湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

☆ウォルトン:チェロ協奏曲

2016年10月03日 | イギリス
○ピアティゴルスキー(Vc)サージェント指揮BBC交響楽団(EMI,BBC)1957/2/13live・DVD

作曲家にmagnificentと評されたイギリス初演時のライヴ映像である。まあ誰しも巨漢ピアティゴルスキーの左手、とくに2楽章の唖然とする超絶技巧に釘付けになるだろう。音だけ聴いていたら余り魅力をかんじないかもしれない、個性的ではない音の人だが、映像の力はこのオーダーメイド作品(もちろんピアティゴルスキーの委属)が決して皮肉屋ウォルトンのドル獲得の道具であったわけではないことを直感させるに十分である。

耳で聴くならせめてスコアと首っぴきで聞かないとわからない込み入ったところのある(ウォルトン自身は事故で入院中であったためラジオで聴いたようだ)、ウォルトンの長い滑空的晩年の入口際に咲く最後の花のような作品であるだけに、映像で見るとこのチェロに要求するには首を傾げざるを得ない跳躍の多さ音線のわかりにくさ、音響の複雑さとリズムのせわしなさ、そして変則的な重音の多用、確かに映画音楽のように煌びやかな叙情をたたえているはずの、旋律的な「はず」の楽曲をどうまとめるかがじつに難しげで、そこの巧妙な描き出しかた、やはりフルヴェンのオケで長年鍛えられた現代作品に対する確かな耳と腕が「ウォルトンなんてわかりやすい、簡単カンタン」と言わんばかりの余裕をもって楽曲をまとめてみせる。

そう、チェロのハイフェッツと言われてもおかしくはなかった(ハイフェッツのガルネリもそうだが楽器がかなり小さいのもヴァイオリン的なカンタービレをあわせもつ超絶技巧的な演奏を可能とした一つのゆえんだと思われるが)ピアティゴルスキーの腕はやはり音盤オンリーではわかりにくい。録音よりライヴを重視したためか録音媒体には渋さと技巧ばかり目だったものが多い。これは確かにライヴだし、何より弦では最も有用音域が広く難しく筋力もいるチェロだから、ウォルトンのような弦楽器に無為に苛烈な要求をする人の作品においては、音が決まらなかったり指が滑ったりするのは仕方がなく、いやコンチェルトでは敢えて要る音要らない音の強弱を強調するためになめらかに音を飛ばしたりひっかけたりして味にすることもあるのだが、ピアティゴルスキーは超スピードの間断ない流れを重視しているがゆえ、音符を全てしっかり音にできているかといえばそうではない。

でも、この白黒映像でもうかがえる伊達男、いやテクニシャンのサージェントとピアティのコンビにおいてそんな瑣末さは大した問題ではない。新曲をまとまった大きな絵画として描き出すためには細部へのこだわりは寧ろ仇となる。

BBCはそつない。しかしその冷たい音とじつに規律正しい・・・ドイツ楽団の「締め上げられた規律」とは明らかに違う・・・キビキビ正確に決まるアンサンブルはウォルトンの冷え冷えしたランドスケープに非常によくあっている。イギリスの楽団はじつにいいなあ、と思いつつ、その冷静さに若干の物足りなさを感じることもあるが、だがこの2楽章、「ウォルトンの2楽章」のピアティの超絶さには、結部でさっと弓を引く顔色変えないピアティに対し、会場から「舞台上からも」ざわめきが起こり一部拍手まできこえる。背後でささやきあう楽団員の姿を見ても・・・BBC交響楽団ではそうそうないことだ・・・恐ろしい技巧を目の当たりにした人々の「恐怖」すらかんじとれるだろう。ピアティは心をこめて演奏している、でも、まったく体は揺らがないし、表情を歪めたり陶酔したりすることもない。ラフマニノフを思わせる顔つき髪型で、性格的なふてぶてしさを表に出すこともなく、ルビンシュタインやハイフェッツにやはり似ている天才的技巧家特有の肩の力の抜き具合と演奏のすさまじさのギャップがすごい。

ハイフェッツの演奏を見て何人のヴァイオリニスト志願者が弓を置いたろうか。ピアティについてもそれはあてはまることだったろう、そういったことを思う。近現代チェリストにとっての神様カサルス~ピアティにとってもその存在は神であった~、あらゆる意味で20世紀最高のチェリスト故ロストロ先生(嘆きの声は次第に盛り上がっている、カサルスがなくなったときもそういえば楽器違いの演奏家からも悲痛な声があがっていたなあ・・・)のような天上の存在は別格として、しかし、あの大きなかいなをまるで機械のように正確にフィルムのコマよりも速くうごかし、工業機械のように力強く目にも止まらぬ速さで指を連打しつづける姿を見てしまうと、今現在目にすることのできるチェリストの何と弱弱しく、音の小さいことか、と思ってしまう。

このような演奏は、コノ曲においてはとくに絶後だろう。終わったあと、曲が静かで心象的であるだけにそれほど盛り上がらないのだが、それ以上に通り一辺ににこにこと挨拶したあと、左手でネックをつかみ軽々高々とチェロを持ち上げ楽団員の間をぬってさっさと袖にはけていく大柄のうしろ姿に・・・つまり全く疲れていないのだ・・・、亡命時にチェロを頭上に持ち上げ川をわたったというエピソードはマジかもしれない、とおもってしまった。恐るべき国ロシア。短命はその能力と体力のひきかえにもたらされるものか。純粋に音楽としては○。
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ヒル:交響曲第1番

2016年10月03日 | Weblog
クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PASC)1943/2/27live

pristine発掘音源で、ハリスの5番(初演)とともに演奏されたもの。1927年作品で初演ではない可能性があるがpristineによるとおそらく同曲唯一の記録で、曲自体の詳細すらわからないらしい。感触はやはりアメリカ現代交響曲(前衛じゃない方)そのもの。3楽章制でアレグロ楽章の中間に緩徐楽章をはさんでいる。20分に満たずハリスの5番よりさらに短い。3楽章は(これもアメリカ現代交響曲の典型だが)舞踏要素が強く、やや雑味はあるが耳なじみ良い盛り上がる曲。クーセヴィツキーも「いつもどおり」といったそつない感じ。
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ロイ・ハリス:交響曲第5番(初版)

2016年10月03日 | Weblog
クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団(PASC)1943/2/27初演live

pristineの発掘音源。前奏曲、コラール、フーガの三楽章からなる短い曲。晦渋さの無い聴きやすい曲で、明るく単調な和声と、舞踏的なリズムに彩られた、まさにアメリカ産交響曲を体現した曲(半音階的でコープランド3番のような書法の簡潔さは感じられない)。pristineが周到なレストアをしても録音がどうにも聴きづらすぎるものの、音楽の爽やかさがなんとか聴き通させる。フィナーレがそれほど強い推進力を持ち合わせていないのでクーセヴィツキーをもってしても少し食い足りなさは残る。聴衆反応はまあまあか。
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