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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3月28日・邱永漢の処世

2024-03-28 | 文学

3月28日は、作家、色川武大(いろかわたけひろ)、またの名を「雀聖」阿佐田哲也(あさだてつや)が生まれた日(1929年)だが、作家、邱永漢(きゅうえいかん)の誕生日でもある。

「金儲けの神様」邱永漢は、1924年、台湾の台南で生まれた。本名は邱炳南(きゅうへいなん)。当時、台湾は、日清戦争で勝った日本が下関条約を結んで分捕り統治していたので、彼は日本国籍で生まれ、父親は台湾の実業家、母親は日本人だった。婚外子だった炳南は、同人誌に詩を寄せる頭脳優秀な文学青年だった。
19歳のとき、本土(日本)の東京大学へ入学。経済学を専攻した。
21歳の大学卒業が日本の敗戦の年で、彼はいったん東大大学院に進んだが、中退して日本の支配から解放された台湾へもどった。
台湾で彼は、砂糖の密輸や銀行員をした。当時の台湾は、中国本土からやってきた南京国民政府の役人によって支配され、政治や社会に腐敗と横暴が蔓延した。これに対し台湾市民の反対運動が起こると、政府側は銃による弾圧でもってそれに応え、1万人以上の市民が殺された二・二八事件が起きた。このころ、邱は国民投票の実施を訴える文章を書き、それが新聞に載った。24歳の邱は身の危険を感じ、英国統治下の香港へ逃げた。
香港ではことばも通じない難民同然で、最初苦労したが、物資の乏しかった日本へ物資を小包で送り売りさばく運輸業をはじめて成功し、27歳のときには大金持ちになっていた。
このころ、彼は台湾から逃げてきた友人の裁判を応援するための資料として日本語で処女小説『密入国者の手記』を書き、これが文芸誌に載った。ペンネームを邱永漢とした。
30歳のとき家族を連れて日本へ移住。
31歳のとき、友人の話にヒントを得た、百万ドルを横領する小説『香港』直木賞を受賞。同時受賞が新田次郎『強力伝』。同期の芥川賞作が石原慎太郎『太陽の季節』だった。
35歳のとき『金銭読本』を書き、株式投資術や利殖術など、お金儲けの指南書を書き、講演をして「金儲けの神様」と呼ばれるようになった。また、食通としても知られ、料理関係の著書も多い。
執筆、講演活動のほか、経営コンサルタント、不動産、クリーニング、ホテル業など、手広く事業を展開した後、2012年5月、心不全のため東京の入院先で没した。88歳だった。

邱永漢は、台湾から香港へ逃げてから、長らく台湾(中華民国)と敵対関係にあり、邱は著述のなかで台湾政府を批判し、台湾側でももどってきたら銃殺刑にするぞと構えていた。が、1971年に国際連合から台湾が追いだされ、大陸の中華人民共和国が国連に迎えられると、状況は一変した。台湾側から邱に接触し、両者は和解し、邱は48歳のとき、台湾へ帰国して台湾政府のアドバイザーとなった。このことについて、彼はこう書いている。
「あれから香港に六年、日本に十八年住んで、私はもう二度と故郷の土を踏むことがないかもしれないと思ったものであるが、人間の運命なんてわからないものである。」(『私の金儲け自伝』徳間書店)

邱永漢の本は、つねに論理が明快で、ひじょうにわかりやすい。彼は経済観念が発達した、頭の切れる、足が地についた現代人だった。日本人や中国大陸からの漢民族の侵入によって彼の故郷は目茶苦茶にされたが、それを恨まず、前向きに協調を旨として生きた。乱世を悠々と生き抜いたその明るいバイタリティーがすてきである。
(2024年3月28日)


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