インマヌエル沼津キリスト教会

十字架から二千年の2033年までに平和を
沼津市今沢34番地 Tel.055-966-2612

10月2日礼拝プログラム

2016-09-27 07:35:47 | 礼拝プログラム
霊的なイエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

10月2日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

10月 第1聖日 礼拝順序

 司  会               小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  父なる神 力の主よ       4
 交  読  詩篇104:19~35
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  救いのおとずれ       473
 証  詞                由紀姉
 讃 美 ③  スピリット・ソング      57
 聖  書  使徒6:8~15
 説  教  『捕らえられたステパノ』 小島牧師
 讃 美 ④  とうとき主こそ私の     392
 献  金
 感謝祈祷                中原姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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ステパノとピリポの登場(2016.9.25 礼拝)

2016-09-26 22:32:09 | 礼拝メッセージ
2016年9月25日礼拝メッセージ
『ステパノとピリポの登場』
【使徒6:1~7】

はじめに
 使徒の働きの学びを続けます。前回は5章までを学び、きょうから6章の学びに入ります。5章までで大体、使徒の働き全体の6分の1ぐらいまでを学んだたところです。序盤の導入部を終えて、いよいよ使徒の働きのディープな箇所に本格的に入って行くところという感じでしょうか。
 5章までの学びではエルサレムの教会では弟子たちの数が非常に増えて行ったことを私たちは学びました。しかし、弟子たちの数が増えたことで問題も生じるようになって来ました。

ステパノとピリポの登場
 6章の1節から読んで行きます。

6:1 そのころ、弟子たちがふえるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちが、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して苦情を申し立てた。彼らのうちのやもめたちが、毎日の配給でなおざりにされていたからである。

 ギリシヤ語を使うユダヤ人たちというのは、エルサレムから遠く離れた地域に離散していたユダヤ人たちのうちでエルサレムに戻って来ていた人々と言われています。エルサレムは何度も外国に征服された歴史を持ちますから、そのたびに人々は散らされて行きました。そしてギリシヤ語圏は、アレキサンダー大王が広大な地域を征服していた時代などに大きく広がっていましたから、散らされた人々も行き着いた先は色々だったと思いますが、おおむねギリシヤ語圏であったようです。そうした地域で生まれ育ってギリシヤ語を使うようになっていたユダヤ人たちが1世紀には多くエルサレムに戻って来ていたということです。ただ、ヘブル語を使うユダヤ人たちと話す言葉が違うということで、お互いの関係はあまりしっくりいっていなかったようです。
 2節、

6:2 そこで、十二使徒は弟子たち全員を呼び集めてこう言った。「私たちが神のことばをあと回しにして、食卓のことに仕えるのはよくありません。

 使徒たちは日々苦情の処理に追われて使徒としての本来の務めを果たすことができなくなっていました。本来の務めというのは、4節にある祈りとみことばの奉仕のことです。3節と4節、

6:3 そこで、兄弟たち。あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選びなさい。私たちはその人たちをこの仕事に当たらせることにします。
6:4 そして、私たちは、もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします。」

 使徒たちは本来の奉仕に励み、食事に関することは教会員の中から御霊と知恵とに満ちた評判の良い人たちを7人選ぶことを提案しました。続いて5節と6節、

6:5 この提案は全員の承認するところとなり、彼らは、信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、およびピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、アンテオケの改宗者ニコラオを選び、
6:6 この人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。

 このうち、ステパノとピリポは使徒の働きの後のほうでも、また登場して来ます。そして7節、

6:7 こうして神のことばは、ますます広まって行き、エルサレムで、弟子の数が非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。

 さて、きょうの箇所で私が注目したいと思っていることの一つは、この段階でステパノとピリポが登場していることです。このステパノとピリポの二人は、これから使徒たちの働きが大きく展開して行く中で、とても重要な役割を果たしました。

「使徒の働き」の概観
 きょうの残りの時間は、ステパノとピリポのことも含めて、これから使徒の働きがどのように展開して行くのかを簡単に概観してみたいと思います。毎回少しずつ聖書を読み進めて行く形式ですと、全体像がなかなか掴めないということもあると思いますから、時折このような機会を持つことは有意義だろうと思います。
 新約聖書の使徒の働きの全体像を非常に大雑把に言い表すなら、前半は「ペテロ編」で、後半は「パウロ編」であると言えるでしょう。前半はペテロが関わったことが主に書かれ、後半はパウロが関わったことが主に書かれています。ペテロが行き巡った地理的な範囲はそれほど広くはありませんでしたが、パウロは非常に広い範囲を伝道旅行で行き巡りました。使徒の働きを学ぶ場合には、使徒たちが伝道した地域の地理的な位置を把握しておくことも大切なことです。いま私たちが学んでいる箇所では、使徒たちはまだエルサレムにいますが、8章からは伝道の働きをエルサレムの外に広げて行きます。8章以降の学びに入ったら、聖書の後ろに付いている地図もまた活用して行くようにしたいと思います。
 さて、使徒の働きの前半の「ペテロ編」では、聖霊の注ぎがどのように進んで行ったかに注目すると良いと思います。聖霊はペンテコステの日に、まずペテロやヨハネなどガリラヤ人の弟子たちに注がれました。そして同じ日にエルサレムのユダヤ人たちにも注がれました。このことは既に使徒の働き2章で見ました。そして聖霊の注ぎに関する大きな展開としては、8章におけるサマリヤ人への聖霊の注ぎと、10章における異邦人への聖霊の注ぎがあります。
 これらのことを通して、イエス・キリストを信じる者なら誰でも救いの恵みに与ることができることがわかりました。それまでペテロたちは、救いはユダヤ教を信じるユダヤ人(ガリラヤ人を含む)にしかもたらされないと思い込んでいました。しかし、異邦人に聖霊が注がれたことを見て、ペテロたちは、聖霊はイエスを信じる者には誰にでも与えられることがわかりました。
 この、ユダヤ人以外のサマリヤ人、異邦人へ福音が伝えられて行くきっかけになったのが、ステパノへの迫害でした。ですから、ステパノは重要な役割を果たしました。また、サマリヤ人への伝道で大きな役割を果たしたのがピリポでした。詳しいことはまた後日学ぶことにしますが、きょうも簡単に見ておきたいと思います。
 まず、ステパノが迫害に遭って殺された場面を見ましょう。7章の57節から60節までを交代で読みます。

7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

 こうしてステパノは石で打たれて殺されましたが、この58節に初めてサウロ、後のパウロが登場します。続いて8章の1節から5節までを交代で読みましょう。

8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
8:4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。
8:5 ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

 このように、ステパノへの迫害がきっかけになって教会への激しい迫害が起きて教会員たちが散らされ、キリスト教がエルサレムを出て周辺の地方へと広がって行きました。そしてピリポが、サマリヤの町でサマリヤ人たちにイエス・キリストを宣べ伝えました。
 このようにステパノとピリポはキリスト教が広い地域へと広がって行く上で重要な役割を果たしました。

異邦人への伝道
 きょうはまだ時間がありますから、もう一つ先の、ペテロが異邦人たちにイエス・キリストを宣べ伝えた箇所も簡単に見ておきたいと思います。使徒の働き10章の1節から5節までを交代で読みましょう。

10:1 さて、カイザリヤにコルネリオという人がいて、イタリヤ隊という部隊の百人隊長であった。
10:2 彼は敬虔な人で、全家族とともに神を恐れかしこみ、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、
10:3 ある日の午後三時ごろ、幻の中で、はっきりと神の御使いを見た。御使いは彼のところに来て、「コルネリオ」と呼んだ。
10:4 彼は、御使いを見つめていると、恐ろしくなって、「主よ。何でしょうか」と答えた。すると御使いはこう言った。「あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って、覚えられています。
10:5 さあ今、ヨッパに人をやって、シモンという人を招きなさい。彼の名はペテロとも呼ばれています。

 コルネリオはローマ兵の百人隊長でしたから、異邦人でした。こうして使徒の働き10章では、異邦人に聖霊が注がれた出来事が記されています。このことはペテロたち使徒にとっては、大きな驚きでした。ペテロたちは、救いはユダヤ人にしか与えられないと思っていました。しかし、主はペテロたちが思っていた以上に、気前の良いお方だということが、この異邦人への聖霊の注ぎの出来事でわかりました。
 こうして、イエス・キリストの福音が伝えられる地域は異邦人が住んでいる地方に急速に拡大して行きました。この頃にはパウロも伝道の働きに加わっていて、バルナバと共にアジアの地域に第1次伝道旅行に出て、イエス・キリストの教えを広めていました。

異邦人の救いの問題
 しかし、異邦人への伝道が始まったことで、キリスト教会の内部で大きな問題が持ち上がりました。きょうは最後に、このことを概観して、終わることにしたいと思います。使徒の働き15章の1節と2節を私の方でお読みしますから、皆さんは目で追いながら聞いていて下さい。

15:1 さて、ある人々がユダヤから下って来て、兄弟たちに、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた。
15:2 そしてパウロやバルナバと彼らとの間に激しい対立と論争が生じたので、パウロとバルナバと、その仲間のうちの幾人かが、この問題について使徒たちや長老たちと話し合うために、エルサレムに上ることになった。

