インマヌエル沼津キリスト教会

十字架から二千年の2033年までに平和を
沼津市今沢34番地 Tel.055-966-2612

神の愛に信仰の根を下ろす(2014.8.31 礼拝)

2014-08-31 23:40:09 | 礼拝メッセージ
2014年8月31日礼拝メッセージ
『神の愛に信仰の根を下ろす』
【ルカ15:25~32】

はじめに
 ここ何週間かの礼拝説教では「降り積もる時間」ということに、こだわった説教をしています。そして水曜日の祈祷会の説教では、さらに踏み込んで「降り積もる時間」に「根を下ろす」ということについて思いを巡らしています。
 この「降り積もる時間に根を下ろす」ということについて、私の頭の中で、だいぶ整理されて来た気がしますので、きょうは礼拝に集っている皆さんとも、このことを分かち合いたいと願っています。

信仰の種
 祈祷会の説教では、私は信仰を植物の種に例えています。一人一人の信仰を、一粒一粒の植物の種に例えています。そして、信仰の芽生えが種の発芽に当たります。信仰が発芽していない種は、風が吹けばどこかに転がって行き、大雨が降ればどこかに流されて行きます。同様に、信仰が芽生えていない人は、流れる時間の中で、時間に流されるままになっています。じっとしていても過去→現在→未来という時間に流されて行き、一刻一刻、人生の終幕へと近付いて行きます。人生の終幕とは「死」のことです。時間に流されている人は時々刻々「死」に近付いていることに漠然とした不安を感じ、なるべく「死」から目をそらそうとします。しかし、流れる時間は非情ですから、人を刻々と人生の終幕へと運んで行きます。信仰の根が生えていない人は、このように時間に流されながら、常に漠然とした不安の中を生きています。
 それに対して信仰の種が発芽している人は「降り積もる時間」の中にいて、信仰の根を下へ下へと下ろして行くとともに、天に向かっても成長して行きます。発芽した信仰の種が根を下ろして行く地面の土は、下へ行くほど昔です。下へ行けば行くほど遠い昔に積もった土があります。ですから、聖書で言えば新約聖書は比較的浅い所にあり、旧約聖書はもっと深い所にあります。そして種が発芽する地表付近は現在です。
 ごく一般的に言えば、信仰の種の発芽は、まず教会で聖書の話を聞くことで起こります。この、種が発芽したばかりの段階では大雨が降って表面の土が流されれば、種も土と一緒に流されてしまいます。発芽した種がその場で成長して行くためには根を下に下ろして行く必要があります。初めのうちは教会で聖書の話を聞くだけでも成長できますが、信仰がさらに成長するためには、自分で聖書を読んで思いを巡らし、神様との個人的な関係を築く必要があります。そのためには聖書の時代へと信仰の根を下ろして行かなければなりません。先ずは新約聖書だけでも良いと思いますが、もっと大きく成長するためには、さらに深い所にある旧約聖書にも根を下ろして行くことが望まれます。

アダムにまで根を下ろす必要性
 ここで、ルカの福音書3章にある系譜を見ていただきたいと思います。先日の祈祷会でも開いた箇所ですが、ルカ3章の23節から38節に掛けて、イエスの父ヨセフの家系が載っています。この系譜はマタイの福音書のそれとは逆になっています。マタイの福音書はアブラハムに始まってダビデ王、そしてバビロン捕囚期を経てヨセフに至っています。しかし、ルカの系譜ではヨセフに始まって時代が遡って行きます。31節にダビデの名があり、34節にヤコブ・イサク・アブラハムの名があり、そして38節に最初の人のアダムの名があります。
 これはちょうど、信仰の種が発芽して根が段々と深い方向に伸びて行く様子を表しているように私は感じました。イエス・キリストを信じることによって地表付近にある信仰の種が発芽して根が地中の深い方へと伸びて行き、根が一番深い所にあるアダムに達することで信仰がしっかりと根付きます。イエス・キリストを信じて洗礼を受けても教会から離れて行ってしまう人たちがいますが、それは根がアダムにまで達していないからではないかと思います。
 ここでアダムを知ることが信仰を確立する上で大事な理由を三つ、挙げておきたいと思います。私たちはアダムを知ることで次の三つのことを知ることができます。

①神がアダムを造り、私たちの命も神が造ったということ。
②アダムが罪を犯してエデンの園を追放されたために、私たちもまた旅人となったこと。私たちの地上生涯は旅の生涯です。だからこそ信仰において根を下ろしている必要があります。このことは、後でルカ15章を見ながら説明します。
③パウロがローマ人への手紙に書いているように、一人の違反によって全ての人が罪に定められたのと同様に、一人の義の行為によって全ての人が義と認められ、命を与えられていること。

 この③のローマ人への手紙の箇所はご一緒に見ておきたいと思います。ローマ人への手紙5章18節と19節です(新約聖書p.297)。
 まず18節、

5:18 こういうわけで、ちょうどひとりの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、ひとりの義の行為によってすべての人が義と認められ、いのちを与えられるのです。

 「ひとりの違反によって」の「ひとり」とはアダムのことであり、「ひとりの義の行為」の「ひとり」とはイエス・キリストのことです。19節でも同じ意味の言葉が繰り返されます。

5:19 すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。

 このようにアダムとイエス・キリストは緊密な関係にありますから、イエス・キリストを深く知る上でアダムを知ることは不可欠であると言えます。

神が私たちを造った
 また先ほど一番目に挙げたようにアダムは神によって造られましたから、アダムを知ることは私たちの命が神によって造られたのだということを知ることでもあります。私たちの命が神によって造られたことを信じることは信仰の根幹に関わることですから、やはり信仰は根がアダムにまで下りて初めてしっかりと根付くと言えるのでしょう。「神が私たちを造った」という場合、神様が私たちを粘土細工のようにして一から造ったと考える必要は無いと私は個人的には考えています。サルの遺伝子の一部を神が書き換えてヒトを造ったと考えても全く問題無いと私は考えます。サルの遺伝子が偶然に書き換わって人類が誕生したと考えるなら信仰は成り立ちませんが、偶然ではなくて神が書き換えたのなら信仰は成り立ちます。大事なのは、そこに神の意思が介在しているか否かです。神の意思が介在しているなら私たちは神によって造られたことになります。
 もし私たち人類が偶然によって誕生したなら、私たちは別に神の愛を信じる必要はありませんし聖書の戒めを守る必要もありません。神が私たちを造ったからこそ神は私たちを愛し、私たちが神から離れないように戒めを与えて下さいました。信仰の根がアダムにまで下りていないなら、この事が非常に曖昧になってしまいます。このことが曖昧なままでは信仰が根付いているとは言えません。
 宇宙にある物質で人類がわかっているのはわずか5%で、残りの95%は暗黒物質と暗黒エネルギーと呼ばれています。暗黒ですから、その正体はわかっていません。宇宙の5%しかわかっていないのに神はいないと信じることと、聖書という確かな書を基に神はいると信じることの、どちらが理に適っているかと言えば、私は神を信じることのほうが余程、理に適っていると考えます。

旅人の私たちにも生えている信仰の根
 さて、ここまでイエス・キリストからアダムにまで下りる信仰の根について話して来ましたが、信仰の根とはどういうものかということを、これから掘り下げて行きたいと思います。
 私たちの地上生涯は天の御国に入るまでの旅です。私たちは皆、旅人です。旅人だと根が無いようにも思えますが、旅人である私たちにも信仰の根は生えています。信仰の根とはそういうものです。
 『男はつらいよ』の寅さんに例えるなら、寅さんは旅暮らしをしていますが、心はいつも葛飾柴又の人々とつながっています。ですから寅さんの心の根は故郷の葛飾柴又に根付いています。体は葛飾柴又になくても心の根は故郷の葛飾柴又にあります。
 私たちの信仰の根も同様です。アダムが故郷のエデンの園から追放されて以来、私たちの生涯は旅の生涯となりましたが、旅の中にあっても私たちが神と和解するなら、私たちの信仰の種が発芽して、信仰の根が故郷のエデンの園へと伸びて行きます。
 ですから、信仰の根は体がどこにあるかには関係ありません。このことをルカの福音書15章の「放蕩息子の帰郷」の箇所でさらに見て行きましょう。
 ルカ15章の「放蕩息子の帰郷」については、ほとんどの皆さんが良くご存知のことと思いますが、いちおう初めから簡単に説明しておきますと、話の発端は11節から13節までに書いてあります。これはイエスさまがパリサイ人たちに対してした話です。11節から13節までをお読みします。

15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。

 こうして父の財産を使い果たした末に弟息子は我に返り、故郷の父の家に戻りました。帰郷した弟息子を父は抱き、祝宴を始めました。すると、それを知った兄息子が怒り始めました。それが司会者に読んでいただいた箇所です。25節から読んで行きます。25節、

15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。

 「兄息子は畑にいた」とありますから、弟息子が遠い国で放蕩三昧をしていた間も、兄息子は父親の家にいて真面目に働いていたのですね。地元で地道に働き続けている人を見て、私たちは「この人は地域に根を下ろしている」という言い方をします。そういう一般的な意味では、この兄息子は地元の地域に根を下ろしていました。しかし、兄息子は信仰面においては根を下ろしていなかったということを、きょう私たちはこの箇所から学びたいと思います。

信仰の根が下りていなかった兄息子
 先日の祈祷会でも取り上げたのですが、『置かれた場所で咲きなさい』(渡辺和子著、幻冬舎)という本がありますね。140万部を超えるベストセラーの本ですから、皆さんも読んだことは無くても、この本の名前ぐらいは聞いたことがあると思います。東京で育った著者は三十代の半ばの時に岡山という未知の土地に派遣され、しかもその若さで学長という風当たりの強い大変なポストに置かれてしまいました。そうして四苦八苦していた著者に、「置かれた場所で咲きなさい」という助言を与えてくれた宣教師がいたのだそうです。このことが、この本の冒頭に先ず書いてあります。この本は一般向けの本ですから、先ずは置かれた土地や地位にしっかりと根を下ろしてその場所で花を咲かすことができるように励むことが勧められています。しかし、この本を読み進めて行くなら、著者が本当に言いたいことは、それぞれの土地や地位に根を下ろすことではなくて信仰の根を下ろすことであると気付きます。
 では、信仰の根を下ろすとはどういうことなのでしょうか。ルカ15章の兄息子の箇所をさらに読み進めて行きたいと思います。15章の26節から28節までをお読みします。

15:26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。

 家に入ろうともしないほど怒った兄息子の言い分は次の通りでした。

15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』

 私が、このルカ15章を初めて読んだのが、教会生活を始めてからどれくらいの時期だったか、よく覚えていないのですが、私はこの箇所を初めて読んだ時に兄息子の言い分はもっともなことだと思いました。兄息子が怒るのは当たり前であり、父が言うことを良く理解できませんでした。父は兄息子に次のように言いました。31節と32節、

15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

 この父親の言葉に共感できなかった当時の私の信仰の根も、まだほとんど伸びていなかったということです。信仰の芽が発芽はしていた時期だと思いますが、根はまだほとんど伸びていなかったのだと思います。

父の愛を吸収する信仰の根
 と言うのは、伸びた根が吸収するのは父の愛だからです。天の父は、ご自身が造られた人間の全てを愛しておられます。ですから父はアダムのこともカインのことも、弟息子のことも兄息子のことも、そして私たちのことも、ご自身が造られた子の全てを愛しておられます。ですから「降り積もる時間」とは、実は神が愛しておられる子らに注がれ続けている神の愛であると私は言いたいと思います。
 アダムがエデンの園を追放されて以来、人は時間の中を生きるようになりました。エデンの園には時間はありませんでしたが、エデンの園の外には時間があります。そうして人は時間に流されるようになり、刻一刻と死に向かって行くという不安の中を生きなければならなくなりました。
 しかし、神に心を向け、神と和解するなら信仰の芽が発芽して、「流れる時間」ではなく「降り積もる時間」の中に身を置くことができるようになり、降り積もる神の愛を根から吸収しながら天に向かって成長することができるようになります。天からは神の愛が常に降り注ぎ続け、地表に積もり、地中も過去に降り積もった神の愛で満たされていますから、私たちは上からも下からも神の愛を受けることができます。そうして信仰が成長し続けて根がアダムの時代のエデンの園にまで下りて行くなら、そこは時間が無い世界です。こうして信仰の根がエデンの園にまで達するなら、私たちは過去も現在も未来もないヨハネの永遠の世界を、この世にいながら味わうことができるようになります。
 ここまで話して来たように、信仰の根は、一つの土地にいるかいないかには無関係です。兄息子は地元でずっと生活していましたが、信仰の根が伸びていませんでした。ですから、父の愛を吸収して感じることができませんでした。ルカ15章の12節には、父が二人の息子に自分の財産を分けてあげたことが書いてあります。父が分け与えた本当の財産とは、父の愛とも言えるでしょう。兄息子はこのことに気付いていませんでした。しかし、弟息子の方は、目に見える財産を使い果たしてしまった時に我に返り、父の本当の財産にぼんやりと気付くことができました。こうして弟息子の信仰の芽が発芽して根を伸ばし始めることができました。
 私たちは、この信仰の根を地中の深くにまで伸ばして本当の財産である神の愛をしっかりと吸収し、天に向かって成長して行ける者たちでありたいと思います。

根が無い人間は困っている
 最後に、これもまた先日の祈祷会で話したことですが、『星の王子さま』を引用したいと思います。サン=テグジュペリの有名な『星の王子さま』の18章にこんな場面があります。そんなに長くはないので18章の全文を引用します(内藤あいさ訳、Kindle版)。
 この時、星の王子さまは地球に来たばかりで、まだ人間に出会っていませんでした。それは着いた場所が砂漠だったからです。地球に着いた王子さまは先ず砂漠の蛇に出会い、次に砂漠の花に出会いました。これから読むのは王子さまが砂漠の花に出会った場面です。

18章
 王子さまは砂漠を横切ったのですが、出会ったのは一輪の花だけでした。花びらが3つの何でもない花でした。
「こんにちは」
と王子さまは言いました。
「こんにちは」
と花が言いました。
「人間はどこにいるの?」
と王子さまはたずねました。
 ある日、花はキャラバンが通るのを見たことがありました。
「人間?6、7人はいるみたいですね。数年前に見たことがあります。でも、どこで会えるのかわかりません。風に吹かれて歩き回りますから。根がないから困っているんだと思います」
「さよなら」
と王子さまが言いました。
「さよなら」
と花が言いました。
(18章おわり)
 
