長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

さそり女に『電人ザボーガー』への羨望を見た!? ~映画『シン・仮面ライダー』~

2023年03月25日 23時37分47秒 | 特撮あたり
 どもども、こんにちは! そうだいでございます~。
 いやはや、なにはなくとも花粉症……カンベンしてよ花粉症!! 今年はほんとに最悪ですね。
 おかしい、年齢を重ねると体力も落ちていくはずなのに、なんでこうも花粉症に対する不必要な体内抵抗運動だけは激化する一方なのでありましょうか。そんなに過剰に反応しなくてもいいのに……ちょっとは、「カラダ」という、同じ釜の栄養素を摂り合う秘密組織の同志である「鼻の下の皮膚」支部とか「目のまわりの皮膚」支部の惨状もおもんぱかって、液体は気持ちひかえめに分泌していただきたいと!! ホント、いい加減にしてください! 「脳みそ」本部からのおねがい!!

 ってな感じで、どこの世界でも「組織の横の連携は大切ネ」という、強引きわまりないつなげ方をもちいまして、この早春に話題沸騰の、この映画の感想記に入らせていただきたいと思います。入って……いいよね? ちゃっちゃとやっちゃいましょう。
 まぁ、「話題沸騰」と言いましても、『シン・ウルトラマン』から間もないこともありますし、具体的に言うと、私の周辺では「鍋の壁にちょこちょこっと泡がついてきたかな。」くらいのくつくつ感でしょうか。ゆで卵そろそろコロコロするかぁ、みたいな。


映画『シン・仮面ライダー』(3月17日公開 121分 東映)


 満を持しての、庵野秀明さん、おんみずからによる脚本&監督作品のご登板ですね。

 庵野監督と言えば、わたくしにとって決して忘れることのできない思い出は、何と言っても、関東地方で独り暮らしをしていた時代に観に行った、池袋・新文芸坐におけるオールナイト上映企画「ウルトラマン45周年記念 『帰ってきたウルトラマン』庵野秀明セレクション10+1」(2010年9月18日開催)での、生・庵野秀明監督&生・団時朗さまトークショーへの謁見でございました。じ、自分で昔の記事をひっぱり出してビックラこいちゃった……もう10年以上前のことなのか。
 これは言うまでもなく、ステキな体験でした。個人的には、間近で見たそのお2人も当然ステキだったのですが、それ以上に感動してしまったのが、客席にいらっしゃっていた「新マン」その人・きくち英一さんに挨拶をして、握手をしていただいた、そのてのひらのあたたかさ。最高のオールナイトでしたね。
 団さんも、まさか、あのあたりのウルトラご兄弟の中で、いちばん早く光の国に旅立たれるとはねぇ。残念でなりませんが、あの日も陽気で飾りっ気のないトークが非常に印象的でした。あちらでバーベキューパーティの準備をしているのか、それとも、久しぶりに再会した「兄さん」岸田森サマと、お互い身体のことなんかいっさい気にせずおいしいお酒をかっくらっていらっしゃるのか。こちらとしても、海岸を走りながら笑顔で手を振って、送ってさしあげたいところです。

 それはともかくとして今回は、おそらく、その『帰ってきたウルトラマン』と同等に庵野監督の思い入れが強いと思われる伝説の特撮ヒーロードラマ『仮面ライダー』(1971~73年放送 全98話)の、庵野監督ご自身によるリメイクでございます。

 さて、『仮面ライダー』のリメイクと申したときに、我が『長岡京エイリアン』として無視するわけにはいかないのが、同じくさかのぼること10年以上前に世に出た『仮面ライダー』のリメイク作品である、映画『仮面ライダー THE FIRST』(2005年)と、続編の『仮面ライダー THE NEXT』(2007年)の2作であります。なつかし~!
 この2部作については、すでに過去の記事でつらつらつづっていはいるのですが、簡単にかいつまんで言いますと、私はこの2作の「キャラクターデザインとアクション演出」を高く評価して、その一方で「原典になかった平成オリジナル要素との水の合わなさ」が良くなかった、と言っていたかと思います。『THE FIRST』は「善悪のあいまいな世界観」が、単純明快なライダーアクションをなんとも感情的にすっきりしないものにしてしまっていたし、『THE NEXT』は、ショッカーそっちのけでしゃしゃり出てくる「Jホラー(化石語)」要素に物語をいいように引っ掻き回されていた感じでした。もう恥ずかしくて見てらんないよ、長い黒髪の怨霊が「ずずず……」なんて!!

 ともあれ、『仮面ライダー』の平成におけるリメイクは、そんな感じで「当時のトレンドに寄り添いすぎた。」みたいな感じで失敗……してしまっていたと思います。でもこれはこれで、平成らしくていいのかもしんないですが。やたらと線が細くて悩みまくる黄川田将也さんの本郷猛も、実に平成らしい主人公像ですよね。基本的にヒーローではないんだなぁ。そして、そこらへんに対する気持ちいいくらいのカウンターパンチとして、あの「鬼神」本郷猛のあらぶる大怪作『仮面ライダー1号』(2016年)もあるわけでして……タケシ~♡

 ほんでま、今回の「令和」リメイクであるわけです。でも、監督が庵野さんなんですから、令和100%になんてなるはずがなく、「120%昭和で令和成分は1%もしくは無果汁」というファンタみたいな映画になっていました。いや、クセの強さで言うのならば、これはネーポン映画と称するべきか……アジアコーヒ日の出通り店!! あ、ネーポンは果汁10%ですか。
 で、ごたくはここまでにしておきまして、肝心の『シン・仮面ライダー』を観た感想はといいますと、


ライダーサイドはいいんですが……ショッカーサイドが雑すぎやしないかい!?


 こんな感じでございました。わたくし、ど~にもこ~にも、ショッカーが大好きなんだよなぁ。

 映画自体は、非常におもしろかったです。庵野監督のこだわりが強すぎて娯楽作品になっていない、という声もあるようなのですが、いや、そんなにマニア向けな問題作でもないし、庵野監督お得意の「オーグメンテーション」だの「プラーナシステム」だの「ハビタット世界」だのという聞きなれない専門用語は確かに氾濫しますが、そんなのはテキトーに「こういうことかな。」程度に理解して受け流しちゃえば、物語の大筋もおおむねスッと頭に入ってくると思います。わかりやすいですよね。
 なんてったって、『仮面ライダー』の「仮面」と「ライダー」、どっちも非常に誠実かつ丁寧に描いているのが、ものすごく良かったと思います。そりゃもう、昨今の「変身おもちゃの売れ行きが一番大切」みたいな後輩新人連中の横っ面をビビビビビンとひっぱたくような単純明快さでしたよね。人を殺める異常な能力の代償として醜くゆがんだ顔を隠すための仮面。そして、1号にとっては変身のためのエネルギーを得るために、2号にとっては孤独を癒すために必要不可欠なパートナーとしてのバイクの大活躍!!

 そして、とらえようによっては完全に緑川博士の狂気に振り回される被害者になってしまった境遇を呪うことなく、震えるその身体を理性で抑え、正義の心を持った大自然の使者・仮面ライダーとして命を賭す覚悟を手にした本郷猛を演じきる、池松壮亮さんの立ち居振る舞いの説得力よ!! さすが第33代・金田一耕助の名跡を背負うだけのことやは、ある!!
 今回のリメイクは、本当に池松さんの本郷猛で、その品質がもっている部分が大きいと思います。そりゃまぁ、他の役者さんがたの演技もいいんですが、作品に占めるウェイトがあまりにも違いすぎます。当然、ラストシーンで本郷から仮面ライダーの名を継承する一文字隼人を演じる柄本さんも、そのひょうひょうとしたヒーロー感が素晴らしいわけなんですが、やっぱりそこに、冷静で優しい本郷の声が加わるからこそ、この作品は非常にあたたかい朝日のような、希望に満ちたエンディングを迎えることができると思うのです。♪ひっとりっじゃないってぇ~、すってきっなこっとっねぇ~!! あのメガネピンクの女の子がいたら、絶対この歌うたってたでしょ。
 このエンディングの「1号から2号への継承」は、原作者である石ノ森章太郎のコミカライズ版『仮面ライダー』(1971年連載)のちょうど真ん中あたりのエピソードとなる第4話『13人の仮面ライダー』の展開をベースにしているのですが、ここをエピローグに持ってきたところに、庵野監督の『シン・ウルトラマン』脚本にも通じる「人間愛賛歌」を感じることができます。ホント、思春期にあの『新世紀エヴァンゲリオン まごころを、君に』の洗礼を受けたわたくしといたしましては、あんなにほっこりしたエンドロールを観ることができるのが、心の底からうれしいわけなんですよ……ハッピーでよかったぁ~!!

 この『シン・仮面ライダー』は、本郷猛・緑川ルリ子・一文字隼人という3人の「仮面ライダーサイド」の若者たちの魂の響きあいと克己・成長の物語であると考えれば、とっても気持ちよくルートの整理された群像劇であると思います。繰り返しますが、特に本郷を演じる池松さんの演技が、いい! 砂浜でトンボを切った後の、ちょっと足元を踏み固めながらはにかんだ時の少年っぽい微笑……いいね!! これから死ぬかもしれない決戦に臨もうとする人間が、そういう一面を信頼する仲間に見せて安心させようとしている。自分の命よりも他人の安心に気をつかう人間であるという、この本郷像が、父の生きざまに見事にリンクしているんですよね。これは、庵野脚本というよりは、それを元に緻密な演技プランを構築した池松さんの功績だと思う。すごいよ、このお人は!!

