不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

国際情勢の分析と予測

地政学・歴史・地理・経済などの切り口から国際情勢を分析・予測。シャンティ・フーラによる記事の引用・転載は禁止。

日本と高句麗は兄弟民族

2013年02月05日 | 日本国内
●韓国語と日本語のあいだ 宋敏 発行:草風館 1999年 p86-89

高句麗語の再認識

現存する80余りの高句麗語の語彙のうち4個の数詞を含む30余りの語彙が古代日本語と対応するということだった。従って琉球語を除けば高句麗語は日本語と最も近い言語だと言いうる様になったわけである。それだけでなく高句麗はツングース語等とも多くの共通言語材を持っていてアルタイ語という心証を固めてくれるが、村山七郎は東部アルタイ語の系統関係を次の様に見ている(高句麗語と朝鮮語の関係に関する研究、朝鮮學報第26巻、1963年)

アルタイ共通語→東部アルタイ語→原始韓系言語→新羅語→朝鮮語
                       →倭・高句麗共通語→原始高句麗語→高句麗語
                                   →倭語→古代日本語
                      →先ツングース語→満州・ツングース共通語→満州語
                                                  →ツングース語




●日本に残る高麗(コマ)の地名 — erikspace

現在位置: ホーム / 歴史考察 / 「朱蒙」から見た日本古代史 / 日本に残る高麗(コマ)の地名
Info
日本に残る高麗(コマ)の地名
作者: takizawa at 2010年10月22日 02時40分 | Permalink
Filed under: 朱蒙

高句麗は、当時の日本では高麗(こま)と呼ばれていたようだ。従って、現在日本の各地に残る「こま」の地名は、高句麗に由来する可能性が高い。(10世紀になって建国された高麗(こうらい)と混同しがちだが、後述するように8世紀初頭には武蔵国に 高麗郡(こまぐん)が設置されていたので、一般に「こま」と言えば高句麗とみなすべきである)

ちなみに神社の入り口に鎮座する狛犬(こまいぬ)とは、「高麗の犬」のように思えるが「こま」でもなければ「犬」でもない。その起源はインドにさかのぼり、その姿も犬ではなく獅子だというのが本当のところらしい。(当時の日本人は獅子を知らなかった)

•東京都狛江(こまえ)市・・・市内にある亀塚古墳を高句麗式とする説もあり
•京都府木津川市山代町上狛
•京都府相良郡精華町下狛
•奈良県桜井市狛
•山梨県南巨摩(みなみこま)郡
•埼玉県日高市高麗本郷
•神奈川県中郡大磯町高麗
•京都府乙訓郡大山崎町大山崎高麗田
•大阪府大阪市中央区高麗橋
•徳島県鳴門市大麻町桧高麗
•鹿児島県鹿児島市高麗町
http://erik.atnifty.com/vocation/jumong/jum05





●高句麗と日本 — erikspace

作者: takizawa at 2010年10月22日 02時35分 | Permalink
Filed under: 朱蒙


高句麗と日本(当時は「倭(わ)」と呼ばれていた)の関係について史実を追ってみよう。

具体的な年代が明らかなものとしては、高句麗の隆盛期を迎えた4世紀後半の広開土王(在位391-412年)の時代に倭と高句麗が直接交戦した事実がある。(広開土王碑にその記述がある)

この時期、高句麗は朝鮮半島南部を支配下に置こうと積極的に南下し、既に成立していた百済・新羅と抗戦を続けていた。(いわゆる三国時代)

半島南部に近い倭(日本)は、当然南側の国家、特に百済との関係を強め、高句麗の南下を抑えようとした。(中国の歴史書には、百済の「住民の多くが中国人や倭人」とする記述もあるらしい)

また、5世紀に入ると、外交・軍事上の立場を有利にするため、倭の五王が宋(中国)に何度となく使いを送って朝貢していた事実がある。(「宋書」倭国条に見られる記述)

高句麗・百済・新羅の三国間の争いは7世紀まで続くが、最終的には、7世紀はじめに起こった唐(中国)と結託した新羅が660年に百済を、668年に高句麗を滅ぼし、676年に半島を統一することになる。

百済の滅亡後も各地に残っていた遺臣が百済の復興を掲げた。倭は、これに加担して朝鮮半島での優位性を復活させようと、救援のための大軍を派遣するが、結局唐・新羅の連合軍に大敗した。(これが663年の「 白村江の戦い」である)

7世紀後半、百済・高句麗の滅亡前後には、多くの人たちが日本に亡命することとなった。百済からは王族・貴族を含む数万人。そして、高句麗から日本に逃れてきた遺民たちもいた。その内の一人が、後述する 高麗王若光(こまのこきしじゃっこう)である。
http://erik.atnifty.com/vocation/jumong/jum04




