2016年2月28日礼拝メッセージ
『聖所を造って神を知った民』
【出エジプト1:1~7、40:34~38】
はじめに
前回の礼拝メッセージでは、出エジプト記40章の33節までを読みました。先週のメッセージを準備している段階で、34節から38節までを余らせると中途半端だから全部読んでしまおうかとも思いました。それでどうしようかと少し悩みましたが、34節から38節までは読まずに取っておいて、きょう改めて開くことに決めました。そして、出エジプト記の全体を振り返る機会としたいと思いました。
そういうわけで、きょうの聖書箇所は出エジプト記の全体です。聖書朗読では司会者に出エジプト記の最初の段落と最後の段落とを読んでいただきました。
出エジプトの出来事の始まり
早速、出エジプト記の1章を見ることにしましょう。ご承知の通り、出エジプト記の前の書の創世記は、ヤコブの一家がエジプトに移住して、その後にヤコブとヨセフが死んだところで終わります。創世記49章でヤコブが死に、50章でヤコブの息子のヨセフが死にました。そうして出エジプト記に入ります。出エジプト記1章1節、
1:1 さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。
そして2節以降にヤコブの12人の息子たちの名前が挙げられています。この12人の息子たちがイスラエル12部族の祖先となりました。そして6節と7節、
1:6 そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。
1:7 イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。
出エジプトの出来事はここから始まります。8節、
1:8 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
ヤコブの息子のヨセフは、エジプトがききんで困らないように豊作の間に食糧を備蓄する政策を進めることでエジプトを救いました。ですからヨセフはエジプトの恩人でした。エジプトにいるイスラエル人たちは皆、そのヨセフの親族でしたから、王たちがヨセフのことを知っている間はイスラエル人に苦役を強いることはありませんでした。しかし、8節にあるようにヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こり、王はイスラエル人を奴隷にして苦役を与えるようになりました。
ページをめくっていただいて2章23節から25節、
2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。
2:24 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。
こうして神は、モーセをリーダーに任命してイスラエル人の全体をエジプトを脱出させるという大事業を始めました。この出エジプトの出来事でエジプトを脱出したイスラエル人は何人ぐらいいたのでしょうか。女子供や老人を含めた正確な数はわかりませんが、軍務に付くことができる二十歳以上の男子の数は60万3550人であったと民数記の1章に書いてあります。民数記の1章には部族ごとの人数が記されていて、これらの数を足すと、確かに60万3550人になります。ただし、この人数には軍務に付かない女性や子供、老人、そして祭司職のレビ人は含まれていません。これらの軍務に付かない人々も含めると二百万人ぐらいになるのでしょうか。
沼津市の人口がだいたい20万人ぐらいだそうですから、その10倍もの数のイスラエル人たちがエジプトを脱出したことになります。このようなことは、神にしか為しえないことでした。人間業では、とうてい無理なことでした。
こうしてイスラエルの民は出エジプトの出来事を通して神を知りました。エジプトを脱出する前も、人々はイスラエルの神のことを言い伝えを聞いて知識としては知っていたと思います。しかしヤコブの息子たちが死んでからおよそ400年が経っていましたから、イスラエルの人々にとっての神は、単に自分たちの親が礼拝しているから自分も礼拝する、という程度のことで受け継がれていたのではないかと思います。自分たちの生活に神が深く関わっているという実感をほとんど持っていなかったはずです。しかし、イスラエルの人々は出エジプトの出来事によって神を知ることになりました。
イスラエルの民の濃厚な神体験
この出エジプト記には民が経験したことが、たくさん書かれています。そして、ここに記されていることの大半は、わずか1年の間に起きたことです。モーセが生まれてから80歳になるまでのことも記されていますから、その期間も含めれば80年以上ということになりますが、出エジプト記3章から40章までの期間はわずか1年程度でしかありません。ですから、出エジプトの出来事で民は本当に濃厚な体験をしたことになります。
