インマヌエル沼津キリスト教会

神の「永遠」の発信教会
沼津市今沢34番地

だれを遣わそう(2015.4.29 祈り会)

2015-04-30 09:06:48 | 祈り会メッセージ
2015年4月29日祈り会メッセージ
『だれを遣わそう』
【イザヤ6:1~8】

6:1 ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、
6:2 セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、
6:3 互いに呼びかわして言っていた。「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の【主】。その栄光は全地に満つ。」
6:4 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。
6:5 そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の【主】である王を、この目で見たのだから。」
6:6 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。
6:7 彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた。」
6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

はじめに
 先週の祈り会ではイザヤ2章を開きました。きょうは少し飛ばして6章です。章を飛ばさずに丁寧に見て行くよりも飛ばし飛ばしぐらいのほうが却って長続きするのだろうと思いますから、そのようにしたいと思います。

働き人を必要としている主
 イザヤ6章は、宣教会でよく開かれる箇所ですね。去年の箱根での静岡聖会の2日目の宣教会でも、工藤弘雄先生が「今あなたはイザヤ」と題して、ここから語って下さいました。BTCの私の1年先輩で、このイザヤ6:8が召命のみことばだと証をしておられた先生もいました。
 このイザヤ6章は、イザヤが預言者として召し出された時の召命の記事です。注目したいのは、やはり6章8節です。主が「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と仰せられました。この主の声に対してイザヤは、「ここに私がおります。私を遣わしてください」と言いました。
 私自身の召命のみことばは、既に何度か話していると思いますがイザヤ52:7の

52:7 良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。

です。
 しかし、今回このイザヤ6章を読んでいて、また新たなチャレンジが与えられていることを感じます。主が私に向かって「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と仰せられているように思います。もちろん、これは単なる私の思い込みかもしれません。しかし、今の日本の平和に逆行する動きを見ていると、主が平和のために多くの働き人を必要として、多くの者に向かって「だれを遣わそう」と仰せられているとしても少しも不思議ではないと思います。この主の御声に、多くの者が「ここに私がおります。私を遣わして下さい」と応えなければならないと思います。

キリスト者の立場から
 おとといの27日、日米両政府は自衛隊と米軍の役割分担を定めた防衛協力の指針(いわゆるガイドライン)の改定に合意しました。しかし、このガイドラインは国会での審議がまだ始まっていない自衛隊の活動内容の拡大に関する安保法制を基にして定められたものです。いま国会では与党が野党に対して圧倒的に優位な立場に立っていますから、いずれは安保法制も可決されることになるのでしょうが、それにしても物事には順序というものがあります。
 政府のこういう強引なやり方は、今に始まったことではありませんから、私たちは慣らされてしまって半ばあきらめ顔で、これはおかしいという声を上げる気力を奮い立たせるのにも苦労するといった有様になっている気もします。そして、今のこのような流れでは、来年夏の参議院議員の半数の改選によって、いよいよ憲法改正に賛成の議員が2/3以上になる可能性も出て来ました。そうすれば、すぐにでも憲法改正が発議されることになるかもしれません。そして今のような雰囲気では国民投票においても憲法改正に賛成の票が上回ることになるかもしれません。
 このことについて、キリスト者の立場から考えてみたいと思います。何度か、この祈り会で引用していますが、現行の日本国憲法の前文の中に、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚する」とあります。これはキリスト教の精神と、とても良く合致するものです。しかし、自民党による「日本国憲法改正草案」の前文では、現行憲法が掲げる「崇高な理想」は最早掲げることをしていません。理想を追求するのはやめて、現実に合わせるというやり方です。このようにキリスト教の精神とよく合致する平和憲法が改正される方向に大きく傾いている今の時期に、キリスト者は黙って傍観していて良いものでしょうか。日本のカトリック教会は既に声を上げています。

戦後70年司教団メッセージ
 沼津コーストFMの「潮風の中で」の3月の第2土曜日の放送では、カトリック沼津教会の司祭が、日本のカトリック中央協議会の「戦後70年司教団メッセージ」( http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/doc/cbcj/150225_wwii70yr.htm )の一部を読み上げました。このメッセージのタイトルは「平和を実現する人は幸い~今こそ武力によらない平和を」であり、長いものですが、その中の「戦争放棄への決意」について、ここで読ませていただきます。

(引用はじめ)
2. 戦争放棄への決意
 1945年までの日本の朝鮮半島などに対する植民地支配、中国や他のアジアの国々に対する侵略行為はアジアの人々に大きな苦しみと犠牲をもたらしました。また、日本人にとっても第二次世界大戦は悲惨な体験でした。1945年3月10日の東京大空襲をはじめ、日本の多くの都市への大規模な空爆がありました。沖縄における地上戦によって日本や外国の兵士だけでなく、多数の民間人が犠牲になりました。そして8月6日広島への原爆投下と8月9日長崎への原爆投下。これらの体験から平和への渇望が生まれ、主権在民、戦争放棄、基本的人権の尊重を基調とする日本国憲法が公布されました(1946年)。日本はこの平和憲法をもとに戦後70年、アジアの諸国との信頼・友好関係を築き、発展させたいと願って歩んで来たのです。
 一方、世界のカトリック教会では、東西冷戦、ベルリンの壁崩壊などの時代を背景に、軍拡競争や武力による紛争解決に対して反対する姿勢を次第に鮮明にしてきました。
 ヨハネ二十三世教皇は回勅『地上の平和』において「原子力の時代において、戦争が侵害された権利回復の手段になるとはまったく考えられません」[3]と述べています。第二バチカン公会議の『現代世界憲章』は、軍拡競争に反対し、軍事力に頼らない平和を強く求めました[4]。1981年、ヨハネ・パウロ二世教皇が広島で語った平和アピールのことば、「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です」にも、はっきりとした戦争に対する拒否が示されています。
 以上の歴史的経緯を踏まえるならば、わたしたち日本司教団が今、日本国憲法の不戦の理念[5]を支持し、尊重するのは当然のことです。戦争放棄は、キリスト者にとってキリストの福音そのものからの要請であり、宗教者としていのちを尊重する立場からの切なる願いであり、人類全体にとっての手放すことのできない理想なのです。
(引用おわり)

 このようにカトリックでは、憲法9条を改正すべきでないという立場を明確にしています。また、プロテスタントの教会でも日本バプテスト連盟が「憲法改悪を許さない私たちの決意表明」( http://www.bapren.jp/uploads/photos/678.pdf )という声明を発表しています。

主の召しに応える
 私たちのインマヌエル教団は、これまで社会的なことで声明を発表したことがありませんから、これからも発表することはないでしょう。ですから牧師と信徒の一人一人が主からの召命の声に基づいて行動することになります。
 私自身は今やイザヤ52:7に加えてイザヤ6:8の声も聞こえて来ているように感じています。今の私にできることはメッセージを発信することですから、次の5月3日の憲法記念日の礼拝と、5月9日のFM放送の「潮風の中で」において平和のメッセージを発信したいと思っています。そして、平和憲法の理想とヨハネの福音書を絡めた本の原稿をできるだけ早くに完成させたいと願っています。
 私たちの一人一人が主の召しの声に応えて行動すべき時が来ていると思います。それがどのような働きなのか、お一人お一人が耳を澄まして主の御声に耳を傾けていただきたいと思います。イザヤ6:8をご一緒に読んでメッセージを閉じることにします。

 6:8 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」

 お祈りいたしましょう。
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5月3日憲法記念日礼拝プログラム

2015-04-30 09:00:47 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

5月3日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

5月 第1聖日 憲法記念日礼拝順序

 司  会               西村兄
 奏  楽               矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  遠き国や          436
 交  読  詩篇2篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  ガリラヤの風かおる丘で   183
 讃 美 ③  天において主をたたえよ   204
 聖  書  ルカ10:38~42
 説  教  『悲惨な過去の上に立つ崇高な理想』 小島牧師
 讃 美 ④  あなたの平和の       485
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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地の果てまで創造された永遠の神(2015.4.26 礼拝)

2015-04-27 15:00:56 | 礼拝メッセージ
2015年4月26日礼拝メッセージ
『地の果てまで創造された永遠の神』
【イザヤ40:21~31】

はじめに
 礼拝の聖書朗読では先週はイザヤ書40章の前の方の1節から11節までを読み、今週は40章の後ろの方を司会者に読んでいただきました。しばらくイザヤ書の学びを続けて行く予定ですが、来週の5月3日は憲法記念日、その翌週の5月10日は母の日ですから、イザヤ書からは離れます。また5月の後半から再開することになるのかなと思っています。しかし、いま私たちの教会は変化の激しい中を通っていますから、その状況に時々で必要になって来るメッセージもあると思います。必ずしも予定通りには行かないことを、ご承知おき願いたいと思います。

万物を創造された神の凄さ
 さて、きょう聖書朗読で読んでいただいた箇所の最初の21節には、「あなたがたは知らないのか、聞かないのか」とあります。そして、この「あなたがは知らないのか、聞かないのか」は28節に、もう一度出て来ます。そして、28節では続いて「主は永遠の神、地の果てまで創造された方」とあります。ですから、その前の21節から書かれていることも、主は永遠の神であり、地の果てまで創造された方であることが語られているのですね。
 21節と22節、

40:21 あなたがたは知らないのか。聞かないのか。初めから、告げられなかったのか。地の基がどうして置かれたかを悟らなかったのか。
40:22 主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。

 21節にあるように主は地の基を置き、22節にあるように天を薄絹のように延べました。つまり主は天と地を創造されました。
 このように主が天地を創造した御業を「あなたがたは知らないのか」とイザヤは私たちに問い掛けます。
 私たちは創世記の1章を知っていますから、主が天地を創造され、万物を創造された方であることを知っています。しかし、この御業がどれほど凄いことであるかを、私たちはどれぐらいわかっているでしょうか。そこで私がふと思い出したのは、ヨブ記のことでした。きょうの礼拝の聖書交読でヨブ記を開いたのは、それゆえです。

ヨブに語った神のことば
 きょうは、ここからしばらくの間、ヨブ記を見ることにしたいと思います。まず、きょうの聖書交読で開いたヨブ38章をもう一度開きましょう。1節から7節までを交代で読みましょう。

38:1 【主】はあらしの中からヨブに答えて仰せられた。
38:2 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。
38:3 さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。
38:4 わたしが地の基を定めたとき、あなたはどこにいたのか。あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
38:5 あなたは知っているか。だれがその大きさを定め、だれが測りなわをその上に張ったかを。
38:6 その台座は何の上にはめ込まれたか。その隅の石はだれが据えたか。
38:7 そのとき、明けの星々が共に喜び歌い、神の子たちはみな喜び叫んだ。

 4節と5節には、先ほど読んだイザヤ書の同じようなことが書いてあります。主が天地を創造したことを、あなたは知らないのか、というわけです。
 このヨブ記38章で主は沈黙を破ってヨブに語り掛けました。ヨブ記では1章と2章にヨブが襲われた災いのことが書いてあり、3章から37章まではヨブとヨブの友人たちとのやり取りが延々と綴られています。38章からの主のことばは、3章から37章までの長い長いヨブと友人たちとの間の論争の後であったものです。
 ヨブ記については皆さんのほとんどがご存知だと思いますが、ごく簡単に説明しておきますと、ことの発端は、主がサタンに対して1章の8節のように言ったことでした。1章8節、

1:8 【主】はサタンに仰せられた。「おまえはわたしのしもべヨブに心を留めたか。彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいないのだが。」

 それに対してサタンは、反論しました。ヨブが神を恐れ、悪から遠ざかっているのは、神がヨブを祝福しているからで、もしヨブがひどい目に遭えばヨブだって神を呪うでしょう、と言いました。すると神は何と、サタンがヨブをひどい目に遭わせることを許してしまいました。それで、サタンはヨブの大切な牛や羊やろばやらくだ達を、それらを世話する若い者たちと一緒に殺し、さらにはヨブの愛する子ども達をも事故で死なせてしまいました。それでもヨブは神に愚痴をこぼしませんでした。それで神はサタンに、そら見たことかヨブのように潔白で正しい者はいないと言いました。しかしサタンは、もしヨブの体を病気で打つなら、ヨブは神を呪うだろうと言いました。それで、神はそのことも許してしまいました。2章の6節と7節をお読みします。