●やはり朱蒙の末裔が日本にいた? — erikspace

作者: takizawa at 2010年10月22日 10時20分 | Permalink
Filed under: 朱蒙

前回、高句麗の王族の血を引く高麗王若光が日本に帰化し、その子孫が現在も高麗神社(埼玉県日高市)で宮司を務めているという事実を指摘した。

ところが、自ら朱蒙(東明聖王)の子孫であることを公言する人がいたのである。

高麗恵子(プロフィールはこちら)

苗字からしておそらく若光の子孫・一族であることは間違いないのだろう。問題は若光その人が朱蒙の直系なのか、単にその親戚だったのかということだ。(a=b、b=cならa=cが成り立つということ)

まあ、そこまで厳密に考えてもしかたないのかもしれないが、一応検討してみよう。

高句麗王系図
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Genealogy_of_Goguryeo.png

高句麗最後の王の名は、宝蔵王。上の系図をそのまま信じるならば、彼は朱蒙の直系ということになる。生年不詳だが在位は642年から668年。その息子の名が、男福(福男)・任武・徳武・安勝ということらしいが、この中の一人が若光だったのだろうか。

一方、若光が日本にやってきたのは666年。その後716年武蔵国高麗郡がおかれた時の首長(今で言えば県知事みたいなものか)を務めているので、来日後50年以上は生きていたことになる。当時の寿命がどれぐらいか正確にはわからないが、推測するに日本へやってきたときはまだ幼少だったはず。とすれば常識的に考えて生まれたのは650年以降だろう。

宝蔵王の祖父である平原王が亡くなったのは590年、その長男である嬰陽王は618年、次男(異母弟)栄留王は642年に亡くなっているので若光はいずれの子でもないことになる。問題は栄留王の弟であり宝蔵王の父でもある太陽王。彼はなぜか王位にはつかず、宝蔵王が栄留王の後を継いでいる。

ここで見逃してはならないひとつの事実がある。

実は栄留王は家臣の淵蓋蘇文によって殺害され、その淵蓋蘇文によって擁立されたのが宝蔵王だったということだ。つまりクーデターがあったのだ。当時高句麗は対外的に非常に緊迫した時期だった。穏健派の栄留王が唐と親善をはかろうとしていたのに対し、淵蓋蘇文は強硬策に走る。結果、国は滅びてしまったわけだが。

淵蓋蘇文が太陽王ではなく宝蔵王を擁立したというのは、つまりその方が彼にとって都合よかったからだ。おそらく王位についたとき(642年)宝蔵王はまだ小さな子供だったのだろう。

だとすれば、若光が宝蔵王の兄弟であるという説もギリギリ成り立ちそうだ。

隣国から攻められ、家臣によって王が殺されるという、そんな不安定な時代にあって、ひとりの若者(赤ん坊?)に高句麗の未来を託そうと意図した人物が、どこかにいたのかもしれない。
http://erik.atnifty.com/vocation/jumong/jum11




●朱蒙の末裔が現代の日本に実在する? — erikspace

作者: takizawa at 2010年10月22日 02時40分 | Permalink
Filed under: 朱蒙


神奈川県平塚市の西側を流れる花水川を渡ると、「高麗(こま)山」という名前の小高い山がある。この周辺が「高麗」という地名である(行政区は「中 郡大磯町」)。高麗山の麓には「高来(たかく)神社」という神社があるが、かつては「高麗(こうらい)神社」という名前だった。地元の言い伝えによれば、 唐により滅ぼされた高句麗の王族の一人若光(じゃっこう)が一族を率いて来航し、大磯に上陸して高麗山の麓、化粧坂のあたりに住み着いたのがその由来とい うこと。

しかし、若光は伝説の人ではなく、「日本書紀」にもそれに該当する人物の名(天智5年10月条 高句麗から来日した進調使「二位玄武若光」)が見られる。そして、彼のその後の足取りも明白である。

「続日本紀」によれば、「716年5月に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野7か国から高句麗人1,779人を武蔵国に移し、高麗郡を設置し た」とある。この際、若光は首長を命ぜられて郡を治めることになるのだが、再び「続日本紀」によれば、703年に「従五位下高麗若光に王姓を賜う」とある ので、郡司就任前に位を授けられたことになる。もともと高麗の王族であったこともあるのかもしれないが、相当に優れた人材であることを認められていたのだ ろう。(「王」の姓を賜ったとあるが、これは「おう」ではなく「こきし」と読む。)

