平和への道

私の兄弟、友のために、さあ私は言おう。「あなたのうちに平和があるように。」(詩篇122:8)

インマヌエルの広げた翼(2013.10.30 祈り会)

2013-10-30 20:07:55 | 祈り会メッセージ
2013年10月30日祈り会メッセージ
『インマヌエルの広げた翼』
【イザヤ8:6~10】

8:6 「この民は、ゆるやかに流れるシロアハの水をないがしろにして、レツィンとレマルヤの子を喜んでいる。
8:7 それゆえ、見よ、主は、あの強く水かさの多いユーフラテス川の水、アッシリヤの王と、そのすべての栄光を、彼らの上にあふれさせる。それはすべての運河にあふれ、すべての堤を越え、
8:8 ユダに流れ込み、押し流して進み、首にまで達する。インマヌエル。その広げた翼はあなたの国の幅いっぱいに広がる。」
8:9 国々の民よ。打ち破られて、わななけ。遠く離れたすべての国々よ。耳を傾けよ。腰に帯をして、わななけ。腰に帯をして、わななけ。
8:10 はかりごとを立てよ。しかし、それは破られる。申し出をせよ。しかし、それは成らない。神が、私たちとともにおられるからだ。

はじめに
 今日は、イザヤ書の8章を開きます。いま私はローマ人への手紙を学ぶ会に参加していますので、きょうのイザヤ8章の6~10節を解釈する手助けとして、ローマ人への手紙の「神の義」をここに取り入れて考えてみる、ということをしてみようと思います。

1.他国との複雑な関係に翻弄されるユダ
 まずイザヤ8章の6~10節を見てみましょう。
 ここには、四つの国が出て来ます。南王国のユダと北王国のイスラエル、それからアラムとアッシリヤです。王国が南北に分裂する前のソロモンの王国は強大な国であったと言えると思いますが、北王国と南王国に分裂してしまった後のイスラエルとユダは、二つとも弱小な国に成り下がってしまいました。ですから両国とも非常に不安定であり、いつ何時、他の国に滅ぼされてもおかしくない状態にあったと言えます。そのため、生き延びて行くためには、他の弱小国同士で同盟関係を結んだり、或いは強大な国には貢ぎ物を贈ってなるべく逆らわないようにするなどしていました。強大な国に貢ぎ物を贈ることは、他の国から攻められることから守ってもらえるという効果もありました。ただし、強大な国は一つではありませんから、どの国に貢ぎ物を贈るかは難しい問題です。
 このように、弱小の北王国と南王国は、綱渡り的な危ない橋を渡りながら、何とか生き延びていたものの、やがて、その外交政策で失敗して両国とも滅ぼされてしまいました。これを聖書的に言えば、不信仰の故であるということになります。
 イザヤ書のイザヤの預言は南王国ユダの王と民に対するものですから、イザヤ8章6~8節もユダに対するものです。ここには、南王国のユダが、ユダと同様の弱小国である北王国とアラム、そして強大な国であるアッシリヤとの複雑な関係に翻弄された末に、やがてアッシリヤの強大な勢力に飲み込まれて行くであろうことが預言されています。
 しかし、インマヌエルの神の広げた翼はユダを守ります。アッシリヤの攻撃によって北王国のイスラエルは滅ぼされますが、南王国のユダは滅亡の一歩手前で、滅亡を免れます。後に結局はバビロンによってユダは滅ぼされるのですが、この時のアッシリヤの攻撃からは守られます。ここから、どのような信仰上の教訓をくみ取ったら良いかと言えば、信仰があればインマヌエルの神が守って下さる、ということだと思いますが、それでは、あまりに漠然としています。そこで、前半のお証の時に開いた、ローマ人への手紙を当てはめてみたいと思います。

2.ロマ書の「神の義」
 まず、ローマ1章16節と17節です。交代で読みましょう。

1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。

 この16節と17節は、ローマ人への手紙における中心的な聖句と言われています。この16節と17節を説明するためにローマ人への手紙の全体が存在するのだ、ということです。ここに「神の義」とあります。この「神の義」の解釈も難しいのですが、今回私は、イザヤ書8章を開いていて、神がユダの民に対して行ったことと「神の義」が非常に良く重なることを感じています。それは、ローマ3:21と22を読むことで、さらに深まります。

3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。
3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 21節に、「預言者によってあかしされて、神の義が示された」とあります。私はここにイザヤ書8章を当てはめると、「神の義」とは何かのイメージが膨らむのを感じます。
 そして、22節に、「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義」とありますね。私は東京でのロマ書の学びに参加して本当に良かったなと感謝しているのですが、この新改訳第3版の訳は1つの訳であって、別の訳し方もあり得るのだということを学びました。ギリシャ語の文法について話し始めると話が難しくなりますので、ここでは最小限に留めようと思いますが、別の訳し方としては、「イエス・キリストの真実さ・誠実さを通して私たちに神の義がもたらされる」という訳もあるのだそうです。
 新改訳の場合は、「私たちがイエス・キリストを信じることによって神の義がもたらされる」となっています。文法的な説明としては、「イエス・キリスト」を主格として訳すか、目的格として訳すか、そのどちらも可能であるということです。私は個人的には新改訳の訳ではなくて、「イエス・キリストの真実さ・誠実さを通して私たちに神の義がもたらされる」と訳したほうが、神の大きな愛が感じられて断然良いように感じます。
 実は「神の義」についても、「神」を主格として訳すか目的格として訳すかの議論があります。「神が持つ義」なのか、「神に対する義」なのか、難しい議論があります。或いは、神の義の「義」というのは「正しさという正義の義」ではなくて、もっと広い意味での「救い」という意味を持つものであるという考え方もあるそうです。私は、そのほうが神の愛を一層大きく感じられて良いと感じます。

3.イザヤ書8章の「神の義」
 うまく説明できていなくて申し訳ありませんが、分かち合いたいのは、私たちはもっと「神の義」を「義」を正しい・正しくないを越えて、もっと広い「救い」と考えても良いであろうということです。
 すると、イザヤ書8章で国同士の敵対関係や同盟関係、または主従関係の中で翻弄されている人々がどうすれば良かったのか、ということも何となく見えて来ます。どこの国と手を結ぶのかという人間的なことにあくせくするのでなく、神の大きな愛に委ねなければなりません。神は大きな翼を広げて下さり、守って下さいます。神はともにおられますから、神の救いの力に、ただお委ねすれば良いのだと思います。

おわりに
 神が守って下さることを信じるとか信じないとかを言い始めると、人間的な力んだ信仰になってしまいます。神がともにおられることを、ごく自然に受け入れるなら、神は必ず私たちを守って下さいます。
 そんな大らかな信仰に身をゆだねることができたらと思います。
 お祈りいたしましょう。
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聖と宣と量子の不思議(2013.10.27 礼拝)

2013-10-27 18:50:42 | 礼拝メッセージ
2013年10月27日教団創立記念礼拝メッセージ
『聖と宣と量子の不思議』
【エペソ3:14~21】

はじめに
 68年前の1945年の10月に私たちの教団のイムマヌエル綜合伝道団が設立されました。きょうの礼拝は、そのことを記念する礼拝です。このイムマヌエル綜合伝道団が旗印としているのは、「聖」と「宣」です。教団の牧師を養成する神学校である聖宣神学院の「聖宣」も、教団の旗印である「聖」と「宣」の2文字を取って名付けられました。
 「聖」と「宣」の「聖」の字は、聖書と聖化(聖め)の「聖」です。私たちは、聖書は誤りなき神のことばが記された書であることを信じています。そして信仰として、「聖めの信仰に立つ」ことが重要であると考えます。
 「聖めの信仰に立つ」とは、自分が聖められたいと願い、神にそのことを委ねることであると私は解釈しています。私たちは自分の力で自分を聖めることはできません。しかし、神になら、それはできます。ですから、神さまの聖めの力を信じて、すべてを神さまにお委ねするようになるなら、それが「聖めの信仰に立つ」ということです。自分の力では何一つできないけれど、全能の神にはできないことはないと信じて、神さまに「私を聖めて下さい」と祈ってお委ねするようになること、それが「聖めの信仰に立つ」ことでしょう。

1.神に委ねることでわかるキリストの愛の大きさ
 まだ信仰のことが、あまり分かっていない間は、私たちはどうしても、自分の力で何とか頑張ろうとします。信仰が幼い間は、神さまが力ある方であることもわかっていませんから、神さまの力を当てにしないで、自分で頑張ろうとします。しかし、信仰の道を歩むに連れて段々と神さまの力を感じるようになり、そして祈りの力も感じるようになって来ます。すると自分だけで頑張ろうという気持ちが少しずつ減り、神さまに委ねようという気持ちが増えて来ます。そうして、段々に神さまに委ねる割合が増えて行けば良いのですね。
 私が良く引用するルカの福音書10章のマルタとマリヤも、このことの良い例だと言えます。姉のマルタは、どちらかと言うと、自分で頑張ってしまうタイプだと思います。自分で頑張る人は、なかなか神さまに自分を委ねることができません。一方、妹のマリヤは、神さまに自分を委ねることができていました。それが、イエスさまの言うところの、どうしても必要なことでしょう。イエスさまはマルタに言いました。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:41,42)

 自分で自分の重荷を負うことをやめて、神さまに重荷を負っていただくなら、たましいに安らぎが来ます。マタイの福音書では、イエス・キリストは次のように言っています。

11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」(マタイ11:28-30)

 自分の重荷をイエス・キリストに委ね、イエス・キリストと共に歩む時、たましいに安らぎが来ます。こうして自分で頑張ることをやめてたましいに安らぎが来ると、キリストの愛を、一層感じることができるようになります。キリストの愛を、より大きく感じることができるようになります。自分で頑張っていると、心が自分中心で内向きなっていますから、なかなか、たましいを外に向かって広げて行くことができません。自分の狭い領域の中にとどまっているのなら、イエス・キリストの愛がどれほど大きいものなのかを、なかなか感じることができないでしょう。しかし、自分で頑張ることをやめて、自分の重荷をイエス・キリストに委ねるなら、たましいが外に向かって広がって行きます。そして、それに従って、キリストの愛の大きさも、より大きく感じることができるようになって行きます。
 きょうの聖書箇所のエペソ人への手紙3章でパウロは、

「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(エペソ3:17-19)

と祈っています。この聖句は、私が大好きな聖句ですが、皆さんは、この聖句を読む時、どんなことを想像しますか。「人知をはるかに越えたキリストの愛」とパウロが書いているのを読む時、どれぐらいの大きさの愛を想像するでしょうか。或いはまたパウロが、「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり」と書いているのを読む時、何を想像するでしょうか。
 私の場合は広大な宇宙空間を思い浮かべます。宇宙がビッグバンによって誕生して膨張を始めて以来、宇宙は今も膨張を続けているのだそうですね。つまり無限に広いと言っても良いでしょう。この宇宙を創ったのはイエス・キリストですから、イエス・キリストの愛も宇宙サイズだと私は思っています。エペソ人への手紙のこの箇所を読む時、私は自動的に広大な宇宙空間を想像するようになっています。

2.あり得なくても受け入れるべきこと
 この宇宙には、いろいろと不思議で、よくわからないことが、たくさんあります。
 身近な例で言えば、まず重力が不思議ですね。重力は万有引力とも言います。どうして、物と物があるだけで、お互いに引っ張り合うのでしょうか。手に持っているペンを離せば、下に落ちます。それは、ペンが地球の重力に引っ張られているからですが、ペンと地面とは離れているのに、どうして引き合うのでしょうか。不思議ですね。この教会のすぐそばには海がありますね。その海の水が満潮になったり干潮になったり、潮の満ち引きがあるのは、月の重力に水と地球が引っ張られるからだそうです。どうして、遠く離れている月に海の水が引っ張られるのでしょうか。 
 重力に関する素朴な疑問は、まだまだあります。皆さんの中で、飛行機に乗ったことがある方は多いと思います。私は飛行機に乗るといつも不思議だなあと思うことがあります。それは、飛行機が旋回する時です。旋回する時、飛行機は機体が斜めになりますね。窓の外を見ると、地面が傾いて見えますから、機体が斜めに傾いていることがわかります。では、旋回している飛行機の中でペンを手から離すと、ペンはどちらに向かって落ちて行くでしょうか。もし、ペンが地球の重力だけに引っ張られているなら、ペンは地球の地面に垂直な方向に落ちて行くはずです。しかし、実際には地球の地面に垂直な方向ではなく、飛行機の床に垂直な方向に落ちて行きます。飛行機が旋回して機体が地面に対して傾いている時でも、飛行機の中にいる人にとっては、いつでも床に垂直な方向がペンが落ちて行く「下」の方向なんですね。ですから、窓の外を見ていなければ、旋回中に自分が地面に対して傾いていることは、全くわかりません。
 なぜ旋回中の飛行機ではペンが地面に垂直に落ちないかと言えば、旋回している飛行機の中の物には遠心力が働いているからです。この遠心力と地球の重力を合成した合力の方向が、ちょうど飛行機の床の方向なので、旋回している飛行機の中でペンを手から離すと、床に垂直な方向に向かってペンは落ちて行くのですね。
 ここまでは一応、理屈ではわかります。しかし、それにしても不思議なのは、なぜ重力と遠心力とを合成することができるのか、ということです。遠心力というのは、クルクル回らなければ発生しない力です。物が動くことで初めて発生する力です。一方、重力は動かなくても、ただそこに物が存在するだけで、発生する力です。動いて発生する力と動かなくても発生する力は、ぜんぜん違う力のように思うのですが、この二つの違う力がどうして合成されて、飛行機の機体が傾いた時でも床のある方向が、「下」になるのでしょうか。ものすごく不思議だと思いませんか。この不思議なことを、私はぜんぜん納得できません。しかし、遠心力と重力が合成できることは事実ですから、受け入れざるを得ません。どんなに不思議で納得できなくても、実際に飛行機に乗って見れば遠心力と重力とが合成されて、合力の方向が「下」になっていることがわかるのですから、受け入れざるを得ません。
 聖書にも、いろいろと不思議なことが書いてありますね。日常的な感覚では、あり得ないことが書いてあります。そして、聖書を信じない人は、聖書に書いてあることは、あり得ないから信じない、というようなことを言います。あり得ないことは受け入れることができないのですね。私は、そういう方々に問いたいと思います。じゃあ、どうして重力は受け入れることができるのですか、と問いたいと思います。物と物が存在するだけで、お互いに引き合う力が発生するなんて、あり得ないと思います。まして、重力と遠心力が合成できるなんて、受け入れがたい不思議さだと思います。それなのに、聖書を信じない人は、どうして重力の不思議は受け入れて、聖書の不思議は受け入れないのでしょうか。