 砂漠の花は、数年前に一度だけキャラバンが通るのを見たことがあったので、人間というのは6、7人程度だと思っていました。そして、根がある花から見ると人間は風に吹かれて彷徨っているようで、とても困っているように見えたということです。
 根の無い人間が困っているというのは、本当にその通りです。きょう話して来た通り、根の無い人は「流れる時間」の中を生きており、刻一刻と「死」という人生の終幕に向かって行く漠然とした不安の中で生きています。そのように一人一人が不安でいることと、平和な世界が実現できないこととは密接に関係しています。一人一人の心がもっと安定しているのなら、私たちはもっと互いに愛し合い、赦し合うことができるようになり、世界も平和に向かって行くのだと思います。

おわりに
 この沼津の地域の方々も多くの方が、そのような不安の中で生きていることと思います。私たちはこの地域の方々の信仰の種が発芽して根を伸ばして行くことができるように働いて行きたいと思います。そのためにも私は、この信仰の種の例えを、もっとブラッシュアップして行きたいと思っています。そして9月15日の千本プラザでのメッセージでは、パワーポイントを用いて図を使いながら説明したいと願っています。このためにもお祈りしていただけたらと思います。
 地域の方々が教会に集い、信仰の種が発芽して根を下ろし、皆が私たちの故郷であるエデンの園にまで根を下ろし、神の愛を上からも下からも受けることができるようになるよう、私たちは、この地で働いて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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置かれた場所で根を張る(2014.8.27 祈り会)

2014-08-28 13:36:18 | 祈り会メッセージ
2014年8月27日祈り会説教
『置かれた場所で根を張る』
【ルカ3:23~38/19:41~42】

はじめに
 先週の祈祷会のメッセージでは『大木の信仰』というタイトルで話をして、信仰を大木に例えました。樹齢が百年を越えるような大木がある森に足を踏み入れると、そこには日常とは異なる時間が存在することを感じます。その例として富士箱根ランドの近くにある函南原生林を挙げました。
 函南原生林には樹齢五百年と言われるアカガシの木があり、その周辺には、まさに日常とは異なる時間が存在します。異なる時間が「流れている」のではなく、そこでは時間が正に「存在する」という雰囲気が漂っています。時間が流れているのではなく、「降り積もっている」のです。このアカガシの木の周辺には地表から上の部分だけでも五百年という時間が存在しますが、先週のメッセージでは木の「根」の方にも注目してみました。
 木は上に向かって成長するとともに、地中深くに根を伸ばして行きます。その地中の土は時間が降り積もって出来ています。根っ子の先端が伸びていく一番深い所は何千年前の土なのか何万年前の土なのか正確なことはわかりませんが、深い所ほど古い昔の地層があります。そして先週は、一人一人の信仰を木の種に例えました。原生林であれば、そこに繁っている木は人が植樹した木ではなく、種が発芽して大きな木へと育っています。この、一粒一粒の種の発芽が一人一人の信仰の芽生えです。発芽した信仰は、上に向かって成長するとともに地中へ根を伸ばして行き、土から水分や養分を吸収します。そうして先週は、教会で聞く説教を地表付近の土に例え、新約聖書をもう少し深い所にある土、そして旧約聖書をもっと深い所にある土に例えました。発芽する前の種は地表付近にありますから、先ずは教会で聖書の話を聞いて発芽して、最初の成長を始めます。最初のうちは教会の説教を聞くだけで成長できますが、もっと成長して行くためには自分で聖書を読んで霊的な水分と養分を吸収して行く必要があります。先ずは新約聖書だけでも構いませんが、さらに成長するためには、もっと深い所にある旧約聖書にも根を伸ばして行って、そこからも水分と養分を吸収する必要がある、という話をしました。

ルカによる時間の重なりの表現
 さて以上のような話を先週してから、私はさらに木の根についての思い巡らしをしていて、ふと今日の聖書箇所のルカ3章の系図のことが思い浮かびました。ルカの系図はマタイの系図とは逆になっています。マタイの系図はアブラハムから始まってダビデ、そしてバビロン捕囚期を経てイエス・キリストに至ります。しかしルカの系図ではイエス・キリストから始まってダビデやアブラハムに遡り、さらに最初の人のアダムにまで遡って行きます。このルカの系図から私は、種がイエス・キリストの時代に発芽して根が地中深くに伸びて行く様子を思い浮かべました。地表付近にイエス・キリストがいて、土の一番深い所にアダムがいるというわけです。ルカがこのような地層をイメージしていたかどうかは、もちろんわからないことですが、ルカは瓦礫に埋もれるエルサレムのことを予告して泣いたイエスさまの姿を描いていますから、地層の重なりのことを、他の福音書の記者よりも意識していたような気もします。そのルカの箇所は少し前の礼拝でもご一緒に読みましたが、もう一度開いてみたいと思います。ルカの福音書の19章の41節から44節までです。交代で読みましょう。

19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
19:42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
19:43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
19:44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

 これは紀元30年頃のイエスさまが、40年後の紀元70年のローマ軍の攻撃によってエルサレムが滅亡する様子を予告して泣いている場面です。44節の「一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない」とはエルサレムの街が破壊し尽くされて廃墟となるということでしょう。かつてエルサレムはバビロン捕囚の時にもバビロンの王のネブカデネザルの軍によって滅ぼされています(Ⅱ列王25章)。そうしてバビロン捕囚から帰還してエズラ・ネヘミヤの時代に復興しましたから、イエスさまが見ていたエルサレムの街も過去の戦災の瓦礫の上に再建された街でした。そんな風にしてエルサレムは何層にもわたって過去の戦争の傷跡が積み重なっています。ルカはそんな風にして時間が降り積もって行くことを意識していたのかもしれないと思いました。

根が無くて困っている人間
 しかし多くの人々は、時間とは流れるものであると思っていますから、過去のことを忘れて、またしても同じ過ちを犯します。
 時間に流されて過去を忘れてしまう人間は、発芽せずに風に吹き飛ばされてアチコチを彷徨う種に例えることができそうです。
 サン=テグジュペリの有名な『星の王子さま』の18章にこんな場面があります。そんなに長くはないので18章の全文を引用します(内藤あいさ訳、Kindle版)。この時、星の王子さまは地球に来たばかりで、まだ人間に出会っていませんでした。それは着いた場所が砂漠だったからで、まず砂漠の蛇に出会い、次に砂漠の花に出会いました。これは王子さまが砂漠の花に出会った場面です。

18章
 王子さまは砂漠を横切ったのですが、出会ったのは一輪の花だけでした。花びらが3つの何でもない花でした。
「こんにちは」
と王子さまは言いました。
「こんにちは」
と花が言いました。
「人間はどこにいるの?」
と王子さまはたずねました。
 ある日、花はキャラバンが通るのを見たことがありました。
「人間?6、7人はいるみたいですね。数年前に見たことがあります。でも、どこで会えるのかわかりません。風に吹かれて歩き回りますから。根がないから困っているんだと思います」
「さよなら」
と王子さまが言いました。
「さよなら」
と花が言いました。
(18章おわり)
 
 砂漠の花は、数年前に一度だけキャラバンが通るのを見たことがあったので、人間というのは6、7人程度だと思っていました。そして、根がある花から見ると人間は風に吹かれて彷徨っているようで、とても困っているように見えたということです。
 この、砂漠の花から見た人間の姿について、6、7人しかいないということはともかくとして、根が無いから困っているということについては、全くその通りであると大いに納得します。

根を下ろして張り巡らそう
 多くの人々は時間とは流れるものであると思い込んでおり、その流れる時間の上で漂流しており、じっとしていても一刻一刻、「死」という人生の終幕に近付いて行くことに漠然とした不安を抱いています。
 しかし時間は流れるものではなく、降り積もるものであるということは、これまで話して来た通りです。そしてヨハネの福音書は、そのような時間が降り積もる構造を持っています。その降り積もる時間の中で信仰の種を発芽させ、根を下へ下へと下ろして聖書のみことばから霊の水と養分を吸収するなら上に向かって成長して、天の御父と御子との交わりの中に入れていただくことができます。
 今話した根を下へ下へ降ろすという表現は、渡辺和子シスターの『置かれた場所で咲きなさい』でも使われている表現です。この『置かれた場所で咲きなさい』は140万部を超えるベストセラーになっていますから、皆さんも良くご存知のことと思います。
 渡辺シスターはこの本で、置かれた場所で咲くことの大切さを説いた後に次のようにも書いています。

「どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。」(p.13)

 とても励まされる言葉ですね。世の人々は、こういう励ましを求めているのだなということが良くわかって、私もこの本にはとても感謝しています。
 この「置かれた場所で咲く」ことの大切さは、組織に属している人なら、どんな組織にいる人でも当てはまることだと思いますが、われわれインマヌエル教団の牧師にも、実にピッタリと来る言葉だなと思うことです。どんな教会でも、沼津教会でも、十和田教会でも、下関教会でも、私の出身教会の高津教会でも、それぞれに固有の問題を抱えていて、牧師はその問題に立ち向かっています。それぞれの教会にはそれぞれ固有の問題がありますから、花を咲かせる方法は異なるだろうと思います。ですから、なかなか花が咲かなくて大変な思いの中を通ることもあると思います。「そんな時には無理に咲かなくてもいい。
根を下へ下へ降ろして、根を張るのです」という言葉は本当にその通りだなと思います。

おわりに
 牧師に限らず、私たちは皆、置かれた場所で、下へ根を下ろして根を張り巡らせて、聖書のみことばから霊的な水分と養分を吸収するなら、神様が素晴らしい恵みを与えて下さいます。
 降り積もる時間の中で根を下ろし、根を張り巡らせて、地域の方々ともこの素晴らしい恵みを分かち合うことができる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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さんびと聖書の集い(2014.9.15)のご案内

2014-08-28 11:45:15 | 特集
<さんびと聖書の集い>
 『平和と聖書』
 日時:9月15日(月・祝)午後2時~3時半
 場所:千本プラザ(沼津市)2階・大会議室

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8月31日礼拝プログラム

2014-08-28 07:32:32 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

8月31日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

8月 第5聖日礼拝順序

 司  会             西村兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  遠き国や          436 
 交  読  詩篇46篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  雨をふりそそぎ        308
 讃 美 ③  キリスト 教会の主よ   229
 聖  書  ルカ15:25~32
 説  教  『本当の財産に根を下ろしていない兄息子』 小島牧師
 讃 美 ④  とうとき主こそ私の     392
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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積み重なる証言(2014.8.24 礼拝)

2014-08-25 08:27:08 | 礼拝メッセージ
2014年8月24日礼拝メッセージ
『積み重なる証言』
【ヨハネ1:19~23/21:24~25】

はじめに
 ここしばらく、礼拝説教では「降り積もる時間」という観点からヨハネの福音書を見ることをしています。私は多くの方々に「ヨハネの福音書の永遠観」を理解していただきたいと願っています。そのための先導役として「降り積もる時間」の考え方は大変に優れているという感触を得ていますから、今後さらに深めて行きたいと願っています。皆さんにもお付き合いいただくことになりますが、この手法を発展させて行くことは教会の成長にも必ずや通じると私は信じていますから、どうか忍耐強くお付き合い願えたらと思っています。
 きょう取り上げるヨハネの福音書の箇所は、きょうの午後に行う予定の「会堂問題勉強会」のことをも意識しています。何週間か前から「降り積もる時間」について語り始めてから礼拝説教では会堂問題から離れてしまったと感じておられる方がいるかもしれませんが、私としては、そんなつもりはありません。きょうの午後の「会堂問題勉強会」を前にして、そのことを確認しておきたいと思います。「そのこと」というのは、「ヨハネの福音書の永遠観」を「降り積もる時間」の観点から学ぶことは、会堂問題とも密接に関連している、ということです。

愛弟子としての私たちの証し
 2ヶ月以上前に遡りますが、6月15日の礼拝でヨハネの福音書21章の最後の部分を聖書箇所にして、『会堂に入りきれない愛弟子の証』というタイトルの説教をしました。きょうもヨハネの福音書21章の最後の部分を聖書箇所にしていますから、そこを見ていただきながら、先ずは6月15日の説教のおさらいをしたいと思います。21章の24節をお読みします。

21:24 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。

 これらのことについて証しした者とはイエスが愛された弟子、すなわち愛弟子であり、イエスの愛弟子とは実は私たちのことであると、6月15日の礼拝説教で私は説明しました。この時はヨハネの福音書の多重の時間構造に関しては触れませんでした。話がややこしくなるといけないと思ったからです。その代わりにヨハネの手紙第一を引用しました。この時に引用したヨハネの手紙第一の有名な箇所をお読みします。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

 今お読みしたように、神がこれほどまでに私たちを愛してくださっているのですから、イエスが愛された弟子、すなわち愛弟子とは私たちのことであることは間違いありません。そしてヨハネ21章25節、

21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。

 6/15の礼拝説教で私は、イエス・キリストがこの今沢の地で行われたことも、たくさんあると話しました。もしそれらをいちいち書き記すなら、この会堂も、書かれた書物を入れることができないほどです。それほど多くのことをイエス・キリストはこの今沢の地でして下さいました。しかし、もし私たちに次の会堂を建てる力が無いのであれば、それらのことの証しは全く立ちません。次の会堂を建てる力が私たちに無いようであればイエスさまが今沢の地でして下さったことが何も残らないことになってしまいます。それではイエスさまに対してあまりに申し訳ないですし、この教会の信仰の先輩方や歴代の先生方に対しても本当に申し訳なく思います。ですから私たちは是非とも次の会堂を建てたいと願っています。
 次の会堂を建てる力の「力」とは、私たちの「資金力」とは限りません。祈りの力でもあり、伝道の力でもあります。祈りと伝道の力によって礼拝に集う方々がもっと増えて行くのであれば、それは本当に大きな力となります。
 私はいつも皆さんにしつこくインターネット伝道へのご協力を呼び掛けていますが、それは、私がインターネット伝道が教会の力を付けるための強力な手段として大いに期待しているからです。是非、皆さんにも協力していただきたいと思います。教会のブログの「教会員の証し」を増やすことにも協力いただきたいですし、ご自身でブログやツイッターやフェイスブックなどを始めて、たまにこの教会のことを、つぶやいていただけたらと思います。また、いまCGNTVで8月13日に放映された私のこのヨハネ21章24節と25節からの10分間のメッセージも動画で見ることができますから(週報p.4)、このことについても、つぶやいていただけたらと思います。
http://japan.cgntv.net/newsub.asp?trans=&hiddentitle=&ifrwidth=550&inurl=&pid=2426&gotopage=2&mview=&pagediv=&line_num=5