 ……と、まぁ、わたくしが申しあげたいこの作品の良いところは、だいたい以上でございます。

 それでまぁ、その一方で気になったところなんでありますが、ざっと大きく分けて、3つほど。


1、それは……組織なのか? ショッカーの説得力が、なんかイマイチ。

 先ほども言ったように、この作品における悪の秘密組織「ショッカー」の存在感が、ど~にも納得いかないんです。あ、網タイツ女戦闘員が多めなのは、良いと思います。女性進出バンザイ!!
 私の考えが古いのかも知れませんが、やっぱり組織って、そりゃ改造して苦しみから解放してくれたっていう恩義も大事でしょうけど、「同じ目的に向かって時に競争し、時に協力し合う」信頼関係(共犯関係)がないとやっていけないと思うんです。たとえその目的が世界征服だとしても。
 でも、今回の『シン・仮面ライダー』におけるショッカーって、「緑川チーム」だとか「コウモリ研究室」だとか「死神グループ」とかいう派閥っぽい名前だけは出てくるんですが、結局どういうテリトリー分けをして、どういった感じで作業人員(改造人間の素体とか戦闘員)を確保する経済力を得ているのかが、さっぱりわかんない。
 いや、そのあたりの現実的な資金源がはっきりしないのは、歴代の悪の秘密組織のほとんどがそうなので見逃すとしても、「人類全員をハビタット世界に送り込む=死んでもらう」なんていうのを目標にしてる改造人間なんて、「この世の人間、一人残らずわらわにひれ伏しなさ~いオホホ!」みたいなゆかいな人たち(ハチとかさそりとか)と同舟できるわけないじゃないですか。全員ニコニコ顔で死んじゃったら、誰が女王蜂サマにおいしいワインを納入するんですかって話ですよ。
 それは……果たして同じ組織に所属していると言えるのか? っていうか、そんな利益の食い合いしかしないような奴らをポンポン生み出してる状態のものを、組織というんですか!? ライダーとか政府とかが何かしなくても、そんなの自然につぶれちゃうんじゃないの?
 そうなんですよ。この『シン・仮面ライダー』は、半分以上確信犯的に「カリスマ的なリーダーなんていない。」という、実に現代的な悪の組織のスタイルを打ち出してはいるのですが、それはすでに『仮面ライダーストロンガー』におけるデルザー軍団の教訓が指し示すように、「ありそうで一番ない」悪手なのです。かと言って、『仮面ライダー THE NEXT』みたいにヨボヨボ声の大首領さまが出てきてもどっちらけなんですけどね。

 だから、緑川イチローを、「緑川チーム初の改造人間」なんていう規模にとどめないで思い切ってショッカー大首領にしちゃった方が、いっそのことわかりやすくて良かったのかも知れませんが、そこはそれ、そうしちゃうと続編が作れなくなっちゃいますから、保険として「ショッカーいまだ健在なり」の形でおしまいにしたかったんでしょうね。そうは言っても、おそらく庵野監督自身に続編を作る意思はないと思われるのですが。コブラ男……どこまでもふびんなヤツ!
 でもほんと、イチローさんって、本郷と一文字がなんとかしなくても、そのうち死神博士か地獄大使ポジションの人が排除しちゃってたんじゃないかな。思想がアブな過ぎますよね……生産力も労働力も一切がっさい滅ぼしてどうすんだよ! そういうのはNERV かゼーレでやってちょうだい!!


2、なぜクライマックスにいくにつれて、戦闘アクションがつまんなくなるの!?

 これ、不思議なんだよなぁ。映画って、後半にいくにつれて、敵が強くなるにつれて、どんどん盛り上がっていくものだと思うんだけどなぁ……やっぱりこれも、私の考え方が古いのか?
 具体的に言いますと、私としましては、この作品内でアクション的にいちばん面白かったのは、VS 蜂女戦でした。その後は、あんまりピンとこないか、暗くて見えにくい戦いばっかりで、ねぇ。
 あ、途中ですみません! 『シン・ウルトラマン』の感想記事でもそうでしたが、我が『長岡京エイリアン』において、いわゆる「シン」シリーズで庵野さんが改めた「禍威獣」だの「なんとかオーグ」だのという言葉遊びはいっさい採用せず、原典通りの呼称で通させていただきます。理由は、原典をわざわざ改める必要性も面白さも感じないからです。

 その蜂女戦も、高速移動する蜂女の残光をネオン上に表現する感じはとっても良いと思ったのですが、なんで「スズメバチの毒」という、いかにもありそうな要素が劇中に全く反映されなかったのでしょうか……いや、わかりますよ!? そこで蜂女も毒を持ってきちゃったら、あのエピソードのきれいなオチにいきませんからね。
 でも、毒系の武器も無いし、毒への耐性も無い蜂女って、どうなんだろ……確か、シン・仮面ライダーチップスのライダーカードでも「刀に猛毒が塗ってある」って書いてあったから、楽しみにしてたんですが。これだったら、あの和智正喜先生の小説版『仮面ライダー』の蜂女の方がよっぽどハチっぽいですよね。

 ただ、今回の『シン・仮面ライダー』におけるアクション演出は、どの改造人間戦でも、ちょっと凡人には理解しかねる「はずし」が多すぎるような気がします。蜂女戦も、2対1の日本刀アクションの時に、カメラが3人に近すぎて太刀筋が見えにくいのなんのって! もうちょっと離れたところから観たかったですよ。『キル・ビル』みたいにすれば、西野さんも最高に映えたはずなんだけどなぁ。

 だいたい、冒頭のバイクとダンプカーの爆走カーチェイスからして、ダンプカーが停車していたパトカー2台を事もなげに蹴散らすっていう、昔の『西部警察』みたいなアクションドラマだったら何個かのカメラでアップ撮影して繰り返し流しそうな瞬間を、遠景空中撮影でさーっと流しちゃってるじゃないですか。正気を疑いますよ……何百万かかってるんだってとこを、そんな、もったいない! いや、もしかしてあそこ、CG なのかな?
 それで、「2対11の VSにせライダー戦」にいたっては、最悪のまっくらトンネル内での展開ですもんね。なんで!? なんで暗闇で処理すんの!? コミカライズ版でも外で戦ってたよ!? 雨だったけど。

 わかんない……また引き合いに出しますが、ことバトルアクションに関して、この『シン・仮面ライダー』は、『仮面ライダー THE FIRST』と『仮面ライダー THE NEXT』に圧敗していると思います。そりゃもうあーた、『THE FIRST』と『THE NEXT』のアクションは、その道ウン十年のプロの職人さんがたの仕事ですから! 屋敷内の大乱闘で、伸ばしたヒザをボギッと逆方向に踏み折られていたにせライダーさん、めっちゃくちゃ痛そうだった~!! そういうとこ! そういう生々しい痛さが、いくら血しぶきがあがっても血へどを吐いても、今回の『シン・仮面ライダー』にはいっさい感じられなかったのです。そこの違い、大きいですよね。

 最後の VSイチロー戦も、なんか長期戦に持ち込んだらパワー切れで勝てました、みたいななし崩し感、ありましたよね。そんなに強そうじゃないんだよなぁ。波動攻撃を受けてライダー2人が血を吐くっていうのも、ハビタット世界に連れてかれて笑顔で死ぬ人たちっていう伏線とぜんぜんつながってなかったし。
 なんだかんだ言って最後は話し合いで決着がつくっていうのも、そりゃまぁ締め方としてきれいなのかもしれないけど、あの実写版『キューティーハニー』(2004年)からまるで変わってないなぁ、みたいな既視感と脱力感に襲われました。あの映画の VSゴールドクロー戦が、庵野監督の実写版ベストバウトなんじゃないですかね。お金、かかってたねぇ。

 あと最後に、これだけは言っておきたい。

カマキリカメレオン、天狗の隠れ蓑を捨てて戦って、どうする!? あと、隠し武器のカマ、リーチ短すぎ!!

 あいつ、本物のあほやで……これにはさすがに、モニターで見ていたであろう死神博士と開発チームご一同も、そろって開いた口がふさがらなかったことでしょう。改造人間2体ぶんの手術開発費、返せコノヤロー!! クモ先輩も草葉の陰で泣いているぞ!


3、『シン・仮面ライダー』なのか『シン・石ノ森章太郎ランド』なのか、はっきりしてくれ!!

 これ、実は内心、ほっとしている部分もあるのです。あぁ、庵野監督は、『シン・仮面ライダーV3』を作る気はないのだな、と。

 今回の『シン・仮面ライダー』って、これまでの『シン・ゴジラ』や『シン・ウルトラマン』にも増して、原典となった作品以外のフィクション作品から引用されたとおぼしき「雑味」が多いような気がするんですね。ちなみに、『シン・ウルトラマン』は『ウルトラマン』やその周辺の公認二次史料書籍(でたらめ)にヒントを得ている部分が多く、『シン・ゴジラ』は主に1984年版『ゴジラ』を意識している部分が非常に多いものの、「形態変化するゴジラ」という新要素は、「作品ごとに顔つきも大きさも性格もコロッコロ変わるゴジラ」という楽屋落ちネタを逆手に取ったアイデアだと思います。だからこそ、一般の人にもマニアの心にもささる面白さとなったのでしょう。あと、東日本大震災の記憶を巧妙に思い起こさせる国難のイメージも上手に取り入れていたし。

 それに引き換え今回はと言いますと、ラスボスたる緑川イチローの変身イメージは、『仮面ライダー』サーガとは直接の関係の無い『イナズマン』(1973~74年放送)を、ショッカーの改造人間たちの活動を無言で見守る不気味な紳士ロボット「ケイ」は『ロボット刑事』(1973年放送)を、その前身であったと語られる車椅子のロボット「ジェイ」の外見は『人造人間キカイダー』(1972~73年放送)を元にしたものになっているように思われます。それらの作品の共通点は、「石ノ森章太郎原作の特撮ヒーロー番組である」ということです。
 そして、イチローとその妹ルリ子(母は違うそうですが)の兄妹の因縁は、『仮面ライダーV3』の主人公・風見志郎とその妹・雪子のネガとも見える愛情関係ですし、イチローの白いマフラーと、回転するタイフーン機構が2つ並んでいるベルトなんかはまるまる V3のイメージと重なります。確かに、ダブルライダーを向こうに回してあんなに貫禄のある対処ができるんですから、あのイチローさんが単に「アマゾンの毒蝶ギリーラ」とかコミカライズ版の数少ない「ライダーに倒されなかった改造人間」である蝶だか蛾だかよくわかんない改造人間だけを元にしているわけがないでしょう。ドクガンダーのリファイン……にしては、もふもふ成分が足りないですよね。

 要するに、『仮面ライダー』単体が好きなマニアにとっても、『仮面ライダー』もなんにも知らない一般の若い人たちにとっても、「うん? なにこれ?」と戸惑ってしまうイメージが過剰に詰め込まれてしまっているので、「石ノ森章太郎原作による1970年代の特撮番組が好きな人」がストライクゾーンという、そりゃ間口もせまいわなという設定になっているのです。そりゃそうでしょう、私も『ゲゲゲの鬼太郎』に悪魔くんとか河童の三平が出てきたら、一瞬は盛り上がるかもしれませんけど、なんかしらけてしまいます。そんなサービス、重心がブレるだけでなんの特にもならないのです。庵野監督は、『オーズ・電王・オールライダー レッツゴー仮面ライダー』(2011年)という映画のラストバトルにおけるどっちらけなゲストパートは見ていないのかな? あれ、あんな尻切れトンボなお茶のにごし方をして、誰がよろこんだの?

