湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ドビュッシー:カンタータ「選ばれし乙女」

2017年02月21日 | Weblog
ジャーヌ・ギア(sp) オデット・リキア(sp)コッポラ指揮パドルー管弦楽団、サン・ジェルヴェ女声合唱団(gramophone/victor/lys/andante他)1934/11パリ、ラモー・ホール・CD

ロセッティの詩文に材をとった初期の香りを残す明るい作品で、牧歌的な雰囲気からどんどんと素朴な耽美の世界に沈潜していくさまは、ワグナーというよりまるきりディーリアスであり、世紀末だなという感じ。しかしひたすら女性の言葉が支配する世界はコッポラの一連の録音にみられる「クッキリした輪郭」のためにさらに、幻想味より即物的な表現をもって伝わる。だが、この録音が比較的復刻され続けるのは声と楽団が非常に美しい響きを湛えているところにもあると思う。コッポラはSPという枠にキッチリ合わせた音楽を作る印象もあろうが、パドルー管弦楽団の木管陣、もちろんその他のパートもそうなんだが骨董録音には珍しい技巧的瑕疵の僅かな、時代を感じさせない如何にもフランスの一流オケらしい品良い清潔な音で綺麗なハーモニーを演じて見せ、沸き立つような雰囲気の上で歌を踊らせる。歌唱もじつに確かだ。名唱と言って良いだろう。ドビュッシー作品に過度な暗喩的イメージを持たず、初期作品の一部として、ダンディらと同じ時代のものとして聴けば、この昭和9年の録音でもまったく楽しめるだろう。リアルな音でしか収録できなかった時代(電気録音とはいえ実演とは格段の情報量の差を埋めるための、演奏の調整は、特に大規模作品ではされることがあった)にこれだけ雰囲気を作れるのは凄い。低音の刻みなど、影りもまた曲の陰影として的確に伝わり、そうとうに準備して録音しただろうことも伺える。

だがまあ、夢十夜の第一夜で思い立って聴いたら脳内の儚いイメージが、まだもってリアリズム表現においては明確な象徴主義絵画の、しかもちっとも暗示的でない美文体を伴うロセッティ路線を直截に推進する音楽の力に押しつぶされてしまった。ドビュッシーは漱石とほぼ同じ頃に生まれ同じ頃に死んでいる。イギリス人の絵に感化された日本人とフランス人の感覚差に面白みを感じる。日本は先んじていたのだろう。残念ながらこの録音は古いと言っても、共に亡くなったあとである。漱石が同曲初演の頃は、極東に戻って帝大をちょうど卒業した時期にあたる。程なく弦楽四重奏曲も初演されドビュッシーは長足の進歩を遂げるのだから、夢十夜の時期はすでに描写的表現からスッカリ離れ牧神はおろか、「映像」を仕上げた頃にあたる。いっぽうコッポラは指揮録音時代を過ぎると1971年まで作曲家として長生した。フランシスとの関係は無い。
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エルガー:交響曲第2番

2017年02月21日 | Weblog
ボールト指揮BBC交響楽団(ica)1977/7/24live・CD

茫洋とした録音ではっきり言って悪い。舞台の遠いステレオ感の無い様は痛い(モノラル音源に擬似ステレオふうの強い残響を加えたような、昔よくあったラジオ中継放送のような音)。そのせいで冒頭からだらしない感がして、ボールトらしくない覇気のない印象を受ける。肝心の分厚い弦が前に立ってこず、ブラスとティンパニだけが轟く。おそらく解釈的には他のオケとのセッションと変わらないのだろうが、BBC交響楽団という古巣オケを振っているにも関わらずピンとこない。弦楽器の音がとくにイマイチハッキリしないのだが、二楽章では、ああ、やっぱり録音のせいか、という「雄渾さ」が感じ取れなくもない。ボールトらしからぬ暗さもあり、木管と絡み息の長い旋律をうなる場面では、ラフマニノフすら想起するような、エルガーのノーブルを通り越した、心象的な風景を見せる。希望的な上行音形はグラズノフの8番を思わせるある種の「終わり」を感じさせ、その後は打楽器の力を借りてボールトらしい男性的表現に至る。足を引きずるような挽歌にも諦念はもはや感じられず、ボールトらしいしっかりしたブラームス的な劇的な音楽にまとまる。ヴァイオリンに心なしかポルタメントが聴こえたような気がするほど、実演は昂ぶったものだったのだろう。ピアニッシモに感情的なアクセントが聴こえる。三楽章もブラームス的な雄渾な副主題が印象に残る。この楽章はスケルツォ的な風変わりな主題よりも、激しい感情表現がしっかり伝わる迫力ある録音となっている。木管など決して巧いわけではないがアンサンブルはまとまっている。派手なドラマはそれまでの演奏の印象を変える出来だ。四楽章はボールトらしくなく情に流されたような僅かなフォルムの崩れ、ブラス陣の矢鱈と下卑た響きに弦の分厚いうねりがロシアの曲を演奏するようで、ボールトの記憶の彼方のニキッシュが再来したかのような錯覚にさえ陥る(ニキシュはチャイコフスキーも得意とし、同時にエルガーの交響曲も手がけた。ちなみにBBC交響楽団はエルガーの指揮のもと演奏したこともある)。その同時期のイギリス人にしては和声的な冒険を孕む起伏の末に追憶の主題が再現され、詠嘆ではなく明確にフィナーレを印象付ける。ブラヴォが叫ばれる、後半楽章は名演と言っていいだろう。
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☆マーラー:交響曲「大地の歌」