3.粒子と波の両方の性質を示す光
 不思議なものは、まだまだあります。光もまた、不思議なことに満ちています。光は粒子としての性質と、波としての性質の両方の性質を持ちます。粒子というのは、粒々の粒子のことです。波というのは、海の波のような波のことです。粒子と波の両方の性質を持つなんて、あり得ないと思いませんか。でも、光は実際に粒子と波の両方の性質を持っています。実は光だけでなく、電子や原子や分子など、物質は全て粒子と波の両方の性質を持ちますが、今日は、光の話をします。
 私たちは紫外線を浴びすぎると皮膚がダメージを受けるから、浴びすぎないように注意しなければならないということを聞いて知っています。紫外線とはエネルギーが高い光のことです。紫外線の光はエネルギーが高いので、皮膚の細胞にダメージを与えます。この、細胞にダメージを与える光は、粒子としての性質を持ちます。鉄砲の弾をずっと小さくしたものだと考えれば良いと思います。鉄砲の弾が体を傷つけるように、紫外線は皮膚の細胞を傷つけます。紫外線より、もっと高いエネルギーを持つ光が、放射線のX線とガンマー線です。福島第一原発から放出された放射性物質による放射線の被害が心配されていますが、原発が由来の放射線にはアルファー線とベーター線とガンマー線とがあります。そのうちのガンマー線は、非常にエネルギーが高い光です。エネルギーが高いですから、紫外線のように皮膚の表面を傷つけるのではなく、もっと体の内部の細胞を傷つけて、ガンの原因になったりします。これもまた、鉄砲の弾と同じで粒子としての性質です。鉄砲の弾は速度が遅くて運動エネルギーが小さければ皮膚の表面を傷つけますが、速度が速くて運動エネルギーが大きいと体の中に入って、体の中を傷つけます。紫外線やガンマー線が体を傷つける時、光は粒子としての性質を示しています。
 さて、この光は、波としての性質も示します。例えば、皆さんの多くが掛けているメガネは、光の、波としての性質を利用しています。光はメガネのレンズを通る時に屈折します。屈折というのは、光がガラスや水に斜めに入射する時に光が進む方向が変わって折れ曲がる現象です。もし、光が粒子としての性質しか持たないのであれば、光は屈折しないでしょう。光は波としての性質を持ち、広がりを持っているので曲がります。波は広がりを持っていますから、斜めにレンズに入射すると、先にレンズに到達したほうは減速します。光の速度はガラスの中では遅くなるからです。一方、まだレンズに到達していないほうは減速しないので、そのままの速度で進みます。それで全体としては、光は曲がってレンズの中に入って行くことになります。これが屈折という現象です。
 以上のように、光は粒子と波の両方の性質を持ちます。これは、普通に考えると有り得ないことです。しかし、実際にそうなっているのですから、受け入れざるを得ません。この光に関しては、量子力学の分野で、いろいろと面白い実験が為されています。さきほど、紫外線は高いエネルギーを持つという話をしましたが、量子力学が始まったのは、プランクという科学者が、ちょうど1900年に(今から113年前に)、光のエネルギーがプランク定数と振動数との積で表せることを示してからのこととされています。この光の振動数とエネルギーとの関係は、それまでのニュートン力学ではわからないことでした。こうして20世紀の初頭に始まった量子力学によって、光や電子や原子という、目に見えないミクロの世界の現象が次第に明らかになって行きました。そして、この目に見えない世界では、さらに不思議なことが起こっていることが明らかになって行きました。
 私は、目に見えない神さまの働きを記している聖書の世界と、目に見えないミクロの現象を扱う量子力学の世界とでは、通じるところがあると感じています。特に、時間とは何か、永遠とは何か、ということについては、大いに通じるところがあると感じています。私がヨハネの福音書を解き明かす時はいつも、この福音書の時間構造は【過去・現在・未来】が一体の構造であるということを言いますね。ヨハネは【過去・現在・未来】が一体の永遠の中を生きるイエス・キリストを描いているのだと説明しています。人間的な【過去→現在→未来】という一方通行の時間の矢が存在する時間観ではなく、【過去・現在・未来】が渾然一体になった永遠の時間観をヨハネは提示しているのだと皆さんに説明をしています。私がこのことを、自信を持って説いているのは、量子力学の世界もまた、過去と未来とが入り混じっていて、決して【過去→現在→未来】という時間の矢が存在しているわけではないことが、段々とわかって来ているからです。このように科学の世界の実験でも、時間は必ずしも一方通行で流れているわけではないという結果が得られていますから、私は堂々と自信を持ってヨハネの福音書が提示する永遠の時間観について説明をしています。こうして、私の中では科学が示す永遠と聖書が示す永遠とが一つになっていますから、エペソ人への手紙の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるか」という所を読むと私は、光が永遠の時間の中で広大な宇宙空間を進んで行く様子を思い浮かべます。

4.光の二重スリットの実験
 では、きょうの残りの時間では、量子力学の「遅延選択実験」という名の実験が示す不思議な世界のご紹介をしたいと思います。この「遅延選択実験」の結果から私は、過去と未来とが渾然と入り混じっていることを感じています。
 量子力学の「遅延選択実験」では光が使われていますが、ここではまず、話をわかりやすくするために、野球のボールを思い浮かべていただきたいと思います。そして、そこの教会の横の空地にピッチングマシーンが置いてあって、ボールがこの会堂に向かって発射されると考えて下さい。この会堂の横には窓が二つあります。ですから、この二つの窓が両方とも開いていれば、ボールはどちらか一方の窓を通って、この会堂の中に入って来ます。外の壁に当たってしまって会堂の中に入って来ないボールもあるでしょうが、たくさんのボール、例えば千球か一万球ぐらいをこの二つの窓の方角に発射すれば、かなりのボールがこの会堂の中に入って来ることでしょう。
 さて、この実験では、会堂に入って来たボールが、窓と反対側にある壁のどこに着弾したかを、きちんと記録することにします。この壁のほうに大きな布のシーツを掛けておき、そしてボールを、インクを入れたバケツに浸してから発射すれば、シーツにインクが付きますから、ボールがどこに着弾したかわかりますね。こうして実験を行うなら、窓の外のピッチングマシーンと、窓の開いている部分を直線で結んだ延長線上のシーツの場所に、だいたい着弾するでしょう。ピッチングマシーンがカーブのような変化球を投げたとしても、そんなに大きくは曲がらないと思いますから、窓を開ける幅をあまり大きくしなければ、ボールが着弾した場所を示すインクは、だいたい二本の帯となってシーツに残ることになります。この実験の様子をずっと観察しているなら、右の窓から入ったボールはシーツの右側に当たって右側に帯を作り、左の窓から入ったボールはシーツの左側に当たって左側に帯を作りますから、実験が終わった後では、二本の帯ができます。また、この実験を自動化して誰も観察していない状態で行っても、二本の帯ができるという、全く同じ結果が得られるでしょう。ボールがどちらの窓から入ったかを監視していなくても、ボールはどちら一方の窓しか通ることができませんから、必ず二本の帯が残ることになります。
 そんなことは当たり前ではないか、と思われるかもしれませんが、もしボールではなくて、光で実験を行うなら、この当たり前のことが起こりません。光の場合は、二本の帯ではなくて、もっとたくさんの帯ができる縞模様になります。それは、光が波の性質を示すからです。一粒の光の粒子がどういうわけか、広がりを持つ波になって、二つの窓を同時に通過するというようなことが起こります。そして、二つの波が干渉して、シーツには何本もの帯の縞模様ができます。波の干渉というのは、波は山と谷の部分がありますから、二つの波の山と山、または谷と谷とが重なると強め合います。一方、山と谷とが重なると打ち消し合ってゼロになります。そうして、シーツには、波が強め合った所にできる帯と打ち消し合って何も跡が残らない所とが交互に出現して縞模様が出来上がります。
 ただし、この縞模様は光の経路を監視していない時にだけ起こります。一粒の光の粒子が二つの窓を同時に通過するなんて、どう考えても不思議ですから、どんなふうに通っているのかな、と監視するなら、驚くべきことに、今度は光は野球のボールと同じように、二つの帯しか残さないことになります。これは「光の二重スリット実験」として有名で、インターネット上でも数多くの説明サイトがありますから、興味のある方は「光」と「二重スリット」というキーワードで検索して調べてみて下さい。

5.遅延選択実験の結果が示す未来と過去の絡み合い
 さて、ここまでは「二重スリットの実験」であり、「遅延選択実験」というのは、この後のことです。光の経路を観察する監視装置のスイッチを入れるか入れないかの選択を、始めの段階ではなくて遅い段階で行うことにする、というのが、「遅延選択実験」です。遅い段階でというのは、光が窓を通過した【後】で、観察するかしないかを決めることです。光が窓を通過した後、シーツのギリギリ手前で監視装置のスイッチを入れるか入れないかを決めることにします。すると、これまた驚くべき結果が得られます。光が窓を通過した【後】に監視装置のスイッチを入れても、最初からスイッチを入れていたのと同じ結果を示すのです。光がシーツに到達するギリギリ直前まで監視装置のスイッチを入れなかったとしたら、光は既に二つの窓を同時に通過しているはずですが、遅いタイミングで監視装置のスイッチを入れても、光がシーツに到達する前であれば、光は野球のボールの結果と同じように、どちらか一方の窓しか通らなかった時の結果を示します。これは、奇妙ですね。光は、窓を通過する前から、未来において監視装置のスイッチが入るか入らないかが予測できているのでしょうか。そんなことは、益々あり得ないことと言えるでしょう。私はそうではなくて、未来が過去に向かって情報を送ったのだと考えます。時間が幅を持っていて過去と未来とが絡み合っているなら、過去と未来は同じ現在の中にありますから、未来から過去へ情報を送ることも可能でしょう。光がシーツの直前まで来た時に監視装置のスイッチが入れられたとしても、光が過去に向かってその情報を伝えることができるなら、どちらか一方の窓しか通らなかったことにできます。こうして、未来のことが過去の光の経路を決定します。
 このように私は「遅延選択実験」の結果は、過去と未来とが絡み合っていることで解釈できると考えていますから、ヨハネの福音書が【過去・現在・未来】が渾然一体になった時間観を提示していることも同じことと考えても良いのではないかと感じています。そして面白いことに、この「遅延選択実験」は、原理的には宇宙規模の広い空間でも行うことができます。ホイーラーという人は、宇宙の何万光年も離れた所から発射された光を使って、この実験を行うことを提案したそうです。何万光年も彼方から発射された光が宇宙の途中で(重力レンズを利用して)二つの経路を通り、その光の経路を監視する装置のスイッチを入れるか入れないかを、光が地球に到達する直前に選択します。すると、何万年も前に発射された光が二つの経路を同時に通ったのか、或いはまた一つの経路しか通らなかったのかということを、光が発射されてから何万年も経った後の地球で選択できることになります。そして、監視装置のスイッチが入れられたなら、その瞬間に情報が過去に向かって送られて、光が一つの経路しか通らなかったことになります。これぐらいの規模だと、永遠の時間の中で過去と未来とが絡み合っていることを感じることができますね。
 旧約聖書の預言者の預言も、過去と未来とが絡み合っている中で行われていると私は考えます。例えばイザヤはイザヤ書の53章で、まるでイエス・キリストの十字架の現場を目の前で見たかのような生々しい描写をしています。イザヤ書は十字架の出来事の何百年も前に書かれたわけですが、聖霊に満たされたイザヤが神と共に永遠の時間の中にいたと解釈するなら、このことも納得できます。イザヤは、イザヤの時代にいながらにして未来の十字架の現場を見ることができたのだと納得することができます。

おわりに
 今月、創立記念日を迎えた私たちの教団は「聖」と「宣」を旗印にしていて、「聖書は誤りなき神のことばである」という信仰を持っています。一方、世の中の人々の多くは聖書の中の不思議な出来事を受け入れ難いと考えています。しかし、今日お話したように、科学の世界でも受け入れ難い不思議な現象は、たくさんあります。そして、きょう話したような永遠の時間観に関しては、聖書の世界と量子力学の世界とは重なっている可能性があると私は考えています。ですから私は、聖書は古いと考えることは、もはや古いことだと確信しています。これからはヨハネの福音書の時間観を宣べ伝えることで、聖書は古いという人々の考え方が改まるように宣教に励んで行かなければならないだろうと思います。これは、「聖」と「宣」を旗印にしている私たちだからこそ、できることと言えるでしょう。聖書信仰を持ち、永遠の時間の中にいる神さまに自分を委ねることを大切にしている私たちだからこそ、できることと言えます。私たちが神さまにお委ねして信仰の道を歩んで行くなら、これからは、とても面白い時代になるだろうと私は期待しています。世の中全体は暗い方向に向かっているように見えますが、聖書を信じる私たちが進む方向は神さまが照らす光で明るく輝いています。
 ヨハネが、「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5)と書いているように、私たちが歩んで行く方向には光が輝いていますから、期待を持って、共に信仰の道を歩んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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不思議な助言者の役割(2013.10.23 祈り会)