証しで始まり証しで終わるヨハネの福音書
 さて、24節に戻って、二つめの文に「そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている」とあります。この「彼のあかし」の「彼」とはイエスの愛弟子のことであり、それは2000年前の愛弟子だけではなく、私たちのことでもあるということを、6/15の説教でお話ししたわけですが、実は2000年前の「イエスの時代」以降の愛弟子たちだけではなく、アブラハムの時代からの「旧約の時代」の愛弟子たちも含まれるのだということを、きょうはお話ししたいと思います。「降り積もる時間」の観点から「ヨハネの福音書の永遠観」を見るなら、信仰の時間が降り積もっているのは「イエスの時代」からではなく、アブラハムの時代から既に始まっています(アブラハムより前のノアやエノクやアベルに遡っても良いのかもしれませんが、ヨハネの福音書はノアやエノクやアベルには触れていません)。
 イエス・キリストは天地創造以前の初めからいましたから、アブラハムの時代にももちろんいました。このことは、イエス・キリストご自身もユダヤ人たちに対してはっきりと告げています。ヨハネ8章58節をご覧下さい(新約聖書p.195)。

8:58 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。アブラハムが生まれる前から、わたしはいるのです。」

 このように、イエス・キリストは自分はアブラハムが生まれる前からいることを、ご自身の口で語っています。しかしユダヤ人たちは、これを信じないで、イエスに石を投げつけようとしました。ですから私たちは、「旧約の時代」からの「降り積もる時間」の中ではイエスの愛弟子もいたし、イエスに石を投げつけるような者たちもいたということを覚えておきたいと思います。
 では、イエス・キリストはアブラハムが生まれる前からいたのだということを押さえた上で、きょうのもう一つの聖書箇所のヨハネ1章19節以降を見たいと思います。まず、1章19節、

1:19 ヨハネの証言は、こうである。ユダヤ人たちが祭司とレビ人をエルサレムからヨハネのもとに遣わして、「あなたはどなたですか」と尋ねさせた。

 ここに「ヨハネの証言は、こうである」とあります。ここでは「証言」という言葉が使われていますが、実はこれは先ほどまで見ていた、21章24節の「彼のあかしが真実である」の「あかし」と全く同じ単語がギリシャ語では使われています。1章19節の「証言」も21章24節の「あかし」も、どちらもギリシャ語ではマルトゥリア(μαρτυρια)です。それはつまり、ヨハネの福音書は19節の「ヨハネの証言は、こうである」で始まり、21章24節の「私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている」で締めくくられるという構造になっていると私は解釈しています。1章19節より前の18節まではプロローグですから、ヨハネの福音書の本編は1章19節から始まります。ですから、(繰り返しになりますが)、ヨハネの福音書は19節の「ヨハネの証言は、こうである」で始まり、21章24節の「私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている」で締めくくられるという構造になっています。そして、このヨハネというのは、一人だけではなくて、アブラハムであり、バプテスマのヨハネであり、使徒ヨハネであり、そして恐らくは愛弟子である私たち読者を含めても良いのだと思います。
 ヨハネの福音書の一般的な読まれ方としては1章19節のヨハネとは、バプテスマのヨハネのことであると思われていますが、実はバプテスマのヨハネだけではありません。ヨハネの福音書は「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」の三つの時代を重ねていますから、「イエスの時代」のヨハネだけではなく、「旧約の時代」と「使徒の時代」のヨハネもいます。

「旧約の時代」のヨハネはアブラハム
 ではまず、1章に登場するヨハネとは「旧約の時代」にあってはアブラハムのことであることを説明します。先週、ヨハネ2章の「旧約の時代」は出エジプト記の時代であることを話しました。ですから出エジプト記より前のヨハネ1章は必然的に創世記の時代であることになります。そうして随分と前の説教においてですが、ヨハネ1章の後半に現れるナタナエルとは、アブラハムの孫のヤコブのことであるということを話したことがあります。そのようにして時代を狭めて行くなら、ヨハネ1章でヨハネが登場する場面は「旧約の時代」にあっては「アブラハムの時代」以外にはあり得ないということになります。
 23節で彼は言いました。

「私は、預言者イザヤが言ったように『主の道をまっすぐにせよ』と荒野で叫んでいる者の声です。」

 「主の道をまっすぐに」するとは、彼の後に続く者たちが、主と出会いやすくなるように、信仰の道を整えるということです。ですから、そのように信仰の道を整えた者とは、「旧約の時代」にあっては、「信仰の父」と呼ばれるアブラハムのことであり、「イエスの時代」にあってはバプテスマのヨハネのことであり、「使徒の時代」にあっては使徒ヨハネのことです。
 もう少し「アブラハムの時代」のことの説明を続けると、28節に、

1:28 この事があったのは、ヨルダンの向こう岸のベタニヤであって、ヨハネはそこでバプテスマを授けていた。

と書いてありますから、ヨハネはヨルダン川の向こう岸にいました。向こう岸というのはエルサレムから見て向こう岸ですから、ヨルダン川の東側にヨハネはいました。それはつまり、「アブラハムの時代」にあっては、この時のアブラハムはまだ父のテラと共にヨルダンの東側のウル、もしくはハランの地にいたということです。そして、29節に、

1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。

とありますから、イエスのほうからヨハネに近づいて行きました。それは、つまり神がアブラハムに近づいて行ったということです。ですから、このヨハネ1章29節は、神がアブラハムに対してハランの地を出てカナンの地に行くように声を掛けたこと(創世記12章)と重ねてあると考えることができます。

ステレオ写真の例え
 このように、ヨハネ1章に登場するヨハネとは、「旧約の時代」のアブラハムと、「イエスの時代」のバプテスマのヨハネと、「使徒の時代」の使徒ヨハネのことです。ここには三つの時代があって、それぞれの時代に異なるヨハネがいます(その後の時代の愛弟子の時代も加わりますが、ここではそれは考えないことにします)。ところが、これまでのヨハネの福音書の一般的な読まれ方ですと、ここに登場するヨハネとは、「イエスの時代」のバプテスマのヨハネのただ一人ということになってしまっています。本当は、「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」の三つの時代があるのに、「イエスの時代」という一つの時代しか見えていないわけです。
 三つの時代があるのに一つの時代しか見えていないことを他のことに例えるなら、それは立体的な空間を片方の目だけで見ているのと同じであると言えそうです。私たちは右目と左目の両方の目で同時に見ることによって初めて空間を立体的に認識することができます。写真も同様です。一枚の写真だけでは私たちは立体的な情報を得ることはできません。週報のp.3に載せた三つの椅子の写真も、右か左のどちらか一方の写真だけでは、三つの椅子の並び方を立体的に見ることはできません。



 しかし、この写真は2枚組みのペアになっていますから、左の写真を右目で、右の写真を左目で別々に見てやると立体的に見えて(交差法)、真ん中の椅子が一番奥にあり、右側の椅子が一番手前にあることを確認することができます。このようなステレオ写真は、ステレオ・スコープという装置を使えば、もっと簡単に見ることができますが、慣れればステレオ・スコープが無くても見られるようになります(交差法と平行法とがありますが、私は交差法の方が良く見えますので、週報の写真は交差法で置かせてもらいました)。
 ヨハネの福音書が一見すると「イエスの時代」のことしか書いてないように見えるのも、この椅子の写真に例えることができます。それぞれの椅子は奥にあったり手前にあったり立体的に並んでいるのに、片方の写真を見ているだけでは横一列に並んでいるように見えます。ヨハネの福音書にも奥行きがあって一番奥に「旧約の時代」、一番手前に「使徒の時代」があるのに、すべて横一列の「イエスの時代」のように見えています。

「理性の目」と「霊性の目」の両方の目で見る
 では、ヨハネの福音書はどうすれば立体的に見えるようになるでしょうか。それは、「理性の目」と「霊性の目」(或いは「魂の目」)の両方の目で見ることでしょう。「理性の目」という片方の目だけでしか見ないと「イエスの時代」しか見えないことになります。或いはまた、「霊性の目」だけで見るとヨハネの福音書からの豊かな神の恵みを感じることができるのですが、それがどうしてなのかは良くわからないということになります。ヨハネの福音書は昔から読むと恵まれる霊的な書であると言われて来ました。それは「霊性の目」で霊的な恵みを感じることができていたわけです。しかし理性の目を併せて両目で見ることができていなかったので時代の立体的な並びに気付くことができなかったのだと思います。ヨハネの福音書は「理性の目」と「霊性の目」の両方で同時に見ることで初めて「旧約の時代」と「イエスの時代」と「使徒の時代」の三つの時代が立体的に見えるようになると言えるでしょう。私たちはヨハネの福音書から立体的な時代の並びをしっかりと見ることができるようになりたいと思います。
 さて次に、私たち読者は、この書の中にどのように含まれているのかを確認しておきたいと思います。以前にも話したことがありますが、私たち読者は1章35節でヨハネによってイエスのもとに導かれた者です。35節に、ヨハネが二人の弟子とともに立っていたことが書かれていますが、二人の弟子のうちの一人が私たちです。こうして私たちはヨハネに導かれてイエスと出会い、イエス・キリストに、

「あなたがたは何を求めているのですか」(ヨハネ1:38)
「来なさい。そうすればわかります」(ヨハネ1:39)

と声を掛けていただくことができました。このようにして私たちをイエスさまのもとに導いてくれたヨハネとは、ヨハネの福音書を書いたヨハネであり、或いはまた、私たちを教会に導いてくれた人でもあります。そうしてイエス・キリストのもとに導かれた私たちはイエスとの旅を開始し、旅を続けて行くことで、やがて愛弟子に成長して、証しを残します。ですから、1章19節の「ヨハネの証言はこうである」のヨハネとは、愛弟子に成長した読者の私たちと考えても良いのだと思います。そうして私たちもまた新しい方々を教会に導いて来て、イエス・キリストに引き合わせます。その方々もまたイエス・キリストとの旅を開始し、やがて愛弟子に成長して証しを残し、さらに新たな方々を教会に連れて来るということを繰り返します。これがヨハネの福音書の「降り積もる時間」の構造です。

おわりに
 では最後にもう一度、ヨハネ21章の24節、25節に戻りたいと思います。21章24節、

21:24 これらのことについてあかしした者、またこれらのことを書いた者は、その弟子である。そして、私たちは、彼のあかしが真実であることを、知っている。

 きょうはヨハネ1章のアブラハムの時代から学びましたし、ステレオ写真の例えも話しましたから、この愛弟子が一人だけではなく、時代の積み重ねの中で無数にいるのだということを、より分かっていただけたのではないかと思います。そして25節、

21:25 イエスが行われたことは、ほかにもたくさんあるが、もしそれらをいちいち書きしるすなら、世界も、書かれた書物を入れることができまい、と私は思う。

 この証しを書き記す者の中には私たちも含まれています。証しとは書いたり話したりするものであることはもちろんですが、それだけではなく、会堂を建て替えて行くこともまた証しです。イエス・キリストは私たちに会堂を建て替える力を与えて下さっている筈です。 その力とは資金力も当然含まれますが、より大きいのは、むしろ祈りの力であり、伝道の力です。
 私たちは御霊の一致を保ちながら、これらの力を発揮してい行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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大木の信仰(2014.8.20 祈り会)

2014-08-21 10:03:51 | 祈り会メッセージ
2014年8月20日祈り会メッセージ
『大木の信仰』
【マルコ4:1~8】

はじめに
 最近の私は「降り積もる時間」についての思いを巡らしています。先週の礼拝の始めの方でも話しましたが、私はこの「降り積もる時間」という考え方が、「ヨハネの福音書の永遠観」を宣べ伝えるための露払い、即ち先導役として非常に有効ではないかという手ごたえを感じ始めています。それで「降り積もる時間」について、本なども読みながらあれこれと考えているわけです。そうして考えたことを文章にして行くと、漠然と考えていたことが段々とまとまって行きます。
 しかしながら私は文章を書くのが遅いので、なかなか前に進みません。締切日がある訳ではありませんから、どうしてもゆっくりになってしまいます。一方、礼拝や祈祷会の説教の場合には締切の日があります。毎週の祈祷会と礼拝の際には必ず原稿が出来上がっていなければなりません。そういうわけで、祈祷会と礼拝のメッセージで「降り積もる時間」のことを取り扱わせてもらうと、頭の中で考えていることを文章としてまとめることが非常に効率良くできますから、しばらくは、このことに祈祷会と礼拝の説教を利用させていただきたいなと思っています。「降り積もる時間」を先導役として「ヨハネの福音書の永遠観」をこの教会から発信して行くことは、この教会の成長にもつながることであると私は信じていますから、どうかお付き合い願えたらと思います。

