2016年8月28日礼拝メッセージ
『心と思いを一つにしていた教会員たち』
【使徒4:32~37】
はじめに
きょうは使徒の働き4章の2回目の学びです。前回は4章の前半を見ました。3章でペテロは神殿の門で足がなえた人を癒しました。そうしてペテロとヨハネは神殿の中に入って行き、説教を始めました。ペテロたちは神殿の中で力強くイエス・キリストを宣べ伝えました。しかし、イエスは十字架の死刑になった罪人でした。その罪人が救い主のキリストであるという説教を神殿の中でされては、祭司たちは放っておくわけにはいきませんでした。そこで祭司たちはペテロとヨハネを捕らえました。
そうしてペテロとヨハネを捕らえた翌日にユダヤ人の指導者たちが集まり、ペテロとヨハネに尋問し、彼らをどうしようか相談しました。そして出した結論が、彼らがイエスの名によって語ったり教えたりすることを禁じることでした。18節から見て行きます。
4:18 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。
それに対してペテロとヨハネは答えました。19節と20節、
4:19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。
4:20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
先週はここまでを見ました。聖霊を受けてイエスの証人となったペテロたちは、自分の見たこと、聞いたことを話さないわけにはいかないほど聖霊の力を受けていました。イエスの証人が受ける聖霊の力はこれほどに強く大きなものです。私たちもまたイエスの証人になって力強くイエス・キリストを宣べ伝えて行きたいと思います。
聖霊に満たされた教会員たち
続いて、21節から見て行きます。
4:21 そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。
これは、なかなか興味深い記述ですね。この21節によれば、ユダヤ人の指導者たちは神ではなく人を見ていたということになります。神を第一にしていたと思いきや、さにあらずで、人々のことをとても気にしていたということです。人々からの評判が悪くなると、指導者としての地位が危なくなるからでしょうか。
これはローマの総督のピラトが取った行動に似ていますね。ピラトはイエスを十字架に付ける必要はないと考えていましたが、人々の「十字架に付けろ」という声の大きさに押されてイエスを十字架に付けることにしました。もし暴動にまで発展してしまったら、統治能力が無いとローマの皇帝に判断されて総督としての地位が危なくなるからでしょう。
ユダヤ人の指導者たちも、もしペテロたちを厳しく罰することで大きな騒ぎに発展するようなことがあると、ローマの介入があることを恐れたのでしょうか。しかし、もし本当にイエスがただの罪人で決してキリストではないと信じていたなら、神をあがめていた人々を、それはおかしなことだと説得すればよいと思います。このユダヤ人の指導者たちも、もしかしたらイエスがキリストであるかもしれないと半分ぐらいは思っていたのでしょうか。或いは、あまりに世俗にまみれていて、信仰心に基づいて判断することができなかったのでしょうか。いずれにしても当時のユダヤ人の指導者たちの信仰が非常に中途半端であった様子が見て取れるように思います。
さて、こうしてペテロとヨハネは釈放されました。23節と24節、
4:23 釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。
4:24 これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。
この祈りのことばの部分を今日は省略して、31節に飛びます。31節、
4:31 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。
一同は聖霊に満たされました。ここでも聖霊の力が大きく働いていたことがわかります。次いで32節と33節を交代で読みましょう。
4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
まず33節を見ると、「使徒たちは主イエスの復活を非常に力強くあかしし」とありますから、使徒たちはまさに「イエスの証人」になっていたのですね。このように「イエスの証人」には聖霊の強い力が与えられ、大きな恵みもまた与えられます。
失われる兄弟愛
そして32節、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして」いました。きょうは、この初代教会の教会員たちが心と思いを一つにしていたことに注目したいと願っています。
彼らは聖霊に満たされていましたから、御霊の一致を保っていました。これは素晴らしいことです。私たちもそのように御霊によって一つになりたいと思います。
ただし先回りして言っておくと、使徒の働き6章1節には、こんな記述があります。
6:1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