2013-10-23 19:27:04 | 祈り会メッセージ
2013年10月23日祈り会メッセージ
『不思議な助言者の役割』
【イザヤ9:1~7】

はじめに
 祈祷会では前々回からイザヤ書を開いています。きょうはイザヤ書9章です。イザヤ書9章と言うと、クリスマスの時に良く6節が読まれますね。きょうも、後で6節に注目しますが、せっかくですから、9章の始めのほうも見ておきたいと思います。イザヤ書9章ではイエス・キリストの姿が6節と7節だけではなく、既に1節の段階から、ちゃんと見えているのですね。

1.ガリラヤのイエスの姿が見えるイザヤ9章
 では、1節から見て行きましょう。1節、

9:1 しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。

 「先にはゼブルンの地とナフタリの地ははずかしめを受けた」というのは、サマリヤが陥落して北王国が滅びた年の10年ほど前のことです。北王国滅亡の約10年前、当時のアッシリヤの王のティグラテ・ピレセルが来て、このゼブルンとナフタリの地を占領して、その住民をアッシリヤへ捕え移したことが列王記第二に記されています(Ⅱ列王15:29)。
 ゼブルンとナフタリの地がどこにあるのか、聖書の後ろの地図で確認してみましょう。後ろの地図の2ページ目の、「12部族に分割されたカナン」という地図を見ると、ゼブルンとナフタリが、ちょうどガリラヤ地方に当たることがわかります。その後ろの地図の「キリスト時代のパレスチナ」のページを見ると、ガリラヤ地方とだいたい重なっていて、ナザレやカナやカペナウムなどの福音書でおなじみの町が、このゼブルンとナフタリがあった地域に存在していることがわかります。
 イザヤ書に戻って、9章1節の冒頭に、「苦しみのあった所に、やみがなくなる」とあります。ゼブルンとナフタリは苦しみを受け、はずかしめを受けましたが、このガリラヤの地は後に光栄を受けました。この1節の記述は、イエス・キリストがこのガリラヤの地で宣教を開始したことと、良く重なりますね。9章2節には、次のようにあります。

9:2 やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。

 このイザヤ9章2節は、ヨハネの福音書のプロローグを思い起こさせます。ヨハネの福音書のプロローグでヨハネは、

「光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。」(ヨハネ1:5)
「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(ヨハネ1:9)

と書いています。イザヤ9章とヨハネ1章との重なりを感じます。この重なりは、預言者が語る神のことばは、永遠の中を生きるイエス・キリストのことばでもあるのだ、神のことばはイエスのことばだ、ということの良き証しであると言えると思います。
 そしてイザヤ9章3節、

9:3 あなたはその国民をふやし、その喜びを増し加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。

 この3節の人々の喜ぶ様子では私は、ヨハネ2章のガリラヤのカナの婚礼の場面を思い起こします。このヨハネ2章のカナの婚礼の場面は、「使徒の時代」にガリラヤ人たちに最初に聖霊が降ったペンテコステの日と重ねられていることを既に何度か説明していますね。ペンテコステの日に聖霊が与えられたことの大きな喜びは、婚礼の場の喜びととても良く合っていると思いますが、このイザヤ9章3節の喜びもまた、良く合っているように感じることです。
 そして4節と5節では、この光によって人々が苦しみから解放される様子が描かれています。
 私たちはヨハネの福音書の学びを通して、イエス・キリストが永遠の中を生きていることを学んでいます。そして、そのイエス・キリストを信じるなら、御父と御子との交わりの中に入れられて、私たちもまた永遠の中に入れられます。その永遠の中にいてイザヤ書9章を読むなら、「旧約の時代」だけでなく、「イエスの時代」、そして「使徒の時代」のペンテコステの日の出来事にまで、私たちの思い巡らしの範囲はどんどん広がって行きます。このように思い巡らしの範囲が聖書の中で広がって行くことが、霊的に成長することだと言えると思います。霊的な思い巡らしでは、【過去→現在→未来】という人間的な時間観には縛られず、永遠の中を自由に行き来することができます。永遠の中を生きるそイエス・キリストを信じれば私たちもまた永遠の中に入れられ、霊的に成長して行くことができることは、本当に素晴らしい恵みだと思います。

2.三位一体の神を預言したイザヤ
 さて、それでは有名な6節に進みましょう。このイザヤ9章6節は、ご一緒に読みたいと思います。

9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 「ひとりのみどりご」とは、言うまでもなく、イエス・キリストのことですね。そして、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるとあります。ここには、三位一体の神のことが書かれていると私は感じます。「不思議な助言者」とは、聖霊のことです。「力ある神」とは、私たちに力を与えて下さる聖霊のことと考えても良いと思いますし、三位一体の神全体と考えても良いと思います。「永遠の父」とは天の御父のことですね、そして「平和の君」とは御子のことです。「平和の君」の「君」はヘブル語では「sar」で、聖書の英語訳のほとんどは、この「sar」を「prince」と訳しています(NIV, TEV, KJV, NKJV)。「prince」とは日本語では「王子」ですから、「御子」ということになりますね。
 こうして、イエス・キリストは三位一体の神であることをイザヤは預言しています。私たちは、「不思議な助言者」である聖霊のおかげで、霊的なことがわかるようになり、霊的に成長できますから、感謝です。

3.不思議な助言者の役割
 きょうの残りの時間は、私たちの霊的な成長のために、この「不思議な助言者」としての聖霊の役割について、少し聖書の
何箇所かを見てみたいと思います。「不思議な助言者」は、何を助言して下さるのでしょうか。まず、思い浮かぶのは、ヨハネ14章26節ですね。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

「不思議な助言者」である聖霊は、「助け主」であり、私たちにすべてのことを教えて下さいます。すべてのこと、と言うとあまりに漠然としていますから、他の書も開いてみましょう。
 ヨハネの手紙第一4章13節でヨハネは次のように書いています。

4:13 神は私たちに御霊を与えてくださいました。それによって、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。

 どうして、それが分かるかというと、「神は愛」だからですね。14節から16節、

4:14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、今そのあかしをしています。
4:15 だれでも、イエスを神の御子と告白するなら、神はその人のうちにおられ、その人も神のうちにいます。
4:16 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。

 御霊が与えられた私たちは、神の愛を感じていますから、私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられることがわかります。この神の愛を感じることは、十字架の愛を感じることももちろん重要ですが、旧約聖書で神がイスラエルの民に注いでいる愛を感じることも、欠かせないことです。それが永遠の中を生きるということでしょう。
 新約聖書の十字架の神の愛だけでも永遠を感じることはできますが、やはりそれだけでは十分ではありません。旧約聖書と新約聖書の両方から神の愛がわかるなら、永遠の時間をさらに豊かに感じることができるようになります。そしてそのことで信仰が揺るぎないものになるのだと思います。新約聖書だけで信仰が育まれた人は、いつか教会から離れて行ってしまう危険をはらんでいると私は感じています。

おわりに
 では最後にまた、イザヤ書9章に戻って、7節をご一緒に読みましょう。

9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

 永遠の時間観の中でこの7節を読むなら、これは、これからのことが書いてあるのだと読み取りたいと思います。永遠の時間の中では、イザヤのこの預言は、いま為されたものであり、このことが成就するのもまた、今です。ヨハネの福音書の永遠の時間観を多くの方々が感じ、霊的に理解できるようになるなら、今まさにこの7節の預言が成就するのだと私は感じています。そうして私たちに平和がもたらされます。そのための働きに私たちの教会が用いられることを願い、今週もまた共に進んで行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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永遠の中にいる聖徒たちと共に走る(2013.10.20 礼拝)

2013-10-20 15:34:57 | 礼拝メッセージ
2013年10月20日召天者記念礼拝メッセージ
『永遠の中にいる聖徒たちと共に走る』
【Ⅱテモテ4:1~8/へブル12:1】

はじめに
 私たちの教会は4年後の2017年の教会設立50周年の年には、是非とも新会堂を献堂したいという願いを持ち、祈りを積んでいます。今年6月に持たれた会堂祈祷強化月間の礼拝には十和田教会から廣瀬邦男先生・善子先生からのメッセージとN姉のお証しを聞き、ちょうど30年前に、この今沢の会堂を取得した時に、どのような闘いがあったかを学ぶことができて感謝でした。そして、同時にこの沼津教会で信仰に励み、今は天に召されている兄弟・姉妹方のことを知ることができましたことは、この沼津教会に着任して間もない私にとっては、大変に感謝なことでした。
 これらの先に天に召された、沼津教会における信仰の先輩方のことを直接には一人も存じ上げない私が、きょうのこの召天者記念礼拝のメッセージで何を語るべきなのか、正直を申し上げますと、1週間前にはほとんど何も与えられていませんでした。ただ、1ヵ月前にご遺族の方々にこの召天者記念礼拝の案内状をお送りした際には、きょうの聖書交読で開いたヨハネ14章のみことばの「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります」を案内状に添えていましたから、きょうのメッセージもそこから取次がせていただくことになるのだろうか、と漠然と思っていました。
 しかし、すべてを主にお委ねしてメッセージを待ち望んでいたところ、いよいよメッセージの原稿作成に取り掛かる段階になって、この召天者記念礼拝の場を、新会堂の献堂を私たちが50周年の年に必ずや実現するのだと固く決意する場にすべきであろう、という思いが沸々と沸きあがって来ました。
 ですから、今日のメッセージのタイトルの『永遠の中にいる聖徒たちと共に走る』とは、新会堂の献堂という目標を目指して、永遠の中にいる聖徒たちと共に走る、ということであると解釈していただきたいと思います。永遠の中にいる聖徒たちというのは、先に天に召された信仰の先輩方はもちろんそうですし、この世の地上生涯にいる私たちでも、イエス・キリストを信じる者には永遠の命が与えられています。ですから、天にいる者も、地にいてイエス・キリストを信じる者も、或いはまた地にいてまだイエス・キリストを信じていない者も、皆が一緒になって走るのだということです。
 今年の4月の着任礼拝の時に私は、私は経験も浅い上に単身ですから、廣瀬先生方がこれまでやって来られたことをすべて受け継いで行くことは出来ないけれども、新会堂を必ず実現するのだという熱い思いだけは、何としてでも受け継いで行きたいと、お話しさせていただきました。いま私は、その思いを新たにしているところです。きょうは、私たちの皆が、この召天者記念礼拝の場で聖霊に満たされ、先に天に召された信仰の先輩方と共に新会堂の実現に向かって走るのだという決意が主にあって確固たるものになることを願って、語らせていただきたいと思います。

1.パウロは教会の人々に何を望んでいたか
 では、きょうの聖書の箇所を見て行きましょう。
 まず第二テモテです。このテモテへの第二の手紙は、囚われの身となっていたパウロが愛弟子のテモテに宛てて書いた手紙です。パウロは迫害によって殉教する時が迫っていることを悟っていたようです。6節でパウロは、

4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。

と書いています。そして7節で、

4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。

と書いています。パウロが「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え」と書いているのを読む時、本当にそうだろうなと思い、また、パウロは使徒として地上生涯を過ごしている間に、一体いくつの教会の建て上げに直接間接に関わったのだろうかと思うことです。かなりの数にのぼるであろうということだけは確かですね。使徒の働きとパウロに書かれている教会だけでも、いくつもあります。書かれていない教会でもパウロが関わっていた教会は、まだまだあることでしょう。
 では、パウロはこれらの教会の人々に何を望んでいたでしょうか。答えは一通りではなく、いろいろあると思います。しかし、いろいろある答の中でも80点ぐらいの答とか、50点ぐらいの答とか、答によって正解に近いものと、間違ってはいなくても、正解からはそれほど近くないものとがあるでしょう。
 一番正解に近い答を言う自信は、私にはありませんが、二つの答を比較して、どちらが正解に近いかということは言えそうです。パウロが教会の人々に望んでいたこととして、例えば、次の二つの答はどうでしょうか。
 ①きよい生活をすること
 ②霊的に成長すること
①も②も、どちらも間違ってはいないと思います。しかし、どちらかが、より正解に近いとしたら、私は②の「霊的に成長すること」の方が圧倒的に正解に近いと考えます。
 パウロはきよい生活をすることを熱心に勧めていますから、もちろん①の「きよい生活をすること」も正解であると言えるでしょう。しかし、それは「霊的に成長する」ために必要なことであるがゆえに、「きよい生活をすること」を勧めているのだと言えます。きよい生活をすること自体は目的ではなく、霊的に成長するための手段であると言えると思います。
 たとえば、ローマ人への手紙12章1節でパウロは、「そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。」と書いて、自分を聖く保つことを勧めています。そして、その後で、「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と書いています。つまり、聖い生活をするのは、心を整え、霊性を整え、霊的な礼拝を捧げるためのことなのです。また、エペソ人への手紙5章18節でパウロは、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」と書いています。酒に酔ってはいけないのは、放蕩を避けて御霊に満たされるためです。「御霊に満たされる」という極めて重要なことを念頭に置かずに、ただ「酒に酔ってはいけません」と言うだけでは、日本人にキリスト教の信仰の喜びをお伝えすることはできないでしょう。