 1節にある、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と教えていた人々は、いわゆる「割礼派」と呼ばれる人々でした。ユダヤ人の男子は、生まれてから8日目に割礼を受けます。しかし、異邦人の男子は割礼を受けていません。それで割礼派の人々は、異邦人の救いについて、イエス・キリストを信じて聖霊を受けても、割礼を受けなければ救われないと主張していました。
 この割礼派の主張に真っ向から闘いを挑んだのがパウロでした。この時の様子をよく伝えているのが、パウロが書いた「ガラテヤ人への手紙」です。パウロは、この割礼派の間違った教えに従おうとするガラテヤ人を激しく叱責して、「ああ愚かなガラテヤ人」とまで書いています。そして今読んだ使徒15章2節にあるようにパウロやバルナバと割礼派の人々との間で激しい対立と論争が生じたので、このことをエルサレムのペテロたちと話し合うために、パウロとバルナバたちはエルサレムに上ることになりました。そうしていわゆる「エルサレム会議」が開かれました。
 この割礼の問題の論争のことを、現代の21世紀の私たちは1世紀の過去の出来事として見ています。どちらが正しくて、どちらが正しくなかったかを私たちは知っています。しかし、当時の人々にとっては大問題であり、どちらが正しいのかよくわからないという人が大半だったと思います。そんな中でパウロは、救いに割礼は必要ないと確信を持っていました。パウロは人間としてのイエスさまに会ったことがありませんでしたが、復活した霊的なイエスさまには出会っていました。そして霊的なイエスさまとの交わりを通して、信仰は目に見えない霊的な領域での神様との交わりが大切であり、割礼を受けるという目に見える形での表面的な行いには、ほとんど意味がないことをよく知っていました。
 誤解のないように申し添えておくと、教会の礼拝に出席するという行為は目に見える行為です。しかし礼拝に出席することは大いに意味があることです。ただし心の中で神様を礼拝する気持ちが全くないのに体を教会に運んで、心は退屈な時間を教会で過ごしているのであれば、これは全く意味がありません。信仰は、こういう心の中がどうであるかが問われています。

おわりに
 きょうの聖書箇所は6章の始めの部分でしたが、少し先回りをして、15章のエルサレム会議の辺りまでを大まかに見ました。当時の使徒たちの眼の前では次々と新しいことが起きましたから、使徒たちも何が本当の信仰かということを新しく学びながら前進していました。救いはユダヤ人だけでなく異邦人にももたらされること、救いに割礼は必要ではないことなど、ユダヤ人にとっての常識はことごとく、くつがえされていきました。そういう中を使徒たちは進み、信仰とは何かを学び、霊的に成長して行きました。
 私たちも漫然と使徒の働きを学ぶのではなく、信仰とは何かをしっかりと学び取りながら、進んで行き、主に用いられる者たちになりたいと思います。そうすれば主は必ず私たちに新しい礼拝堂を与えて下さることと思います。
 お祈りいたしましょう。
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9月25日礼拝プログラム

2016-09-22 13:05:37 | 礼拝プログラム
霊的なイエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

9月25日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

9月 第4聖日 礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                関姉

 前  奏
 讃 美 ①  望みも消えゆくまでに    413
 交  読  詩篇104:1~18
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  天において 主をたたえよ  204
 讃 美 ③  目を上げて主のみ顔を    415
 聖  書  使徒6:1~7
 説  教  『ステパノとピリポの登場』 小島牧師
 讃 美 ④  キリストにはかえられません 465
 献  金
 感謝祈祷                中原兄
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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人から出たものか、神から出たものか(2016.9.18 礼拝)

2016-09-18 17:06:02 | 礼拝メッセージ
2016年9月18日礼拝メッセージ
『人から出たものか、神から出たものか』
【使徒5:33~42】

はじめに
 きょうは使徒の働き5章の学びの3回目です。きょうの聖書箇所の、ガマリエルが議会の人々を説得した箇所は、とても有名な箇所ですね。ここを見る前に、ここに至った経緯を簡単に振り返っておきたいと思います。

二度捕らえられた使徒たち

 5章の12節から見て行きます。
 使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行われました。そうして14節にあるように、主を信じる者が、男も女もますます増えて行きました。
 さらにエルサレムからも、付近の町々からも大勢の人が病人や汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来て、16節にはその全部が癒されたとあります。
 すると17節と18節、

5:17 そこで、大祭司とその仲間たち全部、すなわちサドカイ派の者はみな、ねたみに燃えて立ち上がり、
5:18 使徒たちを捕らえ、留置場に入れた。

 こうして使徒たちは、ねたみに燃えた大祭司たちに留置場に入れられてしまいました。しかし、主の御使いが彼らを牢から連れ出して、神殿でいのちのことばを語るように言いました。それで使徒たちは夜明け頃に神殿に入って教え始めました。
 そうして使徒たちは、もう一度捕らえられて議会で尋問されて、きょうの聖書箇所に至るわけですが、この経緯を見ると、とても興味深いですね。
 何が興味深いかと言うと、主の御使いが使徒たちを牢から出した時、安全な所に逃げなさいと言ったのではなくて、神殿で人々に説教をするように言いました。これでは、もう一度捕らえられるのは当たり前ですね。再び捕らえられることがわかっていて、主の御使いは使徒たちに神殿で説教するように言いました。それで使徒たちは、また捕らえられたわけですが、一歩間違えれば彼らは殺されるところでした。
 少し飛ばして27節と28節をお読みします。ここで「彼ら」と言うのは、神殿で使徒たちを捕らえた者たちです。27節と28節、

5:27 彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、
5:28 言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」

 これに対してペテロたちは答えました。

「人に従うより、神に従うべきです。私たちの父祖たちの神は、あなたがたが十字架にかけて殺したイエスを、よみがえらせたのです。そして神は、イスラエルに悔い改めと罪の赦しを与えるために、このイエスを君とし、救い主として、ご自分の右に上げられました。私たちはそのことの証人です。神がご自分に従う者たちにお与えになった聖霊もそのことの証人です。」(29~32節)

 大祭司たちは、これを聞いて怒り狂い、使徒たちを殺そうと計りました。
 このように、使徒たちは殺される一歩手前のところまで行きました。しかし、今日これからご一緒に見るように、ガマリエルが説得したことで使徒たちが殺されることはありませんでした。
 つまり、使徒たちは主に守られていたということでしょう。もし、ここで使徒たちが殺されたら、キリスト教の歴史はここで終わってしまいます。そういう危険があったのに、主の御使いが使徒たちを安全な場所に逃げるように言わないで神殿で説教をするように言ったのは、今回の件では使徒たちを守り通すつもりだったということだと思います。すべては主の御手のうちにあったということだと思います。

ガマリエルの説得
 では、きょうの箇所を見て行きましょう。まず5章34節、

5:34 ところが、すべての人に尊敬されている律法学者で、ガマリエルというパリサイ人が議会の中に立ち、使徒たちをしばらく外に出させるように命じた。

 ガマリエルはすべての人に尊敬されている律法学者で、パウロもこのガマリエルの下で律法を学んでいたことがありました。ガマリエルは議会の議員たちに向かって言いました。
 35節、

5:35 ・・・「イスラエルの皆さん。この人々をどう扱うか、よく気をつけてください。

 そうしてガマリエルは、立ち上がって行動を起こしたものの、自滅してしまった人々の例を挙げました。36節と37節、

5:36 というのは、先ごろチゥダが立ち上がって、自分を何か偉い者のように言い、彼に従った男の数が四百人ほどありましたが、結局、彼は殺され、従った者はみな散らされて、あとかたもなくなりました。
5:37 その後、人口調査のとき、ガリラヤ人ユダが立ち上がり、民衆をそそのかして反乱を起こしましたが、自分は滅び、従った者たちもみな散らされてしまいました。

 その上で、ガマリエルは次のように言いました。38節と39節、

5:38 そこで今、あなたがたに申したいのです。あの人たちから手を引き、放っておきなさい。もし、その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。
5:39 しかし、もし神から出たものならば、あなたがたには彼らを滅ぼすことはできないでしょう。もしかすれば、あなたがたは神に敵対する者になってしまいます。」

 そうして議会の議員たちはガマリエルに説得され、使徒たちは釈放されました。釈放される時に40節にあるように、使徒たちはむちで打たれ、イエスの名によって語ってはならないと言われましたが、42節にあるように、毎日、宮や家々で教え、イエスがキリストであることを宣べ伝え続けました。
 このように、使徒たちは殺される寸前のところまで行きましたが、主に守られて釈放され、帰ることができました。そうしてイエス・キリストを宣べ伝え続けましたから、イエスさまを信じる者は増え続けました。
 先週話したように、のちにステパノへの迫害をきっかけにしてエルサレムの教会員たちは散らされます。この時に散らされた者の数が大勢いたために、キリスト教は一気に広がって行くことができました。この散らされる時までのために、教会員の数が着々と増やされて行きました。