教会の中では早くも苦情が出るようになっていました。そうすると、もう一つになっているとは言えないのではないかなと思います。私たちが一つになることは、本当に難しいことです。少し前に、新約聖書の手紙には兄弟愛を持つように勧めることばがたくさんあることを話しました。つまりそれは、教会員たちがなかなか兄弟愛を持つことができないでいたことを示します。最初は良かったのかもしれませんが、次第に兄弟愛を失っていったのでしょう。
黙示録のエペソの教会への手紙にも、「あなたは初めの愛から離れてしまった」という記述があります。黙示録2章の1節から5節までを、交代で読みましょう。
2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
2:2 「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
4節に「あなたは初めの愛から離れてしまった」とあります。この「初めの愛」とは何なのか、具体的なことは書かれていませんが、この「初めの愛」には兄弟愛も含まれているのではないかなと思います。それは先ほども言ったように、新約聖書の色々な手紙で兄弟愛を持つことを勧めているからです。
一体どうして私たちはこんなにも一つである状態を保つことがこんなに難しいのでしょうか。なぜ一つになったと思ってもまたすぐにバラバラになってしまうのでしょうか。皆が御霊の一致を保っていればバラバラになることはないはずですが、すぐに御霊の一致を保つことが難しくなるようです。
保つのが難しい高いレベルの霊性
私は、それは聖霊に満たされた状態を維持するのが難しいからだろうと考えます。いつもいつも聖霊に満たされているのは至難の業なのだと思います。以前も何度か話したことがあると思いますが、神様との関係を強め、そして維持することはスポーツや楽器で高いレベルを維持するのと、そんなに変わらないのだろうと私は考えています。
ピアノやヴァイオリンのプロの演奏者は、一日練習を休むと腕が落ちるそうです。そうして腕が落ちた分を取り戻すには何日も掛かるということです。高いレベルに到達しても、練習を怠るとそのレベルを維持することはできないのですね。聖霊に満たされるのも、霊的に高いレベルに引き上げられることですから、霊的に高いレベルの状態を保つのは非常に難しいと言えるでしょう。
これも以前話したことがあると思いますが、私は神学院に入る前は剣道の稽古をしていました。ただし大体において週に1回ぐらいしか稽古ができていませんでした。しかし、試合の前や昇段審査の前には週2回か3回は稽古をするようにしていました。週に2回は稽古をしていないと剣道にならないからです。
週1回の稽古では剣道とは言えず、ただ竹刀を振り回すだけの体操だと言わざるを得ません。週1回では体が思うように動きませんから、相手に面を打つ場合でも、「さあ、これから打つぞ」と脳が体に指令を出してからヨイショと打つ感じです。相手に打たれる場合も、相手の動きがほとんど見えませんから、いつの間にか打たれてしまいます。これでは、剣道とは言えないでしょう。
それが週2回の稽古だと脳から出る指令と体の動きが同じくらいになります。脳で「打て」と指令を出すと同時に体が動くようになります。そしてさらに週3回以上の稽古だと脳から「打て」と指令を出す前に動物的に体が動いて自然に技が出るようになります。また相手の動きもよく見えるようになります。そうして相手の動きに反応することができるようになります。
このように剣道では週1回しか稽古しないのか、2回なのか、3回以上なのかで全然違って来ます。週1回ではただ竹刀を振り回すだけの体操であり、2回目以上で初めて剣道らしくなります。
神様との間で霊的な関係を築くことも、週1回神様と向き合うだけでは強い関係を築くことは難しいでしょう。ですから教会に来ない日でも各家庭で祈り、毎日聖書を開く習慣を持っていただく必要があります。そして週1回は教会に来て神様に霊的な礼拝を捧げる必要があります。この霊的な礼拝を深めるために、私たちは霊的な雰囲気を持つ礼拝堂を是非とも建設したいと思います。私たちが聖霊に満たされやすい雰囲気を持つ礼拝堂を是非とも持ちたいと思います。そうして私たちの教会は霊的なレベルの高い状態を長い期間維持できる教会でありたいと思います。
おわりに
きょうは8月の第4聖日で、来月からは9月に入ります。来年の7月の始めに着工するためには、年内には礼拝堂の資金計画を取りまとめ、設計の大枠も決めなければなりません。時間はあっという間に過ぎて行くことを感じます。
どのような礼拝堂にするにせよ、私たちが建設する礼拝堂は、私たちが聖霊に満たされて一つになることができる礼拝堂でなければならないと思います。それも最初のうちだけ聖霊に満たされるのでなく、これからもずっと、いつまでも聖霊に満たされ続ける教会でなければならないと思います。そうして私たちはイエス・キリストの証人となって、イエス・キリストを宣べ伝えて行きたいと思います。
そのような礼拝堂を主が与えて下さいますよう、お祈りしたいと思います。
お祈りいたしましょう。
『心と思いを一つにしていた教会員たち』
【使徒4:32~37】
はじめに