2017年02月21日 | マーラー
○ワルター指揮ウィーン・フィル、フェリアー(Msp)パツァーク(T)(andromedia)1952/5/18(?)live・CD

この音源はandanteが偽者を出したあとtahraが正規に復刻したものを何度も焼きなおしていろんなマイナーレーベルが出していた、その一番最近の復刻で音がいいというフレコミだったが石丸の店員は「いやー・・・かわんないす」といっていた。それ以前にレーベル表記上の収録月日が一日ずれているため、資料として入手。ワルターは元々リアルな肌触りの生々しいマーラーをやるけど(作曲家じきじきの委託初演者とはいえ同時代者から見ても「ユダヤ的にすぎる」と言われていた)、透徹した「大地の歌」という楽曲ではとくに違和感を感じることも多い。このEU盤は最近の廉価リマスター盤の他聞に漏れず、輪郭のきつい骨ばったのリマスタリングで、もっとやわらかい音がほしいと思った。でもたぶん普通の人は聞きやすいと思うだろう。大地の歌に浸るには、やっぱ新しい録音にかぎるんですが。イマかなり厭世的な気分なので、ドイツ語による漢詩表現が薄幸の電話交換手キャサリン・フェリアーの万感籠もった声と、ウィーン流儀の弦楽器のアクの強いフレージングとあいまって奇怪な中宇の気分を盛り立てられる。穏やかな気分で消え入る死の世界なのに、この生命力は・・・とかおもってしまうけど、ワルターもけしてこのあと長くないんだよなあ。

中間楽章でのパツァークの安定した、でも崩した歌唱にも傾聴。個人的にdecca録音にむしろ似てるきもするけど。(某SNS日記より転載)
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リース:弦楽四重奏と管弦楽のための協奏曲

2017年02月21日 | Weblog
ドラティ指揮NYP(DA)1975/4/20live

インホール録音すなわち膝録なので舞台が遠く立体感が無い。カタマリとして聴こえる。環境雑音はともかくソリスト(カルテット)の音がよく聴こえてこないのはこの曲には痛い(一楽章)。楽団のアンサンブルもリズムがキレず、緩いように感じる。ぼやっとした音はもう「インホール録音」だからしょうがない、これはステレオとはされているがワンマイクでレンジが狭くほとんどモノラル。ブラスと打楽器がやたら耳をつんざくだけ。強いて言えば弦楽四重奏の高弦がそれほど引き立たないかわりに低弦がわりとよく聴こえ、あ、ヴァイオリン協奏曲じゃなくてカルテットなんだな、という当たり前の感想が出る。ドラティ鼻歌歌ってる?ウォルトン張りのリズムと透明感はNYPの性格もあろう、重くて前時代的な響きで性質を変えられてしまっているが、悪いことばかりではなく、二楽章は力強く内容的な厚みを伴って届く。わずかにカルテットの技術が不安な面もあるが、録音のせいでそう聴こえるだけかもしれない(決して高精度ではない)。リースの盛り込んだ中の異国的なフレーズ、これはドラティ懇意のバルトーク的な、民族音楽的側面もあるのか、という妖しい情感のあるさまも見える。三楽章は駆け回るソロヴァイオリンが全体を先導していかないとならないが、もう録音上イマイチなバランスなのは仕方ない。バックの、さすがの中身の詰まった迫力はNYPの面目躍如である。セルのような機械的な面白みではなく旋律そのものの持つ、響きそのものの持つ魅力を素直に押し出してきて気を煽る。カルテットの面々はどうもやはり表現が重いが、ソリスト四人と管弦楽の掛け合いというより、合奏協奏曲を志向したバランスだ。駆け抜けるというよりガシャンで終わり。これはこれでいいのか。一般的には勧められない。
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☆チャイコフスキー:交響曲第6番