ところで、若光が来日した666年は高句麗滅亡の2年前である。いわば緊急避難的脱出とも考えられるわけで、王族の一人という情報しか残されていな いが、高句麗にとっても極めて貴重な人材・血筋であった可能性は高い。だとすれば、彼が高句麗の初代王(朱蒙)の子孫である可能性も無いとはいえないだろ う。

そして、ここからがさらに重要なのだが、若光の子孫が現代の日本にも実在するのである。埼玉県日高市にある高麗神社の現在の宮司さん(60代目)がその人である。だから、もしかしたら朱蒙の末裔が日本に存在する、というのは事実かもしれない。

高麗神社:埼玉県日高市
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E9%BA%97%E7%A5%9E%E7%A4%BE

ちなみに高麗神社は「出世明神」とも呼ばれ、参拝に訪れた水野錬太郎、若槻禮次郎、浜口雄幸、斎藤実、鳩山一郎等が後に総理大臣に就任した実績があ るのだとか。それにあやかろうと言う魂胆なのか、自民党「谷垣禎一」氏の真新しい芳名録も見られた。そのほかにも、芸能人や各界の著名人、来日した韓国の 要人が多数参拝しているとのこと。やはり、何かありそうな雰囲気を感じさせる。
http://erik.atnifty.com/vocation/jumong/jum06




●(cache) 諏訪春雄通信 50

朝鮮で高句麗や百済を建国した夫余族はツングース系の遊牧民族でした。
http://megalodon.jp/2008-1107-1735-41/www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f06/suwa50.htm




●高句麗語の研究を勉強する
http://www.dai3gen.net/kg0.htm



●高句麗語 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97%E8%AA%9E



●高麗神社

高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・
「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。
最盛期は5世紀の「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。

若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。

『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。


若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。

高麗神社は、若光の子孫が代々宮司を務め、現宮司は60代目になります。
高麗郡は明治29年(1896年)入間郡に合併されましたが、当社はその後も広く崇敬を受けてまいりました。特に浜口雄幸、若槻禮次郎、斉藤実、小磯国昭、幣原喜重郎、鳩山一郎らが当社参拝後相次いで総理大臣となったことから「出世明神」と広く知られるようにもなりました。現在は年間約40万人の参拝があります。

第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられました。将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたものです。
http://www.komajinja.or.jp/rekisi.html








【私のコメント】

紀元前37年から668年まで朝鮮半島北部から満州南部にかけて存在した高句麗は高句麗語を使用していた。この高句麗語は琉球語の次に古代日本語に近い言語であったという。高句麗語と最も近い言語は古代日本語であり新羅語や古代朝鮮語はやや遠い関係になる。倭・高句麗共通語が村山七郎によって提唱されている。これに反論する学者がほぼ全て韓国系であることは韓国の伝統である歴史捏造と評価すべきであろう。恐らく日本は高句麗と兄弟民族の関係にある。トルコ・モンゴル・朝鮮民族は従兄弟か又従兄弟ぐらいか。高句麗遺民が建国に参加した渤海も日本の兄弟国家と見なせるだろう。日本と渤海の頻繁な交流は注目される。

言語は文化の最も重要な要素である。外見上欧州人と区別困難なイスタンブールのトルコ人やハンガリー人・フィンランド人・エストニア人はウラル・アルタイ語(ツラン)という繋がりによって、日本と同じ北方アジア系の文化を共有している。東欧に多数居住しロシア革命の原動力となり現在は米国やイスラエルで巨大な政治力を有するハザール系ユダヤ人もおそらくこのツラン系民族の一員である。ベリヤの親類であったソ連高官のカガノビッチ、クリントン政権の国防長官であったウィリアム・コーエン(Cohen)は名前から考えてハザール汗国の王である可汗(カガン)の子孫だろう。チンギス・カンと同様に中央アジア遊牧民族の王はカン、カーン、汗、可汗などと自称するからだ。米国の新国務長官であるケリー上院議員も先祖は東欧のアシュケナジー系ユダヤ人でコーン(Kohn)という苗字であり、ハザール汗国の可汗の一族かもしれない。

モンゴロイドは北方系と南方系に分類される。氷河期に前者は南シベリア、後者は東南アジアの現在は南シナ海やインドネシア近海の海となっている低地(スンダランド)で生活し、その後アジア大陸や米国に移住した。ウラル・アルタイ系民族、揚子江より北の漢民族、チベット人、アメリカ先住民は全て北方モンゴロイドの子孫である。ただし、欧州に移住した集団は混血により北方モンゴロイドの外見を失っている。ハザール系ユダヤ人を満州に移住させるというかつての河豚計画はツラン民族の絆という観点から見ることが出来る。