日常と異なる時間が存在する森林
 さて、時間には今私が考えている「降り積もる時間」と一般的に考えられている「流れる時間」の二つがあると思うわけですが、私はこの「降り積もる時間」のことを、まだ信仰を持っていない方々や、まだ十分に信仰が育っていない方々にも理解していただきたいと願っています。その方々が信仰を持ち、成長するきっかけとして先ず「降り積もる時間」について共感していただき、やがてはヨハネの福音書の永遠観についても深く理解していただきたいと願っています。そのためには「降り積もる時間」をどのように導入したら良いだろうかということを、いま私は考えています。「降り積もる時間」は「ヨハネの永遠観」の導入に用いるのですが、その「降り積もる時間」にも、さらに露払いをする先導役が必要であると考えています。
 そうして、いま考えているのが大木(たいぼく)の例えです。樹齢が百年を越えるような大木がある森林や、古いお寺や神社などに足を踏み入れると、そこには日常とは異なる時間が存在することを私は感じます。皆さんの多くも、そのように感じるのではないでしょうか。太さが1メートルぐらいある、どっしりとした木が天に向かって伸び、悠然と枝葉を広げている様子を眺め、そこに身を置くなら、心の平安を感じます。
 私は過去の林間聖会で箱根の富士箱根ランドに行った時に、2回ほど函南原生林の散策を楽しんだことがあります。富士箱根ランドから10~15分ぐらい下った場所に函南原生林の入口があり、そこに1時間半ぐらいのハイキング・コースがあります。大木が多いこの原生林の中に一歩足を踏み入れると、そこには日常とは全く違う時間が存在することを感じます。一般的な言い方をすると、「そこには日常とは全く違う時間が流れている」という言い方になるのだと思いますが、私はこれを、「時間が流れている」という言い方をしないで、「時間が降り積もっている」と考えたいと思います。

地中深くに伸びる根
 例えば函南原生林には樹齢五百年と言われるアカガシの木があります。樹齢五百年ですから、その木は戦国時代の始まりの頃の、日本に鉄砲やキリスト教が伝来する前から、そこに立っているわけですね。五百年間という時間がそこに存在するわけですが、今回私はは降り積もる時間ということで地上の部分だけではなく、根っこの方にも注目したいと思いました。大木が倒れずに成長を続けるためには、地中深くに根を張る必要があります。先日、テレビを見ていたら、富士山の1合目か2合目にある森林の木の場合には富士山から流れ出た溶岩のために根を深くにまで伸ばすことができなくて、太く成長した木はやがて自分の重みで倒れてしまうのだということを言っていました。ということは、倒れずにいる大木の場合には、相当に深い所まで根を伸ばしているということです。そういう深い所にある地層は、一体どれくらい前に堆積した土なのでしょうか。具体的な数字は私には見当も付きませんが、少なくとも何万年か前ではあるのでしょう。この樹齢五百年の木は地表面付近の現代から十年、百年、千年、万年の地中深くまで、各年代の地層に根を張り巡らして養分や水を吸収しています。そうして天に向かって幹や枝葉を伸ばしています。

 私たちもまた、地層の積み重ねの上で暮らしています。私たちには根がありませんから、地中深くに根を伸ばすことはありませんが、私たちは過去の様々な出来事の土台の上に立って暮らしています。この過去の様々な出来事が「降り積もる時間」です。私たちの足下には、過去の様々な履歴が残されていますが、その中には洪水や津波や火山の噴火や戦争などによる被害の跡が残されていることでしょう。或いは、この沼津の地にも福島第一原発の爆発や、広島や長崎の原爆による放射性物質が、ごく微量ながら降り積もっているかもしれません。或いはまた、戦後のまだ大気圏中で核実験が行われていた時の放射性物質も、ごく微量ながらまだ私たちの足下にあって、放射線を出し続けているのかもしれません。
 私たちはこれらのことを忘れずにいなければなりません。この先、もし地上で核兵器が使用されて炸裂したなら、たとえ日本が標的では無かったとしても、放射性物質は日本においても降り注ぐことでしょう。
 ですから私たちは過去にあった自然災害や戦災や人災のことを、「流れる時間」の中で忘れ去ってしまうのではなく、「降り積もる時間」として、しっかりと記憶にとどめておかなければならないと思います。

信仰の根
 さて、ここまでは敢えて信仰とは関連付けないで話を進めて来ました。それは、まだ信仰を持っていない方々にも「降り積もる時間」について慣れ親しんでいただきたいと願っているからです。そうして、そこから先の信仰のことにも慣れ親しんでいただくことができたら幸いだと思います。
 では、ここから先は、信仰と絡めて話して行きます。先ほど樹齢五百年の木は何万年も前の地層にまで根を伸ばして、そこからも養分や水分を吸収しているのだろうという話をしました。これは信仰の例えとして、かなり使えるのではないかと思います。地中深くには旧約聖書の時代があります。
 私たちの一人一人を種に例えるなら、種から発芽した時が、私たちの信仰の芽生えです。そうして私たちは双葉を出して天からの光を浴びて光合成をすると共に、地中にも根を伸ばして地中の水分や養分を吸収して行きます。地表付近の比較的浅い部分は、教会で聞くみことばと言えるでしょう。初めのうちは、教会で聞くみことばを養分にして、自らを成長させて行きます。しかし、それだけではなかなか成長できません。やはり自分で聖書を読んで、思いを巡らす必要があります。最初のうちは新約聖書だけでも良いでしょう。でも、やがては旧約聖書の理解も深めて行く必要があります。その旧約聖書は地中の深い方にありますから、そこまで根を伸ばして行く必要があります。
 きょうの話の前半の、まだ信仰の話をしていなかった時には私は、「私たちには根がありません」と話しましたが、実は信仰を持つ私たちには根があって、地中深くまで根が伸びているのですね。どれぐらい深くまで根を伸ばし、その根がどれぐらい張り巡らされているかは、それぞれの人がどれくらい聖書を読み込み、どれくらい養分を吸収しているかによるでしょう。
 では、神を本気で信じていない聖書学者のように、聖書の知識は豊富に持つけれども信仰は持っていない人は、どのように例えたら良いでしょうか。そういう人はスコップや機械を使って土を掘って地層を調べている人に例えられるでしょうか。ボーリング調査に例えても良いかもしれません。それらの人々はそもそも種が発芽していませんから、自分で根を伸ばすことはできません。ですから聖書から養分を吸収することもできていません。


 最後に、きょうのみことばの種まきの例えを、見ておきましょう。マルコ4章の1節から9節までを、もう一度、交代で読みたいと思います。

4:1 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」

 この種まきの例えでは、種とはみことばのことであり、土がみことばを受ける人ですから、私の例えとは逆になっています。私の例えでは、種とは私たち一人一人で、聖書のみことばが土です。逆ですが、私たちに聖霊が注がれて一つになっているなら、それはどちらでも良いのだと思います。聖霊が注がれて種と土とが一つになっているのなら、どちらが人でどちらがみことばであろうと良いのだと思います。なぜなら「私たちが神のうちにおり、神も私たちのうちにおられる」(Ⅰヨハネ4:13)からです。大事なことは、いかに深い部分にまで根が張り巡らされているか、ということです。

おわりに
 「流れる時間」の中にいるのでは、厚く積もった土壌に根を下ろすことはできません。
 私たちは「降り積もる時間」への理解をされに深めて行き、天に向かって成長できる者でありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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8月24日礼拝プログラム

2014-08-21 08:43:10 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

8月24日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

8月 第4聖日礼拝順序

 司  会             矢崎兄
 奏  楽             荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  シャロンの花         55 
 交  読  詩篇66篇 全
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  御手の中で         405
 讃 美 ③  主から受ける安らぎは   440
 聖  書  ヨハネ1:19~23/21:24~25
 説  教  『積み重なる証言』    小島牧師
 讃 美 ④  救いのおとずれ       473
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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悪の敗北と天の祝宴(2014.8.17 礼拝)

2014-08-18 23:08:36 | 礼拝メッセージ
2014年8月17日礼拝メッセージ
『悪の敗北と天の祝宴』
【ヨハネ2:1~11】

ミカ6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。【主】は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

はじめに
 先週の礼拝説教のタイトルは、『降り積もる時間の恵み』というものでした。先週以来、私は「降り積もる時間」を前面に掲げて聖書を宣べ伝えて行くことに、非常に手ごたえを感じ始めています。この「降り積もる時間」は「ヨハネの福音書の永遠観」の露払い、即ち先導役として非常に優れているのではないかという気がしています。
 「ヨハネの福音書の永遠観」のことを私は平和実現の最強の切り札であると考えています。「ヨハネの福音書の永遠観」は戦争が絶えない今の世界を平和な世界へと変える大きな力を内に秘めていると私は考えています。何故なら人類は、2千年近くの長い期間にわたってヨハネの福音書を読み継いで来ていながら、この書が持つ多重の時間構造にまだハッキリとは気付いていないからです。なぜ気付いていないのか、それは恐らく私たちの中に欠陥があって、その欠陥に私たちがまだ気付いていないからでしょう。その欠陥を明らかにして修復するなら人類はこれまでよりも良い方向に向かう筈です。そしてその欠陥とは、私たちの「時間」や「永遠」に対する考え方の中にあると私は診ています。ですから私はこれまで「ヨハネの福音書の永遠観」を多くの人々に理解していただきたいと願って、私なりに奮闘して来ました。

ピアスの文学作品の「降り積もる時間」
 しかし奮闘努力の甲斐もなく、なかなか伝わらないことから、いきなりヨハネの福音書を持ち出すのではなくて、露払いを務める先導役が必要であると思うようになりました。その先導役として「降り積もる時間」という考え方が、なかなか良さそうだという感触を持っています。ヨハネの福音書は「流れる時間」と「降り積もる時間」の両方を持った構造になっています。ところが私たちはヨハネの福音書の「流れる時間」にばかり気を取られていて、「降り積もる時間」が存在していることに気付いていません。ヨハネの福音書に隠されている「降り積もる時間」を、これまでの他の文学作品や映画やドラマの中に現れる「降り積もる時間」を例にして説明して行くなら、理解していただくことができるのではないかと期待しています。
 そのために私は、「降り積もる時間」が描かれていると言われているイギリスの児童文学作家のフィリパ・ピアスの作品を古本で何冊か買い求めて、今読んでいるところです。そうしてフィリパ・ピアスの長編と短編をいくつか読んでみて、「降り積もる時間」が描かれているとは、なるほど、こういうことなのかと思いました。彼女の作品には必ず子供たちが登場します。そして、その親やおじいさん・おばあさんの世代も登場します。そして多くの場合、子供の目線で親やおじいさん・おばあさんが描かれます。ということは、親やおじいさん・おばあさんのことが子供に受け継がれて行っているということです。そして子供は、その親やおじいさん・おばあさんを見ながら、それを土台にして成長しているということです。これが「降り積もる時間」のことなのだなと、いま私は感じているところです。まだまだ未読の作品がありますから、さらに彼女の作品への理解を深めて行きたいと願っています。

『北の国から』と『男はつらいよ』の「降り積もる時間」
 さて、これらのことを思い巡らしていて、私はフジテレビ系列で放映されていたドラマの『北の国から』のことを、ふと思い出しました。『北の国から』は1981年から2002年まで実に足掛け22年間もの長い期間に亘って放映されたドラマですから、多くの方がご存知のことと思います。このドラマは黒板五郎というお父さんと息子の純、娘の蛍の家族の物語ですが、ナレーションは息子の純が行っています。つまり、子供の目線で家族のことが語られます。この息子の純は小さい頃は東京で育ったので、田舎者の父のことを軽蔑していました。しかし成長するに連れて父親を理解するようになり、2002年の最後のドラマでは、当時30歳を越えていた純はナレーションで父親について、こんな風に語っています。これは父が駅で娘の蛍と孫の快を見送るシーンでのことですが、

「父さん。あなたはすてきです。あなたのそういうみっともないところを,昔のぼくなら軽べつしたでしょう。でも今,ぼくはすてきだと思えます」

 こんな風にして、親の世代の人生が子供の世代に引き継がれて行きます。
 この『北の国から』の息子の純の役は吉岡秀隆という俳優さんが演じていますが、彼は映画の『男はつらいよ』のシリーズの中でも小学生の頃から15年間にわたって寅さんの甥の満男役で出演しています。寅さんは葛飾柴又の人々に愛されながらもフーテンの愚か者として馬鹿にされていました。しかし甥の満男はそんな伯父のことを慕っていました。そうして満男は自分も恋をする年頃になると、伯父が辿ったのと同じように愚かな姿をさらすようになって行くのですね。ここにも親の世代から子の世代へと、時間が降り積もって行く様子を見ることができます。私は寅さんのシリーズがとても好きなのですが、とりわけ甥の満男が成長して以降の、満男の愚かで滑稽な様子が描かれている作品が好きです。この映画の山田洋次監督が、愚かな寅次郎や満男を温かい目で見ていることに、私はとても慰めを感じます。

どの時代にあっても愚かな私たち
 さて、このように愚かな者を温かい目で見ることにおいては、イエス・キリストほど温かい方は他にいないのではないでしょうか。ザアカイやニコデモやペテロをイエス・キリストはとても温かい目で見ておられます。イエスさまは愚かなニコデモやペテロを叱りますが、彼らに対するイエスさまの深い愛もまた私たちは感じることができます。そして、イエスさまの深い愛はザアカイやニコデモやペテロのような「イエスの時代」の人物だけではなく、「旧約の時代」のイスラエルの民に対しても、「使徒の時代」のユダヤ人たちに対しても向けられていることを、私たちは知るべきです。イエスさまは「旧約の時代」の愚かなイスラエル人たちや「使徒の時代」の愚かなユダヤ人たちのことも深く愛しておられます。そして、この愚かなイスラエル人たちやユダヤ人たちとは、私たちのことでもあります。イエスさまは愚かな私たちのことも深く愛して下さっています。私たち人間は、どの時代にあっても愚かな者たちでした。私たちの足下には、そういう愚かな私たち人類をイエス・キリストが愛して下さっていたという土台があります。これが「降り積もる時間」です。私たちの足下にはイエスさまの愛の土台があり、そしてイエスさまの愛は今もなお降り注ぎ、これからもまた降り注ぎ続けることを私たちは理解したいと思います。私たちは、このようなイエス・キリストの重厚な愛を理解できるものになりたいと思います。それがパウロがエペソ人への手紙の中で祈った、「人知をはるかに越えたキリストの愛」を知ることができるようになることなのだと思います(エペソ3:19)。

ヨハネ2章の「降り積もる時間」
 さて先々週はヨハネ3章、先週はヨハネ11章を開きました。きょうはヨハネ2章を開いてイエスさまの重厚な愛を感じてみたいと思います。まず1節と2節、

2:1 それから三日目に、ガリラヤのカナで婚礼があって、そこにイエスの母がいた。
2:2 イエスも、また弟子たちも、その婚礼に招かれた。

 ヨハネ2章の1節から11節までにはカナの婚礼での出来事が書かれています。婚礼というのは非常におめでたい席ですから、このカナの婚礼の背後には素晴らしい祝福が隠されています。続いて3節から5節、