どうしたら自滅しないで御心をおこなえるか
 さて、きょう私が皆さんと分かち合いたいと思っていることは、ガマリエルのように静観して放っておく立場の人たちのことではなくて、行動を起こす側のことです。行動を起こす側は、一体どうしたら良いかということです。
 思い込みが激しいと、御心にかなっていないことでも御心にかなっていると思い込んで、突っ走って自滅してしまうかもしれません。新しい会堂の建設などは良い例と言えるかもしれません。新会堂を建てる前には成長していた教会が、別の場所に教会を建てたら勢いを失ってしまったという例は少なくないことと思います。後から振り返ってみたら、別の場所に教会を建てることはもしかしたら御心では無かったかもしれない、ということもあるでしょう。
 或いはまた行動自体は正しくても、時が満ちていないから上手く行かないということもあるでしょう。キリスト教も、ローマ帝国が広大な地域を支配していた時代であったからこそ、紀元1世紀に世界中に広まる基礎を築くことができました。他の時代であれば、ユダヤ教よりももっと少人数の宗教で終わってしまったことでしょう。
 宗教の話ではありませんが、いま話題になっている車の自動運転の技術開発なども、昔から考えていた人はたくさんいたと思いますが、昔は単なる夢物語に過ぎなかったでしょう。しかしコンピュータの処理速度や画像認識の技術、センサーの技術など様々な技術の進歩によって、がぜん現実的なものになって来たということだと思います。実現させたいアイデア自体は良くても、時が満ちていなければ、何事も上手く進むことはありません。
 では私たちは失敗しないために、時が満ちるまで待っていれば良いのでしょうか。それが一番安全なのかもしれませんが、では、時が満ちているのかいないのか、どうやって知ることができるでしょうか。やはり、何らかの一歩を踏み出さなければ、判断材料を手に入れることはできないのではないでしょうか。
 では、一歩を踏み出したとして、次に私たちは、どうやって御心か御心でないかを判断したら良いのでしょうか。それは、一歩を踏み出して見て、もし御心で無いならイエスの御霊がそれをお許しにならないでしょうから、それを察知して計画を変更する、ということになるのだと思います。

マケドニヤに導かれたパウロたち
 使徒の働き16章をご一緒に読みましょう。6節から10節までを交代で読みます。ここで「彼ら」というのはパウロたちのことです。

16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
16:8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。
16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

 6節に「聖霊によって禁じられた」とあり、7節には「イエスの御霊がそれをお許しにならなかった」とあります。パウロはどうしてビテニヤのほうに行ってはダメなのか、わからなくて困惑したことでしょう。でもビテニヤに行くことはどうやら御心ではないらしいことは感じたので自重しました。そうして少しあとになって、主の御心はヨーロッパで伝道することであったと気付くことができました。こうしてキリストの教えはヨーロッパへ広がって行き、後にはヨーロッパの宣教師が全世界に教えを広めて行きました。
 ヨーロッパ伝道が御心であったことは、パウロたちがまずはアジヤ伝道に足を踏み出さなければわからなかったことです。何もしないで伝道旅行に出ないでいたならヨーロッパへの道は開かれませんでした。
 ですから私たちはとにかく先ず小さな一歩を踏み出し、イエスさまの御霊が許さなければ軌道修正をすればよいということになるでしょう。ただし、イエスさまの御声を聞くために、いつも霊性を整えていなければなりません。

私たちもまたマケドニヤを目指す
 とは言え、私たちはもう既に一歩を踏み出し、隣の土地を購入しました。そして今、小休止をしてA兄が設計して下さった通りの礼拝堂を建設するのが御心であって、このまま進んで良いのか、イエスさまから次のゴーサインが出るのを待っているところです。私たちが次に目指す場所はマケドニヤです。
 ところで、なぜ一歩を踏み出さなければ判断材料が手に入らないのでしょうか。それは、一歩を踏み出すことは、私たちがイエスの証人になろうという積極姿勢を示すからだと思います。イエスさまの証人になろうとする者には神様は聖霊の力を与えて下さいます。そうして聖霊の力が働くなら、それまで見えなかった判断材料もいろいろと見えて来るようになります。
 きょうは使徒の働き5章から、ガマリエルが議会の議員たちを説得した有名な箇所を見ました。私たちはガマリエルのように何かを静観して放っておく立場の者たちではなく、行動を起こす側の者たちです。無鉄砲に突き進めば自滅してしまいます。しかし、全く動かないでいても、やはり自滅してしまいます。自滅しないために、どう行動すれば良いかを考えました。私たちが進もうとしている道が御心にかなっているのかいないのか、足を踏み出しながら、イエスさまの御声に耳を傾けて行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

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9月18日礼拝プログラム

2016-09-15 21:28:20 | 礼拝プログラム
霊的なイエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

9月18日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

9月 第3聖日 礼拝順序

 司  会                中原兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  十字架のもとに       134
 交  読  詩篇103篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  いのちのみことば      180
 讃 美 ③  うたいつつあゆまん     402
 聖  書  使徒5:33~42
 説  教  『人から出たものか、神から出たものか』 小島牧師
 讃 美 ④  救いのおとずれ       473
 献  金
 感謝祈祷                風間姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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信じる者を決して捨てないイエス(2016.9.14 祈り会)

2016-09-15 21:14:39 | 祈り会メッセージ
2016年9月14日祈り会メッセージ
『信じる者を決して捨てないイエス』
【創世記5:21~24、ヘブル11:5、ヨハネ6:37】

神とともに歩んだエノク
 きょうはヘブル書11章の学びの続きでエノクの箇所を開きますが、まず創世記5章のエノクの箇所をご一緒に見たいと思います。創世記5章の21節から24節までを交代で読みましょう。

5:21 エノクは六十五年生きて、メトシェラを生んだ。
5:22 エノクはメトシェラを生んで後、三百年、神とともに歩んだ。そして、息子、娘たちを生んだ。
5:23 エノクの一生は三百六十五年であった。
5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

 22節に「エノクは・・・三百年、神とともに歩んだ」とあります。神とともに歩んだということから、エノクは信仰の人であったことがわかります。この「エノクは神とともに歩んだ」は24節にもう1回出て来ます。そして、「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」とあります。これが創世記のエノクに関する記事の大きな特徴です。エノクの記事には、エノクが死んだことが書かれていません。その前の人々は死んだことがちゃんと書かれています。5章の5節にはアダムが死んだことが書かれています。8節にはセツが死んだとあります。11節にはエノシュが死んだこと、14節にはケナンが死んだこと、17節にはマハラルエルが死んだこと、20節にはエレデが死んだことが書かれています。しかし、エノクが死んだことは書かれておらず、24節には「神が彼を取られたので、彼はいなくなった」と書かれています。
 このことから、ヘブル書の記者は次のように書いています。ヘブル人への手紙11章5節を、ご一緒に読みましょう。

11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

 このようにヘブル書の記者は、「信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました」と書いています。そして、「移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました」と書いています。

ヘブル書の記者がエノクを取り上げたのは何故か?
 ヘブル書の記者がエノクを立派な信仰の先輩の例として取り上げて、このようなことを書いたのは、どうしてでしょうか。今回、私は初めてヘブル書をシリーズで取り上げて説教を作っています。今まで、つまみ食い的にヘブル書の一部の箇所だけを引用して説教をしたことはありましたが、シリーズで説教をすることにしたのは初めてです。それで何週か続けて継続的に読んでいるうちに、ヘブル書がどういう書か、段々わかって来たような気がしています。
 2週間前に私は、このヘブル書について、迫害を恐れて信仰を捨てそうになっている人々に宛てた手紙だということを念頭に置いて読むと、よく味わうことができるという話をしました。きょうのエノクの箇所も、このことを念頭に置いて読むと、とてもよくわかると思います。もう一度、ご一緒にヘブル11章5節を読みましょう。

11:5 信仰によって、エノクは死を見ることのないように移されました。神に移されて、見えなくなりました。移される前に、彼は神に喜ばれていることが、あかしされていました。

 ここでヘブル書の記者が一番書きたかったことは、エノクが死を見ることがなかったということよりは、移される前に彼が神に喜ばれていたということではないかと思います。つまり私たちも、この世を去る時には神に喜ばれているようにしましょうというわけです。
 このエノクの前に書かれているアベルは、神に喜ばれる捧げ物をした後ですぐにカインに殺されてしまいましたから、アベルは神に喜ばれたままで死ぬことができました。しかし、そのような神に喜ばれる信仰をずっと保ったままでいることは、なかなか難しく、また疲れることです。でもエノクという信仰の先輩を見習って、この世を去る時には神に喜ばれているようにしましょうというのが、ヘブル書の記者の言いたいことではないかと感じます。だから、これらの信仰の先輩たちのことを書いた後で、12章の1節から3節のことを書いたと思うのですね。

忍耐をもって走り続ける・・・
 既に何回か読んでいますが、12章の1節から3節までを交代で読みましょう。

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

 アベルのように神様に喜ばれてすぐに死ぬなら、忍耐を持って走り続けることはありませんが、私たちの人生は長いですから、途中で元気を失い、疲れ果ててしまうこともあります。そうならないように、ヘブル書の記者は2節で、「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」と書いています。


 これは聖書が書いていることですから、もちろん全く正しいことです。しかし、なかなか大変だという思いもします。そういうわけで、私はヨハネの福音書の素晴らしさを、このヘブル書の学びを始めてから一層深く味わうことができるようになったと感じています。ヨハネの福音書は、新約聖書の中でも一番あとのほうに書かれた書です。ヨハネの福音書が書かれる前には、ヘブル書の記者が懸念しているようなことが、きっと色々とあったのだろうなと想像されます。

