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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2月7日・ポール・ニザンの手紙

2024-02-07 | 思想
2月7日は、英国の国民的作家、チャールズ・ディケンズが生まれた日(1812年)だが、作家のポール・ニザンの誕生日でもある。

ポール・ニザンは、1905年、仏国のトゥールで生まれた。祖父、父親とも鉄道会社の従業員だった。ポールはリセ(高等中学校)では、後に哲学者のサルトルと同級で、二人は似ていて、よくまちがえられたという。当時から、ニザンはマルクス主義に傾倒していた。
学校を出て、21歳でイエメンのアデンへ行き、そこで家庭教師をして、1年ほど暮らした。現地では、先進国の植民地主義を目の当たりにし、資本主義と戦う決意を新たにした。後にこのときの体験を書いたのが紀行『アデン・アラビア』である。
フランスへ帰国した22歳のとき、フランス共産党に入党。
24歳で哲学の大学教授資格を取得し、いったんは哲学教師になったが、すぐにやめて、パリで共産党系の出版社の雑誌に原稿を書き、また編集をするようになった。
29歳のとき、小説の処女作『アントワーヌ・ブロワイエ』を発表。
ニザンが34歳のとき、ヒトラーのドイツと、スターリンのソビエト連邦が不可侵条約を結び、これをフランス共産党が支持したため、ニザンは共産党を離党した。
ニザンは軍隊に二度召集され、第二次世界大戦中の二度めの軍隊では、工兵隊の書記をしていたが、1940年5月、ダンケルクからの撤退中の戦闘で戦死した。35歳だった。
著書に『トロイの木馬』『陰謀』『九月のクロニクル』などがある。

マルクス主義作家のポール・ニザンは、日本ではよく引用もされて、人気が高い。
ニザンの『アデン・アラビア』は、書きだしがかっこよくて有名である。
「ぼくは二十歳だった。それが人生でもっともすばらしい年齢だなどと、ぼくはだれにも言わせはしない。」(花輪莞爾訳・角川文庫)
これは、きっとつぎの英語のことわざを踏まえていったものだろう。
「二十歳で美しくなく、三十歳で強くなく、四十歳で富貴でなく、五十歳で賢明でない人間は、ついに美しくも強くも富貴にも賢明にもなれない」

ニザンの書簡集をおもしろく読んだ。ニザンは戦場から妻に宛てた手紙のなかで、こう書いている。

「ゆうべ任地へついて、イギリス軍に配属された。(中略)たかが一兵卒にイギリス軍の将校なみの生活をさせるとは、実におかしなことさ。町を歩いてると、僕にはなんの恩義もないような兵隊がいっせいに敬礼するんで、まったく身の置きどころがないよ。」(1940年3月8日、野沢協訳『ポールニザン著作集9』晶文社)

「このところ、ひどく技術的な仕事をやらされてるんだ。インチをミリメートルに換算したり、フランをポンドに換算したりして日を送っているよ。」(1940年3月29日、同前)

「でも、英語で生活し英語でものを言うのはくたびれるね。」(1940年4月3日、同前)

これを書いた翌月に彼は戦死した。同じ連隊のイギリス人将校も大部分死んだ。
友人のサルトルが戦争を生き延びて、ニザンのことを語り継いでくれたのが、死後の復権に大きく寄与した。
(2024年2月7日)



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