2:6 【主】はサタンに仰せられた。「では、彼をおまえの手に任せる。ただ彼のいのちには触れるな。」
2:7 サタンは【主】の前から出て行き、ヨブの足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物で彼を打った。

 そうして3章から、悪性の腫物による激しい痛みにあえぐヨブの嘆きが始まるわけですが、このヨブの嘆きを聞いたヨブの友人のエリファズが4章でヨブに言いました。4章の7節をお読みします。

4:7 さあ思い出せ。だれか罪がないのに滅びた者があるか。どこに正しい人で絶たれた者があるか。

 友人のエリファズはヨブが罪を犯したために神がヨブを打ったのだと考えていました。だから、どんな悪いことをしたのだ。さあ、それを思い出せ、と言いました。この友人のエリファズは「因果応報」の考え方を持っていました。「因果応報」というのは、善いことをすれば神は善いことで報いて下さり、悪いことをすれば神は悪いことで報いるという考え方です。日本人にもよくある、「悪いことをするとバチが当る」という考え方ですね。

カバさえも造られた神
 しかし、1章と2章でヨブ記の読者には明らかにされているように、ヨブが悪性の腫物で苦しんでいるのは、ヨブやヨブの友人たちの想像を絶する事情によるものでした。そんな事情があったとは露知らず、ヨブと友人たちは延々と論争をします。なかなか読む気が起こらないようなたくさんのページ数の論争です。
 そうして38章になって主は仰せられました。2節、

38:2 知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。

 知識もない者が何をゴチャゴチャ言っているのだ、という感じですね。そして、これこれのことをあなたは知っているのか、と主はヨブに問います。それが聖書交読でも読んだ38章であり、39章以降も続きます。39章の1節では、主は、

39:1 あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか。雌鹿が子を産むのを見守ったことがあるか。

 ヨブは自分が飼っている牛や羊が子を産むところなら見たことがあるかもしれませんが、野にいるヤギやシカが子を産むところなどは、さすがに見たことがなかったでしょう。しかし、主はすべてのことを見ておられます。少し飛ばして19節、

39:19 あなたが馬に力を与えるのか。その首にたてがみをつけるのか。

 馬に力を与えたのも、首にたてがみを付けたのも主です。また、主は40章15節からは、ヨブにカバを見よと仰せられます。
 カバは、私たちが動物園で見ると大人しそうな愛嬌のある動物に見えますが、野生のカバは大変に凶暴なのだそうですね。インターネットを調べると、こんなことが書いてありました。
「アフリカで最も危険な動物、それはライオンでもヒョウでもゾウでもない。それはカバである。意外に聞こえるかもしれないが、野生動物の絡む事故で最も多くの人を殺しているのがカバなのだ。 カバは気性が非常に荒く、縄張り意識が強い。仲間同士でも頻繁に喧嘩をするし、近くに他の動物たちがいる事を決して好まない。(中略)
 カバは夜な夜な草を食べに陸に上がってくるため、水上、陸上の両方で事故が起きる。陸にいるカバは水中にいる時に比べてナーバスになっている。そんな時、水とカバとの間に人が立つと、カバは退路を遮断されたと思い攻撃してくる。早朝、陸上で人がカバに襲われるケースが多いのはそのためだ。さらに厄介なことに、一見鈍重そうに見えるカバは、その実、陸上での動きも非常に機敏で、かなりの速度で走る。口も巨大で、鋭い牙を何本も持つ。あんな口で咬まれれば、人間などひとたまりも無いのだ。」(「どうぶつのくに」より)
 
 ヨブ記の記者は、このカバの凶暴性を知っていたのでしょうね。15節から18節、

40:15 さあ、河馬を見よ。これはあなたと並べてわたしが造ったもの、牛のように草を食らう。
40:16 見よ。その力は腰にあり、その強さは腹の筋にある。
40:17 尾は杉の木のように垂れ、ももの筋はからみ合っている。
40:18 骨は青銅の管(くだ)、肋骨は鉄の棒のようだ。

 これは強烈ですね。人間は、単細胞生物でさえ、作り出すことはできません。iPS細胞も、もともとある細胞を利用して作り出すものです。もともとある細胞は、主が造られたものです。そして主は、このカバのような動物をも作り出すことができます。

私たちも聖霊の力を受ける
 このヨブ記を読んで、イザヤ書40章を読むなら、このイザヤ書40章の世界をより一層豊かにイメージすることができます。イザヤ書40章26節、

 40:26 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。

 そして28節、

40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。【主】は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。

 主はまさにその通りのお方であることを、いま私たちはヨブ記で見ました。29節と30節。

40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。

 このイザヤ40章は、「慰めよ。慰めよ。」で始まります。主はバビロン捕囚で弱りきったユダヤの民に力を与えて下さいました。主が与えて下さる力は、尋常の力ではありません。強力な馬やカバさえ作るお方ですから、とても大きな力です。
 そもそも動物たちは、人間のように余計なことを考えずに、素直に神の力を受け入れますから、大きな力を得ています。
 またワシやタカなどの鳥たちは素晴らしく高い飛翔能力を持っています。彼らが羽ばたくのは飛び立つ時ぐらいで、あとは風に乗って、羽ばたくことなく高く舞い上がることができます。31節、

40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 この31節の「主を待ち望む者は新しく力を得」の新しい力とは「聖霊の力」である、と説教では良く語られます。本当にその通りだと思います。ワシやタカは上昇気流に乗ると、羽ばたくことなく高く舞い上がることができます。
 私たちも聖霊の力が与えられ、主が吹かせて下さる風に乗るなら、自分で頑張らなくても高く舞い上がることができます。自分で頑張ろうとする者は、ヨブたちが神に叱責されたように、「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くする者」です。

主の風を読まなければならない
 しかし、自分で頑張らなくても良いと言っても、ただ羽を広げていれば良いというわけではありません。飛び立つ時には多少は羽ばたかなければなりませんし、どこに上昇気流があるのか、風を読むこともしなければなりません。そうして、その風に乗る必要があります。
 この風を読むことを、私たちは会堂問題においてもしなければなりません。この沼津の地のどの場所に私たちを上まで運んでくれる主の風が吹いているのか、私たちは霊性を研ぎ澄まして読まなければなりません。そして、その場所に会堂を建てる必要があります。風が吹いていない場所や、良くない風が吹いている場所に会堂を建てても、教会の成長は望めないでしょう。
 主がどこに風を吹かせて下さっているのか、しっかりと風を読むことができる私たちでありたいと思います。最後に、28節から31節までを、もう一度交代で読んで、メッセージを閉じることにします。

40:28 あなたは知らないのか。聞いていないのか。【主】は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
40:29 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。
40:30 若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。
40:31 しかし、【主】を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

 お祈りいたしましょう。
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終わりの日(2015.4.22 祈り会)

2015-04-23 08:51:27 | 祈り会メッセージ
2015年4月22日祈り会メッセージ
『終わりの日』
【イザヤ2:1~11】

2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。
2:2 終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
2:3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。
2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
2:5 来たれ。ヤコブの家よ。私たちも【主】の光に歩もう。
2:6 まことに、あなたは、あなたの民、ヤコブの家を捨てられた。彼らがペリシテ人のように東方からの者、卜者で満ち、外国人の子らであふれているからだ。
2:7 その国は金や銀で満ち、その財宝は限りなく、その国は馬で満ち、その戦車も数限りない。
2:8 その国は偽りの神々で満ち、彼らは、自分の手で造った物、指で造った物を拝んでいる。
2:9 こうして人はかがめられ、人間は低くされた。──彼らをお赦しにならないように。──
2:10 岩の間に入り、ちりの中に身を隠せ。【主】の恐るべき御顔を避け、そのご威光の輝きを避けて。
2:11 その日には、高ぶる者の目も低くされ、高慢な者もかがめられ、【主】おひとりだけが高められる。

「終わりの日」の前兆
 イザヤ書の2章には、イザヤが見た「終わりの日」の情景が淡々とつづられています。3節と4節は平和に満ちた様子が描かれています。
 この「終わりの日」というのは、私たちにとってはイエス・キリストが再臨する日のことです。マタイ・マルコ・ルカの共観福音書には、この「終わりの日」の前兆として何が起きるのか、主イエスご自身が語った言葉が書かれています。私たちは聖書を読む会でマルコを学んでいますから、マルコを見てみましょう。マルコ13章の全体に、「終わりの日」の前兆が書かれています。ここを交代で読みたいと思いますが、少し長いので、途中は飛ばすことにしたいと思います。まず、1節から10節までを交代で読みましょう。

13:1 イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」
13:2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
13:3 イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。
13:4 「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」
13:5 そこで、イエスは彼らに話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
13:6 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそそれだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。
13:7 また、戦争のことや戦争のうわさを聞いても、あわててはいけません。それは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。
13:8 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、ききんも起こるはずだからです。これらのことは、産みの苦しみの初めです。
13:9 だが、あなたがたは、気をつけていなさい。人々は、あなたがたを議会に引き渡し、また、あなたがたは会堂でむち打たれ、また、わたしのゆえに、総督や王たちの前に立たされます。それは彼らに対してあかしをするためです。
13:10 こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません。

 続いて、28節から37節までを交代で読みましょう。

13:28 いちじくの木から、たとえを学びなさい。枝が柔らかになって、葉が出て来ると、夏の近いことがわかります。
13:29 そのように、これらのことが起こるのを見たら、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい。
13:30 まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
13:31 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
13:32 ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。
13:33 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。
13:34 それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。
13:35 だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。
13:36 主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。
13:37 わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。」

 32節にあるように、「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。」ということですから、イエスさまご自身でさえ知りません。
 この再臨の日がいつなのか、もう明日にでも来るのか、或いはそれほど切迫していないのか、このことについては人によって考え方には随分と幅があります。今の不穏な時代を見ていると本当に切迫していると見る人もいますし、その日は夜中の盗人のように来る(Ⅰテサ5:2、Ⅱペテ3:10)のだから、「来るぞ、来るぞ」と言って警戒している間は来なくて、警戒を解いた時に来るのだという人もいます。

ヨハネの福音書に基づく「終わりの日」
 私自身の立場は、ヨハネの永遠観に基づいていますから、明日でも百年後でも千年後でも全部同じで「今がその時だ」という立場です。ヨハネの福音書には「さばきの日」のことが書いてありますが、その前兆については何も書いてなく、「今がその時です」と書いてあります。ちょっと、そこも読んでみましょう。ヨハネの福音書の5章の24節から29節までです。

5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
5:25 まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。
5:26 それは、父がご自分のうちにいのちを持っておられるように、子にも、自分のうちにいのちを持つようにしてくださったからです。
5:27 また、父はさばきを行う権を子に与えられました。子は人の子だからです。
5:28 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。
5:29 善を行った者は、よみがえっていのちを受け、悪を行った者は、よみがえってさばきを受けるのです。

 私の立場をさらに付け加えるなら、多くの者が、このヨハネの永遠観に慣れ親しむようになるまでは、「終わりの日」は来ないのではないかと考えています。もちろん、その日がいつなのかは誰もわからないことですから、私のこの考え方は間違っているかもしれません。しかし、「終わりの日」の前兆のようなことは、これまでにも数え切れないほどたくさんありました。
 紀元1世紀だけに限っても、ペテロ・パウロたちが迫害によって殉教し、紀元70年にはエルサレムがローマ軍の攻撃によって炎上し、神殿も崩壊して廃墟になってしまいました。また79年にはイタリアのポンペイが火山の噴火の火砕流によって埋没してしまうという大災害がありました。これらは皆、「終わりの日」の前兆として捉えられ、明日にでも主の再臨があると多くの人々は思ったのではないかと思います。しかし、再臨はありませんでした。
 ヨハネの福音書は1世紀の末に書かれたと考えられます。ヨハネの福音書がなぜ書かれたのか、いろいろなことが考えられますが、私はその一つとして、マタイ・マルコ・ルカで警告されていた前兆が起こっているのに、再臨は無かったじゃないか、ということに答える意味もあったのではないかなと思います。再臨は明日とか百年後とか千年後とかの話ではなく、「今がその時」なのだということです。
 少し前の20世紀にも前兆と思われることは多く起こりました。第一次世界大戦があり、第二次世界大戦があり、広島・長崎への原爆投下を経て、朝鮮戦争やキューバ危機など、いつ核戦争になってもおかしくない事態の中に20世紀後半はありました。
 21世紀に入ってからも9.11の同時多発テロやインドネシアの大津波、日本の東日本大震災、最近のIS、「イスラム国」の台頭、日本が平和憲法を改正しようとする動きなど、再臨の前兆と思えるような不穏な事態はたくさんあります。
 私は、この先、世界がどんなに悪い方向に進もうとも、ヨハネの永遠観が理解されない限りは主の再臨はないだろうと思っています。1世紀に数々の前兆と思われることがあっても再臨はありませんでした。そしてヨハネの福音書が書かれましたが、人々はヨハネの福音書をマタイ・マルコ・ルカの福音書の延長線上で理解しようとしましたから、ヨハネの永遠観は理解されていません。私はヨハネの永遠観が理解されない限りは、再臨は無いだろうと思っています。

