長岡京エイリアン

日記に…なるかしらん

総大将がまだいないのに……

2019年03月25日 01時21分01秒 | ゲゲゲの鬼太郎その愛
 「拝み屋の血筋」に「巨大な胎児」って、まさか……名無しの正体って、あのお方じゃないでしょうね……

 なんか、「妖怪狩り」に「百鬼夜行」と、第6期『ゲゲゲの鬼太郎』は、「あの作品」を想起せずにはいられない展開をバンバンやり出してませんか!? 妖怪マンガの総本山が、後発のマネをしてど~する!?
 そういや、あちらの妖怪界でも大決戦の前夜に猫の妖怪がひどい目に遭っていたような……「かませネコ」とは、これいかに!?

 これで、名無しの正体が「阿部の奉連想」だったら、100点を通り越して8億点くらいいくんだけどね。


 嗚呼、おぬら様よ、今いずこ!?

 百鬼夜行の中に、いないとわかっていながらも、そのなが~い頭を探しているわたしがいた。哀しみ本線瀬戸内海!!
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お約束を楽しめるか、いなか ~映画『ドラえもん のび太の月面探査記』~

2019年03月11日 19時09分06秒 | アニメらへん
 んど~も~、こんばんは! そうだいでございます~。
 え~、3月の大仕事が、無事に終了いたしました。今年度最大のヤマ場でしたが、まわりのみなさま方の温かいサポートも頂戴しまして、なんとかかんとか終えることができた、という安堵でいっぱいの状態です。でも、まだあと半月あるのよねェ~、今年度は! 気を緩め過ぎずにもう少しだけアクセル全開でいかねば!

 さて、そんな感じで満足に睡眠時間も確保できない状況でしたので、公開されてしばらく経っているのに手がまるで出せなかったこちらに、昨日の日曜日にやっと観に行ってまいりました!! がんばった自分に素晴らしいご褒美! ただし同伴者はナシという、このせつなさよ……


映画『ドラえもん のび太の月面探査記』(2019年3月1日公開 111分 東宝)
 アニメ映画『ドラえもん のび太の月面探査記』は、映画『ドラえもん』シリーズ通算第39作。
 小学館てんとう虫コミックス版『ドラえもん』第23巻収録作品『異説クラブメンバーズバッジ』(1980年10月発表)を原案とする。アニメ版『ドラえもん』第2作2期(2005年~)としては初の3年連続のオリジナル作品となる。脚本を女性が単独で担当するのはシリーズ初となり、主要ゲストキャラクターが転校生かつ宇宙人というプロットや、作中の季節が秋に設定されているのも大きな特徴となっている。
 かつて藤子・F・不二雄のチーフアシスタントを務めたむぎわらしんたろうによると、『大長編ドラえもん』の舞台案として「月」と「南極」は何度も挙がったが、毎回挫折していたという。南極に関しては映画第37作『ドラえもん のび太の南極カチコチ大冒険』(2017年)で採用され、月も本作でようやく取り上げられたこととなる。
 前作までの劇場版公開日は3月の土曜日だったが、本作以降の公開日は金曜日となっている。
 ゲスト声優は広瀬アリス、柳楽優弥、中岡創一(ロッチ)、高橋茂雄(サバンナ)、吉田鋼太郎、酒井藍(吉本新喜劇座長)の6名。高橋は3年連続の声優出演となる。
 過去に映画『ドラえもん 新・のび太の大魔境』(2014年)と『ドラえもん 新・のび太の日本誕生』(2016年)で監督を務めた八鍬新之介が初めてオリジナル作品を手がける。過去2作同様、キャラクターデザインを丸山宏一、演出を岡野慎吾が務めるが、演出にはテレビシリーズの絵コンテ・演出・キャラ設定・原画を務めてきた山口晋が新たに加わる。山口は劇場版でも過去に原画として参加していたが、演出としては初登板となる。音楽は前作『ドラえもん のび太の宝島』(2018年)に引き続き服部隆之が起用された。
 最終興行収入は50.2億円を記録した。

主なスタッフ
原作   …… 藤子・F・不二雄
演出   …… 岡野 慎吾、山口 晋
キャラクターデザイン、総作画監督 …… 丸山 宏一(48歳)
録音監督 …… 田中 章喜(53歳)
音楽   …… 服部 隆之(53歳)
脚本   …… 辻村 深月
監督・絵コンテ …… 八鍬 新之介(37歳)
エンディングテーマ …… 平井大『THE GIFT』
配給   …… 東宝