 そりゃあなたね、こんなニッチな作品が『シン・ゴジラ』の80億円とか『シン・ウルトラマン』の40億円に匹敵する大ヒットになるのは、そもそも無理な話なんじゃないの? 「仮面ライダー」シリーズ映画作品の興行記録である19億円(『劇場版仮面ライダーディケイド オールライダー対大ショッカー』)を超えたら、御の字なんじゃないかなぁ。
 べつに、そこらへんの諸作を入れなくてもいいはずなのにねぇ……たぶん庵野監督は、そこらへんの石ノ森作品系の「シン化」は、仮面ライダーシリーズの後続作もひっくるめてもうやりませんよ、という意思を明らかにしたかったのではないでしょうか。そりゃ、もういいですよね。「シン屋さん」じゃないんですから。

 ところで、『仮面ライダー』以外の作品からの本作へのイメージの引用ということで、私としてちょっと見逃せないのは、作中のさそり女の、なんとも中途半端な「半分スケキヨ」みたいなのぺ~っとしたゴム製のフルフェイスマスクのデザインなのですが、これもまた、同じく石ノ森章太郎原作の特撮ヒーロー番組『快傑ズバット』(1977年放送)に出てきた悪の組織の大幹部格のゲストキャラがよくやっていた半分マスクがイメージ源となっているようです。
 そうではあるのですが、わたくしといたしましてはそれ以上に、石ノ森作品ではないものの、あの「日本特撮ヒーロー番組史上最高のリメイク」とも讃えられる2011年の映画化も話題となった、『電人ザボーガー』(1974~75年放送)における番組前半の悪の組織「Σ(シグマ)団」を統べるラスボス・悪之宮博士の「顔の半分がサイボーグ」というバカバカし……いやさ、業の深いメイクを想起せずにはいられません。

 この、なんともチープで不格好で、そもそも石ノ森先生が『仮面ライダー』シリーズに導入することを許さなかった半ゴム仮面メイクを、お客さん置いてけぼりでダダ滑りすること承知の上でさそり女におっかぶせた、庵野監督のシンの意図とは……?

 これはもうひとえに、「日本のエンタメ界の未来を担うシン・なんとかかんとかブランド」とか、「エヴァの庵野が次に何を見せてくれる!?」とかいう、常人ならば1秒として耐えられないような、メガトン怪獣スカイドンも真っ青の超絶重圧プレッシャーの中で生き続けている庵野監督の、「なんのプレッシャーもない、なんの期待もされない、ただ人を『くっだらねぇなぁ~オイ!』と笑顔にしてくれる世界へのあこがれと嫉妬」の、なんとも哀しすぎるあらわれなのではないでしょうか。嗚呼、時代の寵児ともてはやされる稀代の天才ゆえの苦悩、ここにあり!!

 そして、思い出していただきたい。『シン・仮面ライダー』であんなに真顔で緑川弘博士を演じていた塚本晋也監督(俳優じゃなくてまず監督!!)は、あのリメイク版『電人ザボーガー』で緑川博士と同じポジションの「正義のヒーローの開発者」となる大門勇博士を演じた竹中直人さんの盟友であり、俳優としては竹中監督作品の常連でもあるのです! どっちが監督なんだか非常にややこしいけど、『119』は最高だ!! 塚本さんに関しては、あの絶対に笑うところではない往年の緑川家の家族写真の中で見せる、明らかにかつらであるとしか思えない不自然にフッサフサな頭髪も、ある意味で竹中さんの異次元コント世界への憧憬であるとも解釈可能でしょう。可能なの!!
 それに加えるダメ押しとして、リメイク版『電人ザボーガー』でくだんの悪之宮博士を演じたのが、何を隠そう『シン・仮面ライダー』で大いに男を上げた一文字隼人役の柄本佑さんの父・明その人であるというところにも、何かしら因縁めいた善悪表裏一体の相関関係を感じ、戦慄せざるを得ません。佑さん、ほんとにいい俳優さんですよね! 『ハケンアニメ!』も非常によかった。

 まぁそういった、庵野監督の心の叫び&ガス抜きが、あの一見なんの意味もないように見えるさそり女のくだりには潜んでいるのですな。ですから、あのさそり女の挿話は、庵野監督にとっては絶対にカットするわけにはいかない、蜂女の能力を大幅に弱体化させてまでもねじ込まなければならない重要なシーンだったのでしょう。単なる『シン・ウルトラマン』のキャスティングにからめたファンサービスじゃないんですね。まぁ実際、劇場内で笑い声があがった数少ない場面のひとつでしたが。
 余談ではありますが、原典『仮面ライダー』において、かつてメイン登場人物(本郷猛)の親友だったという非常にドラマチックな前歴を持っていた改造人間は、他ならぬさそり男だったのです。その関係をまんま盗み取ってしまった「蜂女ひろみとルリ子」のエピソードに、さそり女もみごと一矢報いたわけで、両者には本作で新たな因縁が生まれてしまいましたね。同じ組織どうし、仲良くして~!!
 さらに余談。緑川ルリ子の親友ひろみという人物は原典にもコミカライズ版にも登場する準レギュラー的な人物なのですが(演・島田陽子!)、コミカライズ版ではあの蝙蝠男のせいでかなり残酷な最期を迎えてしまいます。改造されたほうが幸せだったのか、どうだか……

 あんな仕事を堂々と受けてくれた長澤まさみさんは、ほんとに度量の広いお方です。菩薩じゃ……伊達にモスラ呼んでませんよね。

 そんなこんなで、『シン・仮面ライダー』、そうとうクセの強い作品だけど、庵野監督「最後のシン作品」になることを切に願いつつ、いち特撮ファンとして「よくがんばりましたね。お疲れさまでした!」と暖かい拍手で迎えいれたいと思います。

 個人的には、基本的に男のおじさん(私もそうです)ばっかりだった劇場の中で、お父さんと一緒に見に来たらしい小学生くらいの男の子が、息をはずませながら興奮ぎみに、
「最初っからエンジン音全開だったね! ぶぉん、ぶぉおん!!」
 とお父さんに話していた姿を見て、心底うれしくなりました。

 そう。仮面ライダーの物語は、それで、いいのだ。
コメント (2)
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ヨーロッパなのに気持ち悪い映画、女子校となりて再臨!! ~映画『ベネデッタ』~

2023年03月18日 23時35分13秒 | ふつうじゃない映画
 ヘヘヘ~イ、みなさまどうもこんばんは! そうだいでございまする。今日も一日お疲れさまでした!
 いや~、もう春ですね……世の中は卒業、年度末シーズン真っ盛りということで、いろいろありました2022年度も、いよいよおしまいとなりつつあります。ここまで来て振り返るとあっという間な気がするのですが、今年度もヒーコラヒーコラ言って、なんとかここまでたどり着きました。
 また、これからどうなるかは分かったものではないのですが、現時点の感触としては、散々振り回されてきたコロナウイルス関係もひと段落しそうな機運になってまいりましたね。ほんとに、マスクしなくていいんですか!?っておっかなびっくりな感じではあるのですが、ついにこの時がやって来ましたか……なんの後ろめたさもなく県外やら東京やらに行ける時が!!
 いや、そんなん、私も大のおとななんですから、自分なりにちゃんと感染対策をしているのであればどこに行っても自由だったのではありましょうが、どうやら来たる2023年度は、私が長年あたためていた宿願プランを実行に移す好機がやって来そうです。ちょっと、車で関東までひとり旅としゃれこんでみたいんですよね。
 2015年に実家の山形県に帰ってきて以来、今まで150ヶ所以上の山形県内の温泉施設を巡ってきたのですが、そろそろ県外の温泉の味わいも楽しんでみたいなぁ、と思って。関東も温泉王国ですもんね! 夏あたりに行ってみたいのですが、ともかく体調を万全にして、体力があるうちにトライしてみたいもんだ。久しぶりに会いたいお友達のみなさまもいっぱいいますしね!

 さてさて、そんな感じで新しい季節の空気を感じつつ、今回はいつものように町の映画館に行って観てきた作品の感想をつづりたいとおもいます。いや~、今回もスクリーンで観ることができて良かったぁ!
 昨年末から、個人的に誰から言われることもなく始めた「とにかく毎週1本は映画館に行って映画を観る」という習慣なのですが、恥ずかしながら今までは観る選択肢にすら入っていなかったドキュメンタリー映画や往年の名画のリバイバルも含めまして、毎週毎週ほんとに楽しい体験となっております。ま、安いもんではありませんし、たまにゃハズレもあるにはあるんですが。
 そんで今が3月なので、だいたい15本くらい観てきたことになるのですが、ここにきて、ついに2023年に観た映画の中でも個人ベストになりそうな作品に巡り合えました! いや、まだ3月なんですが、これはけっこう最後まで上位ランキングに生き残りそうな感じがするよ!!


