唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

乾元二年 西暦759年

2020-06-10 10:01:08 | Weblog
乾元二年 西暦759年
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三月壬申,九節度之師潰于滏水。史思明殺安慶緒。
唐朝軍は大軍でしたが統制がとれておらず、精鋭の史思明軍に大敗し潰乱しました。
史思明は禄山殺害を責め慶緒以下高尚、孫孝哲、崔乾祐を殺しました。
史思明軍は懷州まで南下し再び河北全域を制圧しました。

三月乙未,苗晉卿、王璵罷。李峴,李揆,第五琦:同中書門下平章事。
失敗の責任を取らされ晉卿、璵が罷免されました。新相では峴が主で、琦は財政担当です。

四月、史思明自稱大燕皇帝,改元順天。
思明は燕京[幽州]で安禄山と同様に「大燕帝国」皇帝に即位しました。

五月辛巳,貶李峴為蜀州刺史。
宦官李輔國と権限を争い、肅宗は輔國を支持しました。

七月辛巳,趙王係為天下兵馬元帥,李光弼副之。
宦官魚朝恩は郭子儀の敗戦の責任を問い、輔國もまた漢人子儀を猜疑し、蕃族出身の厳格な光弼を副元帥として登用しました。子儀の寛容な指揮になれた朔方軍は不満でしたが光弼は同じく蕃族出身の僕固懷恩を慰撫しなんとか統率していきました。

八月乙巳,襄州防御將康楚元、張嘉廷反,逐其刺史王政。九月甲子,張嘉延陷荊州。
魯炅が敗戦の責任をとって自殺したあと山東節度使は混乱し、後任の文官王政は統制できませんでした。次々に軍乱が起き南の荊州まで影響し、節度使杜鴻漸は逃亡しました。

八月丁亥,崔光遠為荊襄招討山南東道處置兵馬使。
山東の動乱は統制がとれた反乱ではなく、光遠の征討を待たず、商州刺史韋倫が慰撫鎮圧しました。

八月庚寅,史思明陷東京及齊、汝、鄭、滑四州。
思明が黄河を突破し南下すると、汴滑節度使許叔冀はたちまち投降し、東京を始めとする河南が制圧されました。

十月乙巳,李光弼及史思明戰于河陽,敗之。
光弼は黄河渡河点の河陽に入り、東京の唐朝軍は陝州に退避して京師防衛に当たりました。
河南の地は思明の領域となりましたが荒廃していていました。

十一月庚午,貶第五琦為忠州刺史。
貨幣政策の失敗により激しいインフレーションを起こし解任されました。

十二月史思明寇陝州,神策軍將衛伯玉敗之。
思明將李歸仁は京師侵攻をめざし陝州を攻撃しましたが撃退されました。


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