インマヌエル沼津キリスト教会

神の「永遠」の発信教会
沼津市今沢34番地

9月1日礼拝プログラム

2013-08-29 09:10:35 | 礼拝プログラム
インマヌエル沼津キリスト教会
9月1日礼拝プログラム

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

9月第1聖日礼拝順序

 司  会             西村兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  遠き国や          436
 交  読  詩篇119:161~176
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  主から受ける安らぎは    440
 讃 美 ③  若葉のもえるナザレの里   106
 聖  書  ヨハネ11:1~7、32~38
 説  教  『涙を流したイエス』 小島牧師
 讃 美 ④  川のような平安が      438
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

迫害された預言者たち①(2013.8.28 祈り会)

2013-08-28 21:31:35 | 祈り会メッセージ
2013年8月28日祈り会メッセージ
『迫害された預言者たち①』
【使徒7:51-60】

7:51 かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
7:52 あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
7:53 あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません。」
7:54 人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
7:55 しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスとを見て、
7:56 こう言った。「見なさい。天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
7:57 人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
7:58 そして彼を町の外に追い出して、石で打ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロという青年の足もとに置いた。
7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。

はじめに
 いま、ご一緒に読んだのは、使徒の時代のエルサレムの人々がステパノを迫害した場面です。ステパノは52節で、「あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。」と言いました。旧約の預言者たちは迫害されていました。それは、何時の時代においても、人々の多くは神に逆らっていたからです。神のことばを語る預言者たちは、神に逆らう人々によって迫害されていました。25日の礼拝で見たエレミヤもまた、迫害されていました。そしてイエスもまた迫害され、ステパノも迫害を受けました。
 これから、そのように神に逆らう人々によって迫害を受けた預言者たちについて記されている箇所のいくつかを、見て行くことにしようと思います。モーセとエリヤとエレミヤの3名について、見てみたいと思うのですが、この3名を、きょうの1回だけで見てしまうか、もう少し丁寧に1人ずつ3回にわけて見ることにするか、少し迷いました。迷いましたが、3回に分けて1人ずつ見て行くことにしようと思います。少し丁寧に見ることで神に反逆する人々と預言者、そして神様の三者の関係を、より深く味わうことができたら、と思います。

1.不信の罪に巻き込まれてしまったモーセ
 それで、きょうはモーセを見ることにします。モーセの場合は、迫害されたのとは少し違うのですが、神に逆らう人々にはいつも悩まされていました。そして、その神に逆らう人々の中にモーセ自身も巻き込まれてしまって、つらい思いをしなければならなくなりました。
 民数記の20章(旧約聖書p.266)を読みましょう。ここに、メリバの水についての記事が載っています。1節から13節までを交代で読みましょう。

20:1 イスラエル人の全会衆は、第一の月にツィンの荒野に着いた。そこで民はカデシュにとどまった。ミリヤムはそこで死んで葬られた。
20:2 ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。
20:3 民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが【主】の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。
20:4 なぜ、あなたがたは【主】の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。
20:5 なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」
20:6 モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると【主】の栄光が彼らに現れた。
20:7 【主】はモーセに告げて仰せられた。
20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」
20:9 そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、【主】の前から杖を取った。
20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」
20:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。
20:12 しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」
20:13 これがメリバの水、イスラエル人が【主】と争ったことによるもので、主がこれによってご自身を、聖なる者として示されたのである。

 2節にあるように、モーセと共に荒野にいたイスラエルの民は、水が無いことでモーセとアロンに不平不満を言いました。人々が不平不満を言うのは、もちろん、これが初めてではありません。イスラエルの人々は何かあると、すぐに不平不満を言うのでした。それは、人々がエジプトで奴隷とされていたのを助け出して下さった主に不平不満を言うのと同じでした。モーセは、このように神に逆らう人々のことで、いつも悩まされていました。このような人々に対して、憐み深い主はモーセとアロンを呼んで、8節のように言いました。8節、

20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」

 憐み深い主は、このようにモーセとアロンに言って、水のことで不平不満を言う人々に水を飲ませるように言いました。そうして、再び人々の前に立ったモーセは、神に反逆する人々に対して怒りを感じていました。それゆえ、冷静さを欠いていたモーセは、10節のように人々に向かって言いました。