映画『ベネデッタ』(2021年7月公開 132分 フランス)
 『ベネデッタ( Benedetta)』は、ポール=ヴァーホーヴェンが共同脚本・監督したセクシュアル・サスペンス史劇映画。
この映画は、ジュディス=C=ブラウンによる1986年のノンフィクション『ルネサンス修道女物語 聖と性のミクロストリア』(ミネルヴァ書房・刊)に基づく。その制作には、プロデューサーのサイード・ベン=サイード、脚本家のデイヴィッド=バーク、作曲家のアン=ダドリー、編集のヨープ=テル・ブルフ、女優のヴィルジニー=エフィラなど、ヴァーホーヴェンの前作『エル』(2016年)の主要な参加者のほとんどが引き続き関わっている。
 本作は2021年7月に開催されたフランスの第74回カンヌ国際映画祭のパルム・ドールのコンペティション部門で初公開された。当初、本作は2019年5月に開催された第72回カンヌ国際映画祭でプレミア上映される予定だったが、ヴァーホーヴェンの股関節手術にともなう療養のため編集作業が遅れ、さらに新型コロナウイルスのパンデミックにより2020年5月に開催される予定だった第73回カンヌ国際映画祭が中止されたため、公開は延期されていた。

あらすじ
 1599年。イタリア半島中部トスカーナ大公国の地方都市ペシアで、9歳の少女ベネデッタ=カルリーニは、両親の後押しにより修道女になるためにシスター・フェリシタが運営するテアティノ会修道院に入山した。その14年後、宗教劇で聖母マリアの役を演じていたベネデッタは、キリストが呼びかけてくる幻視を体験する。そんなある日、バルトロメアという若い農民の女性が父親の虐待を逃れて修道院に入山する。ベネデッタはバルトロメアの教育係を任されたその夜に、バルトロメアに接吻される。
 その後、ベネデッタはイエスの幻視を繰り返し体験するようになり、深い苦痛を伴う病気に陥る。フェリシタ修道院長はバルトロメアに彼女の世話を任せるが、ある朝、ベネデッタは両手の平と両足の甲に聖痕を刻んだ状態で目を覚ました。修道院はベネデッタの聖痕の真偽を調査するが、フェリシタ修道院長とその娘の修道女クリスティーナは懐疑的だった。しかしベネデッタは突然、額に新たな傷をつけて怒った男性の声で叫びだし、自分を疑う人々を非難する。フェリシタ修道院長とペシアの主席司祭アルフォンソが、ベネデッタの幻視体験の数々をどのように扱うべきかについて論争を繰り広げた結果、ベネデッタはフェリシタに代わって修道院長の地位に就任することとなる。

おもなキャスティング(年齢は映画公開当時のもの)
ベネデッタ=カルリーニ …… ヴィルジニー=エフィラ(44歳)
フェリシータ修道院長  …… シャーロット=ランプリング(75歳)
バルトロメア      …… ダフネ=パタキア(29歳)
ジリオーリ=ヌンシオ教皇大使 …… ランバート=ウィルソン(62歳)
アルフォンソ=チェッキ主席司祭 …… オリヴィエ=ラブルダン(62歳)
修道女クリスティーナ  …… ルイーズ=シュヴィロット(26歳)
修道女ヤコパ      …… ギレーヌ=ロンデス(56歳)

おもなスタッフ(年齢は映画公開当時のもの)
監督・脚本 …… ポール=ヴァーホーヴェン(83歳)
共同脚本  …… デイヴィッド=バーク
原作    …… ジュディス=C=ブラウン『ルネサンス修道女物語 聖と性のミクロストリア』
撮影    …… ジャンヌ=ラポワリー(58歳)
編集    …… ヨープ=テル・ブルフ(48歳)
音楽    …… アン=ダドリー(65歳)


 いや~、これはすごい映画だった。まず、ヴァーホーヴェン監督っていう時点で普通の映画なわけないっていうのは明らかだったのですが、その予想ハードルを意図も軽々と全裸でスッポンポーン☆と跳び越えていくような大傑作でしたね! この「全裸」っていうところが大事! ユニホームを着なきゃいけないとか、審判の判定は絶対とかいう常識を笑顔で無視するような、融通無碍な愛嬌と暴力性に満ちた作品なのです。しょうがないね~コリャ!

 監督された全作品を観ているわけではないのですが、1980年代生まれの私にとりまして、ポール=ヴァーホーヴェンと聞けばなんと言いましても『ロボコップ』(1987年)ですし、『トータル・リコール』(1990年)なのであります。ブラウン管から飛び出る、ハリウッド的未来世界の衝撃的 SFX映像の数々! シュワちゃんの眼球が!! 準備はい~い!?
 当時小学生だった私が観た時、やっぱり先に脳髄にぶっ刺さってくるのは、まだ CGに頼りきりにならなかった末期の特殊効果メイク技術の大盤振る舞いでありまして、何の脈絡もなく工場廃液で溶ける悪人のおじさんだとか、おじさんのお腹に隠れてるちっちゃなおじさんだとか(おじさん多いな! でも、確かにヴァーホーヴェン作品はそんなにかっこよくないおじさんの見本市ですよね)の、TVでふつうに放送される洋画劇場だからと言って、油断は全く許されない唐突なグロテスク表現の数々なのでした。それにひきかえ今の洋画劇場は、ずいぶんとマイルドになったよね~! なんかあったら国産アニメかディズニー傘下のファミリー映画だもんね。たまにはチャールズ=ブロンソンくらい出してみろってんですよ。幼稚園か小学校の時に洋画劇場で観た『ロサンゼルス(Death Wish2)』はこわかった……

 でも、40歳を過ぎた今になって思い起こしてみると、ヴァーホーヴェン監督の作品から私が学んだのは、「傷ついた孤高のヒーローの美しさ」だったような気がします。これを、定番の石ノ森章太郎の世界からでなく、遠くアメリカの、しかもご本人は欧州オランダのご出身というヴァーホーヴェン監督から学んだという事実は大きかったです。ちょっとね、コミカライズ版の『仮面ライダー』も萬画版の『仮面ライダー black』(1987~88年連載)も、今だとその面白さはよくわかるんですが、当時小学生だった身にしてみれば、怖さとか難解さが先に立っちゃってねぇ……『 black』のカマキリ怪人の回はトラウマになりましたねぇ~!! あんなん、よく『サンデー』に掲載してたもんですわ。昭和はやっぱこわい!!
 ともかく、かっちょいいヒーローになりはしたものの、自分が誰なのか、ほぼ全身サイボーグとなっている状態が果たして生きていると言えるのかどうか、そして自分が命を懸けて守るべき「正義」とは何なのかを自問し、悩みながら日々の闘いに身を投じていくマーフィ巡査の姿にはぞっこんになりました。まさに「異形の哀しみ」……これはもう、のちの平成仮面ライダーではついぞ観ることが無くなってしまった、石ノ森イズムの克明な体現ですよね。また、ロボコップのテーマがほんとにかっこいんだ……ヴァーホーヴェン作品ではないけど『ロボコップ2』のテーマもいいですね。アホアホマーン!!

 まま、そんな感じでハリウッドの世界でも特異の輝きを放っていたヴァーホーヴェン監督が、よわい80を超えて中世ヨーロッパの禁断の聖域・修道女教会で実際にあったという「修道院奇跡真贋事件」の映像化に挑む!! この報を聞いて「フハッ!」と鼻息を鳴らして興奮しない男がいるでしょうか、いや、いない!!
 そんな感じで今回の『ベネデッタ』を観る運びとなったわけなのですが、実は、劇場予告編の段階では往年のヴァーホーヴェン作品っぽい過激さがあんまりアピールされていなくて、ひたすらきれいな主演のヴィルジニーさんのかんばせが映されるばかりで、果たしてどんな作品になるもんかが分からなかったんですね。私も不勉強なことに尼さんメインの映画を観るの初めてだし、ヴァーホーヴェン監督もおじいちゃんになったし、意外とおとなしい文芸映画かも、という気もしていたのです。

 ところが……それは全く見当違いな予想でした。あのヴァーホーヴェン監督が無難な歴史ドラマを作るわけがないだろうと! 誰がおじいちゃんだ、ヴァーホーヴェン監督のエターナルな変態性に謝れ若輩者が!!
 もう、映画本編が始まる前から「こりゃとんでもない映画だ」感がものすごかったもんね……何気なく、上映前にコーヒーと一緒にこぢんまりしておしゃれな体裁のパンフレットを買うじゃないですか。で、ぱっとページを開いたら、もう最初に中世ヨーロッパの拷問器具「苦悩の梨」のイラスト付き解説文が目に入ってくるんだぜ!? 瞬時に嫌な気分になってしまいましたよ……これ、映画で使われんの?みたいな。思わずお尻が引き締まる思いです。