きょうはこれから、イスラエルの民が経験したことを、出エジプト記を見ながら少し辿ってみたいと思います。
まず強烈だったのが、神がエジプトに与えた十の災いですね。出エジプト7章19節をお読みします。
7:19 【主】はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」
もう少し見てみましょう。8章5節、
8:5 【主】はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。」
8章16節、
8:16 【主】はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」
ここまでで三つの災いがエジプトを打ちました。このぶよの後も主は、エジプトをあぶ、家畜の疫病、腫物、雹、いなご、暗闇で打ち、最後に全エジプトを初子の死で打ちました。この初子の死をイスラエルの家では過越によって免れて、ここに至ってエジプトの王のパロはようやくイスラエル人にエジプトから出て行くよう、命じました。12章31節です。
12:31 パロはその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立ち上がって、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、【主】に仕えよ。
こうしてイスラエルの民はエジプトを出て行くことができましたが、皆さんご存知の通り、この後でパロの軍勢がまた追い掛けて来るのですね。この時、イスラエルの人々は海に行き手を阻まれていましたから、追い詰められそうになります。その時、14章21節の奇跡が起きました。14章21節、
14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、【主】は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。
こうしてイスラエルの人々は海の中にできた道を進むことができ、彼らが海を渡りきった後で海が元どおりになりましたから、パロの軍勢は海の水に飲み込まれてしまいました。そして14章31節、
14:31 イスラエルは【主】がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は【主】を恐れ、【主】とそのしもべモーセを信じた。
ここまでだけでもイスラエルの民はすごい経験をしました。しかし、彼らはまだまだ色々なことを経験します。16章で主は天からマナを降らせました。17章では主は岩から水を出して民に与えました。またイスラエルの民は17章の後半ではアマレクとの戦いも経験しました。このアマレクとの戦いにイスラエルはモーセが手を上げることで勝つことができました。そして、20章からは神が十戒を始めとする律法を授けたことが書かれています。
このようにイスラエルの人々が経験したことをまとまった形で見ると、神がイスラエルの人々をいかに大事に守り、導いて来たかということがわかると思います。
幕屋造りを通してより深く神を知った民
こうしてイスラエルの人々は神の御業を通して神を知りました。しかし私は、先週までの学びを通して、イスラエルの民が本当に神を知ったのは神の御業を通してではなく、彼らが聖所である幕屋を自分たちの手で造ることによってではなかったかと感じています。
何度かご一緒に見ていますが、25章8節で、主は、
25:8 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。
と仰せられました。イスラエルの民が自分たちの手で聖所を造り、そのことで主が彼らの中に住み、そうして主を知ったと言えるだろうと感じています。
これまでの礼拝メッセージで見て来たように、主は幕屋の造り方を細かくモーセに伝えました。この間にイスラエルの民は金の子牛の像を造って礼拝するという大事件を起こしますが、悔い改めて主の命令の通りに幕屋造りを丁寧に行い、幕屋が完成しました。
そして40章34節、
40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。
こうして「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」と主が仰せられたことが成就しました。ただし主は宇宙サイズのお方ですから、小さな幕屋の中に主が完全に入って納まったなどとは決して思わないで下さい。主は広く遍く遍在しておられますから、どこにでもおられます。ダビデの息子のソロモンも神殿が完成した時に、次のように言っています。
Ⅰ列王8:27 それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。