2:3 ぶどう酒がなくなったとき、母がイエスに向かって「ぶどう酒がありません」と言った。
2:4 すると、イエスは母に言われた。「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。わたしの時はまだ来ていません。」
2:5 母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」

 4節の、イエスさまの母親に対する言葉は、随分と冷たい感じがしますね。イエスさまはどうして、こんなことを言ったのか、私はこれはイエスさまが「イエスの時代」だけにいるのではないということを私たち読者に知らせるための言葉だと考えています。イエスの母のマリヤはイエスが生まれてから十字架で死ぬまでの「イエスの時代」にあっては、確かにイエスの母でしたが、「旧約の時代」と「使徒の時代」においてはイエスの母ではありませんでした。ですから、この4節の言葉は、読者が「旧約の時代」と「使徒の時代」にもちゃんと注目するようにという注意を喚起しているのだと考えます。
 さて、このカナの婚礼の山場のイエスさまが水をぶどう酒に変えた出来事の6節から11節までは交代で読みたいと思います。
 
2:6 さて、そこには、ユダヤ人のきよめのしきたりによって、それぞれ八十リットルから百二十リットル入りの石の水がめが六つ置いてあった。
2:7 イエスは彼らに言われた。「水がめに水を満たしなさい。」彼らは水がめを縁までいっぱいにした。
2:8 イエスは彼らに言われた。「さあ、今くみなさい。そして宴会の世話役のところに持って行きなさい。」彼らは持って行った。
2:9 宴会の世話役はぶどう酒になったその水を味わってみた。それがどこから来たのか、知らなかったので、──しかし、水をくんだ手伝いの者たちは知っていた──彼は、花婿を呼んで、
2:10 言った。「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました。」
2:11 イエスはこのことを最初のしるしとしてガリラヤのカナで行い、ご自分の栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた。

 ヨハネはこの出来事に11節にあるように「最初のしるし」という特別の呼び名を与えています。はじめに言ったように、ここでは「旧約の時代」と「使徒の時代」に何があったのかを考えなければなりません。

悪の敗北と天の祝宴
 まず「旧約の時代」ですが、先々週話したようにヨハネ3章のニコデモの箇所がイスラエルの民に律法が授与された出来事に当たりますから、この2章はイスラエルの民がモーセに率いられてエジプトを脱出した場面に当たります。イスラエルの民がエジプトを脱出する時、エジプトの王のパロはイスラエルの民がエジプトから出ることをなかなか許しませんでした。そのようにイスラエルの民を縛り付けるエジプトに対して神は十の災いを与えました。十の災いとは週報p.3にメモしたように出エジプト記の7章から12章に掛けて書かれています。それらは、①ナイル川の水を血に変えたこと、②かえる、③ぶよ、④あぶ、⑤家畜の疫病、⑥腫物、⑦雹、⑧いなご、⑨暗闇、そして⑩初子の死でした。ヨハネ2章のカナの婚礼でイエスさまがぶどう酒を水に変えたことは神がナイル川の水を血に変えたことであり、このことで十の災いを代表していると考えられます。それはつまり、人を罪の奴隷に縛り付けている悪魔の敗北を意味すると言って良いでしょう。奴隷としてエジプトにいたイスラエルの民を神が解放したように、イエス・キリストは悪魔によって罪の奴隷にされている私たちを、ご自身の血によって救い出して下さいます。
 そうしてイエスの血によって救い出された者には聖霊が注がれます。ですから、このガリラヤのカナの婚礼の場面は、「使徒の時代」のペンテコステの日に、ガリラヤ人たちに聖霊が下った出来事とも重ねられています。水は体の表面しかきよめることができませんが、イエスの血によって成就した聖霊の注ぎは心の中まできよめることができます。これは素晴らしい祝福です。まさに婚礼として表現されるにふさわしい素晴らしい祝福です。この聖霊はペテロやヨハネたちガリラヤ人たちに最初に注がれましたから、まさに「最初のしるし」です。このガリラヤ人たちの聖霊が注がれる場面はペンテコステの日には大抵開かれる場所ですから、皆さんもご存知と思いますが、いちおう使徒2章を開いて確認しておきましょう(新約聖書p.228)。使徒2章1節から7節までを交代で読みましょう。

2:1 五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。
2:2 すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。
2:3 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。
2:4 すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。
2:5 さて、エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいたが、
2:6 この物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。
2:7 彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。

 7節のように聖霊が下ったのは皆ガリラヤ人たちに対してですから、ヨハネ2章のガリラヤのカナの婚礼は、このペンテコステの日の出来事が重ねられており、水のきよめでは不可能であった罪からのきよめがイエス・キリストの血によって行われました。それは、きょうの説教のタイトルにも掲げたように『悪の敗北と天の祝宴』でした。このカナの婚礼は、天の祝宴です。ルカの福音書15章の放蕩息子の帰郷では、放蕩息子が故郷に帰って来た時、父親は祝宴を始めました。罪人が救われることは、天にとっては盛大な祝宴を催すぐらいの喜ばしい出来事です。

おわりに
 このように、ヨハネの福音書は「降り積もる時間」の構造を持ち、私たちはその土台の上に立っています。その過去の土台の上に立って、上に進んで行くのが神と共に歩むということだと思います。きょうの聖書交読で読んだミカ書6章8節には、

ミカ6:8 主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。【主】は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか。

とあります。私たちにとって良いこととは、神と共に歩むことです。それは、こんな愚かな私たちのことをも愛して下さっているイエスさまの愛を次々と忘れて行くことではなく、イエスさまの愛の証しの上に立って、「降り積もる時間」の中で上に向かって進んで行くことです。
 「旧約の時代」から「イエスの時代」、「使徒の時代」を経て、現代の私たちに至るまで愚かな私たちを愛し続けて下さっているイエス・キリストの、この重厚な愛を私たちは是非、しっかりと理解できるようになりたいと思います。
 最後に、エペソ人への手紙3章をご一緒に読んで終わりたいと思います(新約聖書p.376)。エペソ3章17節から19節を交代で読みましょう。

3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

 お祈りいたしましょう。
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魂のレベルでは一つの私たち(2014.8.13 祈り会)

2014-08-14 11:52:38 | 祈り会メッセージ
2014年8月13日祈り会メッセージ
『魂のレベルでは一つの私たち』
【エペソ1:1~14】

はじめに
 1週間前の8月5日と6日に、私は広島に行って来ました。広島の平和記念公園で行われた式典に参加するためです。私はこれまでに数え切れないぐらい何度も広島に行ったことがありますが、8月6日の広島の原爆の日の式典に参加するのは、今回で三度目でした。
 もし平和のために静かに祈りたいなら、春か秋に広島に行ったほうが、人も8月6日ほどは多くないですし、夏のような暑さもありませんから、長い時間を平和公園でゆっくりと過ごすことができます。8月6日は暑いですし、非常に多くの人々が集まり、警察官も多く動員されて、物々しい雰囲気もありますから、静かに祈るのは難しいです。8時15分からの1分間の黙祷の時でさえ、平和公園の周辺の騒音が聞こえて来て、静かなわけではありません。
 私は8月6日の広島がそういう、あまり落ち着かない雰囲気であることを過去2度の式典への参加で知りながら、それでも敢えて、今回8月6日に広島に行ったのは、多くの人々が集まる式典の場に身を置くことで、何か得られるものがあるかもしれないという期待があったからです。前回広島に行ったのは2年前でしたが、この2年間で私は特にヨハネの福音書の学びがさらに深まったことで、霊的に豊かになった部分があることを感じています。ですから、騒然とした雰囲気ではあっても、改めて8月6日の式典の場に身を置くことで、新たに得られることがあるかもしれないという気がしていました。そして、それは予期せぬ形で的中しました。

雨だった今年の広島の原爆の日
 予期せぬ形でというのは、今年の8月6日の広島が43年ぶりの雨であったということでした。いつもの8月6日ですと、朝から太陽がギラギラと照り付けて、その強い太陽の光と暑さと騒然とした雰囲気とが重なり合って、日が当たる場所にいるとクラクラとめまいがするような感じになるのですが、今年は雨が降ったおかげで暑さや騒々しい雰囲気が弱まり、静かでしめやかな雰囲気になりました。8時15分からの1分間の黙祷の時も鐘の音と雨の音が聞こえるだけで、公園の周辺の騒音が聞こえて来なかったため、静かに祈る時を持つことができました。
 しかし、それは会場に行ったから味わえたことで、朝、ホテルの窓から外の雨の様子を眺めていた時は、いっそ会場に行くのはやめて、ホテルの部屋のテレビで式典を見ようかなと思っていました。傘をさして式典を見るのが嫌だったからです。テントの中に入れば傘をささなくても良いのですが、席を確保するためには早めに行かなければなりませんし、席に座ってしまうと会場全体をキョロキョロと見回すのはみっともないので、ひたすら前を向いて座っていなければならなくなります。私が初めて式典に参加した時には、私は朝早くに会場に行ってテントの席に座わったのですが、待ち時間が長かったですし、式が始まってからは会場全体の様子を見回すことができなかったことを残念に思いました。それで2回目に参加した時にはテントの下の席には入らず、テントの外で立って全体を見回しながら式典の雰囲気を味わいました。そして今回もテントの中には入らないつもりでいましたから、雨の中に立ち続けることを覚悟しなければなりませんでした。
 それで、いっそホテルの部屋のテレビで式典を見ようかと思い掛けた私でしたが、それでは何のために広島まで出掛けて来たのかわかりませんから、やはり式典の会場まで行くことにしました。しかし、あまり早く行かず、式典開始の8時に間に合えば良いぐらいの感じで、7時を過ぎてからホテルを出ました。ホテルから原爆ドーム前までは路面電車を使って30分ぐらいで、原爆ドーム前から式典会場まで歩いて10分ぐらいですから、7時過ぎにホテルを出ても間に合うのです。それがまた、予期せぬことではありましたが、非常に良かったと思います。原爆ドーム前から式典会場へ向かう人々の傘の行列を、ゆっくりと眺めて写真を撮ることができました。

雨にもかかわらず多くの人々が集った式典
 もし私がテントの下の席に座りたいと思っていたら、ゆっくり写真を撮っている余裕は無かったと思います。せかせかと会場を目指したと思います。しかし私は席に座るつもりはありませんでしたから、傘の行列を見ながら、雨でもこんなに大勢の人が式典会場に向かうのだなと感慨深く思いました。私は危うくホテルの部屋のテレビで済ますところでしたから、大勢の人々の傘の行列を見て、やはり多くの人々が被爆した方々への慰霊の気持ちを持ち、平和を願っているのだなと思いました。
 ここで写真の説明を少ししておきます。



 左上の写真は、原爆ドーム前から式典会場へ向かう人々の傘の列です。これらの人々は右上の写真の元安橋を渡って式典会場の方へ行きます。左下の写真は元安橋を渡ったところにある原爆の子の像です。原爆の子の像の前にも、多くの傘をさした人々がいました。そして右下の写真が、式典会場のテントのすぐ後ろから撮った写真です。式典開始の8時の少し前に会場に着いたのですが、運良くテントのすぐ後ろの、前方が良く見える場所を確保することができました。この、とても良い場所で式典の最初から最後までの全てに参加することができて感謝でした。
 雨もそんなに強く降っていたわけではありませんでしたから、先ほども言ったように、式典会場はしめやかな雰囲気に包まれていて、この場において私は新たに感じたことがありました。

魂のレベルでは私たちは一つ
 それは、
 
 心の奥深い所にある魂のレベルでは、私たちは皆が一つになっているのだ

ということです。私たちが対立して反目し合い、絶えず争い事があるのは表面的な違いによるもので、深いレベルでは皆が一つになっていることを会場のテントの後ろに立ちながら私は感じていました。私たちは神様によって作られ、神様によって魂を吹き込まれましたから、魂のレベルでは本来は一つです。しかし、アダムによって罪が入り、私たちの魂が眠った状態にあるために、表面的な違いの部分にこだわり、その結果、争い事が絶えないのだと思います。
 ですから式典会場に集って来た多くの人々も魂が眠った状態にはあるのですが、心の奥深いところでは何かをうっすらと感じているのではないか。そして平和を求めているのではないか。そういう心の奥深いところにある平和を愛する心が、この広島の地に国内・国外から多くの人々を集めるのではないか、そんな風に感じました。

眠っている人よ、目を覚ませ
 ここで、きょうの聖書箇所のエペソ書1章を見てみましょう。先ほどは1節から14節までを読みましたが、10節をご一緒に読みましょう。

1:10 時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

 時が満ちると、いっさいのものがキリストにあって一つに集められるとありますが、私たちは元々は一つです。しかしアダムによって罪が入って以降、霊的に眠った状態にありますから、私たちが元々は一つであることに気付くことができません。ですから、私たちは目を覚まさなければなりません。同じエペソ書の5章14節には、次のように書いてあります。

「眠っている人よ。目をさませ。死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。」

 眠っている状態から目を覚ますなら、キリストの光が心に届くようになります。即ち、真理のことばが心に届くようになります。そうしてイエス・キリストを信じるなら聖霊が注がれます。1章に戻り、エペソ書1章の13節と14節を、交代で読みましょう。

1:13 この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。
1:14 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。

 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。ですから、いくら聖書の知識がたくさんあっても、聖霊が注がれていないのなら救われてはいません。理性だけが起きていて、魂が眠ったままでいるなら、イエス・キリストの真理のみことばが心の奥底に届くことはありません。

降り積もる時間とは「神の愛」
 教会で形だけ洗礼を受けても、魂が目覚めていない人はたくさんいると思います。そういう方々がいることを思うとき、奥深い魂の領域のことに気付いていただくことの難しさを覚えます。しかし、広島の式典の会場に話を戻すと、私はここに集った国内外の多くの人々を見て、多くの人々が霊的な何かを感じてここに集っているのであろうことを思い、大いなる希望を感じました。現在の平和公園がある場所は広島の原爆が炸裂した爆心地のすぐ近くにありますから、一瞬にして廃墟となり、多くの人々がその場で亡くなりました。平和公園はその廃墟の上に作られています。その廃墟の上の平和公園に多くの人々が引き寄せられ、集められていることに私は希望を感じました。魂が十分に覚醒していなくても、きっと多くの人々は心の奥深い所で何かを感じているのだと思います。
 そういう思いを抱いて沼津に戻ってから、私は先日の礼拝説教で話した『降り積もる時間の恵み』のアイデアが与えられました。時間は流れるものではなく、降り積もるものである。そして誰にでも等しく天から降り注ぐ時間とは、実は「神の愛」ではないかという思いが、与えられています。魂が目覚めるかどうかは、「神の愛」に気付くかどうかに掛かっている、そのようにも思うことです。