「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」

 そして、11節、に、

「モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。」

とありますから、これで一件落着かと思われました。しかし、モーセのこの冷静さを欠いた言動は、モーセにとってはつらい出来事となってしまいました。12節、

「しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。『あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。』」

 なんと、この一件により、モーセもアロンも約束の地カナンに入ることができなくなってしまいました。モーセは水を出す前に、これは主が与えて下さる水だということを人々に言うべきだったのですね。それを、あたかもモーセが自分の力で水を出すかのように振る舞ってしまったために、主はモーセのその不信の罪により、モーセを約束の地カナンに導き入れないと言うのです。

2.神の意向を粛々と受け入れたモーセ
 申命記の32章を見ましょう。これは、荒野を40年間放浪したイスラエルの民が、いよいよヨルダン川を渡って約束の地カナンに入っていこうとする直前のことです。申命記32章の48節から52節を交代で読みましょう。

32:48 この同じ日に、【主】はモーセに告げて仰せられた。
32:49 「エリコに面したモアブの地のこのアバリム高地のネボ山に登れ。わたしがイスラエル人に与えて所有させようとしているカナンの地を見よ。
32:50 あなたの兄弟アロンがホル山で死んでその民に加えられたように、あなたもこれから登るその山で死に、あなたの民に加えられよ。
32:51 あなたがたがツィンの荒野のメリバテ・カデシュの水のほとりで、イスラエル人の中で、わたしに対して不信の罪を犯し、わたしの神聖さをイスラエル人の中に現さなかったからである。
32:52 あなたは、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地を、はるかにながめることはできるが、その地へ入って行くことはできない。」

 こうして、モーセはメリバの水の出来事によって、ヨルダン川を渡って約束の地カナンに入ることを許されませんでした。同じ申命記の34章7節を見ていただきますと、「モーセが死んだときは百二十歳であったが、彼の目はかすまず、気力も衰えていなかった」と書いてありますから、モーセは、まだまだ元気でした。ヨルダン川を渡ってカナンの地に入っても、まだまだ働けるとモーセ自身は思っていたことでしょう。それゆえ、モーセの残念な気持ちはいかばかりであったろう、と思うことです。しかし、モーセは神の意向を粛々と受け入れました。
 私はここに神のモーセへの愛があるように感じます。モーセもその神の愛を感じていたのではないかなと思います。モーセはもう、十分に主と人々のために働いて来ました。ヨルダンを渡ってカナンの地に入るなら、また新たな闘いが始まります。神さまはモーセに、もうそれは後のヨシュアたちに任せて、もうゆっくり休んでいいよとおっしゃっているのかもしれません。モーセを愛しておられる神は、ここでモーセに休息を与えているのではないかなあと感じることです。

3.罪人の側にいて死んで行ったステパノとモーセ
 しかし、メリバの水の件では、神に逆らう人々の姿があったことを忘れてはならないと思います。いつの時代においても、人々の多くは神に反逆しています。このことを私たちは是非、聖書全体から学ぶようにしたいと思います。モーセの時代の出来事を、この時代のこととして読むのではなく、いつの時代においても、人間とはこのように神に反逆する傾向を持つのだと読みたいと思います。
 私たちは今、礼拝でヨハネの福音書を学んでおり、御父・御子・聖霊の三位一体の神はどの時代にもいて、人々を愛していたことを学んでいます。そして、いつの時代にも神に反逆する人々もまたいるのだということを学んでいます。きょうのモーセの箇所も、そのような聖書全体の出来事の中で味わうなら、神と預言者と人々との関係を、より一層深く味わうことができると思います。
 最後にもう一度、使徒の働き7章(新約聖書p.242)を開いて終わることにしたいと思います。7章の59節と60節を交代で読みます。

7:59 こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
7:60 そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、眠りについた。
 
 ステパノは、自分を迫害する者たちのために祈っていました。ステパノは、自分を迫害する者たちの側にいて、主に祈っていました。すると、ヨルダンを渡らずに死んだモーセもまた、神に反逆する人々の側にいて死んでいったのだということに思い至ります。神に反逆するイスラエルの人々は、ヨシュアとカレブを除いては、皆、ヨルダンを渡ることができませんでした。モーセはそれらの罪深い人々の側に残って死んで行ったのだということに思い至ります。それは、イエス・キリストがまさに、私たち罪人の側にいて十字架で死んで行ったのと同じですね。聖霊が注がれていたモーセもまた最後まで罪深い人々と共にいたのでした。