主は一人でも滅びることを望んでおられない
 繰り返しますが、再臨がいつなのかは誰も知らないことですから、私は間違っているかもしれません。しかし、私がそう思うのは、もう一つ根拠となるみことばがあります。ペテロの手紙第二3章9節です(新約聖書p.463)。ご一緒に読みましょう。

3:9 主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。

 主は一人でも滅びることを望んでおられません。ヨハネの福音書でイエス・キリストは私たちが一つになることができるように祈って下さっていますが、主の民は分裂を続けています。
 ユダヤ教とキリスト教がたもとを分かち、キリスト教は東方と西方とに分裂し、西方教会はカトリックとプロテスタントに分裂し、プロテスタントはさらに細分化しています。このように分裂を繰り返していて、再臨があるでしょうか。第二ペテロ3:9の「すべての人が悔い改めに進む」の「悔い改め」には、「分裂し続けていること」への悔い改めも含まれているのだと思います。

おわりに
 最後に、もう一度イザヤ2章に戻りましょう。私たちは分裂し続けるのではなく、一つになる方向に進んで行く時に、「終わりの日」は来るのだと思います。イザヤ2章の2節と3節を交代で読みましょう。2節に、「すべての国々がそこに流れて来る」とあります。このように世界は一つにならなければなりません。2節と3節を交代で読みます。

2:2 終わりの日に、【主】の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
2:3 多くの民が来て言う。「さあ、【主】の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから【主】のことばが出るからだ。
 
 お祈りしましょう。
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4月26日礼拝プログラム

2015-04-23 08:08:49 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月26日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

4月 第4聖日礼拝順序

 司  会               矢崎兄
 奏  楽               荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  十字架のもとに       134
 交  読  ヨブ38:1~15
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  御手の中で         405
 讃 美 ③  朝つゆの園を        378
 聖  書  イザヤ40:21~31
 説  教  『地の果てまで創造された永遠の神』 小島牧師
 讃 美 ④  昔主イエスの        482
 献  金
 感謝祈祷                西村姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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永遠に立つ神のことば(2015.4.19 礼拝)

2015-04-19 23:05:47 | 礼拝メッセージ
2015年4月19日礼拝メッセージ
『永遠に立つ神のことば』
【イザヤ40:1~11】

はじめに
 年会とイースターを越え、先週の会堂特別勉強会も越えて、これからしばらくの間、祈祷会と礼拝の両方でイザヤ書を開いて、私たちの信仰を深めて行きたいと考えています。聖書はどの書も奥が深いと思いますが、中でもイザヤ書は特別に奥が深い書の一つだと私は感じています。ですから、これまで私は説教の中でイザヤ書を部分的に取り上げることはあっても、シリーズでじっくりと取り上げたことはありませんでした。神学生の時も、姫路教会にいた時も、イザヤ書からシリーズで説教をしたことはありません。牧師になって日が浅い私には少々荷が重いと思っていたのです。しかし、私が牧師になってから三年が経ちたちましたから、牧師になって日が浅いなどとは言っていられなくなりました。また、私たちは会堂問題に取り組んでいますから、主の導きの声をさやかに聞くことができるようになるためには、私たちの一人一人がもっともっと成長して行く必要があると思いますから、覚悟を決めて、イザヤ書に取り組んで行くことにしたいと思います。(先日の水曜日の礼拝ではイザヤ書の1章を開きました。祈祷会と礼拝の両方でイザヤ書を開きますから、これから話すことの一部は既に水曜日の祈祷会で話したことと重なる部分もあります。祈祷会に出席された方には、ご容赦願いたいと思います。)

イザヤの預言対象と時代
 さて祈祷会では、イザヤ書の1章から39章までを中心に、礼拝では40章から66章までを中心に見て行くつもりですが、礼拝においては、必要な時には40章より前の部分も見ることにします。例えば、イザヤ書の学びを始めるに当っては1章1節を見ておくことは欠かせないと思いますから、まず1章1節を見ておきましょう。

1:1 アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。

 ここにはイザヤがどこについての、どの時代の預言者であったかが書いてあります。まずどこについての、ですが「ユダとエルサレムについて」と書いてあります。ですから、イザヤは南王国の預言者でした。イザヤが若かった頃、まだ北隣の北王国は存在していました。しかし、やがて北王国はアッシリヤ帝国によって滅ぼされ、イザヤの晩年には南王国だけになっていました。
 北王国で活動していた預言者にはエリヤやエリシャ、ホセアなどがいますね。一方、南王国で活動していた預言者にはイザヤやエレミヤ、ミカなどがいます。ついでに話しておくと、エゼキエルはバビロンで捕囚になっていたユダの民に対して預言し、ダニエルはバビロンの王たちに預言していました。
 このように、預言書を読む時には、先ずはその預言書の預言者がどこの国の誰に対して預言をしていたかを、しっかりと押さえておく必要があります。大きな魚に飲み込まれたヨナ書のヨナはアッシリヤのニネベの人々に預言しました。アッシリヤのニネベの人々は異邦人ですから、ヨナは気が進まなかったのですね。なぜ自分が異邦人に向かって預言しなければならないのだという思いがありました。それゆえヨナは船に乗ってニネベとは別の方向に向かいましたから、主が怒って嵐を起こして船が難破しそうになってしまいました。このヨナ書のことは、ヨナの預言の対象が異邦人であったことがわかっていないと理解できないことです。ですから私たちが預言書を読む時には、先ずはどこの国の誰に対する預言なのかを把握しておく必要があります。
 そして、次は時代ですね。イザヤ1章1節には、「ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代」と書いてあります。
 ウジヤ、ヨタム、アハズ王の時代には、まだ北隣の北王国は存在していました。しかし、ヒゼキヤ王の第6年に北王国は滅亡しました。そしてヒゼキヤ王の第14年に、北王国を滅ぼしたアッシリヤが今度はヒゼキヤ王の南王国に攻め入り、南王国は大ピンチに陥りました。

バビロンに全てを見せたヒゼキヤ
 この大ピンチの時の様子は列王記と歴代誌に書いてありますが、このイザヤ書にも書いてあります。36章を見て下さい。36章1節をお読みします。
 
36:1 ヒゼキヤ王の第十四年に、アッシリヤの王セナケリブが、ユダのすべての城壁のある町々を攻めて、これを取った。

 南王国のユダはアッシリヤに攻められてエルサレム以外の城壁のある町々はことごとく攻め取られ、残るのはエルサレムだけという大ピンチに陥っていました。36章と37章を読むと、この大ピンチに直面したヒゼキヤ王が主に熱心に祈ったので、主が助けて下さったことが書いてあります。そして38章でヒゼキヤ王は病気になってしまいましたが、主の憐れみによって、あと15年間の寿命が加えられたことが書いてあります。
 そうして病気から回復したヒゼキヤ王の所にバビロンの王が手紙と贈り物を届けたことが39章の1節に書いてあります。そして、その次の2節をお読みします。

39:2 ヒゼキヤはそれらを喜び、宝庫、銀、金、香料、高価な油、いっさいの武器庫、彼の宝物倉にあるすべての物を彼らに見せた。ヒゼキヤがその家の中、および国中で、彼らに見せなかった物は一つもなかった。

 何と、ヒゼキヤはバビロンからの使者に、王の宮殿の中のすべてを見せてしまいました。それは単に宝物や武器をすべて見せただけでなく、宮殿の建物の部屋の構造をも全て見せてしまったということです。このことが、後々、エルサレムがバビロンに容易に滅ぼされる原因になってしまいました。
 私は赤穂浪士の忠臣蔵の話が好きです。姫路教会にいた時には、播州赤穂にも観光で行って来ました。赤穂浪士が吉良上野介の館に討ち入りしたとき、大石内蔵助たちは、ただ闇雲に攻め入ったわけではありませんね。事前に、吉良邸の内部の構造の情報を入手するために、いろいろと骨を折っています。忠臣蔵の話はいろいろと脚色されていますから、どこまでが本当かわかりませんが、ドラマや小説を見ると、赤穂浪士に味方する商人などが仕事を作って吉良邸に入り、中の様子を見て来て、それを内蔵助に伝える場面などがありますね。忠臣蔵は討ち入り前の入念な準備の様子もまた非常に面白いことが魅力になっていると思います。もし大石内蔵助が吉良邸の内部の様子の情報を入手していなかったら、吉良の首を取ることはできなかったでしょう。
 イザヤ書に戻ります。イザヤは、ヒゼキヤ王がバビロンからの使者に宮殿の中の様子を見せてしまったと聞いて驚き呆れます。そしてヒゼキヤに言いました。39章の5節から7節、

39:5 すると、イザヤはヒゼキヤに言った。「万軍の【主】のことばを聞きなさい。
39:6 見よ。あなたの家にある物、あなたの先祖たちが今日まで、たくわえてきた物がすべて、バビロンへ運び去られる日が来ている。何一つ残されまい、と【主】は仰せられます。
39:7 また、あなたの生む、あなた自身の息子たちのうち、捕らえられてバビロンの王の宮殿で宦官となる者があろう。」

 そうして実際に、この時から約百年後にエルサレムはバビロンに滅ぼされてしまいました。

旧約と新約の区分に合致するイザヤ書
 そうして、40章から「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」という慰めのメッセージが始まります。エルサレムの民はやがてバビロンに捕囚に引かれる時が来るけれども、その後にはまた、主の憐れみによって捕囚から解放され、エルサレムに帰還できる時が来る、そういう良い知らせの預言です。
 ですからイザヤ書は39章と40章の間が大きな境目になります。39章までの区間ではバビロン捕囚前の神の怒りと警告のメッセージが中心です。そして40章以降は、バビロン捕囚後のエルサレムへの帰還を見通した、慰めと平和のメッセージが中心です。40章1節と2節をお読みします。

40:1 「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」とあなたがたの神は仰せられる。
40:2 「エルサレムに優しく語りかけよ。これに呼びかけよ。その労苦は終わり、その咎は償われた。そのすべての罪に引き替え、二倍のものを【主】の手から受けたと。」

 2節の、「その労苦は終わり」というのはバビロン捕囚の労苦が終わるということですね。その咎は償われ、すべての罪に引き替え、二倍のものを主の手から受けます。
 このように、きょうの聖書箇所のイザヤ40章は、表面上は、バビロン捕囚からの解放を見通した預言です。しかし、このイザヤ40章の預言は、もっと豊かなメッセージを含んでいます。それはメシヤの到来をも預言していることです。それは次を見るとわかります。3節と4節、

40:3 荒野に呼ばわる者の声がする。「主の道を整えよ。荒地で、私たちの神のために、大路を平らにせよ。
40:4 すべての谷は埋め立てられ、すべての山や丘は低くなる。盛り上がった地は平地に、険しい地は平野となる。

 この箇所は、福音書でバプテスマのヨハネが登場した時に引用されている箇所ですね。例えば、マルコの福音書の1章を見てみましょう(新約聖書p.64)。1節から4節までを交代で読みましょう。