信じる者を決して捨てないイエス
 ここでヨハネの福音書をご一緒に見たいと思います。6章37節をご一緒に読みましょう。
 
6:37 父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。

 イエスさまは、「わたしは決して捨てません」とおっしゃっています。ですから、自分で頑張って信仰から離れないようにする必要はないということです。このようにおっしゃるイエスさまを信じるなら、イエスさまから離れることは有り得ないことです。今度は35節をご一緒に読みましょう。

6:35 イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。

 これはイエスさまを信じるなら、永遠の命が与えられるということです。このことの素晴らしい恵みがわかると、イエスさまから離れてしまうことは、まず有り得ないことです。しかし、現実には現代の教会においても教会から離れてしまう人々が大勢いますから、このことの素晴らしい恵みがあまり深くは理解されていないのですね。このことを私はとても残念に思います。ですから、ヨハネの福音書の魅力をもっとわかりやすい形でお伝えできるように私は努力と工夫を重ねて行かなければならないと思わされています。

おわりに
 最後に、もう一度、創世記5章24節をご一緒に読みましょう。

5:24 エノクは神とともに歩んだ。神が彼を取られたので、彼はいなくなった。

 エノクは神様と共に歩みました。私たちも、神さまと共に歩んでいます。私たちには聖霊が注がれていますから、頑張らなくても神様のほうで共にいて下さり、神様の側から私たちを捨てることは決してありません。ですから、私たちは、頑張らなくても、ただ神様から離れないようにしていれば良いのですね。これが永遠の命を与えられた者の素晴らしい恵みです。
 このことの恵みを私たち自身が深く理解して、地域の方々にもお伝えして行きたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「エノクは神とともに歩んだ。」
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9.11から15年(2016.9.11 会堂祈祷会)

2016-09-12 08:03:15 | 牧師のつぶやき
2016年9月11日会堂祈祷会メッセージ
『9.11から15年』
【ヨハネ11:32~38】

ヨハネ11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」
11:33 そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、
11:34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」
11:35 イエスは涙を流された。
11:36 そこで、ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。主はどんなに彼を愛しておられたことか。」
11:37 しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいた。
11:38 そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。

はじめに
 きょうの会堂祈祷会に当たり、私はメッセージの原稿を書くことにしました。
 会堂祈祷会の司会は、教会の皆さんにお願いしていますが、5回に1回は私が担当するようにしています。ですから私はもう既に5回か6回は会堂祈祷会の司会を担当したと思います。これまで私は、この会堂祈祷会のメッセージを原稿に書いて残すことはあまりして来なかったと思います。
 しかしきょうは9.11の同時多発テロから15年という特別な日ですから、原稿に書いて、教会のブログにもアップしてメッセージを残すことにしました。私は平和の働きのために牧師の職に召し出されましたから、やはり今日の9月11日のメッセージはどうしても残しておきたいと思います。

9.11後の悲惨な状況
 15年前のきょうアメリカで起きた同時多発テロでは4機の旅客機がテロリストによって乗っ取られ、そのうちの2機がニューヨークの貿易センタービルのツインタワーに激突し、1機はワシントンの国防総省のペンタゴンの建物に激突し、そして残る1機はホワイトハウスまたはアメリカ議会の議事堂を狙ったと推測されていますが、それは免れて建物のない地上に激突して大破しました。これらのテロ攻撃によって3千人以上の方が亡くなりました。
 この9.11のテロ自体も大変に痛ましいものでしたが、この後、ブッシュ大統領が率いるアメリカはアフガニスタンを攻撃し、さらに2年後の2003年にはイラクをテロリスト支援国家で大量破壊兵器を隠し持っているとして攻撃しました。このイラク戦争によってフセイン大統領は捕らえられて処刑されました。しかしイラクは大量破壊兵器を保有していないことが後にわかりました。
 フセイン大統領が支配していた頃のイラクは圧政によって多くの人々が苦しんでいたようですが、国は一応は治まっていました。それがフセイン大統領がいなくなったことで国は混乱し、それがIS(イスラミック・ステート)が生まれる温床になったと言われています。そして今やイスラミック・ステートが関係しているテロ事件が世界中で起きており、非常に深刻な事態になっています。或いはまた、北朝鮮が核兵器の開発を進めていて、つい最近の一昨日の金曜日にも核実験を行いました。この核兵器の開発もアメリカが1945年に世界で最初に成功させました。もしアメリカが最初に成功させていなければ、他の国も核兵器を作ることにはなかなか成功しなかったでしょう。

大統領が聖書に手を置く国で何故?
 アメリカという国では大統領が就任する時には聖書の上に手を置いて宣誓します。そのアメリカが1945年には原爆の製造に成功するやいなや直ちに広島と長崎で使用し、2003年にはイラクを攻撃してイスラミック・ステートの誕生の原因を作るという本当にひどいことをしました。そして今年の11月の大統領選挙ではまさかと思っていたトランプ氏が当選する可能性も半々ぐらいであります。もしそんなことになったら、世界はますます混乱する方向へと加速して行くことでしょうし、トランプ氏が核ミサイルの発射ボタンを押すことを本気で心配しなければならなくなります。
 大統領が就任する時に聖書に手を置いて宣誓する国であるアメリカが、どうしてこんなことをする国になってしまっているのでしょうか。
 私はその原因の一つとして、ヨハネ11章35節でイエスさまが涙を流された背後に戦争の惨禍があることに気付かれていないことにあると考えています。ですから私はヨハネの福音書に関する本を何が何でも今年中には出版できるところまで漕ぎ着けたいと思っています。実際に出版されるのは来年の始めになったとしても、今年中には出版の目途が立つようにしたいと思います。

ヨハネ11章の前後の流れ
 ヨハネ11章35節でイエスさまが涙を流していることの背後にはエルサレムがバビロンの攻撃によって滅亡して廃墟になってしまったことがあることは、きょうはあまり詳しい説明はしませんが、前後の流れから見て明らかなことです。
 何度も繰り返し説明していることですがヨハネの福音書10章の1節でイエスさまは「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です」と言って、エルサレムが外国人の略奪隊によって攻撃されようとしている(Ⅱ列王24:2)ことを警告しています。この場合のイエスさまは紀元1世紀のイエスさまではなくてアブラハムが生まれる前からいる霊的なイエスさまのことであり、イエスさまは預言者エレミヤの口を通してエルサレムの人々に警告しています。そしてヨハネ10章の終わりでイエスさまはヨルダン川を渡りますが、これはエルサレムの民が捕囚として引かれてヨルダン川の向こうのバビロンに行ったことを示します。
 そして11章のはじめでラザロが病気になって死にました。これはエルサレムが滅亡したことを示します。バビロン捕囚はエルサレムが滅亡する少し前から始まりましたから、このことは列王記第二の記述と良く合います。そしてイエスさまはラザロが死んでからまたヨルダン川を渡ってユダヤに戻り、ラザロをよみがえらせました。これは捕囚になっていた民がエルサレムへの帰還を許されてエルサレムの神殿と城壁を再建したことを示します。
 さらにあともう一箇所だけ説明すると、ヨハネ11章54節に「イエスはもはやユダヤ人たちの間を公然と歩くことをしないで」とあります。これはエルサレムが再建された後は聖書がマラキ書を最後に400年間の沈黙の時代に入ったことを示します。いのちのことばであるイエスさまは聖書に記されている時代には公然と歩き、聖書が沈黙している時代は公然とは歩かないお方です。そうしてヨハネ11章までは旧約聖書の時代であり、12章からは新約聖書の時代と合流してエルサレムにロバに乗って入京し、最後の晩餐を経て逮捕されて十字架に掛かって死にます。いまヨハネ10章からのことを説明しましたが、ヨハネ1章から9章までも創世記から始まって列王記第二に至るまでのイスラエルの歴史と対応させることができます。

戦争の惨禍に涙を流すイエス
 ヨハネ11章の最初にご一緒に読んだ箇所に戻ると、11章35節でイエスさまが涙を流されたことが書かれている前後の節に2箇所、イエスさまが憤ったことが書かれています。まず33節に「ユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え」とあります。そして37節に「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか」と言う者もいたことで、38節でイエスさまはまたも心のうちに憤りを覚えました。これは霊的に鈍感であったユダヤ人たちがエレミヤの警告に耳を傾けずにいたためにエルサレムが滅亡してしまったのに、エルサレムの滅亡後も相変わらず霊的に鈍感なことを言っているためにイエスさまは憤っています。ですから、35節でイエスさまが涙を流したのはエルサレムが廃墟になった戦争の惨禍に対してであることに、もし私たちが気付いていないとしたら、私たちの霊的な鈍感さに対してもイエスさまは憤っており、この鈍感さのゆえに戦争やテロは、これからも無くならずに起き続けることになります。ですから私たちはもっと霊的なイエスさまの声を聞くことができる者たちでありたいと思います。