ですからモーセの幕屋に主の栄光が満ちた時も、主が完全にこの中に納まったわけではありません。上手く言えませんが、主は広く遍く存在しつつも、この時は幕屋の所に主の存在が格別に濃く現れたということでしょう。こうしてイスラエルの民が主のために聖所を造り、主は彼らの中に住むようになりました。
これは主とイスラエルの民との関係という意味で大きな変化であると言えると思います。それまでイスラエルの民は、主が一方的に与える恵みをただ受けてエジプトから出て来ました。過越の恵みを受け、海が割れる恵みを受け、天からマナが降る恵みを受け、岩から水が出る恵みを受け、そして律法も受け取りました。律法もまた恵みです。そうやって、主が与えて下さる恵みを一方的に受け取って来ました。
しかし幕屋はイスラエルの民が造りました。造り方は主が教えましたが、手を動かしたのはイスラエルの民たちでした。そうして心を込めて造った幕屋の中に主が入り、栄光が現されました。このように自分たちの手で造った幕屋に主の栄光が現されたことはイスラエルの民にとっては大きな感動だったことでしょう。こうして主とイスラエルの民との間に新しい関係が築かれました。
おわりに
私たちが新しい礼拝堂を建設することも、主と私たちとの間に新しい関係が築かれることなのだということを今回私はとても強く感じています。会堂建設以外の日々の信仰生活では、私たちはただ一方的に主の恵みを受けながら日々を歩んでいます。しかし、主の宮である会堂を私たちの手で建設するということは、普段の信仰生活における主と私たちとの関係とはぜんぜん違う関係だなと感じています。そして、このような機会をいただけていることに特別な恵みを感じています。
私たちはこの特別な恵みをしっかりと感じながら、礼拝堂の設計と建設に取り組んで行きたいと思います。そうして主に導かれながら信仰の歩みを進めて行きたいと思います。
最後に出エジプト記40章の36節から38節までを交代で読んで終わることにしましょう。
40:36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
40:37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。
40:38 イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。
お祈りいたしましょう。
『聖所を造って神を知った民』
【出エジプト1:1~7、40:34~38】
はじめに
前回の礼拝メッセージでは、出エジプト記40章の33節までを読みました。先週のメッセージを準備している段階で、34節から38節までを余らせると中途半端だから全部読んでしまおうかとも思いました。それでどうしようかと少し悩みましたが、34節から38節までは読まずに取っておいて、きょう改めて開くことに決めました。そして、出エジプト記の全体を振り返る機会としたいと思いました。
そういうわけで、きょうの聖書箇所は出エジプト記の全体です。聖書朗読では司会者に出エジプト記の最初の段落と最後の段落とを読んでいただきました。
出エジプトの出来事の始まり
早速、出エジプト記の1章を見ることにしましょう。ご承知の通り、出エジプト記の前の書の創世記は、ヤコブの一家がエジプトに移住して、その後にヤコブとヨセフが死んだところで終わります。創世記49章でヤコブが死に、50章でヤコブの息子のヨセフが死にました。そうして出エジプト記に入ります。出エジプト記1章1節、
1:1 さて、ヤコブといっしょに、それぞれ自分の家族を連れて、エジプトへ行ったイスラエルの子たちの名は次のとおりである。
そして2節以降にヤコブの12人の息子たちの名前が挙げられています。この12人の息子たちがイスラエル12部族の祖先となりました。そして6節と7節、
1:6 そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。
1:7 イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満ちた。
出エジプトの出来事はここから始まります。8節、
1:8 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。
ヤコブの息子のヨセフは、エジプトがききんで困らないように豊作の間に食糧を備蓄する政策を進めることでエジプトを救いました。ですからヨセフはエジプトの恩人でした。エジプトにいるイスラエル人たちは皆、そのヨセフの親族でしたから、王たちがヨセフのことを知っている間はイスラエル人に苦役を強いることはありませんでした。しかし、8節にあるようにヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こり、王はイスラエル人を奴隷にして苦役を与えるようになりました。
ページをめくっていただいて2章23節から25節、