小説版
 『小説 映画ドラえもん のび太の月面探査記』のタイトルで、2019年2月に発売。本作の脚本を手がけた辻村深月が自ら執筆する。

藤子・F・不二雄ミュージアム(神奈川県川崎市)
 2019年3月9日、藤子・F・不二雄ミュージアム館内施設「Fシアター」が新作『ドラえもん&Fキャラオールスターズ 月面レースで大ピンチ!?』の上映を開始。脚本を辻村が手がけるほか、監督を映画『ドラえもん のび太のひみつ道具博物館』(2013年)などを手がけた寺本幸代が務める。


 小説版も、もちろん読みましたよ~! さすがは F先生愛に満ちた辻村先生の手になる本作といいますか、映像と文章とで比較する楽しみもたっぷりあるのですが、まずは映画のほうに関しての感想みたいなものをば。

「ひじょうにお行儀のよろしい作品でした!」

 こんな感じでしょうか。こう一言でまとめてしまいますと、どうにも批判的な感じと取られてしまいそうなのですが。いやいや、お代を払った分の楽しさを味わったことは全く間違いございません。おもしろかった! おもしろかったんですが……
 物語の、特に後半が「何を見ても何かを思い出す」無数の過去作へのオマージュ大博覧会のような展開の連続になっていて、連想、連想の連続で観ていてむちゃくちゃ疲れてしまったんですよね。
 昔のドラえもん作品なんて知らないヨ!という、何ごとにも染まってないピュアな子ども達が見たらそんなことはないんでしょうが、わたしゃ、まるで注釈が本文と同じくらいの分量になってるブ厚い本を読んでるような気がしてしまい……おもしろいと同じくらいに「疲れたー!」な気分になってしまいました。ただそれは、中身がスッカスカじゃないってことなんですから、名作の証であるとも言えるけど。
 これはあれですね、「映画館で1回観ただけでスッキリ満足できる」娯楽を期待していた私が違ってたんだと思う。この作品はおそらく、「何回も繰り返し観て感動を深めていくべき」ものなんじゃなかろうかと。

 感想で申した「行儀が良い」というのは、過去作品に対するオマージュが敬愛に満ちているものであるということなんですが……ちょっと、そんなに気を遣わずとも、辻村先生のやりたいようにおやりになったら? といらぬ気遣いをしてしまうくらいに、後半にいくにつれて「昔どこかで観たような定番の展開」が多くなりすぎて、そんな安全パイなあれこれよりも、序盤の小学校での風景や、大団円でのルカたちの「ある選択」のくだりにあった、実に辻村先生らしい細やかな描写や、「えそらごと」という制約に対する仁義の切り方のようなカッコよさが目立たなくなってしまったような気がしたんです。

 まさか、思い入れの強い歴史的シリーズを前にして緊張してしまったということもないんでしょうが……でも、『ドラえもん』というとてつもないキッチンを使う以上、自分の持ち込んできた素材と調理具だけで勝負するわけにもいかないでしょうし。とにもかくにも、制作陣が長年の懸案にしていた「月」という題材を料理できるのは辻村深月その人しかいなかったわけでして、それはもう見事な手練でしたね。
 いや、「月」だけ残ってたのは、むしろ F先生から辻村先生に贈られた「タイムカプセル式の宿題」だったのでは……つまり、本作を辻村先生が手掛けたという流れは、全てお釈迦さまのたなごころの上のことだったというわけか!! ひえ~。