 それで、肝心の映画本編を観た感想なのですが、んまぁ~素晴らしい映画でした。ステキに華麗で残酷、汚い、気分が悪い!!
 最近の私の「気分が悪くなる」映画体験としては、どうしてもフィル=ティペット監督の『マッドゴッド』とアリ=アスター監督の『ミッドサマー』が筆頭に上がってくるのですが、言うまでもなく、それをもってこれらの作品を駄作と評する気はさらさらありません。むしろ、気分が悪くなるのも、それだけ私の魂が揺さぶられる劇的体験だったのだということで、観て良かったという気にもなるのです。
 ただ、今回の『ベネデッタ』は、それらの気分が悪くなる映画に匹敵するような過酷極まりない艱難辛苦の数々を主人公ベネデッタやその相棒(棒ないけど)バルトロメアに降りかからせながらも、その地獄めぐりの果てに、なぜかラストシーンで力強く全裸で生き抜く2人の肢体を立たせておしまいとなるのです! ここ! この結末がどうしようもなくヴァーホーヴェン監督っぽくて、その他の気分悪くなる映画にない、謎の感動を呼び覚ましてくれるんだよなぁ!! でも、なんで全裸なんだろう!? ま、いっか!
 なにはなくともカッコいいんですよね! このラストで、遠く望むペシアの町に火の手が上がっているのを見て「行かねば……」とおもむろに歩き出すベネデッタもカッコいいし、それに呆れて「バッキャロー! お前なんかどこへでも勝手に行って死にくされ!!」と罵倒しながらも、目に愛情の光を満々とたたえているバルトロメアの表情も実にいいんです。ここ、ふつうに『ロボコップ』のテーマが流れても全く違和感がないほどにベネデッタがカッコいいんだよ……いや、結局、映画の中で語られるベネデッタの「自称奇跡」の数々はきわめて怪しい詐術の香りが濃厚ですし、ペストの大流行に騒然となる町に徒手空拳の女一人が出向いたとて何ができるというわけでもないのですが、とにもかくにも、他人になんと言われようが自分の中に確固たる確信をもって歩き出す人間の姿に、有無を言わさず感動させられてしまうのです。惚れる……

 この映画を観ていて、ベネデッタが修道院に入り、禁欲的な生活に身を投じながらも突如として現れた野生児バルトロメアの誘惑に揺れ動いていくあたりから、私は「あぁ、これ『薔薇の名前』(1986年 ジャン・ジャック=アノー監督)に似てるなぁ。」と強く感じるようになりました。でも、男ばっかでむさいことこの上なかった『薔薇の名前』の男子校っぷりに比べて、この『ベネデッタ』はまるで正反対の女子校ですよ! ずいぶんと前の記事になってしまいますが、我が『長岡京エイリアン』での『薔薇の名前』(1986年)についての感想のつれづれは、こちらをご覧くださいませ。

 ほんで、中盤までは『薔薇の名前』に比べてきれいな女子がメインだし、校長先生(修道院長)もきれいだから見やすいなぁ~なんて思ってたのですが、ベネデッタが新校長になってまじめな生徒会長ポジションのクリスティーナが「そんなこと認められませんわ!!」と校舎の屋上から飛び降りたあたりから物語が血なまぐさくなってきて、見るからに俗っぽくて汚らしい、『薔薇の名前』でいうベルナール=ギーの立ち位置のヌンシオ教皇大使がしゃしゃり出てきたところから、この映画の暴力性がむき出しになってくるのです。これは……似てるんじゃなくて、完全に『薔薇の名前』を意識しまくりの鏡写しじゃないのか!?

 ところで、この映画で愛憎半ばのくされ縁共同体となるベネデッタとバルトロメアの百合カップルなのですが、パンフレットを読んでびっくりしたのが、主演のヴィルジニーさんが撮影時(2018~19年頃か)にアラフォーだったってことですよね。見た目が若すぎ!! そのお歳で思春期からのベネデッタを自然に演じてるんだもんなぁ。その一方のバルトロメア役のダフネさんも20代半ばだったわけなんですが、ヴィルジニーさんの堂々たる熱演の陰に隠れがちになりながらも、ダフネさんもダフネさんで、トイレのシーンで「よっしゃー出た! 気持ちいい~!!」と絶叫したり、例の苦悩の梨のえじきになった後なのに、わりと元気そうに「てめー痛かったぞコンチクショー!!」とベネデッタに殴りかかったりと、それ相当に女優人生を賭けた凄絶な演技を見せてくれたと思います。眉をひそめてしまうような過酷な体験を重ねているはずなのに、なんか楽観視しちゃう不死身感あるんですよね、このカップル。

 似てる似てるとは言ってますが、映画版の『薔薇の名前』は修道院内で起こる連続殺人事件の犯人を、外部からやって来た名探偵とワトスン役が追いつめる純然たるミステリーで、今作は同じサスペンス味はあっても、ベネデッタという明らかに異常な才能を持つ人間が爆心地となって修道院の常識的(当時)なシステムを内部から崩壊させ、しまいにゃそれを取り巻く町全体さえもぶっ壊してしまうというピカレスクロマンです。なので、たぶん構造からして全く別のジャンルの作品であるはずなのですが、な~んか、私から観ると似通ってる部分が多いと思うんですよね。
 それは、『薔薇の名前』でのワトスン役である青年修道士アドソ(演・クリスチャン=スレーター)の視点から見た世界と、今作でのベネデッタの視点から見た世界の、それぞれの変容っぷりが非常に似ていると思うからなんです。つまりは、自分でひたすら努力して獲得した知識と論理でうず高く構築された精神世界が、よそからアクシデント的に現れた「肉体の衝撃」(『薔薇の名前』の名もない村娘と今作のバルトロメア)によって、いとも簡単にぶっ壊されてしまうという構図のことです。たかがエロ、されどエロ!
 ただし、この村娘とバルトロメアの役割は、それぞれの作品の本筋とは実は関連の薄いお色気エピソード、と言い捨ててしまっても構わないところはあります。ワトスン役が捜査中に事件と無関係な村娘に逆レイプされて DTを捨てようが、頭がおかしくなって役に立たなくならない限りホームズ役にとってはどうでもいいことですし(鬼!!)、今作でベネデッタが異常な言動を取るようになった直接のきっかけは、かなり怪しげな手練れホスト臭をはなつ「神の御子の幻影」のほうなのです。天然かつ下品、まるで赤塚不二夫の世界から抜け出て来たような野生少女バルトロメアとのいちゃいちゃは、ベネデッタの引き起こした歴史的事件の比較してみれば、あくまでも添え物に過ぎません。
 でも、一見小さなマクガフィンに過ぎないようなカップリングが、なぜか「連続殺人事件の犯人は誰か?」や「ベネデッタは本当に奇跡を起こす聖女だったのか?」という、映画の中での最重要懸案を押しのけて、観る人の感動を引き起こし、記憶に色濃く残るのはなぜなのでしょうか。『薔薇の名前』で、一言も言葉を交わさないし、そもそもお互いの名前さえ知らない関係なのに、ラストシーンでの馬上のアドソと道端の村娘との無言の視線の交錯は、確実に観る者が実際に経験した哀しい記憶を呼び覚ますのです。あぁ、私もあの時、ほんのちょっと勇気を出してあの人に声をかけていれば……みたいなよう!

 その証拠として、ヴァーホーヴェン監督がちゃんと、ベネデッタがいざその「神の御子」とことに及ぼうとしても、肝心の彼の股間がツルッツルの「 No Image」になっているというカットを差しはさんでいるのですから徹底したものです。実体験を伴わない世界の、なんと薄っぺらなことか。

 そして、私が今回の『ベネデッタ』を2023年に観た映画ベスト1(2021年の映画なんですが)に推したくなる最大の理由は、その『薔薇の名前』パターンからさらに進化して、ベネデッタがいったん切れたバルトロメアを、「宗教裁判で魔女宣告、火刑!」という絶体絶命な窮地にいながら、その逆境を跳ね返しまくった末におのれの手で取り戻し、その上で「自分がベネデッタであるがゆえに」いとも簡単にぽいっと捨ててひとりで歩きだして終わるという、そのキャラクターの鋼の精神性にあるのです。むちゃむちゃやなキミ!! でも、あっぱれそれでこそベネデッタ。特殊技能のある肉体かとか、行動に論理性があるかとか、善なのか悪なのかとかは本当にどうでもよくて、その生きざまにおいて、ベネデッタは文句なしにスーパーヒーローなのです。ヒロイン、じゃないような気がする。ヒロインはあんな堂々とした歩き方はしない。少なくともアドソよりは漢ですよね。

 今さらながらネタバレになってしまいますが、『薔薇の名前』でも、確かに宗教裁判の判決と公開処刑はくつがえされて修道院は大混乱に陥り、宣告したはずのベルナール=ギーは逆にひどい目に遭ってしまいます。そこが現代の娯楽映画としてスカッとするクライマックスとなるわけなのですが、『ベネデッタ』はその繰り返しになんてとどまりません。そこにペスト大流行の狂騒もプラスし、さらにベネデッタ信者となったペシア市民の「ベネデッタさまを助けんべや!」という暴動的エネルギーを、ベネデッタがこともあろうにかつて敵でもあったフェリシータとタッグを組むことによって意図的に爆発させるという胸アツもいいところな『少年ジャンプ』的展開によって、火刑をまぬがれておまけにヌンシオ以下のローマ教皇お墨付きの裁判使節団を残らず血祭りにあげるという大下克上をやってのけるのでした。いやいや、いくら娯楽映画でも、程度ってものがあるでしょ!? 『 RRR』でもそんなムチャしてませんよ……けどヴァーホーヴェン監督だし、しょうがねっか。
 非道なおかみのお裁きをくつがえす民衆の大蜂起って、やっぱりいいねぇ。誰か、ファミコンで竹槍を持ったベネデッタが一人で疾走して悪代官ヌンシオをやっつける『べねでった』っていうアクション刺突ゲーム、作ってくれないかなぁ。

 私がすっごく好きな日本映画に、岡本喜八監督の『赤毛』(1969年)があるのですが、あのクライマックスで主演の三船敏郎さんや、その母役の乙羽信子さんが演じた市井の人々の怒りのまなざしを彷彿とさせ、その無念が時空を超えたこの作品で晴らされた! そんな思いがしましたね。江戸幕末沢渡宿の恨みを中世イタリアのペシアで晴らす! 国も時間もバラッバラ!! 『ベネデッタ』のほうが昔の事件よ。

