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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月10日・松田聖子試論

2024-03-10 | 音楽
3月10日は1945年、米軍B29爆撃機344機が飛来した東京大空襲の日だが、歌手、松田聖子の誕生日でもある。

松田聖子は、1962年、福岡の久留米で生まれた。本名は、蒲池法子(かまちのりこ)。蒲池家は柳川城城主の家系で、父親は厚生省の役人だった。由紀さおりの歌声にあこがれる歌好きの少女だった彼女は、ミッション系の高校に進んだ。高校1年、15歳のとき、歌手コンテストに出場。九州大会で優勝し、主催者のレコード会社にスカウトされ、歌手デビューを勧められた。しかし両親が反対し、彼女は高校生を続けた。その後も、東京のレコード会社側はときどき九州の久留米まで出向いて親を口説きつづけたという。
そして高校3年生のとき、彼女はついに芸能プロダクションと契約。上京し、東京都内の高校へ転校した。歌や踊りのレッスンを受けた後、18歳の4月に松田聖子として「裸足の季節」で歌手デビュー。同曲はテレビCMで流れ、続く「青い珊瑚礁」が大ヒット。レイヤードの髪型「聖子ちゃんカット」は若い女性のあいだで大流行した。以後彼女は「夏の扉」「赤いスイートピー」「秘密の花園」「Rock'n Rouge」「天使のウィンク」などヒット曲を量産し、アイドル歌手の頂点に君臨した。

1982年に発売が開始されたCD(コンパクトディスク)の、記念すべき世界初のCD60枚のうちの1枚が松田聖子の名盤「Pineapple」だった。ほかのアイドル歌手の楽曲とちがい、彼女の場合はシングルのB面や、アルバム中の収録曲も広く聴かれた。

松田聖子がデビューしたころ、洋楽ばかりを聴くロック少年で、新しい音楽に飢えていた。当時もデヴィッド・ボウイの新曲はつねに新しかったが、それ以外には海外のロック・シーンに目新しいサウンドがなかなか見つからなかった。そんなときに発見したのが日本の松田聖子だった。彼女の楽曲は、プロの作詞家や作曲家、プロデューサー、ミュージシャンたちが集まって作り上げた音楽産業の一商品である。ボブ・ディラン、ジョン・レノンやボウイの新譜を聴くのとは意味がちがうけれど、松田聖子の音は新しかった。

松田聖子はポップスを歌うために生まれてきた人である。曲の解釈能力と歌唱表現のイメージ喚起力が抜群で、彼女が歌うと、歌を通して「松田聖子」が聴く者の頭のなかへ押し入り、曲の風景をそこへ勝手に作り上げてしまう。作詞家の松本隆が自作「渚のバルコニー」を歌った彼女の「ばかね」というフレーズの圧倒的な説得力に脱帽したというのは有名な話である。
当時の日本のスタジオ・ミュージシャンのセンスや技術レベルは世界最高水準にあった。そこへ、歌うために生まれた稀代のポップスシンガーが加わり、最後のワンピースがはまった。それで世界の最先端、最高品質の音楽が出現した。

松田聖子のデビューアルバム「SQUALL」を聴いたときの衝撃は忘れられない。若い躍動感がスピーカーから押し寄せてくるようだった。そして「チェリーブラッサム」。ぐいぐい引っ張っていく伸びのあるボーカル。それと掛け合うギターサウンドのうねり。日本の歌謡曲が英米のロックを完全消化した瞬間だった。しかもタイトルは日本の象徴「桜の花」。日本のポップスが世界の頂点に達した瞬間の記念碑。それが松田聖子である。
(2024年3月10日)



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