おわりに
 私たちは、地域の方々が「神の愛」に気付き、魂が目覚めるための働きをしたいと願っています。魂が目覚めて真理のことばが心の奥深くに届き、イエス・キリストを信じて聖霊が注がれ、皆が御霊によって一つになることができるような働きをしたいと思います。全ての人々は神によって造られ、魂が吹き込まれており、魂のレベルでは元々は一つであるのですから、皆が御霊によって一つになることは決して不可能ではないと思います。そのような働きができるよう、先ずは私たちが霊的に成長し続ける者たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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8月17日礼拝プログラム

2014-08-14 09:30:06 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

8月17日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

8月 第3聖日礼拝順序

 司  会             西村兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  威光・尊厳・栄誉(2回)   253 
 交  読  ミカ6:1~8
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  God bless you       382
 証  し               古田兄
 聖  書  ヨハネ2:1~11
 説  教  『悪の敗北と天の祝宴』  小島牧師
 讃 美 ③  あなたの平和の       485
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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降り積もる時間の恵み(2014.8.10 礼拝)

2014-08-11 05:05:45 | 礼拝メッセージ
2014年8月10日礼拝メッセージ
『降り積もる時間の恵み』
【Ⅱ歴代36:16~21/ヨハネ11:30~35】

はじめに
 礼拝メッセージでは、このところ、私たちの教会が一つになるためには私たちの一人一人が霊的に成長する必要があることを語って来ています。そして先週のメッセージでは、みことばの源泉である「神の愛」にどっぷりと浸かることをお勧めしました。きょうのメッセージもやはり、私たちの霊的な成長を目指したものです。ただし、先週とはまた少し違う観点から話してみたいと思います。
 先週は、「みことばの糸」の供給源である「神の愛」にまで遡り、その「神の愛」にどっぷりと浸かることの重要性について話しました。「みことばの糸」には時間が付随していますから、私たちはどうしても時間に縛られてしまいます。しかし、「神の愛」には時間がありません。その「神の愛」の恵みに浸るには「みことば」にとどまり続けるのでなく、みことばの糸の源に遡らなくてはならないという話をしました。ただ、その場合には、みことばに関する知識がある程度は必要です。まだ十分にみことばの蓄えが無い方々にとっては、みことばの上流の方に遡ることは難しいでしょう。
 それに対して、今日これからお話しする「降り積もる時間」という考え方は、まだ十分にみことばの蓄えが無い方にとっても、イメージしていただきやすいのではないかと考えています。さらには、この「降り積もる時間」のアイデアは私独自のアイデアでは無くて、私よりも前に言っている人々がいますから、その点においても分かっていただき易いのではないかと思っています。これまで誰にも言われていない新しいアイデアを人に理解してもらうことは非常に難しいことですが、既に言われていることと関連付けるならば、だいぶ分かり易くなることでしょう。

下に降り積もる時間
 それで今日は先ずは、インターネットを検索していてわかった、既に新聞に書かれている二つの「降り積もる時間」の紹介をして、話を進めて行きたいと思います。
 まず一つ目は、2007年2月26日付の朝日新聞で、この2ヶ月前に亡くなったイギリスの児童文学作家フィリパ・ピアスの追悼記事です。このピアスという作家を私は知らなくて彼女の作品は現在取り寄せ中ですので、まだ読んでいないのですが、一番有名な作品はタイム・スリップ・ファンタジー小説の『トムは真夜中の庭で』ということです。朝日新聞(2007年2月26日付)の記事の冒頭部分を引用します。

(惜別)英国の作家、フィリパ・ピアスさん 人間の光と闇を見つめて
 2006年12月21日死去(脳卒中)86歳 1月5日葬儀
 「トムは真夜中の庭で」は英国の戦後児童文学を代表する長編だ。日常を流れる時間と真夜中の不思議な庭を流れる時間が豊かに交錯する。モデルになったのは晩年まで暮らしたケンブリッジ近郊の故郷の村。父親が邸宅や庭を売り払うことになった時、想像力の中で取り戻そうとしてこの作品は書き上げられた。

 タイム・スリップ小説ということで、日常を流れる時間と庭を流れる時間が交錯するということなのでしょうね。そして、この追悼記事の後半にはフィリパ・ピアスについて、次のように書かれています。

 ピアスは長女を産んで8週間後に夫を病気で失う。戦時中に日本軍の捕虜となり、心身に残った後遺症が原因だった。結婚生活は2年。児童文学者の清水真砂子さんは語る。「彼女の作品から生の喜びや光が届くのは、人間の膨大な悲しみや闇を底に抱えているからです。時間とは流れるものと思っていたのに、彼女の作品を読み、降り積もるものと知った」

 今の清水真砂子さんのコメントをもう一度、お読みします。
(ゆっくり)
「彼女の作品から生の喜びや光が届くのは、人間の膨大な悲しみや闇を底に抱えているからです。時間とは流れるものと思っていたのに、彼女の作品を読み、降り積もるものと知った。」

 これはピアス自身が膨大な悲しみや闇を底に抱えていて、それが豊かに発酵して熟成し、そこから彼女の文学が作り出されたということなのでしょう。もし時間が流れて行ってしまうものなら、この悲しみや闇は過去に置き去られて時間と共に離れて行ってしまいます。しかし時間は降り積もるものであるから、時が経ってもそれらの悲しみや闇はいつでも自分の底にあり、それが人生の豊かな糧になっているということですね。これは、私たちの人生においても一般的に良く当てはまることではないでしょうか。様々な苦労や悲しみを経験した人には、包容力のある豊かな人間性を身に付けた人が多いことを私たちは知っています。しかし一方で、苦労や悲しみが人の心に恨みやねたみを生じさせて、狭い心を持つ人を作り出す場合があることもまた、私たちは知っています。

上に降り積もる時間
 同じ苦労や悲しみが広い心を持つ人と狭い心を持つ人の両方を作り出すのは、一体どうしてでしょうか。このことを考えるために「降り積もる時間」についての、もう一つの新聞の文章を引用したいと思います。二つ目の新聞の文章は、2012年3月11日付けの読売新聞の「編集手帳」(一面のコラム)です。この日は東日本大震災からちょうど1年が経った日で、読売新聞ではこの「編集手帳」を見出しと写真付きで紙面の半分を使う力の入れようでした。
 見出しは次のように書かれています。

 ◆時は流れない。雪のように降り積もる。人は優しくなったか。賢くなったか。

 そして、次のような文章で始まります。

 使い慣れた言い回しにも嘘(うそ)がある。時は流れる、という。流れない「時」もある。雪のように降り積もる◆〈時計の針が前にすすむと「時間」になります/後にすすむと「思い出」になります〉。寺山修司は『思い出の歴史』と題する詩にそう書いたが、この1年は詩人の定義にあてはまらない異形の歳月であったろう。津波に肉親を奪われ、放射線に故郷を追われた人にとって、震災が思い出に変わることは金輪際あり得ない。復興の遅々たる歩みを思えば、針は前にも進んでいない。いまも午後2時46分を指して、時計は止まったままである

 読売新聞の「編集手帳」は、被災地の時間は震災が起きた時から止まったままである、と書いています。そして次の文章で締めくくっています。

 ◆雪下ろしをしないと屋根がもたないように、降り積もった時間の“時下ろし”をしなければ日本という国がもたない。ひたすら被災地のことだけを考えて、ほかのすべてが脳裏から消えた1年前のあの夜に、一人ひとりが立ち返る以外、時計の針を前に進めるすべはあるまい。この1年に流した一生分の涙をぬぐうのに疲れて、スコップを握る手は重くとも。

 この「編集手帳」の筆者は震災から1年経った時点で、被災地の復興が少しも進んでいないこの1年間という「時間」を降り積もった雪に例えて、この雪の重みで日本が押し潰されそうになっている、それゆえ降り積もった時間の“時下ろし”をして時計の針を前に進めなければ日本という国がもたないと書いています。これを読んで私は、なるほど、こういう時間の捉え方もあるのだなと思いました。

動き始める時間
 被災することで時間が止まるという考え方は、先週のNHKの朝のドラマの『花子とアン』にも見ることができました。先週の『花子とアン』では、関東大震災で被災した人々のその後の様子が描かれていました。被災した人々には大きく分けて二種類あり、力強く立ち上がろうとする人々と、立ち上がることが出来ない人々とがいました。
 震災の前に遡って、もう少し具体的に説明すると、震災の前にこのドラマのヒロインの村岡花子はマーク・トウェインの小説の『王子と乞食』の翻訳の雑誌連載を終えました。その連載完結を祝う席で花子の義理の弟の村岡郁弥は、この連載を一冊の単行本にして出版することを提案して、皆の賛同を得ました。しかし、この提案者の郁弥が関東大震災で亡くなってしまいました。花子と夫の村岡は、この単行本を出版することが提案者の郁弥の遺志を引き継ぐことであると思い、出版準備を始めました。しかし郁弥にプロポーズされていた花子の妹のかよは、出版して欲しくないと思っていました。かよは郁弥にプロポーズされた時の震災前の幸せな時で時間が止まっていて欲しいと思っていたのですね。かよは郁弥の遺品の針が止まったままの腕時計を大事にしていました。姉の花子たちが単行本を出版することは、かよにとっては止まっている時計の針を進めてしまうことなのですね。そんな妹のかよを花子は気遣いますが、周囲の多くの人々の資金面での応援があって遂に単行本の出版を果たすことが出来ました。そうしてかよは、自分がいくら時間が止まっていて欲しいと願っても周囲の時間は止まっていないことを知ります。そしてまた、かよの思い出の中の郁弥もまた彼女を励ますようになり、かよの時間は少しずつ進むようになりました。

三つの時間
 以上のことから私は、どのような時間を持つ人々がいるのかを次の3つに分類してみたいと思います(週報p.3)。

 ①自分の下に降り積もる時間を持つ人
 ②自分の上に降り積もる時間を持つ人
 ③横方向に流れる時間を持つ人

 ①の、自分の下に積もる時間を持つ人は、悲しい出来事を糧にして成長することができる人です。それまでの自分の様々な経験を次々と土台にして行きますから、上へ向かって進んで行くことができます。
 それに対して②の、自分の上に降り積もる時間を持つ人は、降り積もる雪に押し潰され掛かっている人です。その人の時間は読売新聞の「編集手帳」が書くように、止まっているのでしょう。その人の心は時間の重みで段々と歪んで行ってしまいます。
 また③の横方向に流れる時間を持つ人は、時間の重みからは逃れることができますが、歪んだ心を修復できずにいて、心は歪んだままです。そして土台がありませんから、悲しい経験を生かすことができずに、同じ悲劇をまた繰り返します。戦争や津波の悲劇を懲りずに何度も繰り返す人類の大半は、このように横方向に流れる時間を持っているのではないでしょうか。
 以上のように、②の何か悲しいことがあって時間が止まっている人は、①の上の方向に進む可能性もありますし、③の横の方向に進んでしまう可能性もあります。①の上の方向に進めば広い心を持つようになり、③の横の方向に進めば狭い心を持つようになります。

悲しむ者を慰めるイエス
 では①の上の方向に進むためには、どうしたら良いのでしょうか。それは神と共に歩むということではないしょうか。ここで、きょうの礼拝の始めに聖書交読をしたマタイ5章の山上の説教を思い出してみたいと思います。マタイ5章4節でイエス・キリストはおっしゃいました(週報p.3)。

5:4 悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

 この悲しむ者とは、きょうの話で言えば、村岡花子の妹の「かよ」のように震災などで時が止まってしまっている人です。そのような人をイエス・キリストは慰め、励まし、力を与えて下さいます。そうして神と共に歩み始めることができるなら、この悲しい出来事を糧として、上に向かって進んで行くことができます。
 いま全国の映画館で上映中のスタジオジブリの米林宏昌監督作品『思い出のマーニー』をご覧になった方はいるでしょうか。このアニメーション映画の主人公の少女・杏奈も悲しい過去を持つゆえに心を閉ざしてしまっていました。しかし、療養先の北海道東部の田舎でマーニーという少女に出会い、杏奈はマーニーの存在によって元気づけられて、次第に心を開くことができるようになって行きました。このように悲しみを抱えていた杏奈に慰めと励ましと力を与えたマーニーとは、イエス・キリストのことであると解釈しても良いのだと思います。或いはまた、『花子とアン』で時間が止まっていた「かよ」を励ました、彼女の思い出の中の郁弥もまた、イエス・キリストであったと言えるかもしれません。

時間とは天から注がれる「神の愛」
 イエス・キリストは悲しむ者には誰にでも寄り添い、慰めと励ましを与えて下さいます。そのイエス・キリストの語り掛けに応答して心を開くなら、私たちは悲しいことを忘れるのではなく、土台にして上に向かって進んで行くことができます。しかし、イエス・キリストの語り掛けに気付かなかったり避けたりして横に進んで行こうとするなら、歪んだままの心を抱えて時間に流されるようになり、どこへ進んで行くのか皆目わからない漂流状態に陥ってしまいます。
 ですから私は「降り積もる時間」とは実は天から注がれる「神の愛」のことであると言いたいと思います。「時間」をどのように捉えるかは、人間次第です。誰にでも区別なく等しく天から与えられている時間が、「下に積もるもの」なのか「上に積もるもの」なのか「横に流れるもの」なのかによって、「自分に生きる力を与えてくれるもの」とも、「自分を押し潰すもの」とも「自分を流す」ものともなります。
 そういうわけですから、私たちは「時間」を「下に積もるもの」として、全てを天から降ってくる「神の愛」に委ねて、その中にどっぷりと浸かりたいと思います。そうして自分の力に頼ることをやめて力を抜くなら「神の愛」の浮力によって、注がれ続ける時間の中で上に向かって進んで行くことができます。