 ほんと、この『ベネデッタ』っていう映画は、とにもかくにも中世ヨーロッパの陰惨でじめじめした宗教世界のおどろおどろしさが先に立つ映画なのではありますが、価値観がころっころ変わり、明日世界がどうなるのかもわからない現代令和の御世に生きる私達に大いなる勇気をくれる、実に実にヴァーホーヴェン監督らしい大傑作だと思います。こういったエネルギーを、御年80を過ぎたご老人からいただいてしまうとは……その半分しか生きてない私も、もっと頑張んなきゃなぁ!!
 『シン・仮面ライダー』もけっこうですが、『ベネデッタ』もそれ以上にものすんごいスーパーヒーロー映画ですよ。濫作状態になりっぱなしのアメコミ映画をぼんやり観てる場合じゃないですよ。

 最後に俳優さん方について触れておきたいのですが、何と言っても無視できない存在感を放っているのが、フェリシータ修道院長役のシャーロット=ランプリングさんです。おいくつになってもド硬派な美人。すごいなー、このお方は!!
 こんなにがめつくて俗っぽい小物感満点の修道院長を、なんでまたシャーロットさんが演じてるんだろう?と少し疑問に思いながら見ていたのですが、後半になって俄然重要人物のオーラを帯びてくるようになってきて、しまいにゃ「どきな、そこはあたいの行く場所だよ!」と言わんばかりにベネデッタを差し置いて火中に身を投じていく、その迷いのなさね! 結局、ほんとうの聖女(魔女?)は誰だったのかという部分を象徴的に物語るフェリシータの最期でしたね。

 あと、やっぱり映画は悪役の憎々しさが命というか、ヌンシオ教皇大使を演じたランバート=ウィルソンさんの嫌な感じも最高でしたね! 非常に俗っぽいベネデッタとの監禁部屋での問答も良かったのですが、なんといってもその最期に、瀕死になりながらもニヤリと笑って、「お前はそうやって、いっつも嘘つくのな!」とベネデッタに吐き捨てて逝く皮肉屋っぷりには、ゲスはゲスでもじたばたせずにゲスとして地獄におもむくという高潔なゲス美学を観た思いがしました。う~ん、かっこいい!! エンディングのベネデッタとバルトロメアの別れが映画『シェーン』(1953年)の本歌取りだとしたら、このベネデッタとヌンシオの末期のやり取りは『用心棒』(1961年)の本歌取りですな。ヴァーホーヴェン監督、にくいね!


 『ベネデッタ』、ほんとに大傑作でしたよ! 夏にソフト商品化するらしいから、絶対に買おうっと。
 でも、よそさまのお国の歴史的事件ばっかりおもしろい映画になるのもなんとなくシャクなので、日本でこういうドラマになりそうな事件はないのかな~と思ったのですが、ぱっと思いつくのはやっぱり、明治末期の女性超能力者四天王「長南年恵、御船千鶴子、長尾郁子、高橋貞子」あたりになりますでしょうか。山形県人の私としては是非とも長南さんを推したいところなんですが、さすがに明治政府も近代国家なので公開処刑みたいな画になるクライマックスもないので、まんまドラマ化してもちょっと中世ヨーロッパには勝てそうもないんですよねぇ。バルトロメアさんポジションも福来博士か親戚のおじさんになっちゃいそうだし。その点、やっぱり『リング』はうまい換骨奪胎でしたよね。
 民衆の反乱という意味では、室町時代後期の「百姓の持ちたる国」加賀国一向一揆がダイナミックでいいんですが、こっちもこっちで相手がローマ教皇とか神聖ローマ帝国ほど強くないから、なんだかなーって感じだし。

 『薔薇の名前』のときに言ったかも知んないけど、観たかったなぁ、実相寺昭雄監督の『鉄鼠の檻』! でも、そこに広がるのはタルコフスキー監督もビックリの睡魔召喚し放題地獄だったかも……こわ~!!
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ほんとに終わるの~? この際だからホラー映画『ハロウィン』シリーズをおさらいしよう

2023年03月12日 21時41分23秒 | ホラー映画関係
ホラー映画の老舗!!『ハロウィン』シリーズとは……
 映画『ハロウィン(Halloween)』シリーズは、1978年10月に公開された映画『ハロウィン』に始まる、アメリカのスラッシャー(殺人鬼)映画シリーズである。12本の映画作品のほか、小説、コミック、ビデオゲームなどが発表されている。
 第1作『ハロウィン』は、ジョン=カーペンター(当時30歳)とデブラ=ヒル(当時27歳 2005年没)が脚本を書き、カーペンターが監督を務めた。アルフレッド=ヒッチコックの『サイコ』(1960年)やボブ=クラークの『暗闇にベルが鳴る』(1974年 カナダ映画)にヒントを得たこの作品は、後に続くスラッシャー映画に多大な影響を与えたことで知られる。
 2022年の時点で12作のシリーズ映画作品が公開されている。殺人鬼マイケル=マイヤーズは第3作を除くシリーズ全ての作品に登場し、2007年にはロブ=ゾンビ(当時42歳)が第1作のリメイク版(通算第9作)を製作し、2年後にはその続編(通算第10作)が公開された。さらに2018年には、これまでの第2~10作の展開をすべて無視した第1作の直接の続編が公開され(通算第11作)、その続編『ハロウィン KILLS』は2021年に公開され(通算第12作)、2022年10月には、第11作から続く3部作の最終作『ハロウィン THE END』が公開された(日本では2023年4月公開予定)。
 『ハロウィン』シリーズの興行成績は、他のアメリカの人気ホラー映画シリーズと比較しても約7億6,130万ドルと、アメリカ国内で最も高い収益を上げており、その後は『13日の金曜日』シリーズが約7億5,560万ドル、『エルム街の悪夢』シリーズが約7億3,030万ドル、「ハンニバル・レクター」シリーズが約7億2,760万ドルと続いている。


シリーズのおもな登場キャラクター
マイケル=マイヤーズ(Michael Myers)
 シリーズ第1・2・4~13作に登場する殺人鬼。初登場時に、ハロウィンに現れる怪物や幽霊の類の「ブギーマン(Boogeyman)」と表現されたことから、別名ブギーマンとも呼ばれる。
 1957年10月19日に、アメリカ合衆国中西部のイリノイ州ハドンフィールドのプロテスタント家系であるマイヤーズ家の長男として生まれた。家族構成は父ドナルド、母エディス、姉ジュディスとの4人である。他の血縁関係としては、シリーズ第2~7作の設定では妹ローリーと、ローリーの子で姪と甥に当たるジェイミーとジョン(異父姉弟)がいる。ちなみに、シリーズ第10・11作に登場するローリーの娘カレンに関しては、ローリーに「マイケルの妹」という設定が無いため血縁関係はない。
 1963年10月31日のハロウィンの夜に、姉ジュディスを肉切り包丁で殺害。この時の年齢は6歳という幼さであり、マイケルは精神に異常があるとみなされ精神病院に護送される。搬送された精神病院にてマイケルは、精神科医であるサミュエル=ルーミスと出会っており、マイケルの危険性を見たルーミスはマイケルの監視を強化するよう進言するが、ほとんど相手にされなかった。
 8年間をかけてマイケルを研究したルーミスは、マイケルが「善悪を判別できない危険な存在」であることを突き止め、さらに7年間、彼を閉鎖病棟に収容する。この間に両親のマイヤーズ夫妻は事故死している。第2作以降の設定では、マイヤーズ夫妻の事故死のために孤児となった当時まだ赤ん坊のローリーは、不動産屋を営むストロード家に引き取られることになるが、兄のマイケルについてローリーが知ってしまうことを恐れたストロード夫妻は、ローリーの出生の経歴を隠蔽している。
 幼少期の殺人からちょうど16年目を迎えた1978年。21歳になったマイケルは、ハロウィンの前日に精神病院から脱走。故郷のハドンフィールドへ向かう途中、作業員を殺害して作業着を奪い取り、さらに金物店からハロウィンマスクと肉切り包丁を盗み出す。
 そして、翌日のハロウィンの夜に当時高校生だった妹ローリーの命を狙うが、マイケルを追って来たルーミスの活躍によって失敗に終わる。しかしこの日にマイケルによって出された犠牲者は実に13人という、常識ではありえない人数であった。第2作と、その10年後から始まる第4作以降も、ハロウィンの日を迎えるたびにマイケルは復活してハドンフィールドに現れており、殺人を繰り返している。

 実在するSFドラマ『スタートレック』シリーズのキャラクターであるジェイムズ=T=カークがモデルの白塗りのハロウィンマスクを愛用している。常にマスクを被っているが、『13日の金曜日』シリーズに登場する殺人鬼ジェイソンのように顔に奇形があるわけではない。左目に眼瞼下垂が見られる以外は端整な人間の顔立ちをしているが、人前に素顔をさらすことは滅多にない。
 第5作では、姪のジェイミーに心を許して素顔を見せ涙を流し、他の有名な殺人鬼キャラクターであるジェイソンやフレディよりは人間らしい一面が強調されていた。
 銃撃を何発受けても平然と起き上がるほどの尋常でなく屈強な身体をしており、ガス爆発に巻き込まれても10年後に復活している。また、大柄な男性を片腕で持ち上げられる怪力の持ち主で、さまざまな物を武器にして殺人を犯す。主に使用するのは、幼少期の最初の殺人から使用している肉切り包丁であるが、注射器やハンマー、散弾銃、鎌、斧、アイススケートブーツ、銃剣などを使用したこともある。ただし銃器類は、射撃ではなく、力任せに相手の身体を貫くためにしか使わない。
 第1作目から、基本的に一切言葉を話さないが、リメイク版である第9作では幼少期に普通に会話をしており、無言になったのは青年期からであることがうかがえる。車の運転をすることができ(ルーミス医師によると精神病院の誰かが教えたのだろうとのこと)、作中でたびたび移動手段として使用している。