2017年02月21日 | チャイコフスキー
トスカニーニ指揮NBC交響楽団(DA:CD-R/MUSIC&ARTS/IDIS)1954/3/21live・CD

DAはリハ付。本番は何とステレオ(一部モノラル、M&Aは入念なリマスターと擬似ステ化により補完しているとのこと)だが音が軽くまるでデルヴォーの悲愴を聴いているような軽量級の感覚があったのと、トスカニーニとは思えない人工的で生気の感じられない造形が随所にみられ、アンサンブルの弛緩のさまは1楽章の展開部でフーガ構造が完全に崩れ弦が崩壊してしまって木管にまで波及しているところに最もあらわれている。完全に「年齢を感じさせる」演奏になっている。巨匠系指揮者は感覚の鈍化を遅いテンポで補うものだが、この押しも押されぬ前世紀最大の(「最高の」かどうかは人により見解が違うだろうが)指揮者は高齢の中いきなり衰えが堰を切り引退したわけで、それにしてもこれはよくよく聴こうとすれば素晴らしいリズム処理の形骸は聞き取ることはできるものの、ちょっとかなり・・・である。凡百とは言わない、けれどもトスカニーニらしさがもう活かせない状態にまできてしまっていたのか、とちょっと残念に思うのも確かである。後期即ち録音時代のトスカニーニはそれまでよりも即物性が強くどんどん性急になっていったように言われているが、最晩年は少なくともスピードは落ちているし、メカニカルな魅力がもはや失われてしまう寸前までいっていたのだ、と思わせるところがあります。ひょっとしたら案外モノラルで巨匠と呼ばれている指揮者たちも、ステレオの明るみに出したらこんなもんなのかなあ(もちろん録音に限ってですよ)、というちょっと落胆するようなところもあった。「記憶力減退」とはこういう状態だったのだとわかります。いや、4楽章が意外と深刻でいいんですけどね。無印。4/4の引退決意公演の僅か前、そちらのワグナープログラムもM&Aで復刻されている。
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オネゲル:交響曲第2番

2017年02月21日 | Weblog
カラヤン指揮BPO(DG)1969・CD

残響が多くアンサンブルの緊密さ・精密さや楽団独自の力強さが却って伝わってこないが、下手な情感をこめずひたすら純音楽的に楽曲を構築していくことによりオネゲルのスコアの本質が伝わってくる。聴けば聴くほど印象深くなっていく。カラヤンのゴージャスで大音量というイメージは楽曲自体が否定しているため浮き立ってこない(前述の録音起因の音場の広さによる印象はある)。構成が見事で、3楽章こそ個人的に余り好まないトランペットソロ中心の大団円だが、2楽章は素晴らしい緩徐楽章。情熱だけで押し通したり、変化を極端につけてわかりやすくすることはしない。緩やかな楽曲構成を綿密に再現し、流れの中で自然とヴァイオリンが上り詰め詠嘆する場面ではうまいなあとしか言いようがなかった。これをふっと浮き上がるように、甘やかで儚い夢のように対比する表現がとられることもあるが、オネゲルはあくまで音楽の流れ上の一部として組み込んでいるのである。しかしそのままやっても面白くない。カラヤンはよくわかっているし、ここまでドイツの指揮者としては異例のレパートリーとしてきた成果を示した見識である。最初は中庸に整えられた演奏で全般のっぺりして聴こえるかもしれないが、いったん他の演奏から離れて、ふと聴いてみるとよく曲のわかる良演である。3番とのカップリング。個人的に高音のピッチは気にならなかったが(ブールのものやミュンシュ各楽団録音で3楽章冒頭を比べてみたが私の耳には同じだった)低い音に差はあるようにも感じた(カラヤンのほうが高い)。違和感はなかった。
Comments (4)
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