時間が降り積もる構造を持つヨハネの福音書
 さてヨハネの福音書とは、実はそのようにして「神の愛」という時間が、下に降り積もって行く構造になっている書であると言えば、よりわかりやすいかもしれませんね。ヨハネの福音書は「旧約の時代」の上に「イエスの時代」があり、さらにその上に「使徒の時代」が重なるような構造になっています。そして、このヨハネの福音書の読者がイエスの愛弟子となり、その愛弟子が次々と継承されて行くことで、読者の下に時間が降り積もるようにして現代の読者である私たちに至る構造になっています。先週開いたヨハネ3章では、「旧約の時代」の「律法の恵み」の上に「イエスの時代」を挟んで「使徒の時代」の「聖霊の恵み」が重なる構造になっていて、恵みの上に恵みが増し加わっています。しかしユダヤ人たちはその素晴らしい恵みを理解できなかったために、神は苛立っていました。その神の苛立ちがイエスのニコデモに対する態度となって表れていたのでした。
 きょうの聖書箇所のヨハネ11章では、「イエスは涙を流された」と35節にあります。このイエスの涙は、「イエスの時代」にあっては死んだラザロのために流された涙でしたが、「旧約の時代」と「使徒の時代」にあっては、滅亡して廃墟となったエルサレムのために流された涙でした。エルサレムは「旧約の時代」の紀元前586年にバビロニア帝国によって滅亡し、そしてまた「使徒の時代」の紀元70年にも今度はローマ帝国によって滅ぼされて廃墟となったのでした。ヨハネ11:35で流されたイエスの涙は、このエルサレムのために流されたものでした。
 まず「旧約の時代」のエルサレムの滅亡を第二歴代誌で簡単に見ておきましょう。歴代誌第二の36章19節を見て下さい(旧約聖書p.792)。

36:19 彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿(たかどの)を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。

 「彼ら」の「彼」というのはバビロンの王のネブカデネザルのことです。こうしてエルサレムはバビロンの王によって完全に破壊されて廃墟になってしまいました。そしてまたエルサレムは「使徒の時代」の紀元70年にもローマ帝国の攻撃によって廃墟となりました。この出来事は聖書ではなくヨセフスの『ユダヤ戦記』に詳しく書かれていることですが、聖書にも、イエス・キリストがこのことを予告している場面があります。ルカの福音書19章41節から44節までを交代で読みましょう(新約聖書p.157、週報p.3)。イエスはここでエルサレムのために泣いています。

19:41 エルサレムに近くなったころ、都を見られたイエスは、その都のために泣いて、
19:42 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
19:43 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
19:44 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。それはおまえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」

 ここでイエス・キリストは、約40年後の紀元70年に滅亡するエルサレムのために泣き、44節で「おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない日が、やって来る。」と言っています。「おまえ」というのはエルサレムのことであり、「一つの石もほかの石の上に積まれたままでは残されない」とは、いま見えている土地は破壊された建物や城壁のガレキによって埋もれてしまうということですね。

廃墟の上で暮らす私たち
 エルサレムの街は、このようにガレキの上に築かれた街です。そして、それは日本の街も同じです。日本の街の多くは地震や津波や洪水や火山の噴火や戦争によって廃墟となった場所の上に作られたものです。私たちは、このような悲しい出来事の上に街を築いているのですね。ですから、「降り積もる時間」というのは、頭の中で考えられたものではなく、実際その通りのものなのです。私たちは自然災害や戦災のガレキの上で暮らしています。しかし、私たちの多くは時は流れるものであると考え、悲しい過去を置き去りにして忘れてしまうために、同じ悲劇を繰り返す愚か者になってしまっています。
 69年前、日本の都市の多くはアメリカ軍の空襲によって廃墟となりました。戦後制定された日本国憲法は、その廃墟を土台にして作られたものです。昨日の長崎の原爆の日における長崎平和宣言においても長崎市の田上市長は、「日本国憲法に込められた『戦争をしない』という誓いは、被爆国日本の原点であるとともに、被爆地長崎の原点でもあります」と言っていました。
 このように私たちは廃墟の上で暮らしており、私たちの大切な日本国憲法もまた廃墟の上に築かれたものです。ですから、「降り積もる時間」というのは、頭の中で考え出されたものではなく実際にそうなのです。時間は流れるものではなく降り積もるものであるというのは本当のことなのです。
 それなのに私たちの多くが時間は流れるものであると考えてしまっているのは、一体どうしてでしょうか。ヨハネの福音書が、時間が降り積もる構造を持っているのに、2世紀以降の人類がこのことに気付いていなかったのは一体どうしてでしょうか。私たちは、このことの原因を究明して私たちの意識が変わるよう働いていかなければなりません。

おわりに
 時間とは流れるものでなく、降り積もるものであるということが、既に1世紀末のヨハネの福音書によって示されていました。時間とは降り積もるものであることを聖書に基づいて私たちの沼津教会から発信し、やがて広まって行くなら、私は会堂問題も自ずと良い方向に向かって行くのではないかと考えています。ですから私たちは霊的に成長してヨハネの福音書をさらに深く理解し、降り積もる時間のことも深く理解できるようになりたいと思います。イエスさまと共に歩むなら、必ずイエスさまが理解を助けて下さいます。イエス・キリストと共に歩む私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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8月10日礼拝プログラム

2014-08-08 06:36:52 | 礼拝プログラム
「ヨハネの永遠観」の発信教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

8月10日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

8月 第2聖日礼拝順序

 司  会             矢崎兄
 奏  楽              関姉

 前  奏
 讃 美 ①  われらはキリストのもの   232 
 交  読  マタイ5:1~12
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  人生の海の嵐に       443
 讃 美 ③  日ごと主イエスを      393
 聖  書  Ⅱ歴代36:16~21/ヨハネ11:30~35
 説  教  『降り積もる時間の恵み』 小島牧師
 讃 美 ④  いつも私を支え       418
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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8月6日(水)の祈り会について

2014-08-04 09:15:59 | 祈り会メッセージ
8月6日(水)の祈り会はありません(林間聖会のため)
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みことばの源泉「神の愛」に浸ろう(2014.8.3 礼拝)

2014-08-04 09:12:21 | 礼拝メッセージ
2014年8月3日礼拝メッセージ
『みことばの源泉「神の愛」に浸ろう』
【ヨハネ3:1~16】

はじめに
 私たちは一つにならなければなりません。私たちが一つになることの重要性を、私はこれまで何度となく話して来ました。そのためには私たちは霊的に成長する必要があります。 
 一つにならなければならない私たちとは、まずは私たちの教会のことですが、私はもっと大きな単位においても、一つにならなければならないと考えています。随分と大きなことを言うようですが、私はキリスト教は一つにならなければならないと考えていますし、できることなら宗教も民族も一つになって世界が一つになれば良いなと思います。聖書にも私たちが一つになるべきことが書いてあります。
 世界が一つになるのに、一体どれだけの時間が掛かるのか、それはわかりません。その前に主の再臨が来るのかもしれません。この先、私たちの住む世界が一つになる方向に向かって行くのか、或いは、ますます分裂する方向に向かって行くのか、それもわかりません。しかし、世界は一つになる方向を目指すべきであるという思いを持ち続けて、働きたいと願っています。
 さて世界が一つになることの難しさに比べるなら、教会が一つになることのほうが容易でしょう。しかし、それすらもそんなに簡単なことではないことを、私たちは知っています。そのように簡単ではなくても、私たちは教会が一つになる努力をしなければなりません。それにはやはり、私たちが霊的に成長して御霊の一致を得る必要があるのだと思います。
 私たちがどうしたら霊的に成長することができるか、これまで私は様々に思いを巡らし、その都度、皆さんにお話しをして来ました。聖書には御霊に関する記述があちこちにありますから、それらの箇所を引用しながら話して来ました。そうして、これらの繰り返しによって幸いなことに私の思い巡らしも深まって来て、最初は様々な聖書箇所を断片的に捉えることしかできていませんでしたが、次第に総合的に捉えることができるようになって来た気がします。
 聖書の記者は、神様に霊感を与えられて記事を書いていますが、記者にはそれぞれ個性がありますから、記者によって神様の捉え方が異なるように見えます。例えばヨハネとパウロでは、随分と違うように見えます。しかし、ヨハネもパウロも優れた霊性を持つ使徒ですから、表面的には違うように見えても深い部分では同じ筈なのですね。私は以前から、そういう深い部分がもっと見えるようになりたいと願っていましたが、ここへ来て、ようやく深い部分が見え始めた気がしています。もちろん、まだまだではありますが、きょうはそういう深い部分を皆さんと少しでも分かち合うことができたらと願っています。
 
みことばの糸
 私はここ二、三年の間、聖書について私が感じていることをどうしたら教会の皆さんや牧師の先生方と分かち合うことができるかについて思い悩んで来ました。そうしたところ、最近になって、聖書のみことばを養蚕業のカイコが吐き出す「糸」に例えたら上手く説明できるのではないかというアイデアが与えられました。私たちが使っている聖書は、みことばが何万行にもわたって書かれていますが、これらの行が、創世記から黙示録まで、一本の糸でつながっていると考えるわけです。そして養蚕業のカイコは、この糸で繭(まゆ)を作りますが、人は、この「みことばの糸」で聖書を作りました。
 人は、カイコが作った繭の糸をほどいて拠り合わせて生糸を作り、生糸を編んで布を作り、布から衣服などの布製品を作ります。同様にして聖書の記者は「みことば」の糸から聖書の記事を書き、聖書の編者は記事を編んで聖書という布を作り、そうして様々な人々が聖書という布を加工して信仰書や注解書などの本を作ります。きょう私が皆さんに訴えたいのは、このような「みことばの糸」や、糸を編んでできた布や衣服は神様の愛を感じるための入門書のようなものであるので、この入門の段階で満足していてはならないということです。聖書や信仰書を読んで頭で理解してわかったつもりになるのでなく、もっと神様の愛を全身全霊で感じることができるようにならなければなりません。
 そのことを分かっていただくために、再びカイコの例えに戻ります。カイコは繭を作る時に口から糸を吐き出しますが、カイコの体の中に糸があるわけではなく、カイコの中にあるのは粘液状の蛋白質です。その粘液状の蛋白質がカイコの口を出る時に糸になります。この蛋白質はカイコの体の中にある時は定まった形を持っていませんが、カイコの口を通る時に糸という形になって外に出て来ます。
 「みことばの糸」も同じです。「みことばの糸」の源(みなもと)は神の愛です。神は霊ですから(ヨハネ4:24)、神の愛も定まった形を持っていませんが、預言者の口を通して語られる時にみことばという形になります。そして神の愛を「みことばの糸」にする働きを担っているのが、「ことば」であるイエス・キリストです。きょうの聖書交読でご一緒に読んだヨハネの福音書のプロローグにあるように、イエス・キリストは「ことば」です。私たちは天の父に直接お会いすることはできませんが、その代わりにイエスさまが私たちに天の父の愛をことばにして私たちに伝えて下さいます。そして、イエス・キリストは旧約の時代の初めからおられますから、旧約聖書の神のことばも、新約聖書の神のことばも全てイエス・キリストが「みことばの糸」として預言者や聖書の記者に供給したものだと言えるでしょう。
 私が聖書のみことばを「糸」に例えるアイデアが与えられたのは、旧約の時代の律法のことばが非常に長いものだからです。律法のことばが長ければ、糸の長さも長くなります。そして、この糸の長さは時間の長さでもあります。長い律法のことばを人に伝えるには時間が掛かります。あまりに長いので退屈に感じて疎かにしたり、律法のことを人間を縛る縄(ロープ)のように誤解してしまったりします。しかし、律法は元々は「神の愛」です。神は永遠の中にいますから、神の愛もまた永遠の中にあります。しかし、ことばにすると時間が付随して来ます。
 ここで理性と霊性の違いについて話しておきたいと思います。きょうのメッセージで私は、私たちはもっと霊的に成長する必要があるということを言っています。私たちは、もっと霊性を育てなければなりません。霊性とは神の愛のような時間の無い(或いは過去・現在・未来が一体の)永遠の世界を感じ取る力であると言えるでしょう。一方、理性は物事を論理的に処理して理解する力です。論理的に理解するとは、物事をきちんと順序立てて理解することと言えます。順序立てることには、時間が付随します。ですから、時間が付随しているみことばとは、神の愛を理性によって論理的に理解できるようにする試みであると言えるでしょう。
 神の愛を理性によって論理的に理解することは、もちろん必要なステップです。なぜなら、生まれながらの私たちは、まだ霊性が眠った状態にありますから、神の愛を霊性によって感じることができません。ですから、先ずは理性によって神の愛の存在を知る必要があります。そうして神の愛に気付くようになると聖霊が働いて私たちの霊性が目覚め始めます。つまり、みことばは霊性を目覚めさせるためには不可欠です。しかし、みことばはあくまで理性に訴えるものですから、みことばを理性で理解することに励み過ぎると、みことばの源泉に遡り、神の愛を霊的に感じることが、なかなか出来なくなってしまいます。
 ですから、きょう私が皆さんに訴えたいことは、もっと神様の愛にどっぷりと浸かろうではありませんか、ということです。みことばには時間が付随しているので、そのままでは私たちの霊性はほとんど育ちません。私たちが霊性を育むには、時間が存在しない神の愛の源泉にまで遡って、神の愛にどっぷりと浸からなければなりません。そうして神様に私たちの霊性を育てていただきたいと思います。
 みことばの糸の源流を遡って霊性を育むことは、非常に大切なことです。みことばに依らずに単に霊性だけを育てようとすると熱狂主義に陥ったり悪霊に取り憑かれたりする危険性があります。ですから霊性を育むには、正しくみことばの源流を遡る必要があります。