2.神と霊的に交わる喜び
 霊的に成長することを求めずに、ただ単に真面目できよい生活をしようとするなら、それはただ苦しいだけです。霊的に成長するなら、そこには大きな喜びがありますが、霊的なものを求めずにただ真面目できよい生活だけを追い求めるなら、パリサイ人たちのような、律法主義的で冷たい、魅力に乏しい人間が出来上がってしまいます。このことには、くれぐれも警戒しなければならないと思います。
 このことをパウロの手紙からだけではなく、福音書や他の手紙からも、考えてみましょう。
 例えばマタイの福音書でイエスは、「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。」と言っています。このことを、どのように受けとめたら良いでしょうか。イエスさまが「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません」と言っているからと言って、親孝行をせずに教会での奉仕の方を一生懸命やったとしても、もしそこに霊的な成長が見られないのであれば、あまり意味が無いと言わざるを得ないでしょう。教会のご奉仕を一生懸命にすることはとても尊いことで感謝なことです。しかし、
教会でのご奉仕を通じてイエスさまとの霊的な交わりを感じることができるようにならないのであれば、マルタとマリヤの姉妹のマルタのように、イエスさまから注意されることになるでしょう。ルカの福音書10章でイエスさまはマルタに言いましたね。

「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」(ルカ10:42)

 この時、マルタの妹のマリヤの方は、イエスさまのみことばに聞き入っていて神さまとの霊的な交わりの中に入ることができていました。そうして霊的に、とても恵まれており、霊的な成長の階段を上がって行こうとしていました。しかし、マルタにはそれがわかりませんでしたから、マルタはマリヤの霊的な成長を妨げようとしました。ですから、イエスさまはマルタに、マリヤからそれを取り上げてはいけませんと注意しました。私たちの信仰生活の中でまず必要なことは、神さまと霊的に交わることを通じて霊的に成長することです。ヨハネの手紙第一でヨハネは言っていますね。

「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。」(Ⅰヨハネ1:3)

 神さまとの霊的な交わりを感じることができるようになることは、本当に大きな喜びです。この喜びを周りの人々にお伝えしたくて、私たちは伝道するのですね。ヨハネの手紙第一が書いているように、私たちも、「私たちの見たこと、聞いたことを周りの方々に伝えるのは、周りの方々も私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。」
 パウロも、教会の人々にこの霊的な喜びを知ってもらいたくて、一生懸命に教会の人々に霊的な成長ができるための指導を直接行い、直接の指導ができない時には手紙を書きました。パウロがローマ人への手紙を書いた時、パウロはローマに行くことを切望していましたが、その時はまだ行くことができませんでしたから、ローマ人への手紙を書きました。その手紙の始めのほうでパウロは次のように書いています。

「私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです」(ローマ1:11)

 パウロは、これほどまでに、人々が霊的な成長をすることを望んでいました。パウロの手紙を読む時には、是非とも、「御霊」をキーワードにして読んでいただきたいと思います。パウロが人々に、きよく正しい生活をすることを勧めているのは、すべて教会の人々が霊的に成長して神との交わりを持つ喜びを味わうことができるようになるためです。そうして喜びに溢れた信仰生活を送るなら、天国に行けることは確実です。なぜなら、御霊が与えられて神との交わりを持つ喜びを感じることができているなら、既にこの世にいながらにして天国を霊的に感じることができているからです。それが永遠の命が与えられるということでしょう。神は過去も未来もなく、すべてが現在の永遠の中にいます。その神との交わりの中にいるなら、私たちもまた永遠の時間の中に入れられて、天国のことを感じることができるようになるのです。
 こうしてパウロは人々の霊的な成長のために熱心に働き、人々を教え導き、走るべき道のりを走り終えて、天に召されました。パウロはいま永遠の中にいます。
 そして、私たちの教会で先に天に召された信仰の先輩である兄弟姉妹方も永遠の中にいます。私たちは、この永遠の中にいる聖徒たちと御霊によって一つにされています。

3.永遠の中にいる聖徒たちと共に走る
 私は今日のこのメッセージを準備している過程で、6月に廣瀬邦男先生が残して行って下さった、この今沢の会堂の取得の経緯を今回、改めて読ませていただきました。この廣瀬先生の文章には、先に天に召された兄弟姉妹方と廣瀬先生方、そして今もこの教会に集っていらっしゃる方々がどんなに厳しい闘いの中を通って来たのかが、生々しく描かれています。
 私たちが、これから新会堂を実際に取得することになるなら、やはり厳しい闘いの中を通ることになるのだと思います。その闘いは、いまここにいる私たちだけでは、到底闘い抜くことはできないでしょう。しかし、私たちは永遠の中にいる聖徒たちと共に走っています。それは、この教会の信仰の先輩方だけではありません。パウロやヨハネや、それ以前の聖徒たちも含めた、すべての主にある聖徒たちと共に私たちは走っています。聖書朗読で読んでいただいたへブル人への手紙12章1節に書いてある通りですね。

「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(へブル12:1)

 私たちには、永遠の中にいる信仰の先輩たちが無数にいて、雲のように私たちを取り巻いて、私たちと共に走ってくれています。イエス・キリストを信じて永遠の命を与えられものは皆、そのようにして永遠の中で一つになっています。私たちは、このことが、どんなに喜びに満ち溢れたことであるかを、この地域の方々に広くお伝えして行きたいと思います。きょうの聖書箇所の第二テモテ4章2節でパウロは書いています。

「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」

 みことばを宣べ伝えるのは、主に牧師である私の役目だと思いますが、この教会に多くの人が集うようにするには、皆さんの力が必要です。お知り合いをこの教会に誘って連れて来たり、インターネットを通じて広くお知らせしたり、チラシを配ったりしてみことばを聞く人々を増やして行くには、皆の力が必要不可欠です。私たちの力は小さいですが、もし私たちの皆が、御霊の一致を得て動くなら、永遠の中にいる聖徒たちの力も加わり、大きな力となって行くことでしょう。
 聖書交読でご一緒に読んだヨハネの福音書14章2節でイエス・キリストは、

「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。」

と言いました。そして3節で、

「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをおらせるためです。」

と言いました。このように、イエスさまは私たちが天に召されたなら、私たちがいる場所はたくさんあるとおっしゃっています。イエスさまは、できるだけ多くの者たちが、天国の父の家に入ることを望んでおられます。私たちはそのイエスさまのご期待に是非ともお応えしたいと思います。せっかくイエスさまが住まいがたくさんありますとおっしゃって下さっているのですから、この沼津の地から、もっともっと多くの人々が天国の父の住まいに入ることができるように、共に働こうではありませんか。まずはこの会堂を満杯にして、そして、もっと大きな会堂を建てて、そこも満杯にしようではありませんか。そうして、この沼津の地の多くの方々が、天国の父の住まいに入ることができるよう、イエスさまのお手伝いをしようではありませんか。

4.永遠の中を生きるとは
 きのう私は、30年前の私が何をしていたかを振り返るひとときを持ちました。天に召された先輩方と廣瀬先生方、そして皆さんが、この今沢の会堂を取得した30年前の1983年は、私は大学院の修士課程の1年生で、材料科学の研究者としての第一歩を踏み出し始めた年でした。研究者として第一線で働くことができる者になれるよう、私自身の闘いも始まった年だったのですね。それは、一見、信仰の闘いとは無関係なようにも見えますが、しかし大きな目で観るなら、私もまた沼津教会の皆さんと共に闘いを始めた年であったとも言えると思っています。それが、永遠の中を共に走るということではないでしょうか。それが過去・現在・未来が一体になった、永遠の時間の中を共に生きるということであると私は思います。なぜなら、私は材料科学の研究者として実験に用いていた電子顕微鏡を通じて、量子力学の不思議な世界に触れ、その不思議な世界について思いを巡らせた経験が、いまのヨハネの福音書の永遠の時間観を読み解くことに確実につながっているからです。目に見えない小さなミクロの世界では、ニュートンの力学ではなくて量子力学が支配しています。これは、本当に不思議な世界です。しかし、それがどんなに不思議で納得できないことであっても、実験結果が誤りなく不思議な現象が実在することを示しているのなら、私たちはその不思議な結果を受け入れなければなりません。ですから私は聖書の世界で不思議なことが起こっていても、量子力学の世界の不思議さに比べたら大したことではないとさえ思っています。ですから聖書の世界の不思議なこともそれほど抵抗なく受け入れることができます。理工系の研究者でキリスト教の信仰を持つ人が少なくないという事実の背後には、不思議なことを受け入れる寛容さがあるのではないかという気が私はしています。
 いま私は、これまでの私の経歴をフルに活用して、ヨハネの福音書の永遠の時間観を読み解き、それを皆さんにお伝えすることを始めています。この沼津教会の祈祷会と礼拝の説教では、ヨハネの福音書が持つ独特の時間構造を永遠の観点から説き明かしています。そして、いま永遠について説き明かしている、この今沢の会堂が取得された年が、私が研究者として第一歩を踏み出した1983年と同じ年であることに、私は永遠の中での不思議な一致を感じます。私は教会で、現在のこの今沢の会堂を足掛かりにして、次のステップに進むことをリードする立場にいますが、私のその歩みは既に1983年から始まっていたのだということを感じています。それが永遠の中にいる聖徒たちと共に走るということであろうと感じています。
 廣瀬先生は、この今沢の会堂を取得した時には神さまの不思議な働きがあったとお証ししていますが、この今沢の会堂に限らず、どの教会のどの会堂においても、新しい会堂が建つ時には、必ず神さまの不思議な働きがあるものだということをよく聞きます。ですから、私たちがすべきことは、この今沢の会堂の次の新会堂を求めて行く中でも、必ず神さまの不思議な働きがあることを信じて、祈りを積んで行くことでしょう。神さまの不思議な働きを信じて、永遠の時の中に私たちのすべてをどっぷりと委ね、永遠の中にいる聖徒たちと共に走って行くなら、不思議なように事が運んで行くのだということを、私たちは信じたいと思います。

おわりに
 この会堂の正面のみことばにもありますが、ヨハネ14章6節でイエスさまはおっしゃいました。

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

 こうしてイエス・キリストは私たちを永遠の中に招いて下さっています。ここにいる私たちだけでなく、この地域にいるすべての人々を招いて下さっています。ですから私たちは、この地域の多くの方々が集える会堂を与えていただくことができるよう、きょうのこの、召天者記念礼拝の日に、先に天に召されて永遠の中にいる信仰の先輩方と共にお祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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初冠雪の富士山

2013-10-19 09:54:10 | 折々のつぶやき


 昨日までは、全く雪が無かったのに…今日は雪化粧しています。
 雪がある富士山を約3ヶ月半ぶりで見ました。
 雲が多くて青空がバックではないけれど、やっぱり雪の富士山はいいですね。
 今年の初冠雪の富士山を教会の中から眺めるだけではもったいないと外に駆け出し、教会のすぐ近くの今沢の海岸の堤防の上に行って写真を撮りました ^^
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主よ、いつまでですか(2013.10.16 祈り会)

2013-10-17 08:55:26 | 祈り会メッセージ
2013年10月16日祈り会メッセージ
『主よ、いつまでですか』
【イザヤ6:8~13】

はじめに
 イザヤ書6章には、イザヤが主からの召命を受けた時のことが記されています。きょうは、この6章の前半ではなくて後半のほうに注目します。

1.心をかたくなにするメッセージ
 8節でイザヤは、主が「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられるのを聞いて、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と言いました。
 このようにイザヤが「私を遣わしてください」と言うのを聞いて、主はイザヤに9節と10節のように命じました。

 「行って、この民に言え。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな。』
 この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を堅く閉ざせ。自分の目で見ず、自分の耳で聞かず、自分の心で悟らず、立ち返っていやされることのないように。」

 このメッセージのことを『新聖書注解』の注解者(鍋谷先生)は「心をかたくなにするメッセージ」と呼んでいます。預言者が預言する主のことばとは、民が主のことばを聞き、悟ることができるようにするはずのものです。そして霊的な目が開かれ、主のことをもっと知ることができるようにするはずのものです。しかし、主は全く逆のことを言いました。民に「悟るな。知るな。」と言え、とイザヤに命じたのでした。これは、イザヤにとって、全く意外なことでした。それゆえ、イザヤは、「主よ、いつまでですか」と主に聞きました。
 主は答えました。11節と12節です。

「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。」

 これは、普通に解釈すれば、ユダの王国がバビロン軍に攻め入られ、人々がバビロンに捕囚として引かれて行くまで、ということになりそうです。

2.新約聖書で引用されているメッセージ
 しかし、今回、皆さんとご一緒に思いを巡らしてみたいのは、イザヤ書6章の9節と10節が、新約聖書の多くの書に引用されている、ということです。9節の脚注の①を見て下さい。そこに多くの引照がありますね。マタイ13:14,15、マルコ4:12、ルカ8:10、ヨハネ12:40、使徒28:26,27、ローマ11:8、とあります。このうち、マタイ・マルコ・ルカの共観福音書では、種まきのたとえのところで、このイザヤ6章の「心をかたくなにするメッセージ」が引用されています。どのように引用されているか、マルコの福音書の場合で見てみましょう。私たちは聖書を読む会でマルコの福音書の種まきのたとえの所を既に学んでいますから、一番理解しやすいだろうと思います。マルコの福音書4章の種まきのたとえの所をご一緒に見ましょう。2節から見ましょう。2節と3節、

4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。

 そうして、イエスは種まきの例えを話しました。その内容は、きょうは省略します。そして、10節から14節、

4:10 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です。」
4:13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。
4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。

 この12節に、イザヤ6章の9節と10節が引用されていますね。すると、イザヤが「主よ、いつまでですか」と聞いたことの答は、バビロン捕囚の時までではなく、イエスの時代まで続いていたのでしょうか。
 次に、使徒の働きの一番最後の28章を見てみましょう。28章の23節から25節までを見ましょう。

