湯・つれづれ雑記録(旧20世紀ウラ・クラシック!)

※旧ブログの一部コラム・記事、全画像は移植していません。こちらのコンテンツとして残します。

ドヴォルザーク:弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」

2005年06月24日 | 北欧・東欧
〇ハンガリー弦楽四重奏団(MUSIC&ARTS/CONCERT HALL)1952/9・CD

最初あまりのぎごちなさにびっくりしたが、すぐにこなれてくる。但しあくまできっちりアンサンブルすることを心がけているようで、構造をよく捉らえたプレイヤーには興味深いものであるとは思うが一般には普通で特徴の少ない演奏に聞こえてしょうがないかもしれない。旋律ばかり目立ち、ムダの無い練熟した書法には余り目がいかない曲だが、同時期のボロディンが国民楽派の行き着く先を中央アジアに見出だして華を咲かせたのと同様、アメリカ赴任による音楽的変化・・・それはボロディン同様ベートーヴェンの呪縛からのがれ単純化の末に全体のリズムと響きと旋律の新鮮さによってのみ語られるようになった(がゆえにプレイヤーにとってはアンサンブル的に面白みが減る)・・・が作曲家にもたらした影響と変化もなんだかんだいって甚大で、新世界の唯一無比の完成度はこの人が真の大作曲家になれたことの証だ。望郷のリズムすらもうそれはチェコのローカルなものではなく、逆にこのあたりがアメリカ楽界にあたえた影響も甚大である。そういった開花のしるしが時期的にかこの曲には他にも増してあからさまに顕れたように見える。旋律以外のつまらなさは一種の進化の結果であり、演奏の仕方によってはこの演奏のようにアンサンブルのさりげない巧妙さを浮き彫りにして厚みのあるものに仕立てるのも可能なのだ。聞きものは後のほうだろう。終楽章はプロフェッショナル性の強く感じられる見事な計算とその表現力が発揮された演奏である。アマチュアのよくやる曲だが簡単に「簡単だよ」と言い放つ人間はばかにされます。これは単純ゆえ難しい。流れる音楽にするには相当の練習が必要だ。げんにこの名ヴァイオリニスト、セーケイをいただいたカルテットですら、1楽章難儀しているのだから。〇。
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