2:23 それから何年もたって、エジプトの王は死んだ。イスラエル人は労役にうめき、わめいた。彼らの労役の叫びは神に届いた。
2:24 神は彼らの嘆きを聞かれ、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こされた。
2:25 神はイスラエル人をご覧になった。神はみこころを留められた。
こうして神は、モーセをリーダーに任命してイスラエル人の全体をエジプトを脱出させるという大事業を始めました。この出エジプトの出来事でエジプトを脱出したイスラエル人は何人ぐらいいたのでしょうか。女子供や老人を含めた正確な数はわかりませんが、軍務に付くことができる二十歳以上の男子の数は60万3550人であったと民数記の1章に書いてあります。民数記の1章には部族ごとの人数が記されていて、これらの数を足すと、確かに60万3550人になります。ただし、この人数には軍務に付かない女性や子供、老人、そして祭司職のレビ人は含まれていません。これらの軍務に付かない人々も含めると二百万人ぐらいになるのでしょうか。
沼津市の人口がだいたい20万人ぐらいだそうですから、その10倍もの数のイスラエル人たちがエジプトを脱出したことになります。このようなことは、神にしか為しえないことでした。人間業では、とうてい無理なことでした。
こうしてイスラエルの民は出エジプトの出来事を通して神を知りました。エジプトを脱出する前も、人々はイスラエルの神のことを言い伝えを聞いて知識としては知っていたと思います。しかしヤコブの息子たちが死んでからおよそ400年が経っていましたから、イスラエルの人々にとっての神は、単に自分たちの親が礼拝しているから自分も礼拝する、という程度のことで受け継がれていたのではないかと思います。自分たちの生活に神が深く関わっているという実感をほとんど持っていなかったはずです。しかし、イスラエルの人々は出エジプトの出来事によって神を知ることになりました。
イスラエルの民の濃厚な神体験
この出エジプト記には民が経験したことが、たくさん書かれています。そして、ここに記されていることの大半は、わずか1年の間に起きたことです。モーセが生まれてから80歳になるまでのことも記されていますから、その期間も含めれば80年以上ということになりますが、出エジプト記3章から40章までの期間はわずか1年程度でしかありません。ですから、出エジプトの出来事で民は本当に濃厚な体験をしたことになります。
きょうはこれから、イスラエルの民が経験したことを、出エジプト記を見ながら少し辿ってみたいと思います。
まず強烈だったのが、神がエジプトに与えた十の災いですね。出エジプト7章19節をお読みします。
7:19 【主】はまたモーセに仰せられた。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」
もう少し見てみましょう。8章5節、
8:5 【主】はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの手に杖を持ち、川の上、流れの上、池の上に差し伸ばし、かえるをエジプトの地に、はい上がらせなさい。」
8章16節、
8:16 【主】はモーセに仰せられた。「アロンに言え。あなたの杖を差し伸ばして、地のちりを打て。そうすれば、それはエジプトの全土で、ぶよとなろう。」
ここまでで三つの災いがエジプトを打ちました。このぶよの後も主は、エジプトをあぶ、家畜の疫病、腫物、雹、いなご、暗闇で打ち、最後に全エジプトを初子の死で打ちました。この初子の死をイスラエルの家では過越によって免れて、ここに至ってエジプトの王のパロはようやくイスラエル人にエジプトから出て行くよう、命じました。12章31節です。
12:31 パロはその夜、モーセとアロンを呼び寄せて言った。「おまえたちもイスラエル人も立ち上がって、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、【主】に仕えよ。
こうしてイスラエルの民はエジプトを出て行くことができましたが、皆さんご存知の通り、この後でパロの軍勢がまた追い掛けて来るのですね。この時、イスラエルの人々は海に行き手を阻まれていましたから、追い詰められそうになります。その時、14章21節の奇跡が起きました。14章21節、
14:21 そのとき、モーセが手を海の上に差し伸ばすと、【主】は一晩中強い東風で海を退かせ、海を陸地とされた。それで水は分かれた。
こうしてイスラエルの人々は海の中にできた道を進むことができ、彼らが海を渡りきった後で海が元どおりになりましたから、パロの軍勢は海の水に飲み込まれてしまいました。そして14章31節、
14:31 イスラエルは【主】がエジプトに行われたこの大いなる御力を見たので、民は【主】を恐れ、【主】とそのしもべモーセを信じた。