28:23 そこで、彼らは日を定めて、さらに大ぜいでパウロの宿にやって来た。彼は朝から晩まで語り続けた。神の国のことをあかしし、また、モーセの律法と預言者たちの書によって、イエスのことについて彼らを説得しようとした。
28:24 ある人々は彼の語る事を信じたが、ある人々は信じようとしなかった。
28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。

 こう言って、パウロは次の26節と27節でイザヤ書6章の9節と10節を引用しています。すると、先ほどのマルコの福音書での引用のところでは、「主よ、いつまでですか」はイエスの時代まで続いていたのでしょうかと言いましたが、イエスの時代を越えて、パウロの時代まで続いたのでしょうか。イエスの時代というのは、だいたい紀元30年頃で、パウロがローマに軟禁されていたのは紀元60年頃ですから、さらに30年は続いていたのでしょうか。
 或いはまた、ヨハネの福音書でも、このイザヤ6章の9節と10節は引用されています。ヨハネの福音書は1世紀の末ぐらいに書かれたと考えられます。そして、この頃の時代の雰囲気がヨハネの福音書には反映されていると考えられます。すると、ヨハネの福音書が書かれた年代をだいたい紀元90年とするなら、さらにもう30年は、主が人々の心をかたくなにする期間が続いていたのでしょうか。
 或いはさらに、現代に至るまで、主が人々の心をかたくなにする期間は続いているのでしょうか。私は、このことの答を知りたいと思い、これまで折に触れて考え続けて来ました。しかし、答は得られませんでした。

3.永遠の時間観の中で捉えるべきメッセージ
 今回、祈祷会でイザヤ書を開くことにしたこの機会に、いま一度考えてみることにしました。ちょうど昨晩は台風が接近して来ていて雨漏りの心配がありましたから、夜はずっと起きているつもりでいました。ですから、考えるには、ちょうど良いと思ったんですね。
 そうして、今朝になって、気付かされたことがあります。それは、イザヤの時代からバビロン捕囚までとか、イエスの時代や使徒の時代までとか、或いは現代までなどと考えるのは、時間が【過去→現在→未来】が一方通行の流れであるという時間観に基づいてしまった考え方である、ということです。そうではなくて、ヨハネの福音書を学んだ私たちは、【過去・現在・未来】が一体の永遠の時間観で、このイザヤ書6章の9節と10節を捉えなくてはならないであろう、ということです。
 もう一度、イザヤ書6章の11節と12節を見ます。

6:11 私が「主よ、いつまでですか」と言うと、主は仰せられた。「町々は荒れ果てて、住む者がなく、家々も人がいなくなり、土地も滅んで荒れ果て、
6:12 【主】が人を遠くに移し、国の中に捨てられた所がふえるまで。

 永遠の時間観の中でここを読むなら、まさに今という時代の霊的な状況が、荒れ果てた状態であると感じることができると思います。
 そして、主はまさに今、心がかたくな人々を救って下さるのだと考えるべきではないでしょうか。もし永遠ではない人間的な時間観で、主が、今、人々を救って下さると考えるなら、イザヤの時代から今までずっと、主の心をかたくなにするメッセージは続いていたことになります。しかし、これまでにもキリスト教が大きく広まった時代があったわけですから、それは何だかおかしいですね。ですから、私たちは、イザヤ書の心をかたくなにするメッセージを永遠の時間観で捉えるべきでしょう。そして、今のこの霊的に荒れ果てた時代の暗闇の中で光を見出せないでいる人々を、主は救い出して下さろうとしているのだと、永遠の時間観で考えるべきでしょう。

おわりに
 神にとっては旧約の時代も、イエスの時代も、使徒の時代も、そして現代も、すべて現在のことです。ですから、主はどの時代にあっても、その時代が霊的に荒れ果てた時代であるなら、いつでも救い出そうとしておられるのではないでしょうか。
 現代人の霊的な状況は言うまでもなく、荒れ果てています。マルタとマリヤの姉妹のマリヤのように、イエスさまの話にゆっくりと耳を傾けようとする人は本当に少ないです。多くの人々がマルタのようにバタバタと忙しく動き回り、或いは、片時もネットに接続した携帯端末から目を離せずにいて、落ち着かない日々を過ごしています。そんな人々を今、神さまは救い出して下さろうとしているのだと信じて、神さまの働きのお手伝いができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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霊的な存在のイエスとの出会い(2013.10.13 礼拝)

2013-10-13 15:34:26 | 礼拝メッセージ
2013年10月13日礼拝メッセージ
『霊的な存在のイエスとの出会い』
【ヨハネ4:28~42】

はじめに
 先週の礼拝ではヨハネの福音書には「わたしは世の光です」という御言葉が8章と9章の2箇所にあり、サンドイッチ構造になっているという話をしました。この2つの「世の光」に挟まれたサンドイッチ構造には、いろいろと面白い仕掛けが隠されていましたね。このようにヨハネの福音書にはいろいろな場所に、様々な面白いことが隠されています。私はこのヨハネの福音書を読む解くことの面白さを、ぜひ皆さんと共有したいと願っています。それで、きょうもそんな面白い箇所をご紹介したいと思っています。そして、皆さんと、「いやぁ~、ヨハネの福音書って、本当に面白いですね」という思いを分かち合いたいと思います。
 きょうはヨハネ4章の後半です。このヨハネ4章後半の、サマリヤ人の救いの箇所は、祈祷会で一度取り上げていますが、祈祷会のメンバーは限られていますし、メッセージの時間も短めですから、この礼拝の場で多くの皆さんと一緒に、じっくりと見てみることにしたく思います。
 ヨハネの福音書4章28節から見て行きましょう。

4:28 女は、自分の水がめを置いて町へ行き、人々に言った。

 ここまでの経緯を簡単に話しておきますと、イエスはガリラヤへ行く途中で、サマリヤ地方を通って行きました。そしてスカルという町に来ました。この町のはずれに井戸があり、イエスはこの井戸に水をくみに来たサマリヤの女と話をしていたのでした。

1.イエスの所に来たサマリヤの人々
 そして25節で女はイエスに言いました。

「私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。」

 するとイエスは言いました。

「あなたと話しているこのわたしがそれです。」

 これを聞いて女は、28節で自分の水がめを置いて町へ駆けて行ったんですね。水がめを持って行ったのでは急いで知らせることができませんから、女の急いでいる様子がわかります。そして女は町の人々に言いました。29節です。

「来て、見てください。私のしたこと全部を私に言った人がいるのです。この方がキリストなのでしょうか。」

 「私のしたこと全部を私に言った」というのは、イエスが女に、「あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではない」と言ったことですね。女はこのことを、町の人々に言いました。30節、

4:30 そこで、彼らは町を出て、イエスのほうへやって来た。

 こうして町の人々は、井戸のかたわらにいたイエスのほうへやって来ました。町の人々は、女が少し説明しただけで、女の言うことに関心を持ち、イエスのいる所にやって来ました。実際には、女は29節で言ったこと以外にも、もう少し説明をしたかもしれません。それでも、そんなに、くどくどと長い時間を掛けて説明したわけではないでしょう。町の人々は女の短いことばを信じて、イエスの所にやって来ました。そして、41節にあるように、多くの人々が、イエスのことばによって信じました。
 とても不思議なことですが、イエス・キリストを信じる時というのは、このように、割とあっさりと信じるものなのですね。私もそうですが、その時が来るまでは、いくら信仰のことを言われても、全く耳に入らなかったのが、その時が来ると、不思議とイエス・キリストを宣べ伝える人の話がすんなりと耳に入ります。そこには聖霊の働きがあるのだろうと思いますが、本当に不思議な気がします。しかし、不思議ではありますが、このように、あっさりと信じる時が来るまでには、それ以前に、畑を耕して種まきをするという、地道な準備作業が必要なわけですから、私たちはその準備作業を怠りなく地道に続けて行かなければならないのだと思います。そうすれば、いつかは豊かな収穫の時を迎えることができる、と信じて進んで行くことができれば幸いだと思います。きょう、交読した詩篇126篇にも、「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(5節)とありましたから、刈り入れの時を信じて進んで行けるお互いでありたいと思います。

2.刈り入れるばかりになっているサマリヤ人たち
 さて、そこには弟子たちも戻って来ていました。弟子たちは食べ物を買いに町へ行っていて、ちょうど戻ってきたところでした。31節、

4:31 そのころ、弟子たちはイエスに、「先生。召し上がってください」とお願いした。

 ここから、イエスの弟子たちに対する不思議な、やや謎めいた話が始まります。32節から34節、

4:32 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」
4:33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

 この32節から34節の部分の説明は、きょうのメッセージの最後の部分で行うことにします。この32節から34節までの部分の解説では、私はかなり重要なことを語るつもりでいますので、期待を持って聞いていただけたら感謝に思います。
 35節以降に進みましょう。この35節から38節までの部分は、交代で読みましょう。

4:35 あなたがたは、『刈り入れ時が来るまでに、まだ四か月ある』と言ってはいませんか。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています。
4:36 すでに、刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる実を集めています。それは蒔く者と刈る者がともに喜ぶためです。
4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。」

 35節でイエスは弟子たちに、「目を上げて畑を見なさい。色づいて、刈り入れるばかりになっています」と言いました。色づいて刈り入れるばかりになっている麦の穂とは、弟子たちの目の前にいるサマリヤ人たちのことでした。彼らは、サマリヤの女が言った、短いことばを信じて、イエスのいる所に集まって来ている人々でした。もう、そうやってイエスに関心を持って来たということで、彼らの心はイエスを受け入れる準備が十分に整っていたのですね。ですから、イエスの目から見れば、もう色づいて、刈り入れるばかりになっていたということです。
 さてしかし、36節以降は何のことを言っているのでしょうか。36節でイエスは、「すでに刈る者は報酬を受け、永遠のいのちに入れられる身を集めています」と言っています。「刈る者」というのは、弟子たちのことですね。しかし、「イエスの地上生涯の時代」には、まだ聖霊が注がれていませんでしたから、弟子たちはまだ、「永遠のいのちに入れられる実を集めて」いたわけではありません。
 ですから、ここでイエスが言っているのは、「イエスの地上生涯の時代」のことではなく、「使徒の時代」のことである、ということになります。そしてヨハネの福音書の背後にある「使徒の時代」のことは、使徒の働き(使徒行伝)の中に書いてあるということを、私たちはこれまでに学んでいますから、使徒の働きのどこに書いてあるのかを、これから見て行くことにしましょう。この使徒の働きの場面とヨハネの福音書との密接な関係がわかるなら、皆さんも、「いやぁ~、ヨハネの福音書って、本当に面白いですね」と思っていただけることだろうと思います。

3.サマリヤでのピリポの種まき
 使徒の働きの8章を開いてください(新約聖書p.242)。
 使徒の働きの7章にはステパノが迫害された場面が描かれていて、8章には、その後の様子が描かれています。1節のサウロというのは、後のパウロのことです。1節から4節までを読みます。

8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
8:4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。

 4節の「散らされた人たち」というのは、ギリシャ語では「ディアスポラ」と呼ばれる人たちです。これもまた、何とも不思議な神さまの働きと言えるでしょう。ステパノが宣教活動をしたのは、わずかな期間に過ぎませんでした。しかし、ステパノが迫害を受けて命を落とした後にイエスを信じる人々がエルサレム以外の地方に散らされたことで、キリスト教が広い地域に広まって行く、きっかけになったのですね。ステパノという「一粒の麦」が豊かな実を結んだのでした。
 さて、その散らされた人たちの中の一人にピリポがいました。このピリポは、12弟子のピリポではなくて、使徒たちが祈りとみことばに専念することができるように、食事のことや、その他のことなどを行うために選ばれた教会の奉仕者の一人でした。このピリポも散らされて、ピリポはサマリヤの町に下って行きました。5節から8節をお読みします。

8:5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
8:6 群衆はピリポの話を聞き、その行っていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。
8:7 汚れた霊につかれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、多くの中風の者や足のなえた者は直ったからである。
8:8 それでその町に大きな喜びが起こった。

 このピリポに与えられていた力は、イエスが地上生涯で宣教をしていた時に、ペテロやヨハネたちの弟子たちに与えていた力と同じのようですね。マタイ・マルコ・ルカの福音書には、イエスが12弟子を呼び集めて、彼らに、すべての悪霊を追い出し、病気を直すための、力と権威をお授けになったとあります(マタイ10:1、マルコ6:7、ルカ9:1)。それと同等の力が教会の奉仕者のピリポには与えられていたようです。
 9 節から11節には魔術を使うシモンのことが書かれていますが、きょうはシモンについては、触れません。
 そして12節に、「ピリポが神の国とイエス・キリストの御名について宣べるのを信じた彼らは、男も女もバプテスマを受けた。」とあります。

4.ペテロとヨハネによる刈り入れ
 そして、14節、

8:14 さて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。

 さきほど読んだ1節に、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、散らされたことが書かれていました。使徒たちも当然、危険な状況にあったことと思いますが、使徒たちまでもがエルサレムを離れたら、教会が崩壊してしまいますから、何とか踏ん張っていたのでしょうね。ペテロとヨハネもエルサレムに残っていました。そのエルサレムに、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたという知らせが入って、ペテロとヨハネがサマリヤに行くことになりました。15節から17節、

8:15 ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
8:16 彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
8:17 ふたりが彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。

 こうして、ペテロとヨハネがサマリヤに遣わされたことで、サマリヤの人々は、聖霊を受けることができました。つまり、ペテロとヨハネによって、豊かに実った麦を無事に刈り入れることができました。ピリポが種をまいたことにより、サマリヤの人々は色づいて刈り入れるばかりになっていました。
 これが、ヨハネの福音書の4章でイエスが言っていたことですね。ヨハネ4章に戻りましょう。37節と38節、