1:1 神の子イエス・キリストの福音のはじめ。
1:2 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ。わたしは使いをあなたの前に遣わし、あなたの道を整えさせよう。
1:3 荒野で叫ぶ者の声がする。『主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。』」そのとおりに、
1:4 バプテスマのヨハネが荒野に現れて、罪の赦しのための悔い改めのバプテスマを宣べ伝えた。

 こうして、バプテスマのヨハネによって、メシヤであるイエス・キリストの到来の道が整えられました。このことがイザヤ書40章で預言されていたということは、イザヤ書40章は、表面上はバビロン捕囚から解放された民への慰めのメッセージですが、もっと深いメッセージとしては、旧約の時代が終わって新約の時代を迎える人々への慰めのメッセージであると言うことができるでしょう。つまり、イザヤ39章と40章の境目は、旧約と新約との境目と見ることもできるということです。イザヤ書は全部で66の章があり、1章から39章までは旧約の時代についての預言、40章から66章までの27の章では新約の時代についての預言がされていると言うこともできます。
 そして大変に興味深いことに、聖書には66の書があり、旧約聖書は創世記からマラキ書まで39の書があり、新約聖書はマタイの福音書からヨハネの黙示録まで27の書があります。イザヤ書の二つの大きな区分の章の数と、聖書の二つの大きな区分の書の数とが一致しているんですね。この偶然は本当に面白いと思います。

黒衣に徹したイザヤ
 さて、このイザヤという預言者については、あまり人間臭さが感じられない預言者であるという印象を私は受けています。唯一、有名なイザヤ6章では、主が「誰を遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」と仰せられたのに対してイザヤが、「ここに、私がおります。私を遣わしてください」と言う場面がありますから、この6章のイザヤには人間臭さがあります。しかし、それ以外の場面では、あまりそのようなものを感じません。
 たとえばモーセやエレミヤなどは、いろいろな場面で悩み苦しんだり怒ったりしています。またエリヤなどは弱り果てて、「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください」(Ⅰ列王19:4)と主に懇願しました。或いはまたエリシャなどは、子どもたちが彼をからかって「はげ頭」と言ったので、子供たちをにらんで呪ったこと(Ⅱ列王2:23,24)が書かれています。これらの預言者は非常にユニークですね。しかし、イザヤには、このようなユニークさがほとんど感じられないように思います。
 この個性が感じられないイザヤのことを何に例えたら良いだろうかと考えて、私は、一昔前のNHKのアナウンサーに例えてみたらどうだろうかと思いました。最近のNHKのアナウンサーは、だいぶ個性を表に出すようになりましたが、一昔前までは、全くと言って良いほど個性を出しませんでしたね。ニュースを伝えることが彼らの務めだからです。
 去年の朝のドラマの『花子とアン』には、JOAKラジオのアナウンサーが登場していましたね。花子はラジオのおばさんとして子ども向けのニュースを担当することになり、母親のような愛情のこもった口調でニュースを読んでいましたが、このアナウンサーはそれを批判して、ニュースの原稿を読む時には感情を表に出さずに淡々とニュースを伝えるべきだ」と常に言っていました。このように言われた花子は、自分が女だから、このアナウンサーに批判的に見られているのだと思っていました。しかし、太平洋戦争が始まってからは、国民の戦意を鼓舞する勇ましい話し方が良しとされるようになり、このアナウンサーは、このことをも苦々しく思っていることを知り、花子はこのアナウンサーを見直しました。このアナウンサーは花子が女性だから批判的に見ていたわけではなく、アナウンサーの務めは個性を表に出さずに淡々とニュースを伝えることだという信念を持っていたんですね。
 イザヤが伝える良い知らせにも、私はこのアナウンサーが伝えたニュースと同様のものを感じます。イザヤは個性をなるべく表に出さずに黒衣に徹していたように感じます。だからこそ、イザヤの預言は時間を越えて様々な時代のことに充てはめることができるのだと思います。モーセのような個性的な預言者の預言には、どうしてもモーセの時代のことが付いてまわります。エレミヤの預言には、どうしてもエレミヤの時代のことが付いてまわります。しかし、個性が表に出ていないイザヤの預言はあらゆる時代にあてはめることが可能な預言です。8節に、

40:8 草は枯れ、花はしぼむ。だが、私たちの神のことばは永遠に立つ。

とありますね。私たちの神のことばは永遠に立ちます。バビロン捕囚の時代においても新約の時代においても、どの時代においても、神のことばは永遠に立ちます。これはイザヤが預言したからこそ、説得力があると感じます。

戦後の慰めのメッセージとして
 そして今私は、このイザヤ40章の慰めのメッセージは、1945年に日本が戦争に負けて、日本人が戦争の苦しみから解放された時の慰めのメッセージとしても見ることができると感じています。特に日本国憲法が公布されて、日本が戦争を放棄することを憲法で宣言したことで、日本人の多くは安堵感を覚えたことと思います。それは、とても良い知らせであったことでしょう。昨晩、NHKで象徴天皇についての特集番組が放送されていました。その番組に出演していた解説者の一人は、憲法が公布された時に母親が、もう日本は戦争をしないということを、とても喜んでいた覚えがあるということを話していました。天皇のことよりも先ずは戦争をもうしないということに日本人の多くは大きな安堵感を感じたのですね。

 9節から11節までを今度は交代で読みましょう。

40:9 シオンに良い知らせを伝える者よ。高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ。力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ。あなたがたの神を。」
40:10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。
40:11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、ふところに抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。

 敗戦後に、日本にはキリスト教ブームが起こり、多くの人が教会に押し掛けました。戦争で疲弊した日本人にとって聖書は大きな慰めになったことと思います。日本人が平和憲法を受け入れたこととキリスト教を受け入れたことは重なる部分があるように思います。しかし、やがてキリスト教会からは人が引き始め、平和憲法も今や改正の日程が公然と語られるようになって来ました。
 どうして、こういうことになるのでしょうか。私はそれはやっぱり、ヨハネの永遠観が理解されていないからだと考えざるを得ません。キリスト教は旧約聖書を土台にしていて、新約の恵みは旧約の土台の上に積み重なる形で成り立っています。しかし、多くのクリスチャンは旧約聖書を古い過去の過ぎ去った時代の書物として扱い、土台にはしていないように見えます。同様に日本国憲法も、戦争の惨禍を土台にして成り立っているはずなのに、戦争を過去の過ぎ去った時代のものにしてしまっているようです。そして日本国憲法のことも古臭い憲法で現代に合わなくなって来ていると思っている人が少なくないようです。
 しかし、崇高な理想を掲げた日本国憲法は少しも古びてはいません。戦後70年の今年、憲法に関する改正の動きも加速されることと思います。私は平和を宣べ伝える者として、平和の働きを加速させなければならないと考えています。

おわりに
 この教会は平和のメッセージを発信することと、地域のために祈り地域の光となることを大きな柱としています。先週は地域の光となる教会について語りましたが、平和のメッセージを発信することも、しっかりとやって行かなければならないと思います。
 イザヤのメッセージにあるように、神のことばは永遠に立ちます。そして神様は、どの時代にあっても平和を願い、平和のメッセージを発しておられますから、私たちも平和のメッセージを発信して行きたいと思います。そのためにも、慰めのメッセージを発するイザヤ書の学びを皆さんと共に深めて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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怒れる神との深い交わり(2015.4.15 祈り会)

2015-04-16 16:46:52 | 祈り会メッセージ
2015年4月15日祈り会メッセージ
『怒れる主との深い交わり』
【イザヤ1:1~20】

はじめに
 年会、イースター、会堂特別勉強会を越え、また会堂問題が動き始めている今、私たちの教会は新たな段階に入って来ていると感じます。会堂問題が今動き始めている方向でそのまま進むなら、これはもちろん大きな出来事ですし、もし今の方向性では無理だということになったなら、また振り出しに戻ってしまうわけですから、それもまた大きな出来事ということになります。何故なら、私たちはそんなに悠長にしているわけにはいきませんから、仮に今の方向性で行かないとしたら、休まずに頑張って新たな方向性を探さなければなりません。ですからどちらにしても、いま私たちは大きな出来事の中にあると言えます。
 そんな中で、これから祈祷会と礼拝では、聖書のどの箇所を学ぶべきなのか、少し悩みました。中途半端になっている伝道者やモーセ、ネヘミヤの学びの続きを行うことも考えてみましたし、新たにヨブ記やヨシュア記を学ぶことも考えてみました。そんな中で、イザヤ書を学ぶことに心を動かされましたので、これから少しの間、(例によって途中でいきなり終わることにもなるかもしれませんが)、しばらくイザヤ書を学んでみようかという気になっています。

人間臭さが無いイザヤ書
 なぜ今イザヤ書なのか、ということですが、いま大きな出来事の中を通っている私たちにとっては父なる神と共に歩むことが益々大事になっていて、父なる神を身近に感じるのにはイザヤ書が一番良いように思うからです。どういうことかというと、例えばサムエルやダビデを学ぶと、サムエルやダビデの信仰を通して神を学ぶことになります。そのような学びももちろん大変に重要ですが、今回は、もっと直接的に神を感じたいと思うのです。それには預言書が良いでしょう。そして、イザヤ書より他の大預言書のエレミヤ書、エゼキエル書、ダニエル書では、かなり強烈に預言者の個性というか人間臭さを感じますが、イザヤ書では、そういうものをほとんど感じません。唯一、有名なイザヤ6章ではイザヤの人間臭さが出ていますが、それ以外はイザヤの個性が私にはほとんど感じられません。その分、神様と近い交わりが出来るのではないかという気がしています。エレミヤのような人間臭く個性的な預言者を通して神のことばを聞くこともまた大きな恵みですが、人間臭さを感じないイザヤのような預言者(それがイザヤの際立った個性なのでしょう)のことばは、父なる神と私たちとの距離をグッと縮めてくれるような気がしています。
 それで私は祈祷会か礼拝かのどちらかで、イザヤ書を開くことにしましたが、さて祈祷会と礼拝のどちらにすべきか少し悩みました。そして、いっそ両方で開いたらどうかろうかと思いました。

イザヤ書の二つの区分
 イザヤ書は39章と40章を境目にして大きく二つに区分できます。ですから、39章までを祈祷会で、40章以降を礼拝で開いてみようかと思っています。ただ祈祷会と礼拝の両方ともイザヤ書ですと変化が無くて退屈になるかもしれませんから、両方でイザヤ書を開く期間はそんなに長くはないと思います。しかし、少しの間、祈祷会と礼拝の両方でイザヤ書を開くことにしたいと思います。
 さて偶然ですが、イザヤ書が66章まであることは聖書が66の書から成ることと一致しています。そしてイザヤ書の大きな境目が39章と40章の間にあることも、旧約聖書が39の書、新約聖書が27の書から成ることとも一致しています。しかも、イザヤ書の39章までは、主にバビロン捕囚に至るまでの神から人々への怒りと警告が中心であり、40章以降では、40章が「『慰めよ。慰めよ。わたしの民を』とあなたがたの神は仰せられる」(イザヤ40:1)で始まることからもわかるように、慰めと希望と平和のメッセージが中心です。このように、メッセージ的にもイザヤ書39章と40章との間の区分は旧約聖書と新約聖書のそれぞれに対応します。偶然と言えばあまりにも良く合致していますが、やはり偶然なのでしょうね。聖書は本当に不思議だと思います。
 この、イザヤ39章までと40章以降がそれぞれ旧約聖書と新約聖書と良く合致していることは広く知られていることですが、それに加えて私はもう一つ、別の不思議な一致を今回、イザヤ書を読んでいて感じました。
 それは、イザヤ書39章までが日本の戦前・戦中の暗い雰囲気に似ていて、40章以降の「慰めよ。慰めよ。わたしの民を」で始まるメッセージが敗戦後の日本が暗闇から解放されて平和が与えられたことと良く似ているように感じる、ということです。
 少し前に話しましたが、いま私は平和憲法とヨハネの福音書とを絡めて論じる文章の原稿を書いています。いま私たちは会堂問題という大きな問題に取り組んでいますが、いつも言っているように私たちは会堂を建てるために教会の活動をしているわけではありません。ですから会堂問題に取り組みながらも平和のメッセージはしっかりと発信して行きたいと思いますし、地域のために祈ることもしっかりとやって行きたいと思います。