 シリーズ内でマイケルの標的となるのは、妹のローリーをはじめ、その娘であるジェイミーやその息子である赤ん坊スティーブン、ローリーの息子ジョンと、ほとんどが自身の血縁者である。なぜ家族や縁者を殺そうとするのかは不明だが、ルーミス医師は、マイケルの肉体が彼の精神を憎しみに染め、暴力的なものにしていると推測している。また、ルーミス医師の説得に応じて立ち止まったり、ジェイミーに心を開いて苦悩したりすることから、彼自身も殺人に対する衝動を抑えきれない状態にあると推測することもできる。
 彼の血縁者以外の犠牲者たちの場合は、ついでにといった感じであり、まさに理由無き不条理の殺人である。このことからも、マイケル絡みによる犠牲者はあまりにも多すぎるため合計人数が特定できなくなってしまっている(劇中で確認できる限り65名)。ハドンフィールドの住民にとっては忘れたくても忘れることのできない恐怖の存在であり、マイケルの惨劇を思い出してしまうことを恐れ、一時、ハドンフィールドにおいてハロウィン行事自体が禁止されていた時期もある。

 リメイク版である第9・10作では、マイケルが殺人鬼へと変貌した経緯やその家庭環境について、より鮮明に描かれている。マイケルに優しく接する母親はストリッパーとして活躍し生計を立てていたが、居候している母親の愛人ロニーは職にも就かず自堕落な日々を送りながらマイケルを邪魔者扱いし、姉のジュディスに至ってはいつも男友達を自宅に引き込んでマイケルを馬鹿にしてばかりで、マイケルにとって唯一心を許せる存在は、まだ赤ん坊の妹ローリーだけであった。このような劣悪な家庭環境から、やがて幼いながらも、マイケルは動物を虐殺することでそのストレスを解消するようになった。ハロウィン前日、マイケルは、自分の母親を侮辱したうえにジュディスの不純異性交遊をネタにゆすってきた学校のいじめっ子を木の枝で撲殺し、翌日のハロウィンにはロニーの喉を包丁でかき切り、ジュディスの男友達を金属バットで撲殺。後にトレードマークとなる白塗りのハロウィンマスクを被り、ジュディスを肉切り包丁で殺害した。マイケルは精神病院に収容されルーミス医師の治療を受けるが、徐々に内に秘められた魔性が開花していき、最終的に成人して完全な殺人鬼へと変貌した。母親はマイケルが精神病院に収容されて以降、たびたび息子に面会しに行くが、世間から「悪魔の母親」と言われることに疲れ、さらには凶暴化したマイケルが看護師に襲い掛かる姿を見て絶望し、まだ赤ん坊のローリーを残して拳銃自殺した。残されたローリーを不憫に思った警官によって、ローリーはストロード夫妻に引き取られた。

サミュエル=ルーミス …… ドナルド=プレザンス(59~75歳 シリーズ第1・2・4~6作)、マルコム=マクダウェル(64~66歳 シリーズ第9・10作)
 マイケルを執念に追い続ける精神科医。
 マイケルとは、彼が6歳の時、姉ジュディスを殺害して精神病院に搬送された際に担当医師として出会った。8年間もの月日を掛けて、彼が理性や善悪の判別ができない危険な存在であることを悟り、彼をそれから7年間監禁し続けていたが脱走されてしまい、それ以降マイケルが殺人騒動を起こすたびに現場に現れ、さまざまな手でマイケルを追い詰めている。第2作でガス爆発に巻き込まれながらも第4作ではわずかな火傷を負うだけで生還していたり、第5作では強靭な肉体を持つマイケルを気絶させるまで殴りつけたりと、見た目と裏腹にマイケル同様に屈強な肉体を有している。
 マイケルの危険性を熟知しているがゆえに、常に真剣な思いでマイケルの殺戮を止めるべく奔走し、周囲にも捕獲や討伐を訴えているのだが、肝心の警察や民衆、医師仲間らからはマイケルの存在を軽視され、協力を得られない展開が多い。そればかりか、酷い時には担当医師である自分がマイケルの脱走を許したと理不尽に責められてしまったり、マイケルに常軌を逸した執着を持っている狂人であるかのように見なされたりするなど、苦労の絶えない人物でもあり、これはルーミスの死後のローリーも同様の立場となる。
 リメイク版の第9・10作では、マイケルに関する著書を発表し、その本がベストセラーとなったことで評論家として TV番組に出演しており、ハドンフィールドの住民たちからは「マイケル・マイヤーズの起こした惨劇を利用して金儲けに走った男」として認識されているため、あまり快く思われていない。実際に成人したマイケルが起こした事件(第9作)の後も、名声欲から新しく本を出版した上に、その本でローリーがマイケルの妹であることを暴露するなど、過去シリーズと違って利己的な小悪党として描かれている。しかし、再びマイケルが現れて連続殺人を行ったことから、マイケルの担当精神科医だったがために痛烈な批判を受けている。

ローリー=ストロード …… ジェイミー=リー・カーティス(19歳~)、スカウト=テイラー・コンプトン(18~20歳 シリーズ第9・10作)
 第1・2・7~13作の9作に登場。
 第2~10作の設定ではマイケルの実の妹であるが、ローリーを引き取ったストロード夫妻によってその経歴は隠蔽されていた。
 1978年のハロウィンの夜にマイケルに命を狙われ、第2作以降に自らの出生の秘密を知ったローリーは、ルーミス医師に協力してもらい、娘のジェイミー出産後に自らが事故死したと偽り、ケリー=テイトという別人として生きていくことになる。しかしトラウマからアルコール中毒になっていた時期もあり、20年もの月日が経っても、恐怖から逃げられないでいた。そんな時、マイケルが息子ジョンの命を狙っていることを知ったローリーは、単身でマイケルと戦うが、誤って無関係の救急隊員を殺してしまう。それから数年間、精神異常を偽って精神病院でマイケルを待ち構えていた。
 リメイク版の第9・10作では、やや自由奔放な性格に描写されており、ルーミス医師の出版した本で自分がマイケルの妹である事実を暴露された結果、半ば自暴自棄な状態に陥り、不良仲間と夜の街をたむろしていた。
 第1作から直接つながる新設定の第11・12作では「マイケルの妹」という設定は無くなっており、マイケルから逃れて以来40年間、酒に溺れながらマイケルに怯えて生きてきた。そのために娘のカレンとの関係は悪化している。マイケルの逃亡を知り、家族を守るために武装してマイケルに果敢に立ち向かう。


≪『ハロウィン』新3部作(シリーズ第11~13作)について≫
1、『ハロウィン (2018年版)』(2018年10月 監督&脚本デイヴィッド=ゴードン・グリーン)
 1978年に公開された同名映画(シリーズ第1作)の直接の続編にあたる。第2作以降の「ローリーはマイケルの妹」という設定は無い。
 多くの観客が「最高のハロウィン続編」、「シリーズの復権」と評価し、ローリーを再び演じたカーティスの演技、グリーン監督の演出、ジョン=カーペンターの音楽に関して特に高い評価を得ている。全世界での興行収入は約2億5500万ドルを超え、シリーズ最高の成績であるとともに、1996年に『スクリーム』が打ち立てた記録を更新してスラッシャー映画史上最高の興行収入を記録した。

2、『ハロウィン KILLS』(2021年10月 監督&脚本デイヴィッド=ゴードン・グリーン)
 前作『ハロウィン(2018年版)』の続編。当初は2020年10月の公開予定だったが、新型コロナウイルス流行の影響で延期された。


そして……3、『ハロウィン THE END』(原題:Halloween Ends 2022年10月アメリカ公開 111分)
 前作『ハロウィン KILLS』の続編であり、シリーズ第13作にして完結編である。

あらすじ
 2019年10月31日の夜。大学生のコーリー=カニンガムは、アルバイトで子守をしていた少年ジェレミー=アレンにいたずらをされた拍子に偶然、ジェレミーを転落死させてしまい、殺害容疑で告発されてしまう。
 2022年。4年前の2018年に発生した事件(2018年版『ハロウィン』と『ハロウィン KILLS』)以来、殺人鬼マイケル=マイヤーズは姿を現していない。ローリー=ストロードは新居を購入して孫娘のアリソンと暮らしており、彼女は自身の回想録を書き終えようとしていた。
 しかし、ハドンフィールドの町に再び暴力と恐怖の連鎖が起き始め、ローリーは再び現れたマイケルとの最後の戦いに挑む。

おもなスタッフ(年齢は映画公開当時のもの)
監督・共同脚本 …… デヴィッド=ゴードン・グリーン(47歳)
共同脚本 …… デヴィッド=ゴードン・グリーン、ダニー=マクブライド(45歳)、ポール=ブラッド・ローガン、クリス=バーニエ
製作 …… ジェイソン=ブラム(53歳)、ビル=ブロック、マレック=アッカド
原作・音楽 …… ジョン=カーペンター(74歳)
共同音楽 …… コーディ=カーペンター、ダニエル=デイヴィス
製作 …… ユニバーサル・ピクチャーズ、ミラマックス、ブラムハウス・プロダクションズ他

おもなキャスティング(年齢は映画公開当時のもの)
ローリー=ストロード …… ジェイミー=リー・カーティス(63歳)
アリソン=ネルソン  …… アンディ=マティチャック(28歳)
コーリー=カニンガム …… ローハン=キャンベル(25歳)
フランク=ホーキンス保安官 …… ウィル=パットン(68歳)
リンジー=ウォレス  …… カイル=リチャーズ(53歳)
マイケル=マイヤーズ …… ニック=キャッスル(75歳)、ジェイムズ=ジュード・コートニー(65歳)