教会の外と中とでイエスの声を聞く
 イエスさまの声は慣れて来れば、静かな所であればどこにいても聞くことができるようになります。騒々しい所にいるなら、どんなに霊性が優れた人でも無理だと思いますが、イエスさまの声を何度も聞いたことがある人なら、静かな所であればイエスさまの声を聞くことができます。しかし、一度も聞いたことがない人にとっては、イエスさまの声が特に強い特別な場所が必要です。それは広島や長崎の平和公園のような場所であったりニューヨークの貿易センタービルが建っていた場所であったりするでしょう。そして教会もまたそういう場所です。
 きょうの会堂祈祷会は9.11から15年目の日ということで、教会の会堂を広島や長崎と同じような場所として並べて考えました。それは私が、広島の平和公園でマタイ5:9の「平和をつくる者は幸いです」というイエスさまの声を聞いたことがあるからです。そうして毎週教会に通う中で、あれは確かにイエスさまの声だったのだと確認して行きました。
 教会と教会の外とは、そのように補完し合う関係にあるのだと思います。皆さんは教会へは週に1回か2回来て、あとは教会の外にいます。ですからイエスさまは多くの場合、一人一人違う場所でその人に特別な役割を与えます。そして、その人は教会にまた次の週に来ることで、それがイエスさまの声であったのだと確認します。
 教会の会堂は、先ずは礼拝を捧げる場です。そうして、礼拝を捧げることで一人一人がイエスさまとの関係を築きます。そして次にイエスさまは、一人一人が教会の外で積んだ経験を神様のために使うように語り掛けます。その語り掛けは教会の外で聞くことが多いでしょう。そしてその語り掛けを聞いた人は教会でイエスさまと交わる中でそのことの確認をします。
 教会の会堂とはそのように非常に大切な場です。私たちはそのための礼拝堂を来年、建設するために備えています。

おわりに
 ここで、しばらく黙祷する時を持って、テロの犠牲者、戦争の犠牲者を追悼するとともに、神様が私たちの一人一人にどのようなことを期待しておられるか、思いを巡らす時を持ちたいと思います。
 しばらくの間、黙祷しましょう。
 では、ご一緒にしばらくの間、新会堂の建設のために、お祈りしましょう。
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打ち上げ前の仕込み中の花火(2016.9.11 礼拝)

2016-09-12 07:49:26 | 礼拝メッセージ
2016年9月11日礼拝メッセージ
『打ち上げ前の仕込み中の花火』
【使徒5:12~20】

はじめに
 きょうは9月11日で、15年前にアメリカで同時多発テロが起きた日です。この9月11日に因んだメッセージについては、礼拝の後の会堂祈祷会の担当がちょうど私の番になっていますから、そこで語らせていただくことにしています。

先週のおさらい
 さて、きょうは使徒の働き5章の2回目の学びです。先週話した通り、私は先週ご一緒に見た5章の始めのアナニヤのサッピラの箇所のことが、使徒の働きの学びを始めた時から、ずっと気になっていました。アナニヤとサッピラの夫妻は、自分たちの持ち物を売ってお金に替えました。持ち物を売った代金を捧げるためですが、アナニヤとサッピラは代金の全額を捧げずに一部を自分たちのものにしました。そして、このことを咎められて打たれて死んでしまいました。この箇所からどういうメッセージを語ったら良いのか、使徒の働きの学びを始めた時から、ずっと気になっていました。それは私たちもまた、自分の財産のすべてを教会に捧げているわけではないからです。
 もしアナニヤとサッピラが打たれて理由が、財産の一部を自分のものにしたことによるのなら、私たちもまた、そのことを咎められなければなりません。しかし、現代の私たちは自分の財産のすべてを捧げていなくても、そのことで咎められることはありませんから、理由は他にあるはずです。そのことをメッセージで語ることができなければ説教にはなりませんが、私はアナニヤとサッピラが打たれた理由をメッセージでどう語ったら良いか、目途が立っていませんでした。それゆえ5章の説教をどうしようかと、ずっと気になっていたわけです。
 そうして、ついに5章の学びの時が来てしまいましたから、説教の準備のために思いを巡らしていたところ、5章3節の「聖霊を欺いて」という言葉に目がとまりました。そして、この「聖霊を欺く」ことの罪という観点から、マルコの福音書に出て来る「聖霊を汚す」という言葉とも絡めて一つの説教にすることができましたから感謝でした。
 教会は聖霊を注がれた者たちが集っている場所です。まだ聖霊が注がれる前の段階の人たちが教会を訪れて下さることも、もちろん大歓迎ですから私たちはそのような方々をお誘いしますが、教会員になることができるのはイエス・キリストを信じて聖霊が注がれた者たちだけです。ですから私たち教会員の交わりは、イエス・キリストを中心にした霊的な交わりです。
 私たちに注がれる聖霊は私たち一人一人の信仰を成長させるとともに、教会員のイエス・キリストを中心にした霊的な交わりのレベルを引き上げるために働いています。そうして教会全体の霊的な交わりのレベルが上がって行くなら教会はイエス・キリストのかぐわしい香りを放つようになり、地域の方々を引き付けるようになります。アナニヤとサッピラがしたことは、この教会全体の霊的な交わりのレベルを引き下げるものであり、教会がかぐわしい香りではなくて悪臭を放つ元となるものでした。それゆえに教会から排除されたのだと思います。
 先週の説教のポイントは、聖霊の働きについて、個人の信仰を引き上げる働きではなくて、教会全体の霊的なレベルを引き上げる働きに注目したことでした。もし教会が悪臭を放って周囲の方々に躓きを与えるようであれば、周囲の方々は教会へ来ようとは決して思わないでしょう。それは周囲の方々が救われる機会を永遠に奪ってしまうことになります。それはとても大きな罪であると言えるでしょう。

なぜ高頻度で奇跡が起きたか
 先週はこのようにしてアナニヤとサッピラの箇所からメッセージを取り次ぐことが許されましたが、最初に言ったように私は以前からこの箇所にずっと気を取られていましたから、その後のことは全然考えていませんでした。今は使徒の働きの説教のシリーズをずっと行っていますから、聖書箇所は考えなくても大体は決まっています。それで、きょうの聖書箇所のためのメッセージの準備を始めた途端に、とても戸惑いました。きょうの聖書箇所を読んで、一体ここからどんな説教をしたら良いのか、途方に暮れました。
 きょうの箇所には奇跡がたくさん出て来ます。しかし、こんなに次々と短い期間にたくさんの奇跡が起きることは現代では全く有り得ないことです。現代においても奇跡はもちろん起きますが、それは非常に稀なことであり、きょうの箇所にあるような高い頻度で起きることは絶対にありません。例えば、きょうの箇所の5章16節には、このように書かれています。

5:16 また、エルサレムの付近の町々から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。

 ここには「全部がいやされた」とあります。これは普通は有り得ないことです。現代の病人にも奇跡的に癒される人はいますが、全員が癒されることはありません。
 そもそも奇跡が起きるのは、神が本当にいるのだという「しるし」を示すためでしょう。病気を治してこの世で長生きすることができるようにすることが第一の目的ではないはずです。私たちの真の目的地は天の故郷です。ですから私たちはこの世では旅人に過ぎません。旅人なのですから、この世に長居する必要は必ずしもありません。私たちの多くは重い病気にならずにできるだけ長生きしたいと思いますが、そうならなかったからと言って神様が私たちを見放しているわけではありません。むしろ天の神様に気に入られて早くに天に召されることもあるわけです。

この世では私たちは旅人
 私たちが旅人であることは、ヘブル書の11章に書いてあることです。ご一緒に確認しましょう(新約聖書p.438)。13節から交代で読みますが、ここでヘブル書の記者は、アブラハムと妻のサラの信仰について述べる中で次のように書いています。13節から16節までを交代で読みましょう。

11:13 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。
11:14 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。
11:15 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。
11:16 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

 アブラハムは父テラの故郷のウルの地を出てハランの地に移り、さらにハランの地を出てカナンに向かいました。そしてカナンの地においても放牧をしながら天幕の生活をしていました。ですから、アブラハムはまさに旅人でした。
 そして、私たちもまた、この世においては旅人です。ですから、たとえ病気や事故や自然災害で倒れることがあっても天の故郷に行けるなら良いのです。そういうわけで奇跡は高い頻度で起こる必要はありません。神様が本当にいらっしゃることがわかる程度に稀に起きれば良いわけです。
 すると、16節にあるように、病人や汚れた霊に苦しめられている人々が全部いやされたり、19節にあるように留置場に入れられた使徒たちを主の御使いが牢の外に出したり、普通ではありえないことが、こんなにも立て続けに起きるのは一体どうしてでしょうか。

大輪の花が開いた花火
 そして、このことを思い巡らしていて示されたのが、使徒の働きの8章1節から4節に書いてあることです。使徒8章の1節から4節までを交代で読みましょう。

8:1 サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた。その日、エルサレムの教会に対する激しい迫害が起こり、使徒たち以外の者はみな、ユダヤとサマリヤの諸地方に散らされた。
8:2 敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のために非常に悲しんだ。
8:3 サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。
8:4 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。