きょうは使徒の働き4章の2回目の学びです。前回は4章の前半を見ました。3章でペテロは神殿の門で足がなえた人を癒しました。そうしてペテロとヨハネは神殿の中に入って行き、説教を始めました。ペテロたちは神殿の中で力強くイエス・キリストを宣べ伝えました。しかし、イエスは十字架の死刑になった罪人でした。その罪人が救い主のキリストであるという説教を神殿の中でされては、祭司たちは放っておくわけにはいきませんでした。そこで祭司たちはペテロとヨハネを捕らえました。
そうしてペテロとヨハネを捕らえた翌日にユダヤ人の指導者たちが集まり、ペテロとヨハネに尋問し、彼らをどうしようか相談しました。そして出した結論が、彼らがイエスの名によって語ったり教えたりすることを禁じることでした。18節から見て行きます。
4:18 そこで彼らを呼んで、いっさいイエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。
それに対してペテロとヨハネは答えました。19節と20節、
4:19 ペテロとヨハネは彼らに答えて言った。「神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。
4:20 私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。」
先週はここまでを見ました。聖霊を受けてイエスの証人となったペテロたちは、自分の見たこと、聞いたことを話さないわけにはいかないほど聖霊の力を受けていました。イエスの証人が受ける聖霊の力はこれほどに強く大きなものです。私たちもまたイエスの証人になって力強くイエス・キリストを宣べ伝えて行きたいと思います。
聖霊に満たされた教会員たち
続いて、21節から見て行きます。
4:21 そこで、彼らはふたりをさらにおどしたうえで、釈放した。それはみなの者が、この出来事のゆえに神をあがめていたので、人々の手前、ふたりを罰するすべがなかったからである。
これは、なかなか興味深い記述ですね。この21節によれば、ユダヤ人の指導者たちは神ではなく人を見ていたということになります。神を第一にしていたと思いきや、さにあらずで、人々のことをとても気にしていたということです。人々からの評判が悪くなると、指導者としての地位が危なくなるからでしょうか。
これはローマの総督のピラトが取った行動に似ていますね。ピラトはイエスを十字架に付ける必要はないと考えていましたが、人々の「十字架に付けろ」という声の大きさに押されてイエスを十字架に付けることにしました。もし暴動にまで発展してしまったら、統治能力が無いとローマの皇帝に判断されて総督としての地位が危なくなるからでしょう。
ユダヤ人の指導者たちも、もしペテロたちを厳しく罰することで大きな騒ぎに発展するようなことがあると、ローマの介入があることを恐れたのでしょうか。しかし、もし本当にイエスがただの罪人で決してキリストではないと信じていたなら、神をあがめていた人々を、それはおかしなことだと説得すればよいと思います。このユダヤ人の指導者たちも、もしかしたらイエスがキリストであるかもしれないと半分ぐらいは思っていたのでしょうか。或いは、あまりに世俗にまみれていて、信仰心に基づいて判断することができなかったのでしょうか。いずれにしても当時のユダヤ人の指導者たちの信仰が非常に中途半端であった様子が見て取れるように思います。
さて、こうしてペテロとヨハネは釈放されました。23節と24節、
4:23 釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。
4:24 これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。
この祈りのことばの部分を今日は省略して、31節に飛びます。31節、
4:31 彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。
一同は聖霊に満たされました。ここでも聖霊の力が大きく働いていたことがわかります。次いで32節と33節を交代で読みましょう。
4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
まず33節を見ると、「使徒たちは主イエスの復活を非常に力強くあかしし」とありますから、使徒たちはまさに「イエスの証人」になっていたのですね。このように「イエスの証人」には聖霊の強い力が与えられ、大きな恵みもまた与えられます。
失われる兄弟愛
そして32節、「信じた者の群れは、心と思いを一つにして」いました。きょうは、この初代教会の教会員たちが心と思いを一つにしていたことに注目したいと願っています。
彼らは聖霊に満たされていましたから、御霊の一致を保っていました。これは素晴らしいことです。私たちもそのように御霊によって一つになりたいと思います。
ただし先回りして言っておくと、使徒の働き6章1節には、こんな記述があります。
6:1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。
