湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ディーリアス:ヴァイオリン・ソナタ(ロ調)

2017年01月09日 | Weblog
ストーン(Vn)スレルフォール(P)(PEARL)

私が最初に触れたディーリアスの譜面は、なぜかこの習作(といっても作曲家30歳の作品)ソナタだった。第一印象は全体的にはフランクのソナタ、旋律線はドイツ・オーストリア系のリヒャルトとかそのあたりのもの、そして、かなり冗長(3楽章制)といったところ。音源などなく、自分でかなでてみて、いかにも習作的で合理的でない曲、今思うとドビュッシーの初期作品に非常に近いと思うのだが、とにかく後年のディーリアスの隙の無い楽曲に比べ、スカスカな感じがした。だが、何度かかなでてみて、旋律の半音階的なゆらぎ、五音音階の奇妙な軋み、これらが同時期の「レジェンド」のいかにもあざとい前時代的な旋律に比べて、ずっと新しいものを示していて、しかもかなりすがすがしく気持ちがよく思えてきた。今無心でレコードを聞く。じつに雄弁なヴァイオリン、印象派的な音色のうつろい、習作は習作なのだが、捨てておくには忍びない美しい楽曲。これは技巧的にはそれほど難しくないので、もし触れる機会があったら演奏してみてほしい。きっとディーリアスの秘められた宝石を発見した気分になるだろう。この盤はヴァイオリンが心もとない。この曲は雄弁に太筆描きで弾いて欲しい。無印。,
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ドヴォルザーク:交響曲第9番「新世界より」

2017年01月09日 | Weblog
プレートル指揮シュツットガルト放送交響楽団(WEITBLICK)1996/10/14-28live・CD

弦楽器を中心とした迫力はこのオケ本来のものだが、トゥッティのちょっとしまらないボワッとした響きはホール残響など録音環境面の問題も大きいだろう。どう切り貼りした記録かわからないが、演奏精度的に単に楽章単位にやっていると思われるのでそこの問題は無い。演奏解釈的にはエキセントリックな部分含めやはりドイツ系ではなく、シルヴェストリなどのそれを思わせる。木管楽器の響きが良い。二楽章も良いが三楽章中間部のノリはなかなか愉しい。環境ノイズ含めいささか雑味はあるがライヴだから、アタッカで四楽章に突入するときの勢い、前のめりで高速インテンポ即物主義的で特徴的だ。流れてしまっているだけかもしれないが第二主題で落ち着く。そこからのヴァイオリンの熱情は冒頭の乱暴な勢いを何とか明確なテンポにはめてグズグズにならず済んでいる。細かい装飾音や内声の動きが明晰に聴こえるのはプレートルの芸風以上に録音の良さによるか。弦楽器ばかり前面に立つのではなく弦楽器を包み込むような管楽器のスケールの大きな表現がこの演奏全体のスケールをも大きなものにさせている。途中低弦から提示される主題は感情を煽る憧れに満ちたボウイングが素晴らしく、そこからのホルンは危ういものの破壊的な主題回想からマーラー的な静謐、そして破天荒なクライマックスに至る。肯定的な解決をみる和声、キレの良いリズムで完結。これはもうライヴだからこその振幅で、いまどきの同曲の演奏には珍しいようにも感じた。保守的な聴衆なのか、拍手は普通。
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マーラー:葬礼(交響詩)

2017年01月09日 | Weblog
プレートル指揮シュツットガルト放送交響楽団(WEITBLICK)1998/6/24-26live・CD

前半プレートルらしく前のめりにならず一歩引いて整えた感じがある(単楽章の曲にもかかわらず複数回のライヴを継いでいるのでそこは斟酌すべき)。先ずはそこまでやるかという丁寧なフレージングが聴きもので、緩徐主題のほうが耳に残る。デロデロな演歌ではなく、晩年のワルターのような懐深い表現である。冒頭も含め激しく叩きつけるような箇所では少しぼやっとするところがあるが、ホール残響が過剰なせいかもしれない。プレートルが単独で前プロに使っていたとおり、「復活」の一楽章の原型、「巨人」の続編、ではなくひとつの管弦楽曲として構成されており、この単独曲の中での劇的効果を狙った創り上げ方をしている。中盤から後半になると突如極端にスピードを上げたり、ホール残響問題も気にならないほど派手に、開けっぴろげな音響の拡げ方をして、昔のプレートルならやらなかったであろうダイナミックな表現には雑味すら混ざるが、プレートルのものとしてはそこまで濃くならなかったマーラーの、「体臭」に肉薄している。静謐からの駆け下りる結部は、次に繋げるというよりそのまま奈落に墜ちる雪崩状の感じが出て、なるほど復活一楽章とは違うな、という箇所もわかりやすく示されるし、復活の一楽章が長過ぎる、という向きもこういう「交響詩」として聴けば、リヒャルト・シュトラウスの初期作品群と肩を並べた作品として楽しめるだろう。マーラー指揮者ではなく珍曲指揮者としての腕の現れた佳演。別のオケ、特にフランスやイギリスだったら全くマーラーに聴こえなかったかもしれないな。
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