ヨハネ3:16の「神の愛」にどっぷり浸かろう
 そのための聖書箇所として示されているのが、きょうの聖書箇所であるヨハネの福音書3章の前半の部分です。このヨハネ3:1~16にはニコデモとイエスさまとの間で交わされた、聖霊についての会話が記されており、その会話に続いて「聖書の中の聖書」とも呼ばれるほどに重要な聖句であるヨハネ3:16があります。この宝石のようなヨハネ3:16は、なぜ3章に置かれているのでしょうか。1章でも2章でもなく、或いはまた4章以降でもなく3章に置かれているのは何故でしょうか。これから、じっくりと見て行きたいと思います。そうして時間を越えた神の愛を共に分かち合うことができたらと願っています。
 この3章の箇所ではニコデモが登場します。このニコデモはパリサイ人でユダヤ人の指導者であることが1節に書かれており、10節でイエスさまはニコデモに、「あなたはイスラエルの教師でありながら、こういうことがわからないのですか」と言っています。この10節のイエスさまの言葉には、イスラエルの教師であるニコデモに対するイエスさまの苛立ちの感情が感じられます。イエスさまと天の父とは一つですから(ヨハネ10:30)、イエスさまの苛立ちは天の父の苛立ちを反映したものです。そして、もし私たちが「神の愛」にどっぷりと浸かっているなら、この苛立ちを他人事と感じるのでなく、父とイエスさまの苛立ちに共感することができるでしょう。
 昨年からの説教で説明して来たように、ヨハネの福音書のイエス・キリストは永遠の中を生きており、紀元30年頃の「イエスの時代」だけではなく、「旧約の時代」と「使徒の時代」も同時に生きています。それゆえニコデモと会話しているイエスは紀元30年頃にいると同時に「旧約の時代」にも「使徒の時代」にもいます。では、ヨハネ3章のイエスとニコデモの会話の場面は「旧約の時代」と「使徒の時代」のどの辺りに相当するでしょうか。それは、この3章の箇所の前後を見ることでわかります。
 まず「旧約の時代」は、前のヨハネ2章でイエスが水をぶどう酒に変えた場面がモーセがナイル川の水を血に変えた場面に相当し、続く2章後半の過越の祭りはモーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出した場面に相当します。そして23節の、

2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。

は、出エジプト記14章31節の(週報p.3)、

14:31 イスラエルは【主】がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は【主】を恐れ、【主】とそのしもべモーセを信じた。

と重なりますから、ヨハネ2章まででエジプト脱出を完了して、ヨハネ3章からは荒野に入って行くことになります。また、ニコデモの箇所の後ろの3章14節にあるモーセが荒野で蛇を上げたことは民数記に記されており、また3章22節の「ユダヤの地に行き」はヨシュア記でイスラエルの民がヨルダン川を渡ってカナンの地に入ったことを示します。これらのことから、ヨハネ3章のイエスがパリサイ人のニコデモと会話を交わす場面は「旧約の時代」にあっては、「律法の授与」ということになります。
 もう一つの「使徒の時代」は、ヨハネ2章のカナの婚礼がペンテコステの日にガリラヤ人たちに聖霊が注がれた出来事、そして先ほども引用したヨハネ2章23節の

2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。

は、同じペンテコステの日にガリラヤ人たちに次いでユダヤ人たちにも聖霊が注がれたことと重なっています。また、ヨハネ4章でサマリヤ人たちがイエスを信じた場面は、使徒8章でサマリヤ人たちに聖霊が注がれた場面と重ねてありますから、ヨハネ3章でイエスがニコデモに聖霊について話している場面は「使徒の時代」にあっては、ユダヤ人に聖霊が注がれてからサマリヤ人に聖霊が注がれるまでの間の期間ということになります。

「神の愛」に鈍感な私たち
 では、ヨハネ3章で聖霊についての説明をニコデモにしたイエスが見せたニコデモに対する苛立ちは何を意味するのでしょうか。それは、「旧約の時代」にあっても「使徒の時代」にあってもユダヤ人たちが「神の愛」に無理解であったことへの神の苛立ちであると私は感じます。「旧約の時代」のイスラエル人たちは「神の愛」の表れである律法が授与された後も、何かと言えばすぐに神から離れてしまう者たちでした。モーセがシナイ山で神から律法を授けられている時、イスラエルの民は金の子牛の像を作って礼拝しました(出エジプト32章)。また荒野を放浪している間は水や食べ物のことで不平不満を言ってばかりいました。モーセが荒野で蛇を上げたのも、民の不満がきっかけでした(民数記21:4~9)。
 そしてまた「使徒の時代」のユダヤ人たちもイエスを信じた者たちもいましたが、大半はイエスを信じるには至らず、かえってイエスを信じた者たちを迫害していました(使徒4~7章)。「旧約の時代」のユダヤ人たちは律法を守らず、「使徒の時代」のユダヤ人たちは律法を守ってはいても「神の愛」のことをわかっていませんでした。それは、律法が理性に訴えることばで綴られているために、霊性で感じるべき「神の愛」を感じることができなかったからだと言えるでしょう。
 このような「神の愛」がわからない人々のためにイエス・キリストは十字架に掛かり、「神の愛」を示して下さいました。ヨハネの手紙第一4章9節と10節は、次のように書いています(新約聖書p.469)。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 つまり、神がこれほどまでのことをして下さらなければ、私たちは神の愛に気付かないほど霊的に鈍感であるということです。人はみことばを理性で理解しようとしますから、霊性が育たずにいて、その結果、せっかく預言者たちを通してみことばが語られたにも関わらず、そこから神の愛を見出すことができずにいました。それほど鈍感な者たちでも神の愛に気付くことができるように、御子は十字架に掛かって下さったと言えるでしょう。そうして、一部の人々は神の愛に気付くことができるようになり、霊性を育むことができるようになりました。しかし、相変わらず理性だけが働いていて霊性が育たない人々も多くいます。現代の教会の問題として、イエス・キリストを信じて洗礼を受けても教会生活が長続きせずに教会から離れてしまう人々が多いということをよく耳にします。私は、それは神の愛を理性でしか理解しておらず、霊性で感じていないからであろうと考えます。

旧約と新約の多重の「神の愛」を感じよう
 さて、ここで改めて「聖書の中の聖書」と呼ばれるヨハネ3:16をじっくりと眺めてみたいと思います。

ヨハ 3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 このヨハネ3:16をじっくり観察するなら、ここには御子を信じる者でも滅びる場合があるということが書いてあるのだと私は読み取りたいと思います。それは一つには、御子が十字架に掛からなかった場合ですね。御子イエスが神の子キリストであることを信じても、もし御子が十字架に掛からなかったなら、御子から離れて行く可能性があります。信じた者と御子とのつながりがあまり強くはないからです。或いはまた、御子イエスが十字架に掛かって死んだままであったとしても、やはり躓いて信仰から離れて行ってしまう可能性があります。ですから、このヨハネ3:16を味わう場合には、イエスが十字架で死んだ後によみがえって天に上り、私たちに聖霊を注ぐということまで含めて考えなければなりません。ヨハネ3:16が聖霊の注ぎまで含めて理解しなければならないことは、ニコデモに聖霊の説明がされた後に書かれていることからもわかります。また、16節の直前の14節ではモーセに言及していますから、律法の恵みも含めて考えなければなりません。
 すると、このヨハネ3:16には律法と聖霊という「旧約の時代」の「神の愛」と「新約の時代」の「神の愛」の両方が含まれているということになります。ヨハネ3:16を味わう時には、ぜひこのような律法と聖霊という多重の神の愛を感じることができるようになりたいと思います。

源泉は全ての聖書記事に通じる
 この旧約の神の愛と新約の神の愛についてはエレミヤの預言ともまた重なって来ます。私がよく引用する箇所ですがエレミヤ31章の31節から33節までを交代で読みましょう(旧約聖書p.1302)。

31:31 見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
31:32 その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。──【主】の御告げ──
31:33 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。

 33節の「律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」とは聖霊のことです。ですからエレミヤの預言は成就しました。このように旧約の時代のエレミヤの預言が新約の時代に成就することは、時間に縛られている人間の感覚では不思議なことに感じますが、みことばの源流を遡るなら、もともとは過去・現在・未来が一体の神の愛の中にあることですから、預言の成就は不思議なことではありません。
 パウロはローマ人への手紙の中で「私たちは律法は霊的なものであることを知っています」(ローマ7:14)と書いていますから、パウロもまた律法が神の愛の表れであることを感じていたのだと思います。或いはまたパウロは「福音のうちには神の義が啓示されている」(ローマ1:17)とも書いています。私はパウロにとっての「神の義」はヨハネにとっての「神の愛」に近いものであったのではないかという気がしています。
 このように、もし私たちが「みことばの糸」の源流である「神の愛」に遡り、その中にどっぷりと浸かるなら、聖書のみことばは旧約・新約の区別なく、記者の区別もなく、元々は一つなのだということを感じることができるようになります。「ことば」であるイエス・キリストが神の愛を「みことばの糸」として私たちに供給して下さったのは、私たちが生まれながらの状態では霊性が目覚めていないからです。ですから、私たちがイエス・キリストを信じて聖霊が注がれ、神の愛のことを少しでも感じることができるようになったなら、私たちは、みことばの源泉に遡って神の愛にどっぷりと浸かるようにならなければならないと思います。いつまでも時間に縛られていてはならないと思います。
 永遠の中を生きる神の恵みをしっかりといただくためには、私たちは、みことばの源流に遡って「神の愛」にどっぷりと浸かる必要があります。そこに温泉のように浸かって全てを神に委ねるなら、神の平和に満たされます。
 私たちが温泉にどっぷりと浸かり、体の力を抜くなら、自分の体が軽くなるのを感じます。それはお湯からの浮力が働くからです。同様に神に全てを委ねる時、私たちの心は神の浮力を受けてとても軽くなるのを感じます。また神は永遠の中にいますから、時の流れに流されて漂流する感覚が無くなり、心の安定を得ることができます。

おわりに
 最後に、ここもまた私がよく引用する箇所ですがルカ10章のマルタとマリヤの箇所をご一緒に読みたいと思います。イエスさまのみことばに耳を傾けていたマリヤはみことばの源流を遡り、源泉の「神の愛」にどっぷりと浸かっていたのだと思います。ルカの福音書10章の38節から42節までを、交代で読みましょう(新約聖書p.134)。

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村に入られると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 お祈りいたしましょう。
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暑い夏に思う事(N兄)

2014-08-01 00:07:42 | 教会員の証し
暑い夏に思う事(2014.8.1 N兄)

 今年も暑い8月。広島、長崎に原爆が投下され、戦争が終わってから69年だそうです。
 1945年8月、私は4才。当時の記憶は定かではありません。数十年前のある日、母と姉が戦争の事を話しているのを傍らで聞いていて、二つの情景が思い浮かび、もしかしたら私の戦争体験に関係があるのかと思い、話して見ました。
 一つ目は、暗闇の中に身を潜めて、大火事のような恐ろしい光景を見ていた。
 二つ目は、埃が立ち込める中、薄らと見える人影が声もなく皆同じ方向へ歩いて行く。
 母と十才年上の姉に依ると、それは終戦の半年前、3月の東京大空襲の時の記憶だろう、と言うことでした。二人の話によれば...
 当時我が家は、東京日本橋に住んでいた。深夜、空襲警報のサイレンで起こされ、予ねて打ち合わせの通り、姉は三才半の私を背負い避難所へ。父は町内の見回りに。母は貴重品を取り纏めてから避難所へ。夫々別行動。避難所は当時数少ないコンクリートの建物で、既に多数の人々が詰めかけていた。遅れて到着した母となんとか中へ入ったが、忘れ物を思い出したのか、母は我が家へ取って返した。その途中、目の前に爆弾が落下し、腰を抜かす程の衝撃を受け、這うようにして避難所へ引き返した。幸いにも落下した爆弾は不発弾だった様だ。避難所は満員になり、周りの民家は火に包まれた。建物の管理人は、避難して来た人々全員を外に出してしまった。姉は建物の風下に周り、弟の私に毛布を掛けて降りかかる火の粉を防ぎ、母の到着を待った。掛けられた毛布の隙間から見えた光景が私の記憶に残ったのか。火の粉に追われるように、大川の辺まで移動した。我々を探し当てた父は、実戦の経験から、ここが風下であり危険だと気づき、家族を引き連れ、強風の中を風上へと移動した。夜が明けるころ、黒煙と異臭が漂う中、難を免れた人々は焦土と化した街を脱出しようと歩きだした。東京郊外で鉄道が折り返し運転を始めたとの話を聞いたので、我々も父の生家を頼るべく、その駅まで行ってみる事にした。
 埼玉の親戚にお世話になったが、大空襲の夜は庭で新聞が読める程南の空が明るかったそうだ。何とか東京に家を借りて移住し、姉は女学校の商業科を卒業し就職。規範として教えられて来た事柄が崩れ去り、新しい時代に人生の価値を問う娘。混乱の最中、威厳を維持しようとする父。価値観の大転換に悩む家族に不協和音が響き始める。勤めからの帰りが遅くなった娘を注意した父は、娘の反撃に悩む。この様な応酬が繰り返されたある日の事、いつもの小言をこの日の娘は正座して聞いたと言う。これには父の方が驚いた。キリスト教会の集まりに参加して帰りが遅くなったと娘は詫びた。親の忠告より娘の心に響いたキリストの言葉とは何。父も教会に興味を持つ様になり、間もなく洗礼を受けた。暗い毎日を酒で紛らわしていた父は、酒の力を借りなくても明るい人に変わった、と。

 その後、母も洗礼を受け、10歳の私も教会に連れて行って貰える様になりました。教会が楽しいと言うより、電車に乗れる事、たまには動物園に寄り道できる事が楽しみだったからです。当時最高の楽しみは、メンコでした。近所の友達と勝負をするのですが、最初のうちは負けてばかり。小遣いが足りなくなると、こっそり母の財布から拝借し、見つかって叱られた事がありました。徐々に強くなって、“千枚達成”を目標にするようになり、達成の日が近づいていました。
 母が洗礼を受けてから、母と二人で聖書を読む事が習慣になっていました。その日読んだ聖書の箇所は「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。」でした。「イエス様に愛されていながら、あなたは悪い子でいていいのか?」と問われたような気がして、母の祈りの後、「イエス様ごめんなさい」と祈りました。私の初めての祈りです。翌日、机の中の過半を埋めていたメンコを全て捨てました。不思議と、惜しいと言う気持ちは起こりませんでした。
 聖書を読んで教えられる、日曜毎の礼拝メッセージで恵まれる。私にとって、今でも変わらない大切な習慣です。
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