教会の中では早くも苦情が出るようになっていました。そうすると、もう一つになっているとは言えないのではないかなと思います。私たちが一つになることは、本当に難しいことです。少し前に、新約聖書の手紙には兄弟愛を持つように勧めることばがたくさんあることを話しました。つまりそれは、教会員たちがなかなか兄弟愛を持つことができないでいたことを示します。最初は良かったのかもしれませんが、次第に兄弟愛を失っていったのでしょう。
黙示録のエペソの教会への手紙にも、「あなたは初めの愛から離れてしまった」という記述があります。黙示録2章の1節から5節までを、交代で読みましょう。
2:1 エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。
2:2 「わたしは、あなたの行いとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。
2:3 あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行いをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。
4節に「あなたは初めの愛から離れてしまった」とあります。この「初めの愛」とは何なのか、具体的なことは書かれていませんが、この「初めの愛」には兄弟愛も含まれているのではないかなと思います。それは先ほども言ったように、新約聖書の色々な手紙で兄弟愛を持つことを勧めているからです。
一体どうして私たちはこんなにも一つである状態を保つことがこんなに難しいのでしょうか。なぜ一つになったと思ってもまたすぐにバラバラになってしまうのでしょうか。皆が御霊の一致を保っていればバラバラになることはないはずですが、すぐに御霊の一致を保つことが難しくなるようです。
保つのが難しい高いレベルの霊性
私は、それは聖霊に満たされた状態を維持するのが難しいからだろうと考えます。いつもいつも聖霊に満たされているのは至難の業なのだと思います。以前も何度か話したことがあると思いますが、神様との関係を強め、そして維持することはスポーツや楽器で高いレベルを維持するのと、そんなに変わらないのだろうと私は考えています。
ピアノやヴァイオリンのプロの演奏者は、一日練習を休むと腕が落ちるそうです。そうして腕が落ちた分を取り戻すには何日も掛かるということです。高いレベルに到達しても、練習を怠るとそのレベルを維持することはできないのですね。聖霊に満たされるのも、霊的に高いレベルに引き上げられることですから、霊的に高いレベルの状態を保つのは非常に難しいと言えるでしょう。
これも以前話したことがあると思いますが、私は神学院に入る前は剣道の稽古をしていました。ただし大体において週に1回ぐらいしか稽古ができていませんでした。しかし、試合の前や昇段審査の前には週2回か3回は稽古をするようにしていました。週に2回は稽古をしていないと剣道にならないからです。
週1回の稽古では剣道とは言えず、ただ竹刀を振り回すだけの体操だと言わざるを得ません。週1回では体が思うように動きませんから、相手に面を打つ場合でも、「さあ、これから打つぞ」と脳が体に指令を出してからヨイショと打つ感じです。相手に打たれる場合も、相手の動きがほとんど見えませんから、いつの間にか打たれてしまいます。これでは、剣道とは言えないでしょう。
それが週2回の稽古だと脳から出る指令と体の動きが同じくらいになります。脳で「打て」と指令を出すと同時に体が動くようになります。そしてさらに週3回以上の稽古だと脳から「打て」と指令を出す前に動物的に体が動いて自然に技が出るようになります。また相手の動きもよく見えるようになります。そうして相手の動きに反応することができるようになります。
このように剣道では週1回しか稽古しないのか、2回なのか、3回以上なのかで全然違って来ます。週1回ではただ竹刀を振り回すだけの体操であり、2回目以上で初めて剣道らしくなります。
神様との間で霊的な関係を築くことも、週1回神様と向き合うだけでは強い関係を築くことは難しいでしょう。ですから教会に来ない日でも各家庭で祈り、毎日聖書を開く習慣を持っていただく必要があります。そして週1回は教会に来て神様に霊的な礼拝を捧げる必要があります。この霊的な礼拝を深めるために、私たちは霊的な雰囲気を持つ礼拝堂を是非とも建設したいと思います。私たちが聖霊に満たされやすい雰囲気を持つ礼拝堂を是非とも持ちたいと思います。そうして私たちの教会は霊的なレベルの高い状態を長い期間維持できる教会でありたいと思います。
おわりに
きょうは8月の第4聖日で、来月からは9月に入ります。来年の7月の始めに着工するためには、年内には礼拝堂の資金計画を取りまとめ、設計の大枠も決めなければなりません。時間はあっという間に過ぎて行くことを感じます。
どのような礼拝堂にするにせよ、私たちが建設する礼拝堂は、私たちが聖霊に満たされて一つになることができる礼拝堂でなければならないと思います。それも最初のうちだけ聖霊に満たされるのでなく、これからもずっと、いつまでも聖霊に満たされ続ける教会でなければならないと思います。そうして私たちはイエス・キリストの証人となって、イエス・キリストを宣べ伝えて行きたいと思います。
そのような礼拝堂を主が与えて下さいますよう、お祈りしたいと思います。
お祈りいたしましょう。