高句麗滅亡の2年前に来日した高句麗政府高官(恐らく王族)が日本に帰化し、後に武蔵国に高句麗出身移民とともに高麗郡を作りその首長に命じられ、その直系の子孫が高麗神社の宮司を勤めている。これは高句麗王室の子孫かもしれない。

高句麗を滅亡させたのはモンゴル高原の遊牧民族鮮卑族が中国北部に侵入して建国した随と唐である。聖徳太子が超大国随に不遜な国書を送ったこと、白村江で日本が唐と戦ったことは、高句麗との兄弟関係が関係している可能性がある。セルビア人に民族・言語・宗教で兄弟関係にあるロシアがその関係故にセルビアを支持して第一次大戦に参戦したのと似ている。民族の絆を重視することは国益の純粋な追求を阻害することにも繋がる。この観点から、私はツラン同盟や河豚計画には反対する。





↓↓↓ 一日一回クリックしていただくと更新の励みになります。
人気ブログランキングへ
にほんブログ村 政治ブログ 国際政治・外交へにほんブログ村
コメント (58)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 民主主義の終わり:明治維新... | トップ | 元外交官の孫崎享氏が原発反... »
最新の画像もっと見る

58 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (Unknown)
2013-02-05 07:28:38
内心認めたくない日本人も多いだろうね
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-05 07:35:33
高句麗と済州島の繋がりも興味深い
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-05 07:49:55
弥生系の顔が嫌い
ひな人形も皇族も弥生系の不細工
百済系なのかもしれない
返信する
Unknown (ルカ)
2013-02-05 08:57:37
そうだとして、それと現在の日本-北朝鮮の関係に関連した
考察・予想が無いなら古代史エッセイに過ぎないと思うんですが。

兄弟国、大日本帝国の正嫡子と言うなら、
その人達(畑中理とその理想を共にした日・鮮人の末裔達?)
は北の民衆を踏みにじってる事になりますが。
理想の為には、或いは支配階層だけで話がついてりゃ、
その人達は下々は飢えようが収容所国家であろうがどうでもいい
と感じてるって事ですかね?
皮肉ではありません、単なる疑問です。私は別にヒューマニズム万歳とも思ってませんので
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-05 09:00:55
管理人さんは人の命を軽く見る所があるからな。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-05 09:11:50
>>1
日本と朝鮮は朝鮮併合以前から、それ以前から関わっている歴史があるのはそれもまた事実だしな
しかしネットが普及して来て、サッカーW杯の日韓大会の八百長、韓流ブームの捏造でのごり押し、色々な在日問題など、ここ近年の南朝鮮や在日韓国人共は日本で好き勝手し放題にしてきたことがネットで知った人も多いだろう

ロンドン五輪でのサッカー日韓戦の試合後独島(竹島)アピールのプラカードを掲げてたのも新しく記憶に残る

今の日本人から見れば、そういった戦後外国にずっと舐められた問題をずっと我慢してきて、いつか不満が爆発するのもしょうがないことだと思うよ
TPPのことも含め、外国に舐められていけないんだという強い感情から、選挙の結果はどうあれ今回の政権交代にも繋がったと思うよ
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-05 09:21:52
日本が油断してると
「なん・・・だと・・・!?、の起源も韓国ニダァ!」
と言い出すぞ。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-05 10:28:25

http://japanese.ruvr.ru/2013_02_04/ronichigaimujikankyuu-senryakutaiwa-mosukuwa/



いよいよだぜ、失禁するなよ!
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-05 11:24:09
引用の胡散臭いことこの上ない。
日本語は中国南方雲南省やインドネシアの言語とより近い。
いくつかの単語で共通点があるなら、日本語が変化したものだ。

関東にチョンくさい地名があるのは、自国から逃れてきたチョンをよりチョン半島から
引き離すために流刑地まがいの場所に隔離したためだ。
源頼朝の父義朝が平治の乱で負けてどこに流されたのか。
11世紀のレベルでも東日本がどういう扱いだったのか。

国益を阻害するといいながら、どうあってもチョンとの関係を既成事実化したいようだ。
在日がよく使う「俺は日本人だけど朝鮮のほうが正しい」という言い草とそっくりだ。

いちいち遡っていうならば人類は皆アフリカ人だ。
日本人は北チョンなどとは関係ない。
返信する
Unknown (Unknown)
2013-02-05 11:30:59
>民族の絆を重視することは国益の純粋な追求を阻害することにも繋がる。この観点から、私はツラン同盟や河豚計画には反対する。



管理人の主張する大日本帝国・北朝鮮の正義を守る、とか、北と結んで韓国を潰す、とかとも矛盾するのでは?


返信する

コメントを投稿