半数が時流に流されている日本国民
 平和に関して言えば、いま日本は戦争ができる国に向けて着々と準備がされています。集団的自衛権の行使に関して、今はまだ閣議決定の段階ですが、今国会中に安保法制が提出されて可決されれば、いよいよ、その行使が実際に可能になります。このような危機が迫っている中で、去年の年末の衆議院議員選挙も、この4月の地方選挙も、軒並み過去最低の投票率を記録しているという有様です。去年の衆議院議員選挙が52.66%、今回の地方選挙に至っては40%台ですから、国民の半数は、今の流れに肯定の意志も否定の意志も示さず、ただ時流に流されているだけという有様です。
 時流に流されるのは、「流れる時間」の中にいるからですね。日本は敗戦という悲惨な失敗を土台にして平和憲法を持ち、その土台の上に平和を築いて来たのですが、「流れる時間」の中にいるなら過去は遠くに流れ去り、やがて忘れ去ってしまいます。今まさにその危機の中にあると言えます。
 人類がイエスさまの「互いに愛し合いなさい」という戒めを守らずに戦争を繰り返して来たのも、「流れる時間」の中にいるからです(ちなみに、いま書いている文章では、「流れ去る時間」にしています)。人類は「旧約聖書の時代」の悲惨な失敗という土台の上に「新約聖書の時代」の平和を築いたはずです。しかし、人類があまりにも強力に「流れる時間」に縛られているために、「旧約聖書の時代」を流し去ってしまい、遠い過去のものにしてしまいました。この「旧約聖書の時代」の悲惨な失敗がきちんとした土台になっていないために、人類はいつまで経っても戦争を繰り返しているのだと思います。
 時間が流れるものだという感覚は、ツイッターやフェイスブックなどのSNSのタイムラインに皆が慣れ親しむようになって、益々その感が強まっているように思います。タイムライン上では様々なつぶやきが次々と流れて来て、新しいつぶやきもすぐに古くなり、土台になることなく流れ去って行きます。こういうコミュニケーション手段の普及が時代に流されているという危機感を薄め、選挙の低投票率にもつながっているのかもしれません。このままこのような流れが続くなら、良く言われているように本当に戦前へと回帰して行ってしまうと思います。その流れを止めるために、旧約聖書の時代の人々の悲惨な失敗は私たちの土台になっているのだということを、しっかりと伝えて行かなければならないと思います。

イザヤ1章を味わう
 では、きょうはイザヤ1章の1節から20節までを交代で読みたいと思います。ここには不信仰なイスラエルとユダの民への神の怒りと、その神の怒りを代弁するイザヤのことばとが記されています。私はここに戦前・戦中の日本や無差別攻撃を行ったアメリカの不信仰が重なって見えるように感じています。
 きょうのイザヤ書の学びでは、個々の節については私の下手な解説は入れないで、純粋にイザヤのメッセージを味わい、父なる神を感じることにしたいと思います。

1:1 アモツの子イザヤの幻。これは彼が、ユダとエルサレムについて、ユダの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に見たものである。
1:2 天よ、聞け。地も耳を傾けよ。【主】が語られるからだ。「子らはわたしが大きくし、育てた。しかし彼らはわたしに逆らった。
1:3 牛はその飼い主を、ろばは持ち主の飼葉おけを知っている。それなのに、イスラエルは知らない。わたしの民は悟らない。」
1:4 ああ。罪を犯す国、咎重き民、悪を行う者どもの子孫、堕落した子ら。彼らは【主】を捨て、イスラエルの聖なる方を侮り、背を向けて離れ去った。
1:5 あなたがたは、なおもどこを打たれようというのか。反逆に反逆を重ねて。頭は残すところなく病にかかり、心臓もすっかり弱り果てている。
1:6 足の裏から頭まで、健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷。絞り出してももらえず、包んでももらえず、油で和らげてももらえない。
1:7 あなたがたの国は荒れ果てている。あなたがたの町々は火で焼かれ、畑は、あなたがたの前で、他国人が食い荒らし、他国人の破滅にも似て荒れ果てている。
1:8 しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。
1:9 もしも、万軍の【主】が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。
1:10 聞け。ソドムの首領たち。【主】のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。
1:11 「あなたがたの多くのいけにえは、わたしに何になろう」と、【主】は仰せられる。「わたしは、雄羊の全焼のいけにえや、肥えた家畜の脂肪に飽きた。雄牛、子羊、雄やぎの血も喜ばない。
1:12 あなたがたは、わたしに会いに出て来るが、だれが、わたしの庭を踏みつけよ、とあなたがたに求めたのか。
1:13 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。香の煙──それもわたしの忌みきらうもの。新月の祭りと安息日──会合の召集、不義と、きよめの集会、これにわたしは耐えられない。
1:14 あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。
1:15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。あなたがたの手は血まみれだ。
1:16 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。
1:17 善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」
1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう」と【主】は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。
1:19 もし喜んで聞こうとするなら、あなたがたは、この国の良い物を食べることができる。
1:20 しかし、もし拒み、そむくなら、あなたがたは剣にのまれる」と、【主】の御口が語られたからである。

 このように、ここには旧約聖書の時代の人々の不信仰という悲惨な失敗と、それに対する神の怒りが書かれています。しかし、ほんの少しですが、希望のメッセージも混じっています。例えば8節、

 1:8 しかし、シオンの娘は残された。あたかもぶどう畑の小屋のように、きゅうり畑の番小屋のように、包囲された町のように。

 そして、18節、

1:18 「さあ、来たれ。論じ合おう」と【主】は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。

 これらの箇所から、主は激しく怒っておられるものの、なおイスラエルの民を愛しておられることがわかります。

おわりに
 このように憐れみ深い父なる神から離れずに私たちは歩んで行きたいと思います。そのためにイザヤ書を読んで神との交わりを感じることができるようになりたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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4月19日礼拝プログラム

2015-04-16 16:33:56 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月19日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

4月 第3聖日礼拝順序

 司  会               小島牧師
 奏  楽                関姉

 前  奏
 讃 美 ①  主イエスのみそばに     441
 交  読  詩篇139:1~12
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  主から受ける安らぎは    440
 讃 美 ③  キリストにはかえられません 465
 聖  書  イザヤ40:1~11
 説  教  『永遠に立つ神のことば』 小島牧師
 讃 美 ④  恵みの高き嶺        414
 献  金
 感謝祈祷                中原兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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地域の光となる教会(2015.4.12 礼拝)

2015-04-14 13:23:58 | 礼拝メッセージ
2015年4月12日礼拝メッセージ
『地域の光となる教会』
【マタイ5:14~17】

はじめに
 私がこの沼津教会の牧師に着任してから2年が経ちました。いま私たちの教会では、礼拝においても祈祷会においても、地域の方々のためにお祈りしています。とりわけ地域の小学校に通う子供たちの交通安全のためには、祈りの課題として挙げて欠かさず祈っています。しかし、1年前までは、地域の子供達の交通安全のことを、祈りの課題に挙げてはいませんでした。

悲しい事故
 そんな中、ちょうど1年前の4月10日の朝、片浜駅の近くの県道の交差点で、学校に登校する途中の小学5年生の男の子が車にはねられて死亡するという、痛ましく悲しい事故がありました。
 その日、私はこの事故のことを昼のニュースで知りましたので、午後に現場の交差点に行き、少し離れた場所からではありましたが祈りを捧げました(少し離れた場所からというのはマスコミのカメラがいくつかあったからです。カメラの前では落ち着いて祈れませんから)。この時、私は祈祷会で子供達の交通安全のために祈って来なかったことを激しく後悔しました。
 というのは、私は前任地の姫路教会においては祈祷会でいつも地元の小学生の交通安全のために祈っていたからです。私が姫路教会でご奉仕していた時の3年前の2012年4月23日に、京都府亀岡市で、登校中の児童と引率の保護者の列に軽自動車が突っ込み、3名が死亡するという痛ましい事故がありました。この事故は全国ニュースでももちろん報じられましたが、その後、関西のローカルニュースでは連日のように、この事故について報じられていました。そして姫路教会の近くでも小学生が列を作って登下校をしていましたから、この事故の後からは毎週必ず地域の子供達の交通安全のために祈るようにしていました。
 そうして、その1年後の2013年の4月に私はこの沼津教会に転任になり、こちらでも祈祷会を始めた時、私は、祈りの課題に地域の子供達の交通安全を挙げることを、すっかり忘れてしまっていました。それは私自身がこの地域に馴染むのに一生懸命で、まだまだ地域の方々のために祈ることに心が向かなかったからだと思うのですが、それにしても、少し前までは姫路教会で毎週のように地域の子供たちのために祈っていたのですから、沼津に慣れた何ヵ月後からには地域のために祈ることを始めていても良かったはずです。それゆえ、去年の4月に片浜駅の近くで事故があった時、私は激しく後悔しました。

地域への祈りで動き始めた事態
 そうして、事故の後の初めての祈祷会の昨年の4月16日の祈祷会では、祈祷課題として

「地域の方々のため、特に子供達とお年寄りの安全が守られるように。地域伝道の中心となる教会の会堂が与えられるように」

を挙げたことが昨年の週報を見るとわかります。そして週報によれば、翌週の4月23日の祈祷会でも、同じ課題で祈っています。次の4月30日は葬儀がありましたから、祈祷会はお休みをして、その次の5月7日も、やはり同じ課題で祈っています。この課題をもう一度、お読みします。

「地域の方々のため、特に子供達とお年寄りの安全が守られるように。地域伝道の中心となる教会の会堂が与えられるように」

 つまり、私たちは、地域の方々のためのお祈りと、会堂が与えられますようにというお祈りとを、セットにして祈っていたんですね。祈祷会で皆さんと共に、「地域伝道の中心となる教会の会堂が与えられますように」と祈っていました。
 それまでも、私たちは会堂問題のために熱心に祈って来ていました。しかし、去年の5月までは、あまり大きな動きはありませんでした。しかし、去年の4月に地域の方々のために祈り始め、その祈りとセットにして「地域伝道の中心となる教会の会堂が与えられますように」と祈り始めて1ヶ月してから、事態が動き始めました。
 記録によれば、去年の5月22日に私は梅雨入りを前にして会堂の屋根に上がりました。屋根の点検と修理をして、梅雨の期間中に雨漏りが無いようにするためです。そして、この時に、屋根の鋼板の腐食が思っていた以上に進んでいることがわかりました。そして、このことを5月25日の幹事会で報告し、その後、幹事以外の教会の皆さんにも報告しました。そしてまた静岡教区の主事とBAにも報告し、聖会準備会で教区の先生方が集まった際には、その場で静岡教区の先生方全員に報告しました。そして、BAから教団の会堂委員長とも相談するようにアドバイスを受けましたので、教団の会堂委員会の委員長に報告し、代表にも報告しました。また上半期感謝献金においては目標金額の半分を会堂献金に充当することにもしました。
 これらを経て、私たちの教会では7月13日に第1回の会堂建設委員会を開いて、屋根の葺き替えは行わずに、新会堂に向かって歩み出すことを確認し合いました。
 こうした経緯を見ると、祈祷会で地域の方々のための祈りと、「地域伝道の中心となる教会の会堂が与えられますように」という祈りとをセットにして祈り始めたことで事態が動き始めたのだなと私はいま、改めて思っています。

地域の光となる教会
 きょうのこの礼拝の後には会堂祈祷会が持たれ、その後に会堂問題に関する特別勉強会の時を持ちます。そこで、きょうのメッセージでは、残りの時間で短く、「地域伝道の中心となる教会」とはどのような教会かを、マタイの福音書を見ながら、ご一緒に考えてみたいと思います。
 では、マタイの福音書の5章を開きましょう。このマタイ5章から7章に掛けては、有名な山上の説教でイエスさまが語られたことが書かれています。きょう見るのは14節から16節までの3つの節です。まず14節と15節、

5:14 あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。
5:15 また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。

 イエスさまは、「あなたがたは、世界の光です」とおっしゃいました。私たちは、世界の光になりたいと思います。しかし、その前にまずは、地域の光になりたいと思います。「地域伝道の中心となる教会」とは、地域の光となる教会のことです。続いて16節、