 伝説のシリーズが、ついに完結する……のか!?
 日本では4月14日の公開予定のようですので、観たら感想をつづるつもりで~っす。

 楽しみではあるんですが、わたくし個人的に、公開リアルタイムで映画館で観たこの手の老舗ホラー映画シリーズには、あんまり当たりを引いた印象がないのです……リメイク版『13日の金曜日』(2009年)でしょ、リメイク版『エルム街の悪夢』(2010年)でしょ……どっちも、それ以降シリーズが続いてねぇじゃねぁかァ!! 作品の内容とは別の意味で不吉すぎる……
 思い出した、リメイク版『エルム街の悪夢』にいたっては、映画館の座席にいたの、おれ1人でしたからね!? 本気で現実なのか悪夢なのかがわからなくなるシチュエーションでした……ま、最高の鑑賞環境とも言えますか。

 おもしろいといいナ~! 過度な期待はせずに、楽しみにしとります。
 ほんじゃま、感想はまた次回
コメント (2)
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うわさにたがわぬ伝説の一作!! ~映画『未来惑星ザルドス』~

2023年03月05日 14時36分34秒 | ふつうじゃない映画
映画『未来惑星ザルドス』(1974年2月 106分 アメリカ・アイルランド合作)

あらすじ
 2293年の未来。人類は不老不死の特権階級「エターナルズ=永遠人(Eternals)」と、寿命のある「ブルータルズ=獣人(Brutals)」に分かれ、エターナルズは「ボルテックス」という土地に住み、獣人は荒廃した土地でエターナルズのために食料を生産していた。二つの世界は見えないバリアによって隔離され、ザルドス(Zardoz)という名の、獣人達が神と崇める人の頭部を模した空飛ぶ石像のみが往来可能であり、ザルドスは穀物を受け取る代わりにブルータルズの中から選んだ「エクスターミネーターズ=撲滅戦士 (Exterminators) 」という殺し屋集団に武器を渡していた。エクスターミネーターズは、「銃は善なり、ペニスは悪なり」と宣するザルドスの命ずるまま好き放題に同族であるはずのブルータルズを撃ち殺し、その人口を減らしていた。
 あるとき、エクスターミネーターズのリーダー・ゼッドは、貢物の穀物に紛れてザルドスに乗り込み、ボルテックスへ旅立つ。飛行中にゼッドはザルドスを操るエターナルズのアーサー=フレインを撃ち、空中に放り出す。
 ボルテックスに着いたゼッドは、メイというエターナルズの女性に捕獲され、彼女とコンスエラ(Consuella)という女性エターナルズはテレパシーによるゼッドの尋問を行うが、ゼッドは記憶を途中で遮断しており、ボルテックスに来た目的や方法といった肝心な情報は得られなかった。彼女らは観察のためにゼッドを3週間ほど生かしておくことで合意し、ゼッドはエターナルズの男性フレッドに預けられ、肉体労働などの使役を受けることになった。
 フレッドはゼッドに、エターナルズの社会の仕組みを見せる。ボルテックスは「タバナクル(Tabernacle)」という中央コンピューターによって支配され、エターナルズは永遠に若く、争いや生殖もなく、仮に事故などで死んでもすぐに再生される。脳に埋め込まれたチップ「クリスタル」によってテレパシー能力や念力による攻撃能力を持つが、常に思考を監視され、不穏な思考や反逆思考の持ち主には、歳を取らせるという刑罰が与えられるディストピアだった。ボルテックスは当初、科学者の理想郷として建設され人類への貢献が期待されたが、不死不老ゆえの熱意の枯渇によりほとんど成果を出せず、エターナルズは目的を失って無気力状態に陥っている。そんな中でゼッドと接触したエターナルズの中には、ゼッドを不死という名の彼等の牢獄に終焉をもたらす解放者と見なす者が現れるようになった。
 一方メイはゼッドの遺伝子を解析し、ゼッドは普通のブルータルズとは異なり、精神と肉体の能力はエターナルズを凌ぐ可能性があることを見出し、ゼッドの出自と行動にまつわる謎が、次第に明らかになるのであった。


 映画『未来惑星ザルドス(みらいわくせいざるどす Zardoz)』は、アメリカ合衆国・アイルランド合作のSF映画。ブアマン自身による小説版も存在する。製作費157万ドル。
 ジョン=ブアマンは、長年の盟友だったウィリアム=ステアと共に脚本を練り上げ、「未来に突き進む私たちの感情が後退しているという問題を描き出したかった」と語っている。そして、物語の舞台を「現代社会が崩壊した遠い未来」に設定した。
 ブアマンは、「物語を貫く中心的なキャラクターに焦点を当てて作り上げたのです。彼(ゼッド)は不思議にも選ばれ、同時に操られているのです。私は物語をミステリー風味で、手掛かりや謎を解明しながら少しずつ真実が明かされるようにしたかったのです。」と語っており、脚本はオルダス=ハクスリー、ライマン・フランク=ボーム、T・S=エリオット、トールキンの作品やアーサー王物語から影響を受けたという。また、「外的宇宙というよりも内的なものを描いたつもりです。より形而上学的な、優れたSF文学に近いものです。SFというジャンルに悪い印象を与えているのは、ほとんどが宇宙服を着た冒険物語です。」とも語っている。

 ショーン=コネリーの起用についてブアマンは、「彼は007ジェイムズ=ボンド役を降りたばかりで、仕事がなかったんだ。だから私のところに来たんだよ。」と語っている。シャーロット=ランプリングは出演の理由について、「詩的だったからです。脚本には身体を愛し、自然を愛し、そして生まれてきた場所を愛せとはっきりと書いてありました。」と語っている。海岸でエクスターミネーターズに虐殺される獣人たちは、撮影現場周辺にいたジプシーによるエキストラ出演である。また、このシーンでゼッドに最初に殺される獣人はブアマンが演じている。この他、ゼッドがエターナルズから知識を授かるフラッシュバックシーンにはブアマンの3人の娘がカメオ出演しており、当時妻だったクリステル・クルーズ=ブアマンは衣装デザイナーとして参加している。
 製作費は20世紀フォックスが出資し、製作はブアマンが所有するジョン・ブアマン・プロダクションズが手掛けた。主要な撮影は1973年5~8月に行われた。撮影にはスタンリー=キューブリックがテクニカル・アドバイザーとして参加しているが、クレジットはされていない。
 撮影はアイルランド東部のウィックロー県で行われ(ブアマンの自宅から約16km 圏内の場所だった)、ザルドスの石像が飛行するシーンは県内の町ブレイのスタジオの駐車場で撮影され、石像はケーブル操作で動かしていた。撮影中、コネリーはブレイに居住しており、この時に住んでいた邸宅は彼が死去する数か月前に競売に出されている。ブアマンはブレイの景観を気に入っており、『エクスカリバー』(1981年)など複数の作品の撮影を同地で行っている。また、当時はアイルランド共和軍(IRA)の活動が活発だったため銃器の持ち込みができず、ブアマンは撮影地の変更を検討していたが、技術スタッフの一人がIRAメンバーだったことが判明し、彼を通してIRAと交渉した結果、撮影地への銃器の持ち込みが認められたという。ゼッドとコンスエラが老いていくシーンは1日かけて撮影され、ラストシーンで映し出される手形はブアマン自身の手形が使用された。

 ブアマンは使用した楽曲について、イギリスの古楽研究家デイヴィッド=マンロウに作曲を依頼した。物語の舞台は23世紀の未来世界だが、これについてブアマンは、未来的な音楽には旧世界の様々な楽器の音色が含まれていることが相応しいと考えていた。そのため、ブアマンは中世の楽器(鐘や笛など)を使用するようにマンロウに指示している。また、マンロウが作曲した中世楽器の音楽の他にルートヴィヒ=ヴァン=ベートーヴェンの『交響曲第7番 第2楽章』も使用された。

 1974年2月6日からアメリカ合衆国のロサンゼルスとニューヨークで公開されたが、批評家からは酷評された。また、観客からも複雑な世界観は受け入れられず批判の対象となった。スターログは「大半の批評家(そして観客)は、ブアマンのアナロジーや哲学的な主張を理解できなかった。」と批評しており、こうした空気の中で「鑑賞する価値がない映画」と判断され、上映館では空席が目立つようになった。当時の観客の証言によると、「映画を観終わった観客がロビーに戻ってくると、次の上映待ちの人たちに観賞せずに帰るように促していて、その光景が何度も繰り返されていた。」という。チケットの売上も低調で、アメリカ合衆国・カナダの最終的な配給収入は180万ドルに留まっている。
 ブアマン自身は、「非常に耽美で個人的な映画だが、それを実現するためには十分な予算とは言えなかった。」と評価している。

 本作は、時代を経るごとにカルト的人気を集めていることが指摘されている。1992年にロサンゼルス・タイムズに寄稿したジェフ・バルチャーは「熱狂的なSFファンにとって、この映画は知性が人類を圧倒し、人類が不死を実現した時に何が起きるのかを見せてくれるサイケデリック体験だ。」と批評し、ブアマンが自分自身の思い描くヴィジョンの一部を実現した作品と位置付けた。こうした再評価が進む中で、本作は1970年代の映画の中で最も荒々しくて野心的な古典作品と認識されるようになった。


おもなキャスティング
ゼッド   …… ショーン=コネリー(43歳 2020年没)
コンスエラ …… シャーロット=ランプリング(28歳)
メイ    …… セイラ=ケステルマン(30歳)
フレッド  …… ジョン=アルダートン(34歳)
アーサー=フレイン / ザルドス …… ナイオール=バギー(25歳)
囚人ジョージ=サデン …… ボスコ=ホーガン(24歳)
老いた科学者  …… クリストファー=カソン(61歳 1996年没)
タバナクルの声 …… デイヴィッド=デ・キーサー(46歳 2021年没)

おもなスタッフ
監督・脚本・製作 …… ジョン=ブアマン(41歳)
音楽 …… デイヴィッド=マンロウ(31歳 1976年没)
撮影 …… ジェフリー=アンスワース(59歳 1978年没)


≪年度末は忙しい!! 本文マダナノヨ≫
コメント (3)
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