 そんなわけで、さっさと本作を観た雑感を述べていきたいのですが、物語の本筋に入る前に、まず辻村作品としてさすが!とうなってしまったのは、先ほども言ったようにやっぱり序盤の「小学校でのもろもろ」でありまして、「ちゃんといじめをしているジャイアンとスネ夫」と、「出木杉くんの存在の耐えられない哀しみ」がしっかりと描かれていたのには、こりゃもうほんとにうならされてしまいました。いや、親子連れのファミリー客がわんさかいる映画館の中で、おっさんが一人うなっていても気色が悪いだけなんですけど。
 この何気ない小学校パートで描写されているのは、各登場人物のキャラクター説明と月と地球に関する前提説明だけでなく、出てくるキャラ全員が実際に生身で生きている人間である、ということだと思います。要するに、ジャイアンとスネ夫は物語の後半で見せるような団結力と勇気のある主人公チームの一員というだけでなく、いつまでも子どもっぽくて無知な(ように見える)のび太を平気で嘲り笑い馬鹿にしたり、小学校にやって来た異分子(ルカ)を警戒していじめようとしたりする、ごくごくふつうな小学生男子です。こういう、『ドラえもん』の中でも大長編では特になりを潜めるような2人の負の部分が、むしろエピソードの中で悪役を演じることの多い通常の TVシリーズよりもはっきりと生々しく描写されるのは、やっぱりあの『凍りのくじら』(2005年)をはじめとして、子どもの世界のもろさと残酷さを克明に描いてきた辻村ワールドの独擅場だと思います。だからこそ、物語の後半でルカたちを救いに行こうと月に向かうのび太たちの勇気や、スネ夫の逡巡といった群像描写が、彼らの成長として際立ってくるのでしょう。
 また、いつものように物語の展開に必要な予備知識を説明するだけで、実際の冒険には絶対に参加することを許されないことで有名な出木杉君に関しても、単なる説明役というだけでなく、ルカに「月に生き物はいると思う?」と尋ねられた時に、苦笑交じりに「科学的に見て、生き物が棲むのは無理だね。」と答えてしまうという致命的な反応によって、彼が冒険に参加することができない人物であることがはっきり示されるのです。このへんに、『ドラえもん』の繰り広げる奇想天外な世界に背を向けることしかできない「大人」な出木杉君の哀しみが如実に表れていると思います。それにしても、第2作第2期で出木杉君を演じている萩野志保子さんって、ほんとに演技が上手ですよね。アナウンサーとは信じがたし!

 辻村先生のホームタウンともいえる小学校パートの素晴らしさもさることながら、本作は中盤にカグヤ星のエスパル捕獲部隊が月に攻め込んでくるまで、のび太とドラえもんが不毛の土地であるはずの月面にウサギ王国を築いていき、そこで偶発的に謎の少年ルカの正体を知るという展開がトントン拍子に進んでいき、非常に快調なペースで物語が展開していくスピード感が非常にいいです。本作のメインひみつ道具となる「異説クラブメンバーズバッジ」も、実はあの有名な「もしもボックス」とは似ているようで全く違う機能のものであることを説明しておくことが非常に大切で、そこを観客に向けてはっきりさせておかないと、終盤での大逆転のカタルシスや、エピローグでのルカたちの重大な選択がわからなくなってしまうのですが、ドラえもんによる天動説と地動説を例に挙げた説明によって、かなりわかりやすく伝わっていたかと思います。すごいよな~、この、楽しく観ているだけなのに、いつの間にか人類の自然科学の歴史を勉強できているという SF(すこし、ふしぎ)の魔力こそが、F先生が『ドラえもん』に編み込んだ、日本文化史上においてもほぼオンリーワンなものすごさなんですよね。この絵と言霊の力はもう、弘法大師空海とか安倍晴明に匹敵する特殊能力だと思いますよ!
 それに加えて物語は、「月にウサギがいたっていいじゃないか!」というのび太の想像力が、最初は周囲の誰からも馬鹿にされるという逆境をドラえもんの助力を得て乗り越え、ジャイアン達をウサギ王国に招待して見返すという、TVシリーズ定番の胸のすく展開もあり、その後もルカとの出逢いを経てのび太らしからぬ「魂の男前」感を発揮、そのままカグヤ星のディアボロ討伐にまでなだれ込むという勢いが一貫しており、印象としてはのび太の成長譚のテイストが中軸に非常に強く据えられているという設計の確かさがあるのです。作品としてのブレが少ないんですね。

 さぁ、だとするのならば、本作は手放しに絶賛するべき、大長編シリーズ史上屈指の傑作なのかといいますと……正直、私の脳内に去来するのは「惜しい!」という、この一言なのであります。いいとこまでいってたのに! 惜しいんだなぁ、これが!

 惜しさの原因は、やはりなんと言ってもカグヤ星のパートに入ってからのオリジナリティの乏しさ、と……厳しい言い方になってしまいますが、そういうことになってしまうのではないでしょうか。いや、面白いは面白いんです! そこはちゃんと保証されていて、その上で言わせていただく、ぜいたくな苦言でございます。まぁ、「脚本・辻村深月」という金看板がなせるハードルの高さ、それゆえの惜しさですね。

