湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆レスピーギ:ローマの松

2017年01月04日 | Weblog
○トスカニーニ指揮NBC交響楽団(NBC,TOSHIBA EMI:DVD)1952/3/22LIVE

RCA録音1年前のテレビ放送実況録画である。私はあまり映像には興味が無いのだが(実演に興味薄なのもそのへんの感覚)動き額に汗を垂らすトスカニーニの姿は感慨深いものがある。80代とは思えない。じつにしっかり振る指揮者だなあ、と思って見入ってしまう。そういえば遠目にはカラヤンに似てなくもないか。音は貧弱。やはりテレビの音声だから、しっかり録音録りしたRCA盤にはかなわない。高弦や金管が安っぽく聞こえるし、なんとなく微妙に映像とズレているような気がしなくもない。スケール感にも乏しい。やはりこの記録は映像あってのものだろう。爆発的な迫力というものはこれでは望めない。しかし、ライナーにもあったが、「ジャニコロの松」の、繊細で、やさしい響きにはかなり魅了される。トスカニーニのしかめ面、静かな曲なのに同じ調子で大きく振っている、汗も垂らしている、なのにこのやさしいハープのひびき。もともと多分にイマジネイティブで印象的な音楽であるが、他のことをやっていても、この楽章がくると画面を見詰めてしまうのは、もはや説明を超えたトスカニーニの「オーラ」のせいか。続くアッピアはもう独壇場だから、まあ録音のレンジは狭いけれども、画面を見て想像力を膨らませると、この時この場にいられたら、どんなに幸せだったろう、と思われ、いかめしく口を開け歌うように振るトスカニーニの顔が、最後のクライマックスで、古代の英雄的なフリーズに見えてくる。にしてもブラスうまいな・・。すごいっす。音色的にも完璧ですペット。テレビの解説だとこれがトスカニーニ最後のライヴ映像ということだが、たしか最後のライヴ(ステレオ録音だそうで。。)も映像があったのではないか、と思うが、まあいい。高価なボックスですが、「運命」も入ったこの1枚だけのために買ってもいいでしょう。ドビュッシーやシベリウスもあり。,
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ブルックナー:交響曲第7番

2017年01月04日 | Weblog
ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(ica)1958/2/18ハーバード大学live・DVD

いったいにブルックナーを聴くのではなく観るはめになるとどうしてこう眠くなるのだろう。七番、ましてミュンシュの力強いブルックナーである。なぜ眠いのか。白黒のぼけた画像のせいだろう。指揮ぶりはとにかくダイナミックなのだが演奏はそれほど激しいわけではなく、大したミスもなくそつなくこなしている。これだけ大編成の管楽器をしたがえながら、モノラルのこの録音では何とも貧弱で、そこも残念どころである。何となくベートーヴェンだな、と思うような手堅さも感じた。まあ52分余り、というのは早すぎるというほど早いテンポでもない。わりと早く進む感じがしたのは、即物的にこなしているからだろう。memories等で出ている音源とは一応違うということになっている(あちらはタングルウッドだったか)。演奏的には違いはない、音はむこうのほうが聞きやすいかもしれない。
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☆ブルックナー:交響曲第7番

2017年01月04日 | ドイツ・オーストリア
○ミュンシュ指揮ボストン交響楽団(kapellmeister:CD-R/memories)1958/2/8live・CD

終楽章が短い・・・はいいとして、案外まともなのはブルックナー7番がこういう風にしか演奏しようがないからなのか、ベートーヴェン指揮者としても知られていたミュンシュの元々のドイツ的な性向に基づくものなのか。録音は言わずと知れた状態ではあるが、クーセヴィツキーのブルックナーあたりを想起させるボストンの中欧風の響きがしっかり前進的で集中力の高い演奏ぶりとあいまって、純粋にロマン派交響曲の小名品を聴いているような感覚を与えられる。すがすがしくさえあるのは単に7番だからか。今の私はブルックナー、バルトーク、ベルリオーズが苦手なかんじなのだが、これは途中飽きながらも力強い音楽作りによって最後まで聞きとおすことができた。そんなにヘンな演奏じゃないです、まとも。○。
Comments (2)
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プーランク:ヴァイオリンとピアノのためのソナタ