4:37 こういうわけで、『ひとりが種を蒔き、ほかの者が刈り取る』ということわざは、ほんとうなのです。
4:38 わたしは、あなたがたに自分で労苦しなかったものを刈り取らせるために、あなたがたを遣わしました。ほかの人々が労苦して、あなたがたはその労苦の実を得ているのです。

 使徒の働きによれば、まず労苦したのは散らされてサマリヤまで行ったピリポでした。ピリポはそこで種をまきました。そうして、そこにペテロとヨハネが遣わされて、豊かに実った麦を刈り取ることができたのですね。
 つまり、このヨハネ4章のこの箇所は使徒の働き8章のことが書いてあります。そのことを頭に入れておいていただいて、39節以降を見て行きましょう。

5.イエス自身による内からの語り掛け
 39節から41節を読みましょう。

4:39 さて、その町のサマリヤ人のうち多くの者が、「あの方は、私がしたこと全部を私に言った」と証言したその女のことばによってイエスを信じた。
4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。

 この箇所の記述を使徒の働き8章と照らし合わせるなら、サマリヤの女の証言は、ピリポの種まきに相当することになりますね。サマリヤの人々はピリポのことばを信じました。しかし、まだ聖霊が注がれるところまでは行きませんでした。ヨハネ4章のサマリヤの人々も同様です。彼らは女の言うことを信じましたが、その段階では、まだ色づいていただけで、刈り取られるところまでは行っていませんでした。しかし、イエスが来て、人々は、イエスのことばを直接聞きましたから、刈り取られることができました。42節でサマリヤの人々は女に言いました。

4:42 …「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 「自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っている」とは、彼らに聖霊が注がれて彼らの内に聖霊が入り、彼らの魂に聖霊が直接語り掛け、彼らはイエスが本当に世の救い主であることを、霊的に知ることができるようになりました。
 このようにして、サマリヤの人々は霊的に目が開かれました。
 この42節でサマリヤの人々が言っていることは、極めて重要です。

「もう私たちは、あなたが話したことによって信じているのではありません。自分で聞いて、この方がほんとうに世の救い主だと知っているのです。」

 聖霊が注がれて内に入ると、私たちはイエスの声を直接聞くことができるようになります。教会に来て、牧師の話を聞く時、イエスを信じる前は、まだ牧師の話すことを聞いているに過ぎない、ということになります。そこには聖霊の働きがあることと思いますが、外側からの働きが主体であり、聖霊の内側からの働きは大きくはありません。しかし、牧師の話を通してイエスを信じるなら、聖霊が内に住むようになり、今度はイエスご自身の声を内側から直接に聞くことが出来るようになるのですね。ですから、まず信じることが必要です。「信じる者は救われる」ということばがありますが、本当にその通りなのですね。イエスを信じれば、聖霊が内に入り、イエスの声を内側から直接聞くことができるようになります。

6.霊的な存在のイエスと出会っている私たち
 こうして私たちは、今日の聖書箇所は、実は使徒の働き8章のことが書いてあるのだということを学ぶことができました。そこで、先ほどは説明することを飛ばした、32節から34節までを、もう一度見てみることにします。32節から34節までを、もう一度お読みします。

4:32 しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしには、あなたがたの知らない食物があります。」
4:33 そこで、弟子たちは互いに言った。「だれか食べる物を持って来たのだろうか。」
4:34 イエスは彼らに言われた。「わたしを遣わした方のみこころを行い、そのみわざを成し遂げることが、わたしの食物です。

 ここでイエスが言っていることは、神の霊としてのイエスの働きのことを言っています。神の霊としてのイエスの働きとは、聖霊の働きのことです。つまり、この時点でもう、イエスは「イエスの地上生涯の時代」の話ではなくて、「使徒の時代」の話をしているのですね。ということは、ここにいるのは、地上生涯のイエスではなくて、「使徒の時代」の人々や現代の私たちが出会っている、霊的な存在としてのイエスである、ということになります。
 私たちは福音書でイエスの言動を読む時、だいたい共通のイエスのイメージを持っていると思います。30歳ぐらいの男性で、長髪で、髭を生やして、すその長い着物を着ている、だいたいそういうイメージを持って福音書を読んでいると思います。福音書にはイエスが長髪だったとか髭を生やしていたとか、容貌に関しては一切書いてないのですが、私たちのまわりにはイエスの聖画があふれていますから、そのようなイメージを持っていると思います。そして、ヨハネの福音書のイエスに対しても、そのような容貌のイエスのイメージを持って読んでいると思います。
 しかし、きょう読んだヨハネの福音書の箇所の主役であるイエスは、地上生涯の人の姿をしたイエスではなくて、使徒の時代の霊的な存在のイエスなのですね。ですから、実は、私たちはヨハネの福音書を読む時、霊的な存在であるイエス・キリストにちゃんと出会っているということになります。私たちは、ここにいるイエスは、地上生涯の人の姿をしたイエスだと思い込んでヨハネの福音書を読んでいますが、実はここにいるイエスは霊的な存在のイエスです。ヨハネの福音書を読む時、すごく霊的な気分になるのは、実際に霊的なイエスに出会っているからです。それは、無意識の中で行われていることですが、私たちはちゃんと霊的なイエスに出会っています。表側の意識では地上生涯のイエスのことを読んでいるつもりでいますが、実は霊的な存在のイエスに出会っているのですね。
 「いやぁ~、ヨハネの福音書って、本当に面白いですね」と思いませんか。

おわりに
 私たちはヨハネの福音書を通して、実際に霊的なイエス・キリストに出会っており、そうしてイエス・キリストから霊的な励ましと力をいただくことができているのですから、伝道がなかなか進まない中にあっても、めげることなく、堂々と自信を持って進んで行けば良いのですね。イエスさまは、そんな私たちを、必ず祝福して下さることと思います。
 お祈りいたしましょう。
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聖書とは(2013.10.13 ツイート)

2013-10-13 05:25:35 | 折々のつぶやき
 聖書とは、神に関する知識を人に与えることによって神の霊と交わる機会を人に与えている書であろう。
 これが正しく理解できていないと知識偏重になって神の霊との交わりが経験できなかったり、神の霊と交わっているつもりで実は得体の知れない霊と交わってしまったりすることになるのではないか。
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天よ、聞け(2013.10.9 祈り会)

2013-10-10 02:53:22 | 祈り会メッセージ
2013年10月9日祈り会メッセージ
『天よ、聞け』
【イザヤ1:1~9】

はじめに
 祈祷会ではモーセ、エリヤ、エレミヤ、エゼキエルの各預言者を見て来ています。イザヤを飛ばしていましたので、きょうはイザヤ書を開くことにしました。
 イザヤ1章の冒頭の部分について思いを巡らしたことを、きょうは語りたいと思います。
 まず1章1節で、イザヤがどの王の時代の預言者であったかを確認しておきましょう。

1:1 アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。

 ここに4名のユダの王の名前が記されていますが、ウジヤ、ヨタム、アハズの頃はまだ、北王国が存在していた頃で、北王国はヒゼキヤの第6年にアッシリヤによって攻め取られたことが列王記に記されています(Ⅱ列王18:10)。北王国は終始一貫して不信仰でした。列王記を読むと、南王国のほうは、北王国よりは若干はマシだったかなと思うのですが、イザヤ書を読むと、主はそうは思っておられなかったようです。イザヤ書では早くも1章2節から、不信仰なユダの民への主の怒りが伝わって来ます。

1:2 天よ、聞け。地も耳を傾けよ。【主】が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
1:3 牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」

 今回、まず私の目にとまったのは、2節の「天よ、聞け。地も耳を傾けよ」でした。きょうは、ここから語ることにします。

1.旧約の預言者たちの壮大な呼び掛け
 「天よ、聞け。地も耳を傾けよ」とは、何と壮大な呼び掛けでしょうか。イザヤ書は、このような壮大な呼び掛けから預言を始めています。
 旧約聖書では、人に呼び掛ける場合でも、まず天地に呼び掛ける場合が、いろいろとあるのですね。モーセは、「天よ。耳を傾けよ。私は語ろう。地よ。聞け。私の口のことばを。」(申命記32:1)と言っています。詩篇にも、天地を含めて呼び掛けているものが、いくつもあります。詩篇96篇は「新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。」(詩篇96:1)と呼び掛け、「天は喜び、地はこおどりし、海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。野とその中にあるものはみな、喜び勇め。そのとき、森の木々もみな、主の御前で、喜び歌おう。」(詩篇96:11,12)と詩っています。
 今回、私はこれら旧約の預言者や詩人たちが天地に呼び掛けていることが、とても心に響いて来ました。
 少し前の礼拝で私は、満月の時は夕陽が西に沈むのとほぼ同時に東から満月が昇るのだという話をしましたね。これまで私は月の動きと太陽の動きの関係、そしてそれに伴う月の満ち欠けのことを、あまり意識したことはありませんでした。しかし、沼津に来てから海岸の堤防の上を夕方にジョギングするようになって、建物にさえぎられることなく広い空を見ることができるようになりましたから、太陽と月の関係が段々わかるようになって来ました。おとといは月齢が2ぐらいの月(これを三日月というのだそうですね)が良く見えていたので、昨日は月齢が3ぐらいの月を見ながら走るのを楽しみにしていましたが、あいにく雲があって見えませんでした。それで残念な思いをしましたが、太陽と月の位置関係がだいぶわかって来ましたから、日没の頃には月齢がいくつの月がどの辺りに見えるはずなのか、雲で見えなくても、およその位置がわかるようになりました。そんな風に、天体の動きが少し分かって来たところでしたので、イザヤ書1章で「天よ。聞け。地も耳を傾けよ。」(イザヤ1:2)を見た時に、ビビビと来たんですね。

2.ちりに息が吹き込まれて生まれた人間
 そうして思ったことは、天も地も、私たちも、所詮は被造物に過ぎないのだなということです。創世記2章によれば、「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた」(創世記2:7)とあります。ですから、私たち人間は命の息を吹き込まれた存在ではありますが、このことを除けば、他の物質とあまり変わらないことになります。息を吹き込まれていることは特別なことなのかもしれませんが、このことを除けば、他とあまり変わらないという観点から観るなら、そんなに特別ではないとも言えるかもしれません。
 私たちは天や地や他の動植物と同じで、神の被造物に過ぎません。神の御前では、何の誇れる物も持ち合わせていません。しかし、私たちには命の息が吹き込まれています。旧約の預言者たちや詩人たちは、このことの意味がよくわかっているから、「天よ。聞け。地も耳も傾けよ。」(1:2)と言ったのだろうか。それに比べて私たちは命の息が吹き込まれていることの意味をあまりに知らな過ぎるのではないだろうか。そんな思い巡らしを私は昨晩していました。
 そして、昨日はちょうどノーベル物理学賞の受賞者の発表がありましたね。ヒッグス粒子の存在を理論的に予想した二人の研究者に与えられるということでした。私はヒッグス粒子がどのようなものなのか、もちろん素人レベルの知識しか持っていません。なんでも、ビッグバンの直後に、この火の玉が冷却して行く過程でヒッグスの海が生成して、これによって物質に質量が生じたとかいうことですね。
 ビッグバンというと、クリスチャンは創世記1章3節で神が「光があれ」と仰せられたことと重ねる人が多いと思います。私もそうです。創世記の記述を、どこまで忠実に信じるべきかということに関しては、人それぞれだと思いますが、私は神が創造主として万物を創造し、創造の過程に神の意志が働いていたということさえしっかりと信じていれば、現代の科学で定説になっていることは、そのまま受け入れるべきだろうと考えています。物質が生成して、そして生命が誕生する過程において、神を信じない人はそれらの過程は偶然に進行したと考えるでしょうし、神を信じる私は、それらの一つ一つの過程に神の意志が介在していると考えます。
 昨年、加速器の実験でヒッグス粒子が存在することは間違いないとの結論に達して、今年、ヒッグス博士らにノーベル賞が授与されることになるという、現代物理学の世界で着々と新しい発見が為されて行くことは素晴らしいことだと思います。

3.霊の解明への期待
 こうして、天と地、そして私たちの体を構成している物質のことがどんどんわかって来るなら、やがて霊についても、かなりわかってくるかもしれません。私は、理性では解明しきれない部分が霊の世界であろうと思うからです。先ほども言ったように、創世記2章に、神はちりで人を形造り、息を吹き込んだとあります(創世記2:7)。昔は、このちりの正体もわかっていませんでしたから、いろいろなことがゴチャゴチャになってしまっていました。しかし、今はかなりの部分がわかって来ました。私たちは、このチリは原子から成り、原子は原子核と電子から成り、原子核は陽子と中性子から成り、これらの素粒子はクオークから成り、そしてヒッグス粒子により質量が与えられているということまでわかるようになりました。そうして、霊でしか説明できないであろう部分は、どんどん狭められて来ています。ただ、物質で解明されているのはまだ5%だけで、あとの95%は暗黒物質と暗黒エネルギーだなどと言われると、霊のことがはっきりするのは、まだまだ先かなという気はします。それでも、科学の進歩は霊の解明にも寄与するだろうと私は考えます。科学が進歩すればするほど神は信じるべき存在ではなくなると考える人も多くいるようですが、ぜんぜん、そんなことはないんですね。そういうことを考える人は霊的な経験が無い人で、霊的な経験がある人なら、科学がどんなに進歩しても神が信じるべき存在であることに揺るぎはないと考えるでしょう。