5:16 このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。

 この16節の「あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て」というところを読むと、クリスチャンは、すごく立派な者でなければいけないというプレッシャーを感じる方もおられると思います。
 よく聞く話ですが、教会に何年も通っているけれども、なかなか洗礼を受ける決心が付かずに、ずっと求道者のままでい続ける人がいます。その求道者の方になぜ洗礼を受けないかと聞くと、自分はそんな立派な人物ではないから、とてもクリスチャンにはなれない、とおっしゃるんですね。その方にとってのクリスチャンとは、とても立派な良い行いをする者というイメージがあるようです。

良い行いとは
 そこで、「良い行い」とは、どういう行いかということについて、もう少し考えてみたいと思います。
 私は、先ずはイエス・キリストを単純に信じて、自分はクリスチャンであることを周囲の人々に公表する、そのことだけで十分に「良い行い」であると言いたいと思います。人に親切にするなどの「立派な行い」をする以前に、単に自分はクリスチャンであることを周囲に向かって明らかにすること、それだけで十分に「良い行い」と言えると思います。(きょうのメッセージでは「良い行い」と「立派な行い」を使いわけることにします。)
 これを車のヘッドライトに例えてみたいと思います。夕方、薄暗くなって来た時、早めにライトを点灯する車と、なかなか点灯しない車とがありますね。この場合、早めにライトを点灯して自分を目立たせるようにすることが「良い行い」です。なかなか点灯しない車は、自分を目立たせることの大切さが良くわかっていないようです。そのようなドライバーは、自分は少々暗くても道が見えるから大丈夫だと思っているのでしょうか。しかし、夕暮れ時になったらライトを早めに付ける必要があるのは、自分が道をよく見えるようにするためではなく、相手から見て自分の姿が良く見えるようにする必要があるからですね。
 私は夕方はよく、そこの県道を渡って海のほうに出て、堤防の上を散歩したりジョギングしたりします。夕暮れ時に道を渡る時は、車がライトを付けてくれていれば、遠くからでもわかりますが、ライトを付けていないと、近くに来ないとわかりません。特にバイクなどはそうです。これは非常に危険です。近くに来なければわからないので、車が来ていないと判断して渡り始めてしまうかもしれません。もしそれで事故が起きれば、ライトを付けていない車は加害者になります。このような事故が起きないようにするために、早めにライトを付ける必要があります。ですから夕暮れ時にはライトを付けて自分を目立たせるだけで、それは「良い行い」であると言えます。
 これは夕暮れ時だけではなく、雨降りの時も同様ですね。私は20代の終わりの頃、1年間だけでしたが、アメリカのテネシー州の研究所で研究員として滞在していました。その時、私は地元の運転免許証を取りました。当初は国際免許があれば、それで大丈夫だと思っていたのですが、中古の車を安く買って保険に入ろうとしたら、地元の免許を持っていないので保険に加入できないと保険屋さんに言われてしまいました。アメリカの交通ルールは全国で統一されてはおらず州によって微妙に違います。たとえば右折するとき、アメリカでは基本的に赤信号でも右折できますが、州によってはできない州もあると聞きます。ですから、ちゃんと地元の州の交通ルールを知って免許を取得していなければ保険には加入できないということでした。
 それで仕方がないのでテネシー州の交通ルールを学んで免許を取得したわけですが、テネシー州のルールでは、ワイパーを動かすほどの雨が降っていたら、ヘッドライトも点灯しなければならないというルールがありました。そのような条件では空が暗くなっているので、ライトを点灯して自分を目立たせる必要があるというわけですね。これは、とても良いルールだと思いましたから、私は今でも、小雨が降って来てワイパーを動かすほどになったら、なるべくライトを付けるようにしています。ライトを付けることが「良い行い」だと思うからです。
 私たちも、イエス・キリストを信じて、それを周囲の人々に伝えるだけで、それは「良い行い」です。人に親切にするなどの「立派な行い」がなかなかできなくても、自分はクリスチャンであることを公表できているなら、十分に「良い行い」ができていると言えると思います。「地域の光となる教会」とは、そういう者たちが集まっている教会です。目立つところに教会があって、私たちはイエス・キリストを信じていますということを、地域の大勢の方々に示すことができて、そして地域のために祈っているなら、それだけで「地域の光」となることができていると言えると思います。

御霊の実
 イエス・キリストを信じるなら、聖霊が注がれます。その聖霊によってきよめられることで、「立派な行い」も少しずつできるようになって行くと思います。ですから、無理して「立派な行い」をしようと思わず、無理なくゆっくりクリスチャンとして堂々と信仰の道を歩んで行くなら、それが「良い行い」です。
 さてしかし、私たちは成長するクリスチャンでありたいと思いますから、長い間にはやはり「立派な行い」もできるようになりたいですね。どうすれば、そのような「立派な行い」ができるクリスチャンに成長することができるでしょうか。それはやはり、御霊に導かれて生きることでしょう。そうすれば、ガラテヤ書に書いてあるような「御霊の実」が現れて来ることでしょう。最後に、ガラテヤ5章の「御霊の実」を見て終わりたいと思います。ガラテヤ人への手紙5章の22節から25節までを交代で読みましょう(新約聖書p.371)。

5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
5:23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
5:24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまったのです。
5:25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

 「立派な行い」とは、努力して行おうとすれば行えるものではなく、御霊によって生き、御霊に導かれて進んで行く時、自然に少しずつできるようになって行くものです。私たちは地域の光となって、聖霊に導かれながら信仰の道を歩んで行きたいと思います。

おわりに
 私たちが放つ光を地域の方々が見て、共に集うことができるような教会を建て上げたいと思います。そして、地域の多くの方々とともに、地域のためにお祈りできるようになりたいと思います。そのように聖霊に導いていただけるようにお祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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2015年1月~12月の行事予定

2015-04-10 19:35:26 | 行事予定
2015年1月~の行事予定(インマヌエル沼津キリスト教会)

 1月 1日(木) 元旦礼拝 午前10時半~
 1月 4日(日) 新年礼拝
 2月 1日(日) 聖餐式礼拝
 4月 5日(日) イースター礼拝
 5月10日(日) 母の日礼拝
 5月24日(日) ペンテコステ礼拝
 7月12日(日) 聖餐式礼拝
 7月20日(月・祝) 賛美と聖書の集い
10月18日(日) 召天者記念礼拝
12月20日(日) クリスマス礼拝・クリスマスの集い
12月24日(木) キャンドル・サービス
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神が何を望んでいるのか

2015-04-09 15:31:31 | 祈り会メッセージ
2015年4月8日祈り会メッセージ
『神が何を望んでいるのか』
【使徒15:1,2】

はじめに
 次の聖日の礼拝の後、私たちは会堂問題に関する特別勉強会の時を持ちます。きょうは、その心備えをする時にしたいと思います。

エルサレム会議
 開いた聖書の箇所は使徒の働き15章です。ここには、エルサレム会議と呼ばれる会議のことが書かれています。
 エルサレム会議が開かれたのは、だいたい紀元50年頃と考えられています。この時、初代教会は分裂の危機の中にありました。キリスト教の初代の教会はペンテコステの日に始まりました。イエス・キリストが復活してから50日目の五旬節の日ですね。この日、エルサレムで、まずペテロやヨハネなどのガリラヤ人たちの弟子たちに、聖霊が注がれました。そして聖霊に満たされたペテロの説教を聞いたユダヤ人約三千人が弟子に加えられて初代教会が誕生しました。この年は紀元30年または33年とされていて、紀元30年とすると、エルサレム会議はその20年後ということになります。この時、教会はエルサレムだけでなく、地中海沿岸の広い範囲で多くの教会ができていました。しかし、みな同じ教えを宣べ伝えていましたから、初代教会という一つの教会の見方をします。そして、この一つの初代教会が、紀元50年頃に分裂の危機の中にありました。
 いま私たちは、会堂問題に取り組んでいます。そして、教会は会堂問題があると分裂することがあるということを聞きます。私たちの教会は、絶対にそんなことがあってはなりません。
 会堂が古くなってきたら、会堂を新しくする必要があります。その新しくするという点では皆が一致していても、どのように新しくするかで、意見が分裂するなら教会が分裂してしまいます。
 今の場所で建て替えれば良いと考える人もいますし、別の土地に移ったほうが良いと考える人もいます。別の土地に移るとなると、自宅から近くなる人もいれば遠くなる人もいます。土地が決まったとしても、どんな会堂にするかで、様々に意見がぶつかり合うことでしょう。何しろお金がたくさん掛かりますから、もし自分の意見が通らなかった場合、じゃ私は献金を捧げるのをやめますとか、私は他の教会に行きます、などということになってしまったら大変なことになります。ですから、私たちは御霊の一致を保って進んで行かなければなりません。

異邦人もモーセの律法を守るべきか
 そこで、きょうは分裂の危機の中にあった初代教会から短く学びたいと思います。結果から言うと、初代教会は分裂の危機を回避することができました。初代教会は、どうして分裂を回避することができたのでしょうか。
 まず初代教会の中で何が問題になっていたのかを確認しておきましょう。使徒の働き15章の1節をお読みします。

15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。

 これはアンテオケでの話です。ある人々がユダヤからアンテオケに下って来ました。アンテオケの場所を地図で確認しておきましょう。地図の一番最後のページの上の、使徒パウロの第1・第2次伝道旅行の図を見て下さい。右端の下のほうにユダヤのエルサレムがあって、その上の北のほうのシリヤにアンテオケがあります。シリヤのアンテオケはユダヤではなく、異邦人の地です。パウロたちは、この異邦人の地で、ユダヤ人ではなく異邦人にイエス・キリストの教えを宣べ伝えていました。そうして多くの異邦人たちが救われてアンテオケの教会は成長していました。
 このアンテオケの地にユダヤからユダヤ人のクリスチャンたちが下って来て、アンテオケの兄弟たちに、モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、本当に救われたことにはならないと教えていたのですね。
 そして、15章2節、

15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

 パウロやバルナバの考えは、異邦人はモーセの慣習に従う必要はないというものでした。モーセの慣習は、ここには割礼のことが書いてありますが、その他にも豚肉を食べてはいけないとか、うろこのない魚を食べてはいけないとか、いろいろあります。パウロやバルナバは、異邦人は豚肉でもうろこのない魚でも、何でも食べて良いと考えていました。イエス・キリストを信じる信仰を持つことが大事であって、異邦人はモーセの戒めを守る必要はないと考えていました。

激しい対立と論争
 このパウロやバルナバの考えは現代の私たち日本人から見れば、当たり前のことです。私たちは豚もウナギも平気で食べますし、割礼も受けていません。しかし、当時の初代教会では大問題になっていました。
 なぜならパウロにしても、説教自体は聖書(旧約聖書)を頻繁に引用しながらの説教だったからです。そうしてイエスこそが聖書でこの世に来ることが預言されていた救い主のキリストであったのだということを教えていました。
 そのようにパウロが頻繁に引用している聖書には、モーセの戒めが書かれています。聖書には、男の子が生まれたら八日目に割礼をしなければならないことが書いてあります(レビ12:3)。パウロはその聖書を引用して、イエスこそが待望されていた救い主であることを説きました。パウロの言っていることは、ユダヤ人のクリスチャンから見れば、大変におかしなことでした。聖書に基づいてイエスこそが救い主であると説くなら、モーセの慣習も守るのが当然ではないかというわけです。
 しかし、パウロとバルナバはゆずりませんでした。救いに必要なのはイエス・キリストを信じる信仰だけであって、モーセの慣習を守らなければ救われないなどということはないと主張しました。そうして2節にあるように、激しい対立と論争が生じたので、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うためにエルサレムに上ることになりました。
 そのエルサレムでは5節のようなことが言われていました。5節、

15:5 しかし、パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり、「異邦人にも割礼を受けさせ、また、モーセの律法を守ることを命じるべきである」と言った。

 そして6節、

15:6 そこで使徒たちと長老たちは、この問題を検討するために集まった。

聖霊が注がれた異邦人
 これがエルサレム会議です。7節、

15:7 激しい論争があって後、ペテロが立ち上がって言った。「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。

