1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月13日・クロイツァーの種

2024-03-13 | 音楽
3月13日は、彫刻家・詩人の高村光太郎が生まれた日(1883年)だが、日本に亡命し、活躍した指揮者・ピアニスト、レオニード・クロイツァーの誕生日でもある。

レオニード・クロイツァーは1884年、ロシアのサンクトペテルブルクで生まれた。両親はユダヤ系ドイツ人だった。音楽家を志した彼は、サンクトペテルブルク音楽院でピアノ、作曲を学んだが、22歳のころ、第一次ロシア革命が起きたロシアの騒乱を嫌って、ドイツのライプツィヒに引っ越し、指揮を学んだ。
24歳のころ、ベルリンへ移り、ピアニスト、指揮者として活躍。数年後にはロシアへ戻り、ラフマニノフのピアノ、クロイツァーの指揮で、ラフマニノフ作曲のピアノ協奏曲を演奏するという豪華な凱旋コンサートを開いた。
ドイツへ戻った彼は、37歳のころには、ベルリン音楽大学のピアノ科の教授に就任し、ピアノ演奏のレコードを出した。自作の交響的パントマイム「神と舞姫」を初演し、42歳のころ、米国を演奏旅行し、と活躍を続けた。43歳のころ、クロイツァーはドイツ国籍を取得した。が、第一次大戦で敗北したドイツでは、失業者があふれ、超インフレ社会となり、ナチス勢力を伸ばし、ユダヤ人が迫害されるようになってきた。ナチスはクロイツァーを標的にした。1933年、ヒトラーが首相となり、ユダヤ人を公職から追放する法案が成立し、クロイツァーは大学教授の地位を追われた。その翌年、50歳のクロイツァーは二度目の来日を果たした。日本の指揮者・近衛秀麿に引き止められ、そのまま日本にとどまった。その後、彼のドイツ国籍はナチス政権下ではく奪された。
日本でクロイツァーは、東京音楽学校(現東京芸術大学)の教授となり、後進の育成のかたわら、ピアニスト、指揮者として活躍した。
68歳になる少し前に、教え子の日本人女性ピアニストと結婚したが、その翌年の1953年10月、東京でリサイタル中に心筋梗塞で倒れ、2日後に没した。69歳だった。

クロイツァーの名を知ったのは、小澤征爾や加山雄三の文章によってだった。
「指揮者になりたいと思うようになったのは、日比谷公会堂で、レオニード・クロイツァーがベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番『皇帝』を、自分でピアノを弾きながらオーケストラを指揮したのを見てからであった。」(小澤征爾『ボクの音楽武者修行』新潮文庫)

「うちの3軒隣の家の前を通ると、ピアノの音が聞こえてくるから、学校帰りにいつも塀に張り付いて聴いていたんだよな。
 ある日、そこでピアノが流れるのを待っていたら、外国人が来て『何をしてるんだ?』『ピアノが聞こえるのを待ってるんだ』と答えたら、『ついてきなさい』。家の中に入って、少し待つように言われた。『バーン!』ってすごいピアノが流れてきた。その人が弾くショパンの『英雄ポロネーズ』だった。ものすごい感動したんだ。(中略)こっちは有名な人だなんて知らなかった。おやじがその話を聞いて怒ってね。『そんな人に『教えてほしい』なんて失礼だ!』ってね。でも、結局、そのクロイツァーさんの家の人が、(ピアノを)教えてくれる人を紹介してくれたんだ。」(加山雄三「人生の贈りもの」朝日新聞・2023年7月13日)

時代の嵐に翻弄されながらもクロイツァーは世界的に活躍し、多くの音楽家に影響を与えた。人を感動させ、行動を起こさせる奇跡的な芸術家。彼がまいた種はみごとに育ち、立派な花を咲かせた。
(2024年3月13日)


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