった途端に建物が朽ちて崩壊するっていうのも、わかる気がします。

・京都水族館
 …… 東寺でかなり時間を使って夕方になりかけていたのですが、無理をして最後に、歩いていける距離にあった京都水族館へ。早足での観覧になっちゃったのでゆっくりイルカショーも楽しめなかったのですが、異様にオオサンショウウオを推していたのが印象的でした。オオサンショウウオのぬいぐるみ買いたかったけど……止めておいただけ、俺も高校修学旅行の時より成長したのだなぁ。そりゃ四半世紀経ってんだから当たり前か。

二日目(晴天)
・宇治市源氏物語ミュージアム
 …… ここ、行きたかったんだよな~!! 開館直後だったのでいい感じに中も閑散としていて、かなりお金のかかっている展示物や寝殿造りの実物大セットでよみがえる平安王朝の世界を堪能することができました。展示上映の映像作品も、ホリ・ヒロシの人形劇に白石加代子さまのドラマの二本立てだぜ!? すごすぎ……平安貴族の香合再現チャレンジコーナーで完全正解したのがうれしかったけど、スタンプだけじゃなくて、なんかもうちょっと当て甲斐のあるノベリティ、ないかなぁ!?
 日本史の世界で親しんでいると、京の都に宇治なんてすぐ近所のような印象を受けるのですが、各駅停車の電車で約30分かかったのが地味に驚きでした。けっこう遠い!

・世界文化遺産 平等院鳳凰堂
 …… 来た来た来た~! 宇治と言えば、鳳凰堂!! さすがにこちらは外国人のお客さんもわんさかいて超満員でしたね~。お天気も暑いくらいのピーカンで、まさに拝観日和でしたわ。こちらもまた、うわさに聞いていた通りのコンパクトな建築だったのですが、藤原頼通殿下の執着した「極楽の可視化」システムが現代でもちゃんと機能して、多くの人を魅了していることを確認いたしました。お土産で買った「鳳凰堂の天人トランプ」が、非常に良かった。子ども、喜ばねぇ~!!

・源三位頼政公の墓
 …… 平等院のかたわらにひっそりとたたずむ、日本を代表するモンスターハンター・源頼政公の墓も忘れずにお参り。大河ドラマ『義経』で頼政を演じられた最晩年の丹波哲郎さん、かなりやつれてたけど凄絶でカッコよかったなぁ~!
 頼政公は、さすがに日本史でも以仁王の挙兵にかかわる超重要人物なので大河ドラマとかでしょっちゅうピックアップされるんだけど、肝心カナメの「大妖怪・ぬえ」が、21世紀に入ってからあんまりいいポジションで復活していないのが、ぬえで大学の卒論を書いた身としてはちょっと寂しいですね。って言っても、復活したのはアニメ第5・6期の『ゲゲゲの鬼太郎』だけなんですが、5期はよくわかんない正義の神獣になっちゃったし、6期は地獄四天王の最弱のかませだもんねぇ。もうちょっとしっかりしてヨ!! まぁ、名前をつまみ食いしただけの『ぬらりひょんの孫』よりは3億倍ましですが。

・山城国 槇島城
 …… そしてそして! 宇治に来た最大の理由は、平等院じゃなくて、こっち!! 足利家の室町幕府終焉の地・槇島城よ!! 最後の将軍・足利義昭公がここにあった槇島城に籠城し、にっくき織田信長に対して最後の挙兵を断行し、2週間ちょいで降伏した(実際の戦闘は半日弱)地なのです。これは行かないわけにはいきません。んで、実際に行ってみたんだけど……いまやここは、当時あった巨椋池(おぐらいけ)も完全に干拓されてごくごくフツーの住宅街と化し、城跡の雰囲気をいっさい感じさせないこぢんまりとした公園になっていました。親子が1~2組、お天気の良い昼近くにブランコやシーソーでたわむれている光景……なんか、平等院とは真逆のベクトルで涙が出てきてしまいました。槇島城の解説板はあったけど、ねぇ。まぁ、来てよかった。山形から宇治に来たのに、なぜか15年以上独り暮らしをしていた千葉の、そこらじゅうにあった公園のある平和な風景を思い出してしんみりしちゃいました。なんでわざわざ京都に来て、千葉のノスタルジィ!?