 身もフタもないことを言ってしまうと、やっぱり「月」というテーマは、約2時間のボリュームを要求される現在の大長編シリーズを、頭からしっぽの先までみっちりエンタメの奔流で満たすのは、ちと難しいお題だったのではないでしょうか。当然ながら人類がおいそれと気軽に行けない神秘の秘境であることに違いはないのですが……絶対に行けないわけでもないし、滅んでしまった古代生物のロマンがあるわけでもないし。そりゃもちろん『かぐや姫』に象徴されるように、人類の歴史・文化に寄り添う重要なキーワードではあるのですが、いちばん好きかって言われると、そんなでも……みたいな。距離感が近すぎるからこそ、あらためて取り上げるまでもない家族みたいな微妙な存在なんですかね。
 ほら、恐竜だったらしょっちゅう、『ドラえもん』も言わずもがな、東西いろんな娯楽映画の題材になってますけど、マンモスって、有名なわりにそんなに映画の主人公になることってないじゃないですか。そういう感じなんじゃないかなぁ、お月さまって。まぁ損な役回りですよね。
 そういう難しいポジションにいるからこそ、大長編『ドラえもん』にとっての「月」は、F先生ご存命の頃から2019年にいたるまで積年の懸案になっていたのだと思います。そして、本作をもって辻村先生はその宿題に全身全霊で取り組み、最大出力でエンタメ作品に作り上げることに成功したのではないかと思うのです。
 ただ、それをもってしても、約2時間まるまるを月世界で通すことは不可能だったと。よくがんばった! よくがんばったけどね……

 本作での月世界は、のび太のウサギ王国とルカたちエスパルの潜伏地という二重の意味合いを持って物語の舞台となりますが、まず、ウサギ王国はあくまでも異説クラブメンバーズバッジを身に着けた人間のみが感知できる半異次元、半ヴァーチャルな世界であるため、のび太たちレギュラーメンバー以外の人間も巻き込むスケールの話にはなりにくいです。そこで投入された刺激的な異分子こそがルカたちエスパルであるわけなのですが、ルカたちにも月の地下に潜伏するに至るまでのドラマティックな背景を作ろうとしたところ、ルカたち自体を「貴重なエネルギー源および破壊兵器」として取り戻そうと画策する異星カグヤ星と悪役ディアボロ、そしてルカたちとディアボロの間で揺れ動くカグヤ軍の部隊長ゴダートという作品世界の広がりになっていくわけです。
 これでいちおう、約2時間という上映時間をまわす歯車となる登場人物はそろったでしょう。そろいはしましたが……そこに舞台が「月」である必然性があるかというと~? 実際に、上映時間のうち、登場人物たちが月と地球とを行ったり来たりする展開は上映開始から70分くらいまでで、残り40分間の、これでもかと盛り上がる決戦の地はディアボロの本陣たるカグヤ星になってしまうのでした。ここがね、このカグヤ星っていうのが、ディアボロたち悪者サイドのデザインも考え方もあいまって、なんかベタというか、どこかで見たような展開のパッチワークになっちゃうんですよね。いや、繰り返しますが面白いことは面白いんです。面白いんですが……

 なんか、日本の甲冑とエビ・カニの甲殻類をミックスさせたカグヤ軍の戦闘服といい、円形に大きく欠けたクレーターが特徴的なカグヤ星の衛星の浮かぶ情景といい、平安時代の垂纓冠(すいえいかん 雛人形のおびなの冠みたいなやつ)に狩衣っぽい装束、おまけに不気味な図形の描かれた布で顔を隠した格好のディアボロ宮殿の衛士ロボットといい……ここは過去の大長編作品? ここはスター・ウォーズ? ここはジブリ? みたいな感じで、ウサギ王国にまであったような発想の自由さというか、オリジナリティが急に薄まったような気がするんですよね。安全パイ的なデザインと展開コースに入っちゃったなぁ、みたいな。

 いや、それは伝統ある『ドラえもん』の大長編なのですから、しかたがない! 最後に必ずのび太たちが勝利して地球に帰ってくるという結末は、当たり前なんです。お約束を守ってこその王道。定番の展開に堂々と恥ずかしげもなく入っていくからこそ、「待ってました!」と喜んで没入するお客さんもいるし、シリーズの命を次の世代へとつなげていく新たな子ども達の人気も取り込んでいけるのでしょう。
 でも、いや、だからこそ、その正統シリーズに新風をもたらす才能を十二分に持った辻村先生がチャレンジする以上、その挑戦は作品のクライマックスまで続けていただきたかったと、辻村先生ファンである私は思ってしまうのでした。充分に頑張っていただいたとは思うのですが……後半、そういう意味での息切れ感はあったのではないでしょうか。