2017年01月04日 | Weblog
メニューイン(vn)フェヴリエ(P)(EMI/brilliant)1964-71・CD

ステレオ時代のメニューヒンやシゲティは音程は二の次で音色が第一、と思わないと聴いてられない神経質な方もいるだろう。ただでさえ不安定な音線、半音階的なゆらぎを交えた曲(この曲の冒頭のように)は音程第一でないと真価がまったく伝わらないが、あのような激しく諧謔的なフレーズなど置いておいて、旋律を途切れずに歌う場面での甘い音色表現は評価して然るべきだろう。プーランクの甘やかな夢を語るにふさわしい。重音を交えた技巧的な部分でセッション録音でも音程揃わないというのはさすがにどうかという、重音が無造作な不協和音にきこえてしまうのは不味いが、この曲はプーランクにしては異例の弦楽器を前に押し出したものだけあって、いつもの分裂症的なパッチワークを目立たせず比較的穏健なつながりの中に音を並べていくため、大雑把な中では少しゴミが混ざる程度のもので、メニューインの音そのものが、二楽章ではやさしげなフレージングとともに魅力的につたわる、ただそれだけで染みる。ひたすらの歌、不協和に哀しいものも含む現代的な抒情を湛えたこの楽章は技巧的ではなく、それだけにソリストの「味」が剥き出しになるから、同曲が一部のヴァイオリンマニアに受けるのもわかる。そしてメニューインがやる意味があるのだ。間奏曲と名付けられてはいるが、炎のようなアレグロと悲劇的なプレストに挟まれた、この楽章は音色派はむしろアピールすべき楽章。三楽章後半では調性の変転ぶりがプーランクらしい非常にカッコのいい旋律を伴い聴きどころとなる。このあたりもヴァイオリンマニアに受けるところだろうし、プーランクがやりがちな方法とはいえ、ピアノの強い打鍵で断ち切れたあと、短いカデンツふうのフレーズというか、メシアンのように地に臥したヴァイオリンを見下ろして、ピアノが音を散発したらサティのように終わる。このあたりもまたプーランクらしい諧謔ではあるが好き嫌いが別れるだろう。断ち切れたらすぐ終わる、もしくはその前のまま綺麗に終わらせる、そういうことをしていないので、思索的雰囲気が発生し、メニューインの音量や左手を制御しきれない(弓はシゲティよりずっと確かである)危なっかしいところが却って隠されて良いのかもしれない。フェヴリエは手慣れた演奏で気品のある表現に徹しており、ラヴェル演奏などの少し固い表現はしておらず、かといってプーランク張りのエキセントリックさはないので聴きやすい。プーランク苦手派にはまあまあ聴けるほう。
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ストラヴィンスキー:バレエ音楽「カルタ遊び」

2017年01月04日 | Weblog
マデルナ指揮ザールブリュッケン放送交響楽団(arkadia)1972/4/6live・CD

ポーカーをする人々の姿を三幕のバレエ音楽に簡潔にまとめた新古典主義時代の作品で、同時期ストラヴィンスキーが時折やってみせた聴衆に媚びるような、分かりやすくて聴きやすい作品になっている。素材こそ皮肉っぽい調子だが、ここに新しいものへの志向は無く、三幕(第三ラウンド)を中心として幾つかのロマン派音楽のパロディやそれを模したような似つかわしくない書法が耳をつんざくストラヴィンスキー的な響き、リズムを和らげ、マデルナはそれでも鋭くやっているほうだが、わりとふくよかで横の流れの感じられる耳馴染み良い演奏に仕上がり、聴衆反応も良い方。オケ反応もよく変なこともしていない。
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ミヨー:エクスの謝肉祭(バレエ音楽「サラド」よりピアノと管弦楽のための幻想曲)

2017年01月04日 | Weblog
ボジャンキーノ(P)マデルナ指揮ローマRAI交響楽団(arkadia)1960/12/23live・CD

ミヨーがアメリカ大陸、とりわけブラジル音楽から得た素材を料理した曲中ではかなりクラシカルな意味で個性的に出来上がった作品だと思う。旋律やリズムを浅薄に取り入れるだけではなく自分の性向、とくに響きの独自の感覚と照らし合わせ、曲によっては確かに「本筋のミヨー」として聴ける(後半は「屋根の上の牛」的なまんまラテン音楽をなぞっただけのようなものが目立つ)。ヴァイオリンを中心に各楽器を達者に弾けた人だそうで、ピアノを使わせると言いたいことを簡潔にスカッと示してくれるから、分かりやすさもある(「家庭のミューズ」に似た美しい曲も現れる)。12の極めて短い楽章は「タンゴ」といった即物的な表題をもつが、本来それぞれ特徴的な道化師ふうの名前に割り当てており(サティ的だ)、対照的な性格をスパッスパッと短くあらわしていく。皮肉も含む作品であることも考慮しないと浅薄な印象のみ残るおそれもある。原曲の「サラダ」はまずもって演奏録音されないが、ラヴェルがただでさえ多作のミヨーの示した「新味」の多様性に、同じく新しい響きを目指す自らの寡作を嘆いた話が本に出てくる。この演奏は「輸入音楽」ではなくミヨー側に寄せた演奏に聴こえる。楽章の即物的性格よりも響く音の鋭敏さ、雑然とした特有の魅力が、確かな指で遊びを交えず先導するソリストのもと抽象的に引き出され、提示されている。ゆえ地味だったり遊びがなさすぎるなど批判もあり得るが、私はこれがしっくり来た。どうしてもただの世俗音楽の翻案にすぎない楽章は眉をひそめてしまうが、三分の一の曲はマデルナにブヨブヨした部分を削ぎ落とされ明確なフォルムを与えられており、最良と考える。この曲が(屋根の上の牛同様)嫌いな向きにはすすめられる。なぜかオケが上手い。敏捷でピアノにピタリとつける。マデルナが変なことをしないからだろう。ハッキリした演奏なので勧められる。録音も明晰なほうではないか。
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