 この7節の「あなたがたの間で事をお決めになり」というのは意味がよくわかりませんが、ここには星印があって下に別訳が書いてあります。ここには「あなたがたの中で私をお選びになり」とあります。この訳のほうが意味がよくわかりますから、こちらの訳で考えたいと思います。神はペテロを選んで、ペテロが福音のことばを述べると異邦人が信じたのですね。それは使徒10章に書いてある、異邦人のコルネリオとその親族や友人たちがイエスを信じたことを指します。8節と9節、

15:8 そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
15:9 私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。

 ペテロのことばを信じたコルネリオたち異邦人に聖霊が注がれたことが使徒10章に書いてあります。これが決定的に大事なことでした。パウロもバルナバも、異邦人に聖霊が注がれた例をたくさん見ていました。

神が何を望んでいるのか
 異邦人は割礼を受けていません。その異邦人に聖霊が注がれました。聖霊を注ぐのは神様ですから、神様は割礼をしていない異邦人を救ったということです。これが決定的に大事なことです。人間がどう考えるかではなく、神様がどう考えるかが全てです。神様が割礼をしていない異邦人でも救うことに決めたのですから、もはや人間がどうこう言うことではないのですね。
 人間はいろいろなことを考えます。人間的な考えでは、魚を取る漁師だったペテロが初代教会のリーダーになるなんて有り得ないことです。しかし、神様がそうするのが良いとお決めになって、そうしたから初代教会は成長しました。また人間的な考えでは、クリスチャンを迫害していたパウロがイエス・キリストを宣べ伝えるようになるなんて有り得ないことです。しかし、神様がそうするのが良いとお決めになってそうしたから、異邦人にもイエス・キリストの福音が広く伝わり、アジヤ・ヨーロッパに次々と新しい教会が建て上げられて行きました。
 私たちの沼津教会は、とても小さな群れですから、私たちが新しい会堂を建てることなど、人間的な考えでは有り得ないことです。しかし、神様が私たちに伝道の働きを託したいとお考えになっているなら、それは必ず実現します。彦根教会が良い例です。彦根教会は私たちよりも、もっと小さな群れですが立派な会堂を新しく建てることができました。
 神様はもちろん私たちにも伝道の働きを託したいと思っておられるはずです。
 エルサレム会議で使徒たちと長老たちは、神様が何を望んでおられるのかということに立ち返ることができましたから分裂を回避して一つになることができました。ですから私たちも神様が私たちに何を望んでおられるのかを知り、それに従って行くなら一つになって進んで行くことができるでしょう。

おわりに
 次の聖日には大切な勉強会があります。私たちが一つになって会堂問題に取り組んで行くことができますよう、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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4月12日礼拝プログラム

2015-04-09 14:36:48 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月12日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

4月 第2聖日礼拝順序

 司  会                矢崎兄
 奏  楽                矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  聖なるかな          16
 交  読  イザヤ60:1~9
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  約束の地に         460
 讃 美 ③  目を上げて主のみ顔を    415
 聖  書  マタイ5:14~16
 説  教  『地域の光となる教会』小島牧師
 讃 美 ④  神なく望みなく       367
 献  金
 感謝祈祷                辰仁姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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見ずに信じる者に見える復活のイエス(2015.4.5 イースター礼拝)

2015-04-06 14:11:14 | 礼拝メッセージ
2015年4月5日イースター礼拝メッセージ
『見ずに信じる者に見える復活のイエス』
【ヨハネ9:35~41】

はじめに
 きょうはイエス・キリストが復活したことをお祝いするイースター礼拝です。きょうは、この機会にキリスト教の復活信仰とは、どういう信仰なのかについて、ご一緒に考えてみたいと思います。少し聖書の箇所をあちこち見ることもしてみたいと思います。
 昨年のイースター礼拝の前には近隣にチラシ配布をしましたから、近隣の方々が来て下さる前提で、聖書をあちこち見る説教にはしませんでした。しかし今年は、このイースター礼拝が年会の翌週であることや、私たちの教会も会堂問題のことで少し落ち着きませんでしたから、イースター用のチラシは作りませんでした。ですから、せっかくですから、この機会を活かして、きょうは聖書のあちこちを見て、復活信仰について一般的に言われていることよりも、もう少し深い学びをしてみたいと思います。

死んでも生きるとは
 キリスト教の復活信仰というのは、単にイエスさまが復活したことを信じて、それをお祝いするだけのことではありません。イエスさまが復活したように、私たちもまた復活すると信じることが復活信仰ですね。
 まず、ヨハネの福音書をいま開いていますから、ヨハネの福音書で死者のよみがえりについて書いてあるところを先ず読んで、次にパウロの手紙を読むことにしたいと思います。
 では、まずヨハネの福音書の11章23節から27節までを交代で読みましょう。これは、兄弟のラザロが死んでしまったことを悲しむマルタとイエスさまとの会話です。

11:23 イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」
11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」
11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
11:27 彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」

 25節でイエスさまは、「わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」とおっしゃいました。では「死んでも生きる」とはどういうことでしょうか。次にパウロの手紙を読むと、もっとわかって来ます。コリント人への手紙とテサロニケ人への手紙を読むことにしたいと思います。まず第一コリントを読みましょう。第一コリントで復活のことが書いてあるのは15章ですね。15章の12節と13節を読みましょう(新約聖書p.340)。

15:12 ところで、キリストは死者の中から復活された、と宣べ伝えられているのなら、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はない、と言っている人がいるのですか。
15:13 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。

 パウロはキリストが復活したのだから、死者も必ず復活するのだと書いています。少し飛ばして、20節から23節までを交代で読みましょう。

15:20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
15:21 というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。
15:22 すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。
15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。

 23節でパウロは、おのおのに順番があって、まず初穂であるキリストと書いています。この初穂であるキリストは既によみがえりました。きょうのイースターは、そのキリストの復活をお祝いしています。そして、次にキリストの再臨の時にキリストに属している者がよみがえります。この再臨の時のよみがえりにも、順番があります。そのことはテサロニケ人への手紙に書いてあります。再臨の時に、既に死者となった人と生きている人とでは、どちらが先に天に引き上げられるのか、ということが書いてあります。

死者は今でも眠っているのか
 第一テサロニケ4章の13節から18節までを交代で読みましょう(新約聖書p.399)。

4:13 眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
4:14 私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。
4:15 私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。

 16節に、再臨の時に主イエスご自身が天から下って来て、それからキリストにある死者が先ず初めによみがえり、とあり、17節に、次に、生き残っている私たちが、死者と一緒に雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会う、とあります。
 私が高津教会の一般信徒であった時、この箇所を読んで一つの疑問を持ちました。教会では教会員が亡くなったら、死んだとは言わずに、天に召されたと言いますね。そして葬儀の時には、この兄弟は(或いは姉妹は)天に召されて、イエスさまと会っています、というようなことを言います。
 しかし、いまご一緒に読んだ第一テサロニケの4章を読むと、死者は再臨の時でないと天に引き上げられないようです。それなのに教会員が亡くなった時には天に召されたと言います。何だかつじつまが合わないような気がします。
 私の場合は、ヨハネの永遠観がわかったことで、この問題は解決しましたが、何となくすっきりしていないクリスチャンは、かつての私がそうだったのですから、きっといるのではないかと思います。ですから私たちはヨハネの永遠観で、このことをすっきりと解決しておく必要があります。

肉的な時間観と霊的な時間観
 かつての私はヨハネの永遠観を知りませんでしたから、亡くなったクリスチャンは、まだ天に引き上げられていないのではないかという疑問を持っていました。しかし、この考え方は完全に肉的な「過去→現在→未来」という時間観に縛られた考え方です。私たちが肉体に縛られている間は、どうしても、この時間観から抜け出せません。ですから、この第一テサロニケ4章を読むと、ついつい、「そうか、死者はまだ天に引き上げられていないのか」と思ってしまいます。しかし、息を引き取って私たちの霊が肉体を離れ、肉体の縛りを離れたのなら、この「過去→現在→未来」という時間の縛りからも離れるのですね。主イエスは「過去・現在・未来」が一体の永遠の中におられますから、私たちの霊も、この永遠の中におられる主の御手に完全に委ねられます。ですから、亡くなった時に天に召されたと言うのは正しいのですね。すると、第一テサロニケ4章は間違っているのか、と言うと、そんなことはありません。単に「過去・現在・未来」の時間を肉体に縛られた時間観で見るか、肉体の縛りを離れた霊的な時間観で見るかの違いです。
 テサロニケ人への手紙が書かれたのは、パウロの手紙でも早いほうです。学者によって多少見解の違いがあるようですが、岩上敬人先生の本(『パウロの生涯と聖化の神学』)によれば、一番早く書かれたのが恐らくガラテヤ書で紀元49年頃です。そして第一テサロニケと第二テサロニケが紀元51年~52年頃、第一コリントが53年か54年頃、第二コリントが55年か56年頃、ローマ人への手紙が56年か57年頃です。そしてエペソ書、ピリピ書、コロサイ書、ピレモン書の獄中書簡が書かれたのが60年から62年に掛けてのパウロがローマで軟禁されていた頃だということです。パウロの手紙が書かれた頃は、主の再臨が明日にでも起きると思われていましたから、既に亡くなった死者はまだ眠っていて天に引き上げられていないと考えても、それほど大きな問題にならなかったのかなと思います。しかし主の再臨がなかなかなく、そうこうしているうちにパウロやペテロなどの主だった使徒たちが殉教してしまうと、段々と問題になって来たのかなという気がしますね。パウロ先生もペテロ先生も亡くなってしまったけど、いまだ土の中で孤独に眠っていて、まだ主イエスと会っていないのだろうかと思う人も当然いたことでしょう。
 1世紀の末にヨハネの福音書が書かれたのは、そんな背景もあったのかもしれません。ヨハネの福音書を理解するなら、クリスチャンの死者は孤独に土の中で眠っていると考える必要はありません。そして、ヨハネの福音書をしっかり理解することは、今生きている私たちの信仰生活を豊かにするためにも是非とも必要なことです。

信じるならイエスと霊的な交わりを持つ
 私たちは皆、たいては信仰を持ってから何十年も過ごします。病床で臨終の間際に洗礼を受ける人は別として、信仰を持って洗礼を受けてから天に召されるまでは何十年もの期間があります。その何十年もの間、死んだ後に天国に行けることのみに希望を持って生きるなら、信仰生活は苦しかったり退屈だったり、あまり面白くないものになってしまうでしょう。洗礼を受けても、相変わらず私たちが肉的な「過去→現在→未来」という時間観を持っているなら、そういうことになってしまうでしょう。
 せっかく信仰を持っても教会から離れて行ってしまう方々が大勢います。この教会にもおられますし、それはこの教会に限ったことではなく、どこの教会にもいます。日本中、世界中の教会にいます。その一つの要因は、この肉的な時間観にあるのではないかな、と私は思います。ある時、ふと死んだ後のことが心配になって死んだら天国に行けるようにと信仰を持ったけれども、教会生活を送って行く中では、天国って本当にあるのだろうかと色々と考えてしまうこともあるでしょう。或いは、もう天国行きのパスポートは手に入れたのだから、これ以上教会に通わなくても良いのではないかと考える人もいるでしょう。霊的な喜びを感じることができないなら、そういうことになってしまいます。
 ですから私たちはもっと霊的な喜びを感じながら信仰生活を送りたいと思います。イエス・キリストを信じるなら聖霊が注がれます。聖霊が注がれるとイエス・キリストと霊的な交わりができるようになります。イエス・キリストは永遠の中を生きておられますから、未来の中にもおられます。ですから、イエスさまは私たちの未来についてもご存知です。私たちの未来についてご存知のイエスさまと霊的な交わりを持つとはどういうことなのか、それがどんなに素晴らしい恵みであり、私たちの生活を喜びに満ちたものにしてくれるか、霊的に整えられた信仰生活を送るなら、わかって来ます。
 ここで、先ほどお読みしたヨハネ11章をもう一度読みたいと思います。11章24節をお読みします。

11:24 マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」

 このマルタが言ったことばは、肉的な時間観に基づくものです。これですと、終わりの日にならなければ兄弟のラザロはよみがえらないことになります。しかし、主イエスと共に霊的な永遠の時間の中にいるなら、終わりの日まで間があくことはありません。それが25節の死んでも生きるということであり、26節の決して死ぬことがないということです。25節と26節、

