湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

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☆マーラー:交響曲第10番(未完)(1909-10)(クック補筆完成版・決定稿)

2017年08月30日 | Weblog
<通常ほぼ完成していた1楽章アダージオのみ演奏される。音楽の地平を見据えたその涅槃性は、マーラーの脇をすり抜けて行った新ウィーン楽派の面々をして振り向かせた新鮮な音楽。3楽章も草稿レベルでは出来上がっていたため、しばしば奏せられる(娘婿クシェネク補筆版の場合が多い)。故デリック・クックによる補筆「完成」版で全曲演奏されることも多いが、最近別の補筆完成版が出るに至り牙城も崩れたようである。クック版の管弦楽配置は時折違和感を覚えるが、突然襲う太鼓の打撃(アメリカ時代に聞いた、窓下を過ぎる消防士の葬送音、とアルマが伝えている)、続く遠い想い出のように霞んだ密やかな旋律の美しさは、この版で初めて味わえたわけで、価値あるものであったことは確かだ。完成版の是非については当時論議紛糾し、アルマやワルターらマーラーの使徒には完全拒絶された。バーンスタインも否定派だった。嚆矢として世に出たオーマンディ盤、2稿を含めコンサートにてクック版の知名度向上につとめたマルティノン、そしてクック版を世に広く知らしめることになった極めて美麗なウィン・モリスの盤は、歴史的価値がある。>

モリス指揮ニューフィルハーモニア管弦楽団(SCRIBENDUM他)1973・CD

最近CD化した。マーラー専門指揮者ウィン・モリスの有名な盤。これが出るまで10番の補筆完成版の盤はほとんど知られていなかったため、改めて賛否両論を巻き起こした。モリスは決定稿(3稿)の初演者であり、これは直後の初録音盤である。初稿の初演はBBCの記念行事として60年に行われたが、アルマ夫人のお墨付きを得て更に改訂をくわえ、2稿はオーマンディが録音している。モリス盤は一般に不器用だが丁寧と評されているが、とくに終楽章、ひたすらに綺麗な彫刻といえよう。2番といい8番といい、モリスは大曲の終焉を氷細工のように透明で儚く表現することのできる、独特の指揮者だ。

第一楽章は一応のフルスコアが残されたもので、これだけをマーラー自作と認める向きは多い。原典(クシェネック版)とクック全曲版とで少し異なるようだが(確か昔の音楽雑誌で詳細な検証がなされていたと思う)、じっさい大交響曲の「第一楽章」として聞くのと、単品の「アダージオ」として聞くのでは印象が違う。不安定な調性のもとに紡がれる音線。不協和音の炸裂。クライマックスでの、離れゆく妻アルマを象徴する「A」の強奏。大地の歌そして9番で静かな諦念を描いたのちに、だが結局人間的な苦しみに立ち戻ったかのような曲。
この演奏では引きずるように重く終始超遅のインテンポが保たれ、しかし音はどこまでも透明で低音のくぐもりすら底まで透けて見える海のように涼やかだ。最後までドラマはさほどの起伏も作られず壮大さだけを浮き彫りにするが、”予兆”としての第一楽章の位置付けを明確にした風でもある。

第二楽章は補筆部分の多い楽章だが十分聞ける。ここでは一楽章から一変して速めの出だし。客観性は保たれるものの、ブラスの咆哮などに激しさがまざりだす。”警鐘”の趣。緩徐部の牧歌はいかにもマーラー的なメルヒェンをよく演出した演奏振り。はっきり現代的な響きをひびかせる個所、高弦のポルタメントなど、次第にドラマが盛り上がっていく予感がする。二度目の緩徐部は美麗の中に劇的というモリスの特質を示している。このあたりから演奏が非常に流れ良くなってきて、スコアの穴もうまく隠されている。最後の上向音形のスピットなアッチェルは格好いい!!

第三楽章プルガトリオ(煉獄)はマーラーのほぼ完成したショートスコアが残されており、アダージオと併せてクシェネック補筆版でしばしば演奏される。すごく静かに開始するこの演奏、やがてくるブラスの咆哮とのコントラストが鮮やかに描き出されている。牧神と悪鬼の交錯はごく短い曲中でさっと演じられ、そのまま終わる。第四楽章はフランツ・シュミットの4番交響曲に似た響きをもち、ブラームスに似たメロディがあったと思うが、それでもなお「クック完成版」の聴き所のひとつといえる。3番あたりを彷彿とさせる10番中間楽章の中でも独自色を感じさせる(マーラー自身の色とは言えないが)。悲劇的な曲想は打楽器群により殺人的衝撃をともない、弱音部とのコントラストは激しく演じられている。オケの音はここで必要となるケレン味に欠けるが、モリスの音響操作によって適度な劇性を保っている。テンポは遅いインテンポを保っているから、好悪分かれるかもしれない。途中のヴァイオリンソロの典雅さがまったくマーラーらしくないふしぎな安息を与えるが、クック版を嫌悪する向きには特に猛毒だろう。そして、バスドラムの突然の打撃。6番クライマックスで英雄が打ち倒される木槌とはまた一味違う、深刻な打音。アルマによれば、ニューヨークで、窓下を通った名も無き消防士の葬列より響いたドラムのエコー、これにより中間楽章のまるで先祖がえりしたかのようなメルヒェンの趣が断ち切られ、再び第一楽章の「現実」に引き戻される。悲痛な書き込みの混ざるショートスコアの残された第五楽章、この演奏のドラムは殊更に響かない空虚な音で、表層的な衝撃のさまよりも、突然わけのわからない悲劇に見舞われた者の、宙に浮いたような呆けた心を描きだす。そして次に、10番白眉の名旋律といわれるものが、ピッコロにより提示される。さすがロンドンのオケのことはあり、木管ソロ楽器の優しい響きは他に替えがたい。美しく心に差し込んでくるなつかしい日差し。高弦のやわらかな音もそくっと染み入る。ここまでの楽章の印象がはっきり言って薄かっただけに、ここにきてはじめてモリスの真骨頂を見る思いだ。弱音の響きの指揮者、面目躍如。神への祈りというよりどこまでも人間的な、あたたかくもはかない夢の世界・・・これは誰にでも振れるというものではない。このあとのドラマは調性がうつろい、明るく透き通った音響のもとに劇的な展開を示す。

第一楽章の回想(Aの咆哮から始まる)から全オーケストラをもって再現されるテーマあたりは、明るさが無くなり、果てしなく長い絶望感を、やがてついえた暗闇の中に幻想として立ちのぼる遥かな野の光へいざなうさまが素晴らしく感動的に描かれている。ここがモリス盤一番の聴き所。モリスの良さをわかりたければこういうところを聞くべきだ。やりきれなくも平穏な心地の中に深く沈潜して、ヴァイオリンの思い切った跳躍(ブルックナーの9番や自身の9番終楽章冒頭のよう)をもって曲はおわる。

同演奏、他人の筆の入った曲にこう言っては何だが、指揮者によってさらに手を加えられているのではないかと思わせるところもある。のちの他演とくらべて聴感が若干違うのだ。検証せねばわからないところではあるが・・・(まあクック版は多かれ少なかれ指揮者によって手を加えられるものらしいのだが)。

※2004年以前の記事です
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