 7章でステパノが迫害に遭って殺されてしまいますが、この時には教会員の数が非常に増えていました。そして、増えた教会員がステパノが殺されたことが引き金になって散らされて行きました。そして散らされた人たちは行く先々でみことばを宣べながら、巡り歩きました。こうしてイエス・キリストの教えは広い地域に拡散して行きました。
 もし散らされた教会員が少ししかいなかったのだったら、イエス・キリストの教えは大きく広まることはなかったでしょう。
 神様のご計画は本当に素晴らしいなと思います。この紀元1世紀の時代はローマ帝国が広い地域を支配していて平和が保たれており、交通網も発達していましたから、人々は広い地域を安全に自由に行き来することができました。パウロがヨーロッパの方面にまで伝道旅行することができたのも、このローマ帝国の支配という恩恵があったからです。しかし、その前の段階でエルサレムという大都市で教会員の数が十分に増えていなかったなら、ステパノの迫害があった後にキリスト教が爆発的に広がることはなかったでしょう。
 いま爆発的にと言いましたが、これは本当に花火のようです。花火にも小さい花火と大きな花火があります。私たちが夏のキャンプで上げるような打ち上げ花火は、ごくごく小さなものです。しかし、花火大会で上がる尺玉クラスの大きな花火は本当に大きな大輪の花を咲かせます。ただし尺玉クラスの花火を作るには、中にたくさんの火薬を詰めなければなりません。
 きょうの聖書箇所も、この5章の段階の教会を打ち上げ前の花火の仕込みの段階に例えれば理解できるでしょう。この時期に奇跡的なことが立て続けに起きたのは、エルサレムの教会の教会員の数を増やすためだったのだと理解したいと思います。そして、このことで先週のアナニヤとサッピラのことももっとよく理解できます。質の悪い火薬が混じっていたら、花火の花は、きれいに開くことはできません。それゆえアナニヤとサッピラは排除されてしまったのでしょう。この花火に仕込まれた火薬は非常に質の良い純度の高いものでした。教会員の全員が自分たちの財産を100%教会に捧げていました。このエルサレムの教会という花火には、それだけ純度の高い火薬が高密度で仕込まれていましたから、ステパノの迫害をきっかけにして散らされた時に、キリスト教は一気に広い地域に拡散することができたのですね。

おわりに
 会堂の建設において高い頻度で奇跡が起きるのも、会堂が地域の伝道の拠点になるからなのでしょう。病気や自然災害から助かることに関しては奇跡は稀にしか起きませんが、会堂建設においては必ずと言ってよいほど奇跡が起きます。今の私たちもそのことを経験しています。隣の土地が手に入ったことだけでも、わずか2年前から考えると奇跡的なことです。ですから、来年私たちが予定している新しい礼拝堂の建設に関しても、主が御業を為して下さることを信じて進んで行きたいと思います。そうして、5章14節にあるように、主を信じる者が男も女もますます増えて行くよう、お祈りしたいと思います。
 お祈りいたしましょう。

「主を信じる者は男も女もますます増えていった。」
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9月11日礼拝プログラム

2016-09-09 08:47:15 | 礼拝プログラム
霊的なイエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

9月11日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

9月 第2聖日 礼拝順序

 司  会                西村兄
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 讃 美 ①  救い主イエスと       409
 交  読  詩篇100篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  われらはキリストのもの   232
 讃 美 ③  主とともに罪に死に     312
 聖  書  使徒5:12~20
 説  教  『打ち上げ前の仕込み中の花火』 小島牧師
 讃 美 ④  いつも私を支え       418
 献  金
 感謝祈祷                西村姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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地の作物も主が作ったもの(2016.9.7 礼拝)

2016-09-08 18:48:31 | 祈り会メッセージ
2016年9月7日祈り会メッセージ
『地の作物も主が作ったもの』
【ヘブル11:4、創世記4:1-7】

ヘブル11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

創世記4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。
4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、
4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。
4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。
4:6 そこで、【主】は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
4:7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

はじめに
 先週予告した通り、きょうから祈祷会では、ヘブル11章に列挙されている信仰の先輩たちを毎回一人ずつ見て行くことにしたいと思います。このヘブル11章の信仰の先輩たちというのは、先週話した12章1節に書かれている、私たちを雲のように取り巻いている証人たちのことです。復習として、12章1節を、ご一緒に読みましょう。

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

アベルのささげ物の何がすぐれていたのか
 さて、この証人の一人目として登場しているのが、アベルです。ヘブル書の記者は11章4節に「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました」と書いています。
 では、アベルのささげ物は、どういう点でカインのささげ物よりも優れていたのでしょうか。これは、なかなか難しい問題です。創世記は、そんなにはっきりとは書いてはいないからです。
 一つ言えるのは、アベルは最上のものを捧げたということです。それに対してカインは最上のものを捧げなかったのかもしれません。これで説明が付くのかなと思います。でも、それだけでは説明として何となく足りない気もします。注解書を調べると、アベルは血の犠牲の捧げ物をした点においてカインよりも優れていたのだと書いているものがいくつかありました。これはイエス・キリストの十字架の血の犠牲を意識したものと思われます。そういう読み方もあるでしょう。私たちクリスチャンは新約の光を旧約聖書に当てて読むことをよくします。私たちは新約聖書で得た知識をもとに旧約聖書を読みます。例えばイザヤ書53章のしもべはイエス・キリストのことであると考えます。或いはまたモーセの時代にイスラエルの民が出エジプトを脱出する時に家の門柱とかもいに塗った過越の羊の血も、イエス・キリストが十字架で流した血と重ねて考えます。そういうイエス・キリストの十字架の血の犠牲のことを、アベルの捧げ物に重ねて考えることも「有り」なのだろうと思います。
 しかし、そこまでイエスさまの血のことを旧約聖書に持ち込むことに違和感を覚えないでもありません。なぜならカインは土を耕す者となったわけですから、その労働で得た収穫物を神様に捧げることもまた尊いことだと思うからです。それをアベルと比べて低く見るのは何だか不公平な気がします。
 そういう意味で、私はアベルの捧げ物が血の犠牲の捧げ物だったから神様が目にとめたのだという解釈には今一つ賛成しかねる思いがしています。そんな風に思いながら、ヘブル11章の1節から3節までを読み直していて、3節に目がとまりました。3節、

11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。

 ここに「見えるものが目に見えるものからできたのではない」とあります。そうして4節のアベルとカインの話につながって行きますから、ここにヒントがある気がします。そして、次のようなことを考えました。

地の作物も主が作ったもの
 アベルが捧げた羊は、草を食べて成長します。人間はそれを見守るだけです。羊飼いだったダビデのように羊が熊や獅子に襲われないように守ってあげたりはしますが、人間が羊を作るわけではありません。人間が動物の命を作ることができないことは、誰でも知っています。
 畑の作物も同じです。神様が作物に日光を与え、天から雨水を与えて作物を作ります。でも畑の作物を作る時には人間が額に汗して種をまき、雑草を取り除き、収穫をしますから、人によっては作物は人間が作るものだと勘違いする者もいるかもしれません。カインはそのような勘違いをしている者ではなかったかな、という気がします。神様は心の中を見られますから、カインが「自分が作物を作ったんだ」と思っていることを見抜いたのかもしれません。
 すべては神様の手の中にあるのに、人間が自分の手柄であるかのように振る舞うことを神様は非常に嫌います。
 モーセがカナンの地に入れなかった直接の原因も、メリバの水の事件があったからだということになっています。その箇所を、ご一緒に見ましょう。民数記20章の10節から12節までを交代で読みます(旧約聖書p.267)。

20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
20:12 しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

 12節にあるように主は「あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできな」と仰せられましたから、モーセとアロンはカナンの地に入ることができないことになってしまいました。それはモーセとアロンが主を十分に崇めないで、あたかも自分たちの力で岩から水をイスラエルの民のために出してあげるのだ、という振る舞いをしてしまったからです。このように主の御業によることを、まるで自分の力で行っているかのような勘違いをする者たちを、主は非常に嫌います。
 先月の第二聖日の会堂祈祷会でA兄が開いて下さったギデオンの箇所も同じですね。士師記7章の1節と2節を交代で読みましょう(旧約聖書p.426)。

7:1 それで、エルバアル、すなわちギデオンと、彼といっしょにいた民はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミデヤン人の陣営は、彼の北に当たり、モレの山沿いの谷にあった。
7:2 そのとき、【主】はギデオンに仰せられた。「あなたといっしょにいる民は多すぎるから、わたしはミデヤン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないから。

 2節にあるように、主は「自分の手で自分を救った」と勘違いする者たちを非常に嫌います。
 イエスさまがパリサイ人たちに対して厳しかったのも彼らが、自分たちが律法をしっかり守っているから自分は救われるのだと信じていたからですね。人を救うのは神様なのに、パリサイ人たちは自分たちの立派な信仰が自分たちを救うのだと勘違いしていました。
 パウロがガラテヤ人への手紙で律法主義に陥ってしまった人々を厳しく叱ったのも、それゆえです。

おわりに
 カインもまた、畑の作物は自分が額に汗して作ったものだと勘違いをしてしまったのかもしれません。最後に、ヘブル書11章に戻って、3節と4節をもう一度味わって終わりましょう。交代で読みます。

11:3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
11:4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神にささげ、そのいけにえによって彼が義人であることの証明を得ました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だとあかししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています。