4.三枚におろした魚のたとえ
 いま私はヨハネの福音書についての本を書いています。そして、このことが、私たちが霊についてもっと良く知るためのきっかけ作りとならなければならないと強く感じています。霊を解明する上で私が進めて行かなければならないと考えていることは、クリスチャンが地上生涯のイエスにこだわり過ぎる傾向を改めて、もっと地上生涯以外のイエスに目を向けるように訴えることだろうと思っています。
 このことを進めるに当たって、私は一つの例えを思い付きました。ヨハネの福音書を、そして引いてはキリスト教の信仰を魚に例えることです。もともと魚はキリスト教のシンボルのようなものになっていますね。それは、魚のイクスス(ΙΧΘΥΣ)というギリシャ語の5文字が、イエス・キリスト・神・息子・救い主のギリシャ語の頭文字になっていることから、魚がキリスト教のシンボルになっているのですね。
 私はこの魚をヨハネの福音書に当てはめてみたら、どうだろうかと今考え始めています。魚を三枚におろすと身の部分が2枚と骨の部分になりますね。この三枚におろした魚の骨の部分が「イエスの地上生涯の時代」で、2枚の身の部分が「旧約の時代」と「使徒の時代」です。骨は大事ですが、私たちが味わうべきは身の部分です。私たちは御父と聖霊の働きにも、もっと目を向けるために「旧約の時代」と「使徒の時代」に、もっと、しっかりと目を向けなければならないと思います。そうすることで、今も生きておられる三位一体の神の働きをしっかりと理解できるようになるのだと思います。それなのに、大部分のクリスチャンは骨の部分ばかり、ありがたがっているのではないでしょうか。

おわりに
 どんな事でも骨格がしっかりしていなければ全体が成り立ちません。キリスト教もイエスの地上生涯あってのことですから、この骨格の部分が最も大切であることは言うまでもありません。しかし、そうであっても骨だけでなく、身の部分も含めてトータルに大事にすることで、神の霊のことがもっと良くわかるようになるのだと思います。多くのクリスチャンが、もっともっと地上生涯以外のイエスに目を向けるなら、私たちは、きっと、神さまのことをもっと良く理解できるようになるだろうと私は期待しています。
 お祈りいたしましょう。
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わたしは世の光です(2013.10.6 礼拝)

2013-10-06 07:01:53 | 礼拝メッセージ
2013年10月6日礼拝メッセージ
『わたしは世の光です』
【ヨハネ8:12~21】

はじめに
 礼拝ではこのところ、ずっとヨハネの福音書を開いていますが、きょうもヨハネの福音書です。私は、このヨハネの福音書の学びを通じて、皆さんに聖書を「広く深く」学ぶことの楽しさを共に味わっていただきたいと願っています。「狭く深く」ではなく、或いはまた「広く浅く」でもなく、「広く深く」、です。ヨハネの福音書の理解が深まるなら、聖書を「広く深く」読むことができるようになります。そして聖書を学ぶことが一層楽しくなるでしょう。きょうのヨハネ8章12節以降の箇所は、そんな楽しさを味わっていただけるのではないかと思います。

1.2つの「わたしは世の光です」
 では聖書を見て行きましょう。まず12節です。

8:12 イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

 ここに「わたしは、世の光です」とありますね。そしてヨハネの福音書にはもう1カ所、イエスが「わたしは世の光です」と言っている箇所があります。9章5節です。9章の5節から7節までをお読みします。

9:5 「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 イエスは盲人の目に泥を塗りました。そして盲人が池の水で泥を洗ったら目が見えるようになったとあります。この盲人は、「生まれつきの盲人」でした。1節に、「イエスは道の途中で生まれつきの盲人を見られた」とありますから、イエスは生まれつきの盲人の目が見えるようにしました。
 きょうは、ヨハネの福音書を読み解く面白さを是非、皆さんとご一緒に味わいたいと願っていると先ほど言いましたが、この8章の「わたしは世の光です」と9章の「わたしは世の光です」はサンドイッチ構造になっています。そして、このサンドイッチの両側のパンが意味することと、中身の具の意味することがわかった時、私は「いやぁ~、ヨハネの福音書って、本当に面白いですね」と心の底から思いました。この面白さを皆さんにも是非とも感じていただけるとうれしいなと思っています。

2.ヒゼキヤ王の時代の「世の光」
 では、まず「旧約の時代」における「わたしは世の光です」が何を意味するかを見て行きたいと思います。何度も話していますように、ヨハネの福音書の1章から11章では「イエスの時代」に「旧約の時代」と「使徒の時代」とが重ねられています。そのうちの「旧約の時代」について、まず見てみます。
 はじめにヨハネの福音書の「旧約の時代」の全体の流れを簡単に説明しておきます。この全体のことについては、もしまだ理解できないのであれば、それでも構いません。あとの「わたしは世の光です」の部分だけ理解できれば十分です。でも、全体の流れがわかると、聖書のことを一層面白く感じていただけると思いますので、簡単に説明しておきたく思います。
 まずヨハネ1章の背後には、創世記の時代があります。そして、ヨハネ2章の背後には出エジプト記の時代があります。続いてヨハネ3章では一気に時代が進んで、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記、ヨシュア記、そしてサムエル記の時代が3章の背後にあります。そして、4章から11章までは列王記の時代です。列王記の時代は王様の時代であり、また預言者たちが盛んに活動していた時代ですから、ヨハネの福音書の4章から11章の背後の「旧約の時代」には、この王様たちと預言者たちがいます。
 さてイスラエルはソロモン王の時代の後に、北王国と南王国に分裂してしまいました。そして、まず北王国が滅亡してしまいました。そこから見て行きましょう。ヨハネの福音書の6章66節を見てください。

6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

 この時、イエスは北のガリラヤ地方にいました。イエスが北にいる時、背後の列王記の時代では、北王国のことが描かれています。ですから、このヨハネ6章66節で北にいたイエスの弟子たちの多くの者が離れ去って行ったということは、北王国が滅亡して、北のイスラエルの民の多くの者が捕囚としてアッシリヤに引かれて行ってしまったことを表しています。
 そして、イエスはヨハネ7章で南に移動しました。6章で北王国は滅亡してしまいましたから、これ以降の7章から11章の「旧約の時代」は、すべて南王国のことです。この北王国が滅亡した時、もう一つの南王国ではヒゼキヤが王様になったばかりの頃でした。ですから、ヨハネ7章の背後の「旧約の時代」はヒゼキヤ王の時代です。
 ヒゼキヤは律法を重んじて宗教改革を行った王様です。ヒゼキヤ王について列王記は次のように記しています。

「彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった。彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守った。」(Ⅱ列王18:5,6)

 列王記はヒゼキヤを絶賛していますね。ヒゼキヤは「主がモーセに命じられた命令を守った」と列王記は記していますから、ヒゼキヤは主の律法を守った王様でした。
 私たちは少し前まで礼拝での聖書交読で詩篇119篇をご一緒に読んでいました。この詩篇119篇は主の律法をほめ讃える詩篇であり、この中では「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(103節)と詩っています。この時代のみことばとは(主に)律法のことであり、律法は「足のともしび」であり、「道の光」でした。そしてヨハネの福音書は1章のプロローグで、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)と記し、また「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた」(ヨハネ1:14)と記しています。そうしてイエスは8章12節で、「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです」と言いました。つまり、ことばであるイエスは、ここではヒゼキヤが重んじていた律法のことばでした。

3.ヨシヤ王の時代の「世の光」
 さて、この「わたしは世の光です」はサンドイッチ構造になっていると、先ほど話しました。この「わたしは世の光です」がサンドイッチのパンの部分に当たります。そして、もう一つの側のパンの「わたしは世の光です」はヨハネ9章の5節にあります。こちらの「わたしは世の光です」は何を表すでしょうか。聖書に詳しい方なら、ピンと来るかもしれませんね。ヒントはヨシヤ王の時代にあります。少し前の礼拝で私たちはヨハネ10章を見ました。ヨハネ10章の背後にはヨシヤの子のエホヤキム王の時代がありました。10章がエホヤキム王で、その前の9章はエホヤキム王の父親のヨシヤ王の時代です。ここまで種明かしをすれば、もうおわかりでしょうか。
 (そうですね。)ヨハネ9章5節の「わたしは世の光です」は、ヨシヤ王の時代に律法の書が発見されたことに対応します。このことを記した旧約聖書の箇所は、ご一緒に見ることにしましょう。列王記第二(22章)にも書いてあるのですが、歴代誌第二のほうが状況がわかりやすいので、歴代誌第二の34章をご一緒に見ましょう(旧約聖書p.787)。まず34章1節と2節、

34:1 ヨシヤは八歳で王となり、エルサレムで三十一年間、王であった。
34:2 彼は【主】の目にかなうことを行って、先祖ダビデの道に歩み、右にも左にもそれなかった。

 次いで3節から7節までには、ヨシヤ王がユダとエルサレムをきよめ始めて、バアルの祭壇を取り壊し、アシェラ像などの偶像を取り除いたことが記されています。次いでヨシヤ王は宮の修理を始めました。8節から9節までをお読みします。

34:8 この地とこの宮とをきよめたのは、彼の治世の第十八年で、彼は、その神、【主】の宮を修理するため、アツァルヤの子シャファン、この町のつかさマアセヤ、エホアハズの子参議ヨアフを遣わした。
34:9 彼らは、大祭司ヒルキヤのもとに来て、神の宮に納められた金を渡した。これは入口を守るレビ人が、マナセとエフライム、すべてのイスラエルの残りの者、全ユダとベニヤミンから集めたものである。それから、彼らはエルサレムに帰って、
34:10 【主】の宮で工事している監督者たちの手に渡し、さらにそれを【主】の宮で行われる工事をしている者たちに渡して、宮を繕い、修理させた。

 ここに記されているのは、宮の修理は宮に納められた献金を使って行われた、ということです。そして、彼らがそのためのお金を献金箱から取り出していた時のことです。14節から19節まで読みます。

34:14 彼らが、【主】の宮に携え入れられた金を取り出していたとき、祭司ヒルキヤは、モーセを通して示された【主】の律法の書を発見した。
34:15 そのときすぐ、ヒルキヤは書記シャファンに対してこう言った。「私は【主】の宮で律法の書を見つけました。」ヒルキヤがその書物をシャファンに渡すと、
34:16 シャファンは、その書物を王のもとに携えて行き、さらに王に報告して言った。「しもべにゆだねられたことは、すべてやらせております。
34:17 彼らは【主】の宮にあった金を箱からあけて、これを監督者たちの手に、工事をしている者たちの手に渡しました。」
34:18 ついで、書記シャファンは王に告げて、言った。「祭司ヒルキヤが私に一つの書物を渡してくれました。」そして、シャファンは王の前でそれを朗読した。
34:19 王は律法のことばを聞いたとき、自分の衣を裂いた。

 こうして律法の書が献金箱の中から見つかりました。この律法の書が【献金箱】の中から見つかったことは重要ですので、覚えておいて下さい。
 律法の書が見つかったことでヨシヤ王は、その律法の書に書かれている内容に沿って、一層の宗教改革を推し進めました。これがヨハネ9章5節の「わたしは世の光です」です。ヨシヤ王が生まれた頃、律法の書がどこにあるのかわからなくなっていたほど、ユダの国の不信仰は甚だしくなっていました。恐らく、律法の書があるということは、わかっていたのだと思いますが、それがどこにあるのかわからなくなってしまっていて、律法の書を見たことがある者が誰もいない状態になってしまっていたのでしょう。ですから、律法を知らないヨシヤ王の時代の人々は、「生まれつきの盲人」でした。ヨハネ9章で、イエスはこの生まれつきの盲人の目を見えるようにしました。ですから、世の光である律法を失っていたヨシヤ王の時代の人々は暗闇の中にいました。そんなヨシヤ王の時代の人々にイエス・キリストは「我が足のともしび」、「道の光」を与えたのでした。

4.「世の光」にサンドイッチされた暗闇の時代
 これが2つの「世の光」によるサンドイッチ構造です。2つの光にサンドイッチされているのは、暗闇の時代です。宗教改革が行われたヒゼキヤ王とヨシヤ王の時代に挟まれたマナセ王とアモン王の時代は暗闇の時代でした。特に、マナセ王の時代は最悪でした。このマナセの罪のゆえに、主はユダの王国を滅ぼすことにしたのでした。列王記は次のように記しています。

「ユダを主の前から除くということは、実に主の命令によることであって、それはマナセが犯した罪のためであった。また、マナセが流した罪のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを罪のない者の血で満たした。そのため主はその罪を赦そうとはされなかった。」(Ⅱ列王24:3,4)

 この極悪の王のマナセ、そしてマナセの時代の人々のことをヨハネ8章のイエスは、「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者」と言っています。ヨハネ8章44節です。42節から44節までをお読みします。

8:42 イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。
8:43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。
8:44 あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

 これはイエスのことばとしては、相当に厳しいことばです。特に「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者」などと、人を悪魔呼ばわりするのは、相当に厳しいですね。マナセの時代というのは、それほどに悪い時代であったのだと言うことができるでしょう。そして、そのような時代であったために、律法の書も無視され、マナセの孫のヨシヤの時代には、律法の書がどこにあるのかわからなくなってしまっていたのでした。

5.献金箱の秘密
 この律法の書が紛失してしまう直前の状況を、ヨハネの福音書の中でも見ることができます。20節を見て下さい。「イエスは宮で教えられたとき、【献金箱】のある所でこのことを話された」とあります。「このことを話された」とは、12節の「わたしは、世の光です」以下のことです。そして21節でイエスはユダヤ人たちに言いました。

「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」(ヨハネ8:12)