11:25 イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」

 私たちは是非とも肉的な時間観ではなく、霊的な永遠の時間観を大切にして日々の生活を送って行きたいと思います。

霊的に盲目である罪人
 とにかく大事なことは、私たちはイエスさまを信じるなら聖霊が注がれるということです。そして聖霊が注がれることで霊的な目が開かれます。この霊的な目で見ることは、肉的な目で見ることとは全く違うのだということが、きょうの聖書箇所のヨハネ9章のおしまいのほうに書いてあります。残りの時間で、このヨハネ9章のおしまいの箇所を見ましょう。35節、

9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」

 この彼というのは、9章の始めに登場した盲人のことです。この盲人は7節で目が見えるようになりましたから、この35節では、もう盲人ではありませんが、かつては盲人でした。
 2週間前と3週間前の説教で、この盲人は「旧約の時代」にあってはヨシヤ王またはヨシヤ王の時代の人々、そして「使徒の時代」にあってはパウロのことだと話しましたが、この35節以降では、素直に「イエスの時代」の元盲人のことと考えれば良いでしょう。なぜなら、ここでは、まずは盲人の肉的な目のことが言われているからです。この元盲人に対してイエスさまは35節で「あなたは人の子を信じますか」と聞きました。すると、元盲人は36節で答えました。

9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」

 元盲人は目の前にいる人が自分の目に泥を塗ったイエスさまだということが良くわかっていなかったんですね。なぜなら泥を塗った場所と目が開いたシロアムの池とは離れていましたから、盲人の目が開いた時、そこにイエスさまはいませんでした。
 この元盲人にイエスさまは言いました。37節と38節、

9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。

 元盲人の霊的な目は肉的な目が開くと同時に開いていましたから、彼は素直に「主よ。私は信じます」と言うことができました。39節、

9:39 そこで、イエスは言われた。「わたしはさばきのためにこの世に来ました。それは、目の見えない者が見えるようになり、見える者が盲目となるためです。」

 この「目の見えない者が見えるようになり」というのは、目が見えるようになった盲人のことですね。そして、「見える者が盲目となる」とは、どういうことかは、40節と41節を読むとわかります。

9:40 パリサイ人の中でイエスとともにいた人々が、このことを聞いて、イエスに言った。「私たちも盲目なのですか。」
9:41 イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」

 パリサイ人は肉的な目が見えていて、イエスさまがいろいろなしるしを行っているのを見ていました。イエスさまが盲人の目を開けたことも知っていました。このように数々のしるしを見ていながらイエスさまが神の子キリストであることを信じなかったのですから、霊的には全く盲目の状態でした。霊的に盲目な者は罪人のままです。罪人は霊的には死んだ状態にあります。しかし、イエスさまを神の子キリストと信じるなら、私たちには聖霊が注がれて永遠の命を得ることができます。

おわりに
 最後に、きょう聖書交読で読んだヨハネ20章の最後の2か節をご一緒に読みましょう。30節と31節を交代で読みましょう。

20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行われた。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

 私たちはイエスが神の子キリストであることを信じるなら聖霊が注がれて、イエスの御名によっていのちを得ます。
 イースターの日のきょう、私たちはイエス・キリストが永遠の中を生きているお方であることを、改めて確認したいと思います。そして、イエスさまが共におられるのなら、私たちもまた既に永遠の中にいるのだということを、しっかりと感じることができるようになりたいと思います。そうして霊的に豊かな信仰生活を送ることができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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崇高な理想を現実にするために(2015.4.1 祈り会)

2015-04-02 18:31:13 | 祈り会メッセージ
2015年4月1日祈り会メッセージ
『崇高な理想を現実にするために』
【ヨハネ13:34】

はじめに

13:34 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 次の聖日礼拝は、イースター礼拝になります。イースターの日に私たちはイエス・キリストの復活をお祝いします。イエス・キリストは、復活する三日前の金曜日に十字架に掛かって死にました。その前日の木曜日の晩には最後の晩餐がありました。
 いまお読みしたヨハネ13:34のイエス・キリストが弟子たちに与えた新しい戒めは、この最後の晩餐の場で与えられたものです。
 この「互いに愛し合いなさい」という戒めは、非常にシンプルですが、守るのが大変に難しいことを私たちは良く知っています。私たちの身の回りでも、或いは世界においても争い事が絶えません。それは私たちが互いに愛し合うことができていないからです。このように「互いに愛し合うこと」は大変に難しいゆえに、それは「崇高な理想」と言えるのかもしれません。きょうは、この「崇高な理想」をキーワードにして話を進めて行きたいと思います。
 何週間か前の祈り会のメッセージの中で、これから私はヨハネの福音書と平和憲法とを絡めて論じることで世にアピールして行きたいということを短く話したと思います。このアイデアが段々と私の頭の中で熟して来ていますので、きょうは、このことについて話したいと思います。そうして私としてはイースターを機に、この構想を文章にまとめる仕事を加速させたいと考えています。

崇高な理想を掲げる日本国憲法
 ここで、皆さんのお手元に現行の日本国憲法と自民党の憲法改正草案〔平成24年4月27日(決定)〕との対照表をお配りします。まず、現行の日本国憲法の前文の全体をお読みします。この中で、第二段落の最初の文と、この前文の最後の締めくくりの文の2箇所に「崇高な理想」という言葉が出て来ますから、この「崇高な理想」を含む文には特に注目していただきたいと思います。

(前文)
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

理想を掲げない自民党案
 次に、自民党の日本国憲法改正草案の前文の全体をお読みします。

(前文)
 日本国は、長い歴史と固有の文化を持ち、国民統合の象徴である天皇を戴く国家であって、国民主権の下、立法、行政及び司法の三権分立に基づいて統治される。
我が国は、先の大戦による荒廃や幾多の大災害を乗り越えて発展し、今や国際社会において重要な地位を占めており、平和主義の下、諸外国との友好関係を増進し、世界の平和と繁栄に貢献する。
 日本国民は、国と郷土を誇りと気概を持って自ら守り、基本的人権を尊重するとともに、和を尊び、家族や社会全体が互いに助け合って国家を形成する。
我々は、自由と規律を重んじ、美しい国土と自然環境を守りつつ、教育や科学技術を振興し、活力ある経済活動を通じて国を成長させる。
 日本国民は、良き伝統と我々の国家を末永く子孫に継承するため、ここに、この憲法を制定する。

 ご覧になってわかるように、この自民党の草案には、「理想」という言葉が使われていません。

互いに愛し合うという崇高な理想
 もう一度、現行の日本国憲法の前文に戻って、まず一つ目の「崇高な理想」が使われている第二段落の最初の文を見てみたいと思います。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」

 この一つ目の「崇高な理想」を含む文から読み取れることは、私たちの安全と生存は武力によって保つのではなく、他国の人々を信頼することで保つことにした、ということです。他国の人々もまた、日本人と同様に平和を愛しているのだから、それらの人々を信頼して武力は使わないことにしようというわけです。このような愛と信頼に基づくなら平和は必ず実現すると信じているわけですね。これこそが人と人との関係を支配する「崇高な理想」です。
 こうして現行の憲法の前文を改めてしげしげと眺めてみると、「崇高な理想」とは正にイエスさまがおっしゃった「互いに愛し合いなさい」のことなのだという思いがします。
 そして、もう一つの「崇高な理想」は前文を締めくくる最後の文にあります。

「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。」

 ここにあるように私たち日本人は、この「崇高な理想」を全力で達成することを誓っています。
 自民党の憲法改正草案では、この「崇高な理想」を目標に掲げることをやめてしまっています。確かに、この「崇高な理想」は理想的すぎて現実には合わないのかもしれません。しかし、理想とする目標が無ければ、私たちはその時代その時代の現実に合わせて迷走してしまうことになるでしょう。
 二千年前にイエスさまが「互いに愛し合いなさい」とおっしゃったことが守られていないことは確かです。しかし、それでも少しずつ少しずつ、前進と後退を繰り返しながらも良い方向へ向かって来ることができたのだと思います。そして20世紀の半ばの1946年になって遂に私たち日本人は「崇高な理想」を掲げる憲法を手に入れることができました。この憲法の草案はGHQによって作成されたものだから「押し付け」であるという人も少なくありませんが、押し付けでも何でも「崇高な理想」を掲げることができたことは素晴らしいことだと私は思います。その「崇高な理想」を掲げることをやめるようなことは決してしてはならないと私は考えます。

過去を忘れる横方向の時間観
 一体どうして「崇高な理想」は実現不可能な非現実的なことと考えられているのか、それはやはり、私たちがあまりにも横方向の歴史観・未来観に囚われているからだろうと思います。横方向の歴史観・未来観とは、時間軸を横軸にしている時間観のことです。この時間観ですと、時が経つに連れて過去のことはドンドン遠ざかって行きます。そうして過去の悲惨な失敗のことを忘れてしまうようになります。70年前に日本では沖縄が地上戦の戦場になり、また日本全国の多くの市街地が米軍による焼夷弾のじゅうたん爆撃で廃墟となり、さらには広島・長崎に原爆が投下され、ここに至ってようやく日本は降伏して戦争が終わりました。もっと早くに降伏していれば、さらに言えば日本が戦争を始めていなければ、このような悲惨な結果にはなりませんでした。ですから、これは明らかに悲惨な失敗です。横方向の歴史観では、この過去の悲惨な失敗からドンドン遠ざかって行ってしまいます。

悲惨な過去を土台にした縦方向の時間観を持とう
 ですから、私たちは縦方向の、上向きの歴史観・未来観を持つべきです。私たちの足下にはいつも過去の悲惨な失敗があります。その土台の上に立って未来に向かって行かなければならないと思います。
 過去に悲惨な失敗の経験を持つ国は日本だけではありません。すべての国が過去に悲惨な失敗の経験を持つことでしょう。私たちは、これらの国々の過去のすべての悲惨な失敗を、人類共通の財産とすべきです。これは、縦方向の歴史観を持つなら、共通の土台として共有することができます。
 そして、この縦方向の歴史観・未来観のお手本がヨハネの福音書の積み重なる構造です。ヨハネの福音書の構造は、

  新約聖書
 ↑旧約聖書↑

という旧約聖書の上に新約聖書が積み重なる構造になっています。しかし、私たちがあまりにも強烈に横方向の歴史観・未来観を持っているために、

  旧約聖書→新約聖書

というように時間が経過したと理解してしまっています。「崇高な理想」は上方にありますから、横方向に進む限り、「崇高な理想」は視野に入って来ません。視野に入って来ないから、憲法の前文から「崇高な理想」を掲げるのをやめてしまおうということにもなるのだと思います。
 私たちは「崇高な理想」を掲げることを決してやめてはなりません。
 これから日本では、憲法改正に関する論議が活発になって行くはずです。このことは「崇高な理想」に関して考える良い機会になると思います。ヨハネの福音書でイエスさまがおっしゃっている「互いに愛し合いなさい」という新しい戒めは正にこの「崇高な理想」のことであると言えます。私たちの教会は、このことをしっかりと発信して行きたいと思います。

おわりに
 少し前の祈祷会で私は、この教会の二つの大きな柱として、

 ①平和のメッセージを発信すること
 ②地域のために祈ること

を示しました。
 この働きをしっかりと行っていくなら、新しい会堂は自ずと与えられると私は確信していますから、皆さんとともに力強く前進して行きたいと思います。
 きょうは明日の木曜日の最後の晩餐を前にして、イエスさまが「互いに愛し合いなさい」とおっしゃったことを改めて噛み締めることができたことを感謝したいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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4月5日イースター礼拝プログラム

2015-04-02 17:02:40 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

4月5日 イースター礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

4月 第1聖日イースター礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  暗い墓の奥深く       149
 交  読  ヨハネ20:19~31
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  カルバリ山の十字架     120
 讃 美 ③  スピリット・ソング      57
 聖  書  ヨハネ9:35~41
 説  教  『見ずに信じる者に見える復活のイエス』小島牧師
 讃 美 ④  私をゆるすために      314
 献  金
 感謝祈祷                中原姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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