 お祈りいたしましょう。
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聖霊を欺くことの罪(2016.9.4 礼拝)

2016-09-05 01:15:43 | 礼拝メッセージ
s2016年9月4日礼拝メッセージ
『聖霊を欺くことの罪』
【使徒5:1~11】

はじめに
 きょうから使徒の働き5章の学びに入ります。きょうの聖書箇所のアナニヤとサッピラが打たれて死んだ記事については、私は使徒の働き1章の学びを始めた時から、どうしようかと思い悩んで来た箇所でした。今の私たちに必要なことを、この箇所から語れないのであれば飛ばしてしまおうと思っていました。しかし、できれば飛ばしたくはありません。それで、どうしたものかと思い悩んで来たわけですが、先週、4章の後半を開きましたから、きょうはいよいよ5章に入らなければならないところまで来ました。

なぜアナニヤとサッピラは打たれたか
 なぜ、この箇所からのメッセージが語りにくいのか。皆さんもおわかりと思いますが、もしアナニヤとサッピラが打たれた理由が、自分たちの財産のすべてを教会に捧げなかったことによるのであれば、この沼津教会の私たちも全員が打たれて死ななければならないでしょう。財産の額の多い少ないはあるかもしれませんが、私たちはその一部をそれぞれの家のために確保してあって、すべてを教会に捧げているわけではないでしょう。私もそうです。しかし、このことによって私たちは打たれたりはしていません。
 では、どうしてアナニヤとサッピラは打たれてしまったのでしょうか。それは初代教会の本当の初めの頃だから、最初は特別だったのだろうという説教を私は聞いたことがありますが、最初がダメなら今もダメなのではないでしょうか。
 教会では神様が「愛の神様」であることを説きます。愛の神様は憐れみ深いお方です。その憐れみ深い神様が、アナニヤとサッピラに対しては、どうして、こんなにも厳しかったのでしょうか。メッセージの中で私がこのことについて何か語ることができないのであれば、私はこのアナニヤとサッピラの箇所は飛ばしてしまおうと思っていました。自分でもよくわかっていないことをメッセージで語るわけにはいかないからです。でも、できれば何か語りたい。そう思いながら、ここ何週間かを過ごしていました。そうして、この使徒5章を読み直している時に、ふと3節に目がとまりました。
 この5章3節を読む前に、復習のために4章の終わりのほうから読んで行きます。まず4章の32節、

4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。

 ここに、教会に集う者たちが自分たちの持ち物の「すべてを」持ち寄って共有にしていたことが書かれています。次に34節と35節をお読みします。

4:34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。

 そして後にパウロと伝道旅行を共にするバルナバが、ここで初めて登場します。36節と37節、

4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

 バルナバはキプロス島の出身でしたが、やはり自分が持っていた畑を売り、その代金をすべて教会に捧げていました。
 そうして5章に入ります。1節から3節までを今度は交代で読みましょう。

5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
5:2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。
5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。

 このアナニヤとサッピラが行ったことは、私たちも普通に行っていることです。私たちは子どもの学費のためや、或いは自分の親や自分の老後のために財産の一部を自分たちのために残しておき、決してすべてを教会に捧げているわけではありません。しかし、当時はそうではなく、教会の人々はすべてを教会に捧げていました。そして、アナニヤとサッピラが行ったことは聖霊を欺く行為であるとペテロは言いました。
 今回、私の目にとまったのは、この3節の「聖霊を欺いて」という言葉です。この、聖霊を欺いたことがアナニヤとサッピラが打たれた理由なんですね。教会の皆が聖霊に満たされて御霊の一致を保っていた時に、その御霊の一致を乱すことは聖霊を欺くことであり、重大な罪であったのでしょう。

私たちの霊的な交わりのレベルを引き上げる聖霊
 きょうは、この「聖霊を欺く」ということについて、もう少し掘り下げてみたいと願っています。私は一年ほど前から、御霊の一致を保つことの重要性を繰り返し皆さんに説いて来ました。
 ちょうど一年前の9月の第一聖日に私たちの教会は臨時教会総会を開いて、隣の土地を購入することを決めました。この少し前から私は御霊の一致を保つことの重要性を痛感するようになって、説教でも繰り返し説いて来ました。そして、このことによって私自身の聖霊への理解も段々と深まって来て、去年の今頃の私に比べたら今年の私のほうがずっと聖霊への理解が進んだことを私は感じています。聖霊について、どういう点で私の理解が進んだかと言うと、聖霊の神は私たちの一人一人に個人的な信仰の成長を促す働きを為さることはもちろんですが、もっと大切な働きとして、教会において私たちの霊的な交わりのレベルを引き上げる働きを為さる神様だということです。
 週報のp.3に第二コリント13章13節のみことばを載せておきました。このパウロの祈りの言葉は、いつも礼拝の最後に読み上げるみことばです。

13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

ここに「聖霊の交わり」とありますね。聖霊は、私個人と神様との交わりに関係しているだけでなく教会の中における私たち全体の霊的な交わりにも密接に関連しています。
 或いはまた、私が好んで引用する第一ヨハネ1章3節と4節のみことばも週報のp.3に載せておきました。

1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 ここに「交わり」という言葉が何度も出て来ますね。この交わりは、私たちが聖霊を受けて初めてできるようになるものです。ヨハネはこの交わりの中に私たちを招き入れようとしています。教会における交わりは、人間同士の人間的な交わりももちろん含まれます。しかし、より重要なのは人間的な交わりを越えた、霊的な交わりであると言えるでしょう。この霊的な交わりがキリストの香りを放ち、周囲の人々を引き付ける要因になるのだと思います。私たちの交わりが単なる人間の交わりであるなら、周囲の人にとっては私たちの集まりは何の関係もない集まりになってしまいます。しかし私たちの集まりが霊的なキリストの香りを放つものであるなら、人々がそこに不思議な魅力を感じて引き付けられるものなのではないでしょうか。
 このように聖霊の神は、私たち個人の信仰を引き上げるためにも働きますが、それ以上の大きな働きとして、私たちの霊的な交わりを豊かにするという重要な働きを持っていると言えるでしょう。このことを私はこの1年で学んだように思っています。

聖霊をけがす者とは?
 そうして、このことを思い巡らしていたところ、私は長い間にわたって謎に思っていたことの謎がついに解けた気がしています。それはマルコの福音書3章にあるみことばに関する謎です。きょう、アナニヤとサッピラの箇所を飛ばすのではなく、語ることができそうだと思ったのは、このマルコ3章のことを示されたからです。
 ご一緒にマルコの福音書の3章を見ましょう(新約聖書p.69)。3章の28節から30節までを交代で読みましょう。

3:28 まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。
3:29 しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます。」
3:30 このように言われたのは、彼らが、「イエスは、汚れた霊につかれている」と言っていたからである。

 この箇所を、どう解釈したら良いのか私はずっと疑問に思っており、私の課題になっていました。「神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます。しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」とは、どういうことでしょうか。「神をけがすことを言う」ことと「聖霊をけがす」ことの違いが何なのか、私は注解書を読んでもなかなか納得できずにいて、ずっとモヤモヤとした感情を、これまで引きずって来ました。
 しかし、今回、使徒5章3節にある、アナニヤとサッピラが聖霊を欺いたことについて思い巡らしているうちに、このマルコ3章のこともわかった気がしました。私はこのマルコ3章のことを、個人の信仰の問題として捉えているうちはわかりませんでしたが、聖霊の働きには、教会の霊的な交わりを促す働きがあるのだという視点から、このマルコ3章を読むなら理解できそうだとわかりました。
 つまり、こういうことです。マルコ3章30節に、「このように言われたのは、彼らが、『イエスは、汚れた霊につかれている』と言っていたからである」とありますね。この「彼ら」というのはエルサレムから下って来た律法学者たちのことです。3章22節には次のようにあります。

3:22 また、エルサレムから下って来た律法学者たちも、「彼は、ベルゼブルに取りつかれている」と言い、「悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」とも言った。

 律法学者たちは律法の専門家ですから、人々から一目おかれる存在でした。その専門家たちが「イエスは、汚れた霊につかれている」と言えば、多くの人々はその言葉を信用することでしょう。すると、イエスさまが汚れた霊に憑かれていると思い込んだ人からは、イエスさまと豊かな交わりを持つ機会が失われてしまいます。そうして救われるべき人が救われないことになってしまいます。
 罪は、個人的な罪であれば悔い改めることで神様の赦しをいただくことができます。しかし、人が救われる機会を奪ってしまった律法学者は、たとえ自分の罪に気が付いて悔い改めたとしても、自分が人から奪ってしまった、その人がイエス様と交わる機会を回復させることは難しいでしょう。このようにして他人をイエス様から遠ざけてしまったことの罪は重大であり、決して赦されるものではありません。こういう意味が「聖霊を汚す」ということの中に含まれているのではないでしょうか。聖霊が人をイエス様との交わりの中に招いているのに、それを邪魔してしまうことは、重大な罪です。
 私たちは個人の信仰を守るだけでなく、周囲の人々からイエスさまを遠ざけてしまうことがないように、気を付けなければなりません。アナニヤとサッピラはキリストの香りを放つのではなく、悪臭を放つことで人々をイエスさまから遠ざけてしまうところだった。それを阻止するために打たれた、そんな風に考えられると私は感じています。