・法相宗大本山 興福寺
 ……ここからは、京を離れて奈良県の史跡めぐりですね。んもぉ~言うことありません。さすがは、天下の藤原一族ゆかりの氏寺!! 足利義昭公も門跡だったし、ここも行かなきゃ。中金堂、東金堂、五重塔、国宝館!! もう、おなかいっぱいでございます。阿修羅像はやっぱスゲー!!
仏像もすごいんだけど、それを守る建造物の大きさ、黒さ、そしてやわらかさが、悠久の木造建築独特の力をはなち続けていますね。感服。

・華厳宗大本山 東大寺
 ……奈良に来たからには、ここにも行っとかなきゃ! 東寺も平等院も興福寺も観光客であふれかえっていましたが、やっぱりこの東大寺がにぎわいナンバーワンですよね。だって、人海にシカがプラスされちゃってんだもんね! 熱中症やら人酔いやらに合わせて、毘盧遮那仏をはじめとする巨大な仏像のサイズ酔いにもクラクラきてしまいました。センターの大仏様で目立たないんだけど、周りにいる如意輪観音さま、虚空蔵菩薩さま、広目天さまと多聞天さまのスペシャルユニットもたいがい巨大ですよね。ここに怪獣の恐怖感を見出した奥浩哉先生は、やはり天才。

・大和国 多聞山城
 ……ここも、宇治の槇島城にならんで今回のメインスポットと目していた、あの「元祖覇王(?)」こと松永弾正久秀の政治的本拠だった城!!の、跡。実に哀しいことに、城の雰囲気を残すものは空堀跡くらいで、大部分は現在、奈良市立若草中学校の敷地になっておりますが……槇島城よりはマシよね。実際の敷地には石碑くらいしか残っていないのですが、すぐふもとの町にある若草公民館の中に、城の再現ミニチュアや資料が展示されていました。今でも、松永弾正の城は地域に愛されているんですねぇ。角川映画の『伊賀忍法帖』が公開された時は、地元のみなさんはどんなリアクションだったんでしょうかね……今でもタブーだったりして。とにかく、本丸のあった若草中学校の高さから見る奈良の町は、東大寺もバッチリ見れて最高の立地でした。多聞山城のすぐ隣に、あの聖武天皇夫妻の陵があるのも、うなずけますね。

・国営平城京跡歴史公園
 ……またしても一日があっという間に過ぎて夕刻が迫ってきていたのですが、無理をして平城宮跡にも行ってきました。大極殿とか朱雀門とか遣唐使船とか、当然復元ではあるのですが、やっぱり鮮やかな朱に彩られた実物大の迫力はいいですね! ロマンたっぷりなのですが、時間の都合で展示館に入れずに周辺をチャチャっと早足で歩いて退散しなければならなかったのが、無念! こりゃまた行かなきゃダメだな。広大な公園自体はだだっ広くて風情があるのですが、ちょっと離れるとすぐにビル街があるのが、古都なだけではない奈良県の今を伝えているようで印象的でした。さすがに、そこは山形とは全然違いますよね。

三日目(晴天)
・天智天皇山科稜
 ……今回は「足利義昭公ゆかりの地を歩く」というコンセプトで、槇島城、興福寺と来たわけだったのですが、最終日は、めでたく室町幕府第15代将軍となった義昭公が、三好三人衆の恐怖の襲来を受けた「本圀寺合戦」で有名な本圀寺を探訪することにしました。とは言いましても、実は現存する本圀寺は、義昭公が仮の幕府御所とした当時の土地(六条堀川)とは全く別の場所にあり、京の中心からけっこう離れた山科区の山の中なんですよね。でも、現存する以上はやっぱり行った方がいいんじゃなかろうかということで訪れたわけなんですが、非常に静かで自然豊かな散歩に格好の土地でした。そして、本圀寺のふもとあたりには、あの天智天皇の陵もひっそりとあったのです。参拝客は一人もいませんでしたが、帝のみささぎって、散策するには最高の空間ですね……山形には無い場所なので(古墳はいっぱいあるけど)、思いっきり、その独特な空気を感じてきました。

・日蓮宗大本山 本圀寺
 ……こちらもやはり参拝客は全然いなかったのですが、近くの琵琶湖第一疎水の方は散歩してる人もいたかな。最終日は新幹線の時間もあってあんまり長くはいられなかったのですが、朝のおいしい空気を、とってもぜいたくな場所でいただいてきましたよ。ありがてぇありがてぇ! 決して大きな寺院ではないようですが、山門や本堂がやたらと豪快な造りだったなぁ。さすが、あの加藤清正公と縁があるだけはある!


 そんなこんなで、前回は歴代足利将軍~足利義輝公ゆかりの地を、今回は足利義昭公ゆかりの地を訪れることをメインテーマに楽しんできた京都・奈良旅行でありました。2回もみやこに行っちゃったよ……過分のしあわせ!!
 次回はいつ行けることやら。今度は大坂にも足を運んでみたいね! あっ、忘れちゃいけない桃山・伏見城! まだまだ、畿内は広大だわ……



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