ここまでだけでもイスラエルの民はすごい経験をしました。しかし、彼らはまだまだ色々なことを経験します。16章で主は天からマナを降らせました。17章では主は岩から水を出して民に与えました。またイスラエルの民は17章の後半ではアマレクとの戦いも経験しました。このアマレクとの戦いにイスラエルはモーセが手を上げることで勝つことができました。そして、20章からは神が十戒を始めとする律法を授けたことが書かれています。
このようにイスラエルの人々が経験したことをまとまった形で見ると、神がイスラエルの人々をいかに大事に守り、導いて来たかということがわかると思います。
幕屋造りを通してより深く神を知った民
こうしてイスラエルの人々は神の御業を通して神を知りました。しかし私は、先週までの学びを通して、イスラエルの民が本当に神を知ったのは神の御業を通してではなく、彼らが聖所である幕屋を自分たちの手で造ることによってではなかったかと感じています。
何度かご一緒に見ていますが、25章8節で、主は、
25:8 彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む。
と仰せられました。イスラエルの民が自分たちの手で聖所を造り、そのことで主が彼らの中に住み、そうして主を知ったと言えるだろうと感じています。
これまでの礼拝メッセージで見て来たように、主は幕屋の造り方を細かくモーセに伝えました。この間にイスラエルの民は金の子牛の像を造って礼拝するという大事件を起こしますが、悔い改めて主の命令の通りに幕屋造りを丁寧に行い、幕屋が完成しました。
そして40章34節、
40:34 そのとき、雲は会見の天幕をおおい、【主】の栄光が幕屋に満ちた。
こうして「彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む」と主が仰せられたことが成就しました。ただし主は宇宙サイズのお方ですから、小さな幕屋の中に主が完全に入って納まったなどとは決して思わないで下さい。主は広く遍く遍在しておられますから、どこにでもおられます。ダビデの息子のソロモンも神殿が完成した時に、次のように言っています。
Ⅰ列王8:27 それにしても、神ははたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。
ですからモーセの幕屋に主の栄光が満ちた時も、主が完全にこの中に納まったわけではありません。上手く言えませんが、主は広く遍く存在しつつも、この時は幕屋の所に主の存在が格別に濃く現れたということでしょう。こうしてイスラエルの民が主のために聖所を造り、主は彼らの中に住むようになりました。
これは主とイスラエルの民との関係という意味で大きな変化であると言えると思います。それまでイスラエルの民は、主が一方的に与える恵みをただ受けてエジプトから出て来ました。過越の恵みを受け、海が割れる恵みを受け、天からマナが降る恵みを受け、岩から水が出る恵みを受け、そして律法も受け取りました。律法もまた恵みです。そうやって、主が与えて下さる恵みを一方的に受け取って来ました。
しかし幕屋はイスラエルの民が造りました。造り方は主が教えましたが、手を動かしたのはイスラエルの民たちでした。そうして心を込めて造った幕屋の中に主が入り、栄光が現されました。このように自分たちの手で造った幕屋に主の栄光が現されたことはイスラエルの民にとっては大きな感動だったことでしょう。こうして主とイスラエルの民との間に新しい関係が築かれました。
おわりに
私たちが新しい礼拝堂を建設することも、主と私たちとの間に新しい関係が築かれることなのだということを今回私はとても強く感じています。会堂建設以外の日々の信仰生活では、私たちはただ一方的に主の恵みを受けながら日々を歩んでいます。しかし、主の宮である会堂を私たちの手で建設するということは、普段の信仰生活における主と私たちとの関係とはぜんぜん違う関係だなと感じています。そして、このような機会をいただけていることに特別な恵みを感じています。
私たちはこの特別な恵みをしっかりと感じながら、礼拝堂の設計と建設に取り組んで行きたいと思います。そうして主に導かれながら信仰の歩みを進めて行きたいと思います。
最後に出エジプト記40章の36節から38節までを交代で読んで終わることにしましょう。
40:36 イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。
40:37 雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。
40:38 イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は【主】の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。
お祈りいたしましょう。