おわりに
 私たちも、私たちはもう救われたから良いというわけではないのですね。まだ救われていない人々の中にいて、その人々の救いのために祈り、働いて行かなければならないと思わされることです。
 お祈りいたしましょう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

エレミヤの中のイエスの叫び(2013.8.25 礼拝)

2013-08-25 21:32:35 | 礼拝メッセージ
2013年8月25日礼拝メッセージ
『エレミヤの中のイエスの叫び』
【ヨハネ10:1~6、40~42】

はじめに
 先月からヨハネの福音書を開いています。ヨハネの福音書では「旧約の時代」と「使徒の時代」が「イエスの時代」に重ねられていて、永遠の中を生きるイエスが描かれているのだという話をしています。
 先週は2章を開いて、ヨハネの福音書2章にはモーセの時代の過越の恵みとガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれたペンテコステの日の恵みが書かれていることを見ました。聖霊が注がれた預言者であるモーセの中にはイエスがいることを、ヨハネは時代を重ねることで描いています。またヨハネの4章ではエリヤの中にイエスがおり、6章ではエリシャのイエスがいることも見ました。

1.滅亡寸前のエルサレム
 きょうは10章の背後にある「旧約の時代」を中心に見て行きます。10章1節で、イエスは、

10:1 まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。

と言いました。このイエスのことばの背後には、預言者エレミヤの時代の滅亡寸前のエルサレムがあります。南北の2つの王国に分裂したソロモンの王国は、北王国のイスラエルが既にアッシリヤによって滅ぼされていました。そして、南王国のユダもバビロニアによって滅ぼされようとしていました。その時、ユダの国は、まさに盗人で強盗である外国人の略奪隊に攻め込まれていました。きょうは、まず列王記を開いて、当時の状況を見ておくことにします。列王記第二24章を見ましょう。列王記第二24章の1節から4節までをお読みします。

24:1 エホヤキムの時代に、バビロンの王ネブカデネザルが攻め上って来た。エホヤキムは三年間彼のしもべとなったが、その後、再び彼に反逆した。
24:2 そこで【主】は、カルデヤ人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて、これを滅ぼすために彼らを遣わされた。【主】がそのしもべである預言者たちによって告げられたことばのとおりであった。
24:3 ユダを主の前から除くということは、実に【主】の命令によることであって、それは、マナセが犯したすべての罪のためであり、
24:4 また、マナセが流した罪のない者の血のためであった。マナセはエルサレムを罪のない者の血で満たした。そのため【主】はその罪を赦そうとはされなかった。

 1節に、「エホヤキムの時代に」とあります。エホヤキムは預言者エレミヤの時代のユダの王様でした。このエホヤキムはとんでもない王様で、エレミヤが預言した主のことばが書かれた巻物を暖炉の火で燃やしてしまうような王様でした。このエホヤキムの時代、ユダの王国は滅亡寸前の状態にありました。この第二列王記の24章には、それは主が外国人の略奪隊を遣わしてユダを攻めたためであると記しています。2節に、「そこで【主】は、カルデヤ人の略奪隊、アラムの略奪隊、モアブの略奪隊、アモン人の略奪隊を遣わしてエホヤキムを攻められた。ユダを攻めて、これを滅ぼすために彼らを遣わされた。」とあります。この状況を指して、イエス・キリストは「羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。」(ヨハネ10:1)と言ったのでした。
 主がこのようにしてユダを滅ぼすことにしたのは、マナセが犯したすべての罪のためであることが3節と4節に書かれています。マナセというのは、エホヤキムの3代前の王で、エホヤキムの曾祖父にあたります。マナセは神殿にアシェラ像を置いたり、太陽や月を拝む祭壇までをも神殿の中に築いたりして、主を怒らせました。こうしてエホヤキムの時代にはユダの王国は風前の灯火の状態にありました。そして、遂にエホヤキムの子のエホヤキンの時に、バビロンの王に降伏してバビロンに捕囚として引かれて行ったことが24章の後半に書かれています。列王記第二24章の12節から16節までをお読みします。

24:12 ユダの王エホヤキンは、その母や、家来たちや、高官たち、宦官たちといっしょにバビロンの王に降伏したので、バビロンの王は彼を捕虜にした。これはネブカデネザルの治世の第八年であった。