おわりに
 最後に、ヨハネ15章の5節と6節を交代で読みましょう。

15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
15:6 だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。

 悪臭を放って、人々をイエスさまから遠ざける者は神様がその者を投げ捨てます。アナニヤとサッピラは、そのように投げ捨てられた者だと言えるでしょう。
 ここからわかることは、人がイエスさまとの交わりに入ることは素晴らしい恵みであり、逆にこの交わりに入れないことは、とてつもなく大きな損失であるということです。私たちの周囲には、まだ、この素晴らしい恵みに与っていない方々がたくさんいます。私たちはイエスさまにとどまり、これらの方々を教会にお招きして、多くの実を結ぶ者たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
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9月4日礼拝プログラム

2016-09-02 08:03:10 | 礼拝プログラム
霊的なイエスに親しむ教会
 インマヌエル沼津キリスト教会

9月4日 礼拝 午前10時半~

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

9月 第1聖日 礼拝順序

 司  会                小島牧師
 奏  楽                荒川姉

 前  奏
 招  詞
 讃 美 ①  御霊は天より        173
 交  読  詩篇99篇 全
 祈  祷
 主の祈り
 使徒信条
 讃 美 ②  救いのおとずれ       473
 証  詞                荒川姉
 讃 美 ③  主と主のことばに      391
 聖  書  使徒5:1~11
 説  教  『聖霊を欺くことの罪』 小島牧師
 讃 美 ④  聖霊よ 主のそばに     171
 献  金
 感謝祈祷                辰仁姉
 頌  栄  父・子・聖霊の        271
 祝福の御言葉
 後  奏
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私たちを雲のように取り巻く証人たち

2016-09-02 07:48:37 | 祈り会メッセージ
2016年8月31日祈り会メッセージ
『私たちを雲のように取り巻く証人たち』
【ヘブル12:1】

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

はじめに
 最近の祈祷会と礼拝の説教で私は、私たちがイエスの証人になることの重要性を繰り返し説いています。今年の2月に隣の土地を購入し、来年にはここに新しい礼拝堂を建設したいと私たちは願っています。神様は様々に私たちを助けていて下さいますから、ここまで来ることができ、これからも神様は助けて下さると私たちは確信しています。しかし、これまでがそうであったように、これからの闘いも決して楽なものではありません。たくさんの困難が予想されます。この困難の中を私たちは歩んで行かなければなりません。
 1世紀の使徒たちも様々な困難に遭いました。しかし困難に遭いながらも使徒たちは力強くイエス・キリストを宣べ伝えることができました。それは使徒たちが聖霊の力を受けていたからです。
 もう何度も繰り返し味わっているみことばですが、復活したイエス・キリストは天に帰る前に使徒たちに言いました。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒1:8)

 このイエスさまのことばの通りに使徒たちは聖霊を受け、聖霊の力を受けてイエスさまの証人になりました。私たちもまた聖霊を受けていますから、聖霊の力を受けているはずです。しかし、もし私たちがイエスさまの証人になろうとしないなら、せっかく受けている聖霊の力がうまく働かないことになります。聖霊の力が働かないなら教会の働きは祝されません。ですから私たちはイエスさまの証人としての働きをこれからますます強めて行きたいと願っています。そのために私たちの教会では、来月から第1聖日の礼拝には証しの時間を設けることにして、トップバッターとしてAさんが立って下さることになりました。また先日の幹事会では10月と11月の証し人も決めることができましたから感謝でした。このメッセージの後のお祈りの時間では、この証しが祝されて私たちにますます聖霊の力が与えられますようにも、お祈りすることにしたいと思います。

私たちを雲のように取り巻く信仰の先輩たち
 さて今日のメッセージも「証人」ということにこだわって見て行きたいと思います。今日の聖書箇所のヘブル12:1を、もう一度ご一緒に読みましょう。

12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

 私たちは信仰の先輩たちに雲のように取り巻かれているのですね。私たちがイエスさまの証人になる時、私たちの一人一人は孤立しているわけではなく、私たちは信仰の先輩たちに雲のように取り巻かれています。私たちが力強い聖霊の力を受けることができるのは、それゆえであるとも言えるでしょう。いつも礼拝の最後にお読みしている第二コリント13:13には、

13:13 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。

とあります。この聖霊の交わりとは、私たちを雲のように取り巻く信仰の先輩たちも含めた交わりとも受け取ることができます。
 或いはまた、私が好んで引用する第一ヨハネ1:3と1:4には、

1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

とあります。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。そして、この交わりによって私たちに全き喜びが与えられます。この私たちの交わりもまた聖霊の交わりです。私たちがイエスさまの証人になる時、私たちの背後では信仰の先輩たちも含めた聖霊の交わりが働き、そうして私たちには聖霊の強い力が与えられます。

これからの学びについて
 ヘブル人の手紙が記している信仰の先輩たちは主に旧約の時代の先輩たちで、それは11章に記されています。しかし、21世紀の私たちにとっては新約の時代の先輩たちも含まれていて、もちろん20世紀の先輩たちも含まれます。10月にはまた召天者記念礼拝を行いますが、この沼津教会の信仰の先輩たちもまたもちろん、私たちを雲のように取り巻く証人たちの中に含まれています。
 さて、ここまで説教を準備して来て、これからしばらくの間、祈り会では私たちを取り巻く信仰の先輩たちをシリーズで取り上げて行こうかしらという思いが与えられています。先ずはヘブル書11章で取り上げられている先輩たちを順次見て、このヘブル11章が終わったら、まだわかりませんが例えば新約聖書の時代の先輩たちについて見て、それから2世紀以降の先輩たちについて見て行くのも良いかなあという気がしています。
 いま礼拝のほうでは使徒の働きのシリーズをずっと続けて見ていて、使徒の働きの終わりのほうを学ぶ頃には、新しい礼拝堂ができていて、この新しい礼拝堂の中で使徒の働き28章の説教を是非とも行いたいと願っています。
 祈り会では、ここしばらくは特にシリーズでは行っておらず、その時々で私が示された箇所についてのメッセージを取り次いで来ました。しかし、来週以降はヘブル書11章の信仰の先輩たちを順次見て行くことにしたいと思います。ですから、来週の祈り会からは、ヘブル11章の学びを始めたいと思います。

ヘブル人への手紙の宛先の読者
 きょうの残りの時間は、あと5分ほど、このヘブル人への手紙がどのような読者に宛てて書かれたのかを、いくつかの箇所を見ながら探って行きたいと思います。
 まずきょうの12章1節をもう少し味わってみたいと思います。12章1節の後半には、

「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」

 この箇所を読むと、この手紙の宛先のヘブル人たちは、色々と困難な目に遭っていることが想像されます。ただし、困難な目に遭っていると言っても、4節を見ると、

12:4 あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。

と書いてありますから、この手紙の読者はまだ迫害に遭っているわけではありません。そのような読者に対して、この4節の上の段の11章36節と37節には、

11:36 また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い、
11:37 また、石で打たれ、試みを受け、のこぎりで引かれ、剣で切り殺され、羊ややぎの皮を着て歩き回り、乏しくなり、悩まされ、苦しめられ、

というように迫害にあった信仰の先輩たちの例を挙げています。この先輩たちは迫害に遭っても信仰を全うしました。
 これらのことから、この手紙の読者は、まだ迫害には遭っていないけれども、迫害に遭うことを恐れて信仰から離れそうになっている人々であるようです。そのような人々に対してこの手紙の記者は、12章の1節で、「忍耐をもって走り続けようではありませんか」と勧めています。
 以前、私はこのことがよくわかっていなかったので、このヘブル書のこともあまりよくわかっていませんでした。しかし、迫害を恐れて信仰を捨てそうになっている人々に宛てた手紙だということがわかって、このヘブル書をもっとよく味わうことができるようになりました。

大人に成長すべき私たち
 最後にあと一箇所だけ開くことにします。ヘブル書5章の11節から14節までを交代で読みましょう。11節の始めにある「この方について」、の「この方」とはイエス・キリストのことです。ここでヘブル書の記者は、信仰から離れそうになっている読者に対して少々厳しいことを言っています。

5:11 この方について、私たちは話すべきことをたくさん持っていますが、あなたがたの耳が鈍くなっているため、説き明かすことが困難です。
5:12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。
5:13 まだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
5:14 しかし、堅い食物はおとなの物であって、経験によって良い物と悪い物とを見分ける感覚を訓練された人たちの物です。

 なかなか厳しいことばですね。特に12節がきついです。

5:12 あなたがたは年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神のことばの初歩をもう一度だれかに教えてもらう必要があるのです。あなたがたは堅い食物ではなく、乳を必要とするようになっています。

 私たちはどうでしょうか。私たちもまだまだ乳ばかり飲んでいる幼子であるような気がします。しかし私たちの教会が用いられるためには、私たちは大人になって行く必要があります。そして、多くの幼子たちを新たに迎えて、共に成長して行きたいと思います。その際には私たちの皆が幼子でいるのでは教会は成長して行くことができませんから、まずは私たちがもっと成長して行きたいと思います。
 そのために、お祈りしたいと思います。お祈りいたしましょう。
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