湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ミャスコフスキー:交響曲第6番「革命」

2008年05月02日 | ミャスコフスキー
○N.ヤルヴィ指揮エーテボリ交響楽団、交響合唱団(DG)1998/8・CD

スヴェトラーノフの交響曲全集録音(ロシア音楽アンソロジー)がついに2008年6月再版される(後日修正:ワーナーの協会正規盤でした)。6000円台という値付けは昨今のロシアもの復刻の流れからすればいつかは、と予想されたものだとはいえ、高額な「ボックス限定版」や単発CDを買い集めた向きにとってはかなりショッキングだろう。9曲程度ではない、27曲もの交響曲全集の廉価復刻というのは大きい。しかしこれで晴れて皆がミャスの「とりあえずの」全貌を容易に俯瞰できるようになる。その耳で聴き、その頭で判断できるのだ。他人の言説の継ぎ接ぎで「聴いたフリをして」論じる必要もない。皆が「聴いて言える」ようになることが、逆に楽しみである。
Miaskovsky: Complete Symphonie

Wcj

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ヤルヴィはやはり要領一番の指揮者である。今やネーメとつけないとややこしいことになってしまうが、依然としてかつてのようなスマートですぐれた技巧を示す演奏振りを見せてくれている。もちろんこのような「そつない」指揮者は実演で判断しないとならないのだが。この録音も引いた様な解釈ぶりが「つまらない」と判断されるようなところは否定できない(スヴェトラのアクの強い演奏に慣れていたら尚更)。前ほどではないが時おりライヴ放送や実演の機会もある指揮者だ。
Maskovsky: Symphony No. 6

Deutsche Grammophon

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1楽章。軽い響きで要領のいいこじんまりとしたまとめ方は、スヴェトラやロジェストの向こうを張って西側オケにより東側の珍曲を録音し続けた頃の夥しい音盤群から得られる印象とさほど変わっていない。ORFEOのグラズノフに非常によく似た聴感の演奏振りである。ハメを外さず中庸で聞きやすいが、音響的に拡がりがなく、ホール残響があってすらミャスの素朴な書法がどうしても露骨に聞き取れてしまう。この時期のミャスはもっと解釈者がケレン味を持ち込み血肉を盛り付け方向性を明確にしないと、単調でわけのわからないまま、形式的に骨ばった「交響的大蛇」を聴かされる気になってしまう。数少ない楽想をミャスコフスキーらしい文学的・劇的欲求を満たすべく極端に伸縮させ交錯させる音楽にあって(劇音楽的背景があるのならテキストを残して注釈すべき部分ではある)、アンサンブルは緊密であるのに、指もよく動いているのに、正直飽きる。珍曲を職人的演奏家がさばくときにありがちな感じというか、なまじ巧いだけに曲の悪い部分も思い切り聞こえる演奏になってしまい、価値を却って低く印象付けてしまう、ちょっと厄介なたぐいと言えるかもしれない。

2楽章は事実上スケルツォのプレスト楽章。曲がイマジネイティブで変化があるため1楽章より入り込める。三部形式のトリオでセレスタと弦が奏でるなだらかな音楽は澄み切った殆どRVWの教会音楽で、フルートが雰囲気を壊さないようにスラヴィックなメロディを奏で出すあたりはミャスの最良の部分をヤルヴィの音感とテクニックが忠実に繊細に紡ぎ出し成功している。スケルツォ再現で断片的なテーマが交錯しシンバルで〆られるあたりも実にスマートできっちりしている。

3楽章アンダンテは一番謎めいていて、陰鬱な1楽章末尾に回帰してしまう。1楽章第二主題の延長上に甘美な主題もあらわれるものの、2楽章中間部も含めての中から寄せ集められた断片が気まぐれに連ねられていく。難解でやや机上論的な音楽が進み、ミャスの緩徐楽章は独自の旋律が一本しっかり立てられていないとこうも散文的になってしまうのか、という悪い見本に思える。だがヤルヴィが力を発揮するのは俄然こういう「人好きしないのにロマンティックな音楽」である。そつなさが長所に感じられるところだ。独自のと言えば甘美なメロディがまるで世紀末音楽的に・・・書法的影響が指摘されるスクリアビンやよく言われるところのマーラーのように・・・現れて、2楽章のトリオに繋がるところは非常に繊細で美しく描かれている。

終楽章はまるでハリー・ポッターのように能天気な引用革命歌2曲から始まりミャスらしくもない明るさがあるが、虚無的な不協和音を軋ませる半音階的進行がハーモニーの下部に聞かれるのもまたミャスらしさだろう(スクリアビンやグラズノフのやり方に既にあったものだが)。暗さはミャスの多用する「長い音符の伸ばし(弾きっぱなし、吹きっぱなし)」の下に、「怒りの日」の主題がハープとバス音域のピチカートで挿入されるところで反転して表に出る。世界が暗転するこの部分でもヤルヴィは注意深いが、その洗練された手腕がややミャスの「匂い」を抑えるほうに行っているのが気にはなる。既に3楽章で暗示されていた「怒りの日」の主題すら耳をすまさないとちゃんと聴こえなかったりする(この終末論的な曲では重要な提示だ)。この楽章には他にも聖歌引用などが交錯し、音楽的というより文学的な分析を施さないとわからない部分も多い。とにかく音楽がどんどんおさまっていくことは確かである。「怒りの日」から美しい音楽が展開されていく。聖歌「魂と肉体のわかれ」がクラによって提示され、簡素なRVW的世界が回想されたと思ったらまた引っくり返され珍奇なパレードのような革命歌によって再現部が構築される。「怒りの日」をはじめどこかで聴いたようなフレーズも織り交ざり、だがどんどん低音になっていき、宇宙的な深淵の中に無歌詞合唱がムソルグスキーのような響きのバスクラを従えて入ってくる。聖歌の再現である。しばらく合唱曲のような状態が続いた後、その歌詞に沿ったような運命論的な結末へ向けて、1,2楽章からの美しい引用が余韻をたっぷり残した後奏のように響く。ヤルヴィは実に厭味なく清清しい音楽に仕立てているが、本来はもっと「気持ちの悪い感じ」の残るものである。○。
Comments (2)
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