湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ベルク:ヴァイオリン協奏曲

2017年11月05日 | Weblog
ギトリス(Vn)ジョリヴェ指揮ORTF(forgottenrecords)1959/11/12liveパリ放送

音が強すぎて何を弾いてるのかわからなくなる。ギリギリと弓を弦に押さえつけて(じっさいギリギリという音が聞こえるところも)出す太い音は、そうであるがゆえにかえって聞く者の音程感を失わせる(前半は実際に音程が狂っているように聴こえるところも)。正しくひいていても何がなんだかわからない。ワルツ主題もその調子なので楽想の描き分けがなく、変化に乏しい。ただ強い音なので曲を知らなければそれなりに聴けるのだろうが(ジョリヴェの指揮は柔らかく達者だ)そういう聴き方ではそもベルクがセリーで描いた意味がない。音色で楽しめないベルクはありえない。これはどうかと思う。
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ベートーヴェン:交響曲第7番

2017年11月05日 | Weblog
クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PASC)1944live

四番とともにpristineの新発掘とのこと(演奏日が明確になっていないため同年の1/8live録音と同一の可能性は残る)。同じくレストアしすぎて擬似ステレオそのものだが、より音が良かったようで拡がりがあり情報量もある。ただ、ストコフスキのそれのように、音楽が開放的に聞こえてしまい、ベートーヴェンらしさを却って損ねている。おなじくノイズや傷もクリアになってしまいストコフスキ録音と聞きまごうような音になっているのは痛い。初期ステレオ、とくにトスカニーニ最晩年ライヴによく似た聴感なのは、スタイルの近似ともども「いやステレオじゃなくていいのに」と思う。トスカニーニ最晩年同様、音のキレがなくなっているのも聴こえてしまう。しかしプレスト楽章と終楽章終盤は流れにはクーセヴィツキーらしい熱気を帯びながらブラスの冷静なテンポ感に象徴されるように愉悦的なリズムに不可欠の縦の厳しさが保たれ、聞き所とはなっている。四番よりは勧めないが、一部分においては至極まっとうに聴ける。楽章間に拍手が入るのはいかにもアメリカだ。そのくせラストの拍手はカット。
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