 イエスは【献金箱】のある所で「わたしは世の光です」と言い、そして「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます」と言いました。つまりここに、世の光である律法の書が【献金箱】の中に入れられ、その後、人々が捜しても見つからなくなり、どこにあるのかわからなくなってしまったことが、ちゃんと書いてあるのですね。この8章20節の【献金箱】という何気ない一言には、今話してきた律法の書を巡る事情がぎっしりと詰め込まれていたのですね。「いやぁ~、ヨハネの福音書って、本当に面白いですね」と思いませんか。私は、このことがわかった時、ヨハネの福音書の驚異的な面白さに本当に感動しました。

6.目からウロコが落ちたパウロ
 ここまでが「旧約の時代」のことです。残りの時間で「使徒の時代」のことも、お話ししたいと思います。ヨハネの福音書の面白さを、お腹いっぱい味わっていただきたいと思います。
 ヨハネ8章の悪魔の時代は、「使徒の時代」においては、パウロがユダヤ人たちと一緒に、キリスト者を迫害していた時代です。このとき、多くの血が流されました。その代表がステパノに対する迫害です。このステパノへの迫害は、ペンテコステの日の少し後のことです。このペンテコステの日の聖霊の注ぎのことは、ヨハネ7章に記されています。ヨハネの2章でも「最初のしるし」として、聖霊の注ぎのことが記されていましたが、ヨハネの福音書には、7章にもペンテコステの日のことが書かれています。細かい話になりますが、ヨハネ2章のペンテコステの日は「使徒の時代」の「ペテロ編」で、7章のペンテコステの日は「パウロ編」です。ヨハネの福音書の「使徒の時代」は、ペテロ編とパウロ編の二部構成になっています。使徒の働き(使徒行伝)も、ペテロ編とパウロ編の二部構成のようになっていますね。それと同じです。
 では、パウロ編のペンテコステの日であるヨハネ7章の37節から39節までをお読みします。

7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。

 39節に書いてあることを読めば、ここがペンテコステの日のことであると分かりますね。こうして、7章にペンテコステの日のことが書かれ、8章には、ステパノの迫害があった悪魔の時代のことが書いてあり、9章でイエスが盲人の目を開いたことが書いてありますから、9章の盲人は、実はパウロのことだということがわかりますね。9章の5節から7節までをお読みします。

9:5 「わたしが世にいる間、わたしは世の光です。」
9:6 イエスは、こう言ってから、地面につばきをして、そのつばきで泥を作られた。そしてその泥を盲人の目に塗って言われた。
9:7 「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。

 イエスは、泥を盲人の目に塗りました。この泥が乾くとどうなりますか。パサパサになりますね。そして、ひびが入ります。泥が乾いてパサパサになってひび割れがすると、それは魚のウロコのようになります。盲人はシロアムの池で、目からウロコを落としたのですね。
 使徒の働きの、このパウロの箇所を見ましょう。使徒の働きの9章です。皆さんのほとんどの方々は、この使徒9章でパウロがどのような経験をしたかを、ご存知でしょう。パウロ、この時はまだサウロでしたが、サウロはキリスト者を縛り上げてエルサレムに引いて来るためにダマスコに行く途中で復活したイエス・キリストに出会い、目が見えなくなってしまいました。9章の8節と9節、

9:8 サウロは地面から立ち上がったが、目は開いていても何も見えなかった。そこで人々は彼の手を引いて、ダマスコへ連れて行った。
9:9 彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。

 この目が見えなくなったサウロのもとにアナニヤが遣わされました。17節から19節までをお読みします。

9:17 そこでアナニヤは出かけて行って、その家に入り、サウロの上に手を置いてこう言った。「兄弟サウロ。あなたの来る途中、あなたに現れた主イエスが、私を遣わされました。あなたが再び見えるようになり、聖霊に満たされるためです。」
9:18 するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、
9:19 食事をして元気づいた。

 こうして、サウロの目からウロコが落ちて、サウロの目は見えるようになりました。ヨハネ9章の盲人の目が見えるようになった箇所には、使徒の働きの9章のことが書いてあったのですね。「いやぁ~、ヨハネの福音書って、本当に面白いですね」。 

おわりに
 使徒の働き9章で目が見えるようになったパウロはバプテスマを受けて、聖霊に満たされましたから、「旧約の時代」の律法の恵みだけでなく、「新約の時代」の律法の恵み、すなわち聖霊の恵みも、わかるようになりました。
 エレミヤ書の31章を、もう何度も、礼拝の締めくくりにご一緒に読んでいますが、やはり今日も、エレミヤ書31章で締めくくりたいと思います。きょうは「旧約の時代」と「新約の時代」の両方の「世の光」の恵みについて学びましたから、このエレミヤ31章のみことばが、一層心に響くのではないかと思います。エレミヤ書31章の31節から33節までを交代で読みましょう。33節はご一緒に読みましょう。

31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 お祈りいたしましょう。
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風のような神の霊(2013.10.2 祈り会)

2013-10-03 06:44:42 | 祈り会メッセージ
2013年10月2日祈り会メッセージ
『風のような神の霊』
【エゼキエル37:1~14】

はじめに
 先週はエゼキエルの47章を開きました。
 章の順番が前後しますが、きょうは37章です。干からびた骨に肉が生じ、息が吹き込まれて生き返ったという、ここもまた有名な箇所です。これらの骨は、11節にあるようにイスラエルの全家です。イスラエルとユダはアッシリアとバビロニアによって滅ぼされて捕囚として引かれて行き、イスラエルは干からびた骨のようになってしまいました。そのイスラエルを生き返らせると主はエゼキエルに仰せられました。
 きょうのこの場面は、神の霊とはどのようなものか、についてのイメージを思い浮かべるのに、非常に良いように思いますので、きょうは是非、神の霊とはどのようなものか、について分かち合いたいと思います。

1.息と風と霊
 まず、9節と10節を見ましょう。

37:9 そのとき、主は仰せられた。「息に預言せよ。人の子よ。預言してその息に言え。神である主はこう仰せられる。息よ。四方から吹いて来い。この殺された者たちに吹きつけて、彼らを生き返らせよ。」
37:10 私が命じられたとおりに預言すると、息が彼らの中に入った。そして彼らは生き返り、自分の足で立ち上がった。非常に多くの集団であった。

 9節に、「息よ。四方から吹いて来い」とあります。「息」のヘブル語の「ルーアハ」というのは、「風」とも「霊」とも訳すことができることばです。私は、この「息よ。四方から吹いて来い」を読んだ時に、ヨハネの福音書の3章でイエスがニコデモに聖霊について話している箇所を思い出しました。そこも、ご一緒に見てみましょう。ヨハネの福音書3章8節です。ご一緒に読みましょう。

3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。

 この3章8節は、イエスがニコデモに聖霊のことを説明して言ったことばです。ここの「風」に使われているギリシャ語は、「プニューマ」で、これは「霊」とも訳すことができることばです。実際、この節の2番目の文の「御霊によって生まれる者」の「御霊」にも「プニューマ」が使われています。1番目の「プニューマ」を「風」と訳し、2番目の「プニューマ」を「御霊」と訳しているのは、文脈によって、そのように訳したほうが良いと判断されるから、そのように訳しているのですね。
 私は以前から、このヨハネ3章8節を、もっと良く理解したいと願っていましたが、今回、エゼキエル37章の「四方から吹いて来る息」と、それからまた私が理工系で培った知識とを併せることで、以前より神の霊のイメージが鮮明になって来たように感じています。きょうは、是非この私がつかんだ神の霊のイメージをお伝えし、分かち合いたいと思います。

2.波のような神の霊
 まず、風とはどのようなものか、について考えましょう。私の手を見てください。
 このようにして、顔の前で手を団扇のように仰ぐと、風が起こるのが分かります。これが風です。この風は、離れた所から吹いて来るものではなくて、私の手の平で起こるものです。手の平を動かすことで、空気の移動が起こります。空気に部分的に密度の濃い部分が出来て、それが移動して行きます。これは、波のような物であると考えて良いと思います。静かな水面を手の平でバシャッと叩くと波が起こり、波が移動して行きます。この移動して行く波と、空気の中を移動して行く風は、横波と縦波の違いはありますが、同じような物です(横波と縦波の説明)。
 波が伝わって行くには、このように水や空気が必要です。このように水や空気など波を伝える物質を媒質と言います。波が伝わって行くためには、まず水や空気などの媒質が遍く広がっている必要があります。
 神の霊も同じなのですね。神は広く遍く存在しているお方です。神は遍在する、と言いますね。遍く存在する「遍在」と、片寄って存在する「偏在」と、読み方が同じなので、間違えやすいですが、神は遍く存在する「偏在」するお方です。 そして、聖霊が注がれる時というのは、例えるなら、低いレベルで遍在していた水に波が立って、大きな波となって人にザブーンと掛かる、と言うことができるのではないでしょうか。

3.神の声を聞く心の鼓膜
 ヨハネ3章8節に、「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞く」とありますから、ここでは、聖霊を「音の波」に例えて見ることにします。
 音の波というのは、空気を縦波によって振動させて進んで行く粗密波です。そして、私たちは、この音の波の音波を耳の鼓膜によって受信します。鼓膜は音波の振動を拾って脳に伝えます。ですから、鼓膜は振動しやすいように出来ています。もし、この鼓膜が何かでコチコチに固められてしまっていたら、音を拾うことは困難になります。
 このことは、そのまま神の声に置き換えることができるでしょう。たとえ神の声の波が私たちの心の鼓膜に到達しても、私たちの鼓膜がコチコチになっていたら、神の声を受信することはできません。これが、心がかたくなな状態です。
 この、神の声を聞くための鼓膜は、子供の頃は比較的軟らかいのだと思います。ですから、子供の心の鼓膜は神の声が聞きやすい状態にあります。しかし、子供のうちは、神の声を聞いても、それが何を意味するのか、子供はなかなか理解できません。そうこうするうちに、成長するにしたがって、神の声を聞くための鼓膜は、段々硬くなって行き、ついには聞こえなくなってしまいます。大人になり、様々な処世術を身に付けて行くうちに、心がかたくなになり、神の声は聞こえなくなってしまいます。
 しかし、この鼓膜を覆っているコチコチは、例えは悪いかもしれませんが、堤防の決壊のようなもので、壊れることがあります。アリの一穴という言い方がありますが、堤防もアリが開けた穴が原因で決壊することも、あるのだそうですね。私たちの神の声を聞く鼓膜も、例えば愛する人が病気や事故でなくなったり、ショッキングなことがあったりすると、自分を堅く守っていた頑なさに小さなヒビが入ることがあります。そして、その小さなヒビ割れを通して、神の声が微かに聞こえるようになります。この微かな神が聞こえた時に教会に行って賛美歌を聞いたり、牧師のメッセージを聞くと、さらに、その声に注意を向けるようになり、ヒビ割れはさらに広がって行きます。そして、メタノイア、日本語では悔い改めと訳されますが、悔い改めると、神が大きな波を送って下さり、堤防を打ち砕き、鼓膜をコチコチに固めていたものが、取り去られるのですね。そして、神の霊をもっと敏感に感じることができるようになります。こうしてヨハネ3章8節にあるように、御霊によって新しく生まれた者となります。鼓膜を覆っていたコチコチが取り去られることで、神の声を非常に良く聞くことができるようになります。

4.心の鼓膜を硬くしようとする悪魔
 しかし、鼓膜が軟らかくて敏感な状態はそんなに長続きしません。悪魔が放ってはおかないからです。悪魔は、軟らかくなった鼓膜を再び硬くしようとします。何に例えたら良いでしょうか。例えば薄くスライスした食パンに例えてみましょう。切ったばかりの食パンはとても軟らかいですが、放っておくと乾燥してコチコチになってしまいます。それはまるで、干からびた骨のようです。神の声を聞く鼓膜が干からびてしまっては、神の声は聞こえてきません。しかし、礼拝に出席して、いつも神の霊の注ぎを受けていれば、鼓膜がコチコチになることを防ぐことができます。それゆえ悪魔は、あらゆる手を使って、御霊によって新しく生まれた人の霊性を干からびたものにしようと、誘惑して礼拝に出席することを妨げます。また、たとえ誘惑に打ち勝って礼拝に出席したとしても、まだ油断はできません。悪魔は礼拝に出席する者の心をざわつかせ、落ち着いた状態で礼拝の時を持つことができないように仕向けます。私たちが礼拝の前に静まって心を整えるのは、神の声が良く聞こえるようにするためです。心を静めることなく、ざわついた心のままでは、神が何か私たちの耳元でささやいても、神が何を語っているのか、わからなくなってしまいます。これが、悪魔が狙っていることです。
 リバイバルが起きる時というのは、神が大きな風を起こす時です。リバイバルが起きると少々心がざわついていても、神の声が聞こえます。しかし、神はそんなに頻繁にリバイバルの風を起こしては下さいません。神がいつもリバイバルを起こして下さるなら、私たちは心を整える必要がありません。それは良いことではありませんから、神は滅多にリバイバルの風を起こしては下さいません。ですから、私たちは、いつも心を整えて、神の声を敏感に聞くことができる者でありたいと思います。

おわりに
 私たちは新会堂を祈り求めていますが、神さまからのゴーサインは、まだ出ているとは私は感じていません。時が満ちたら神さまはゴーサインを出して下さると思いますが、まだ私は聞いたとは感じていません。皆さんはどうでしょうか。私は、もう少し多くの教会員が神さまのゴーサインが聞くことが出来る状態になるまで、ゴーサインを出すのを待っておられるように思います。まだその状態になっていないので、時が満ちていないのだと思います。
 私たちの教会の多くの方々の心の鼓膜が、干からびたパンのようではなく、神の霊がいつも注がれている瑞々しい状態にあり、神さまのゴーサインをさやかに聞くことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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