 余談ですが、地球からはるか遠くにあるはずのカグヤ星のディアボロ宮殿が、どうして日本古代平安朝の貴族文化に似た意匠に満ちているのか……無理やりこじつけてみますと、もともと昔話『かぐや姫』の原点となる古典文学『竹取物語』は確かに平安時代に成立したものですが、物語の時代設定はもうちょっと前の、飛鳥~奈良時代に活躍した藤原不比等政権期(8世紀初期)のころなのではないかという説があります。つまり、昔話の絵本のイラストや、あの高畑勲監督の手によるアニメ映画『かぐや姫の物語』(2013年)、あとは市川崑監督による大怪作『竹取物語』(1987年)に観られるような、いわゆる雛人形のような衣装をほんとうの(?)かぐや姫たちはまとっておらず、むしろ古代中国っぽい、『うらしまたろう』の乙姫様のようなドレスと、「伝・聖徳太子二王子像」の貴公子のようなスラっとした装束が行き交う物語だった可能性があるのです。十二単なんか、宇宙服並みに未来のファッションですよ!
 そういった時代の日本に、もしかしたらルカやルナたちは、ディアボロの衛士ロボットのような衣服を着て降り立ち、それを見た当時の奈良人たちは「なにそれ、超イケてんじゃん!」とビビッときて、のちの国風文化の象徴たる平安朝デザインに取り入れたのかも知れません。さすがは貴族階級、ファッションに貪欲ね!
 そう考えると、ディアボロ宮殿の意匠の謎もわかるような気がしてくるのですが、ルカは「なるべく地球の在来種には影響を与えたくない」とか言ってますんで、ちょっとキャラにはそぐわないような気はします。でも、ルナは「かぐや姫、わたしで~っす♪」とか言ってるんで、実は意外とヤンチャしてたのかも。

 さらに余談なのですが、このディアボロ宮殿にいる衛士ロボットたちの名前って、映画の中では言及されていないのですが、辻村先生による小説版でははっきりと「ミカドロイド」と呼称されているのです。え、ミカドロイド!? 東宝作品でミカドロイド!?
 ミカドロイドがたけのこ踏んで床に腰を打ったくらいで機能停止するかバカー!! ショッカーの再生改造人間軍団じゃないんだから、もうちょっとお金かけてよディアボロ~ん!!

 例によって、話もだいぶガッチャガッチャしてきたので、そろそろまとめに入りたいのですが、結局私が抱いたこの『のび太の月面探査記』に対する感想は、「前半が魅力的な流れであるがゆえに、後半の予定調和なまとまり方が残念至極」ということになります。

 その他にも、後半の展開で惜しい!とか残念!とかいうポイントはいくつかありました。ざっと列挙していきますと、

1、本作のマスコット的存在となる「モゾ」と「ノビット」が、いまいち魅力的にかみ合わない。
2、ルカに対してルナの存在感が薄い、というかキャラクターが軽い。
3、しずかちゃんとヒロインが後方支援に回って事態の打開策を発見するという流れが……既視感たっぷり!
4、セリフではちゃんと説明されているのだが、クライマックスで「あの集団」が助けに来る意外性が今一つピンと来ない。

 っていう感じでしょうか。かわいいモゾが言うからいいんですけど、「~をご存じない!?」っていう口癖って、現実世界ではけっこうヤな感じの言葉遣いですよね……
 ポイント2、についても、まぁこれは声を担当した声優さんの実力の違いと言ってしまえばそこまでなのですが、中盤のカグヤ部隊による月襲撃シーンにおいて、ゴダートたちの手から最後まで逃れていたのがルカだったのに、のび太たちが月にたどり着いたらそこにいたのはルナだったという展開が、それなりに説明はつくものの微妙な不自然さがありますよね。自分じゃなくて、とっくにゴダートたちに捕まって気を失っているルナをぶんどり返してウサギ王国に隠したうえで、自分はすんなり投降するという芸当、あの時のルカにできたんでしょうか……
 でも、そうしないとカグヤ星の最終決戦の場にメインでいるのはルナということになって、ゴダートとの和解という重要なシーンを担うのもルナということになっちゃって、それを演じきるにはルナ役の広瀬アリスさんはどうなんでろうってことになっちゃって……ギャー!! みたいな葛藤が、制作スタッフ陣の中には渦巻いていたのではないでしょうか。
 アリスさんって、演技がヘタとかいう話じゃなくて、単純にヒロインを演じるには声が低いんですよね。昨年の映画『プリキュアオールスターズメモリーズ』の山本美月さんでも思いましたけど、やっぱりアニメヒロインの発声法って、だいぶ特殊技能的な高さが必要になるんだなぁと。

 また、特に私が気になるのはやっぱり4、の点で、なんでピンと来ないのかといいますと、あのクライマックスの前提として、「あの集団」が現実世界に出てこられない存在であるということを映像で示す「フリ」があんまり効いていなかったからなのではないでしょうか。のび太やしずかちゃんが異説クラブメンバーズバッジをはずすとウサギ王国が消えてしまうという説明はよくわかるのですが、「月とカグヤ星」という距離的隔絶と同時に「異説世界と現実世界」という次元的隔絶があるということを、果たして瞬時に理解できた子どもがどのくらいいたのでしょうか。少なくとも、中年のおっさんである私はピンと来なかったよ! 単に、距離的隔絶を乗り越えてのび太やルカたちを助けに来たようにしか見えなかったのです。せめて、ウサギ王国が見えないゴダートとかいう遠回しな表現でなく、ウサギ王国の住人たちがゴダート部隊に手出しできず、ノビットがそれを遺恨に思うとかいう描写があれば、クライマックスの感動も際立ったかとは思うのですが……ん? 異説世界の住人から、現実世界の住人は見えるのかな?

 そうなんです、ここにきてはたと思い至る異説クラブメンバーズバッジの「描写されなかった謎」って、現実世界によって一方的に創造された異説世界の住人に、「外の現実世界を感知することはできるのか?」ってことなんですよね。どうなんでしょうか……でも、その意識が無いとノビットがあの発明をするきっかけにはなりませんよね。だとするのならば、バッジを外したら消えてしまうという受け身すぎる存在であるだけでなく、王国の中からゴダート部隊の横暴を見て「仲間を、自分たちの神様を助けたい!」と心から願うムービットやノビットたちの表情を描く必要はあったのではないでしょうか。そこがあれば、クライマックスは絶対にもっと良くなってたはず!! たぶん……

 最後に、異説と現実との関係について言うのならば、エピローグでのルカたちがくだす「決断」に関しても、果たして本当に、それでルカたちの願いは成就するのかという一抹の疑問は残ります。つまり、あそこで効力を発揮したのはあくまでも「異説を信じる者たち」の世界だけでの話であって、物理的にルカたちが「そうなる」とは限らないのではないか……だって、序盤でドラえもんが例に挙げていた「天動説と地動説」にあてはめるのならば、天動説に従って「世界の果ての大瀧」に落ちていくはずのあのタンカーは、地動説の現実世界では落下も沈没もしていないはずなのですから。
 でも、よくよく考えてみると、「エスパルは不死」という定説を信じているカグヤ星人が月に行かない限り、「異説」は揺るがないということになります。だから、ゴダートがルカたちに逢いに行こうとしないことが、成就の条件となるわけです。なりほど。

 う~ん、こうしてあれこれ思考するプロセス自体が、私にとって30年ほど前、生前の F先生や元気いっぱいの大山のぶ代ドラえもんたちが映画館の銀幕から贈ってくれた『のび太と竜の騎士』や『のび太の日本誕生』がもたらした「しあわせいっぱいの空想タイム」の復活にほかならないのでした。これこれ! これこそが、辻村先生の『のび太の月面探査記』が、F先生の大長編『ドラえもん』の純然たる正統後継者であるあかしなワケですよ~! このコストパフォーマンスの高さよ……辻村先生、ほんとうにありがとう!!

 いろいろくだくだと申しましたが、勝手に言わせていただきますと、今回の『のび太の月面探査記』は、辻村先生にとってあくまでも「勝負はまだ一回の表」でしかない作品であると思います。カグヤ星人じゃなくて宇宙忍者な表現であいすみませぬ。
 興行収入成績も上々で、一般的に見て『月面探査記』は充分合格ラインをいく成功作であると思います。でも! 辻村先生は、世界中の誰もが満足していても、辻村先生だけは非常に忸怩たる想いを、この作品に対して抱いているはずなのです。そして必ず、先生はまたこの『ドラえもん』ワールドに舞い戻り、リベンジマッチを高らかに宣言するはず! 辻村先生の限りなきチャレンジ魂!! また宇宙忍者……

 そんなこんなで、『のび太の月面探査記』、とってもおもしろかったですよ~。
 辻村先生、脚本に小説にと大変お疲れさまでございました!!

 それにしても、いったい何万人のいたいけな少女(少年も?)たちが、ルカを「初恋のひと」に認定してしまったことか……
 罪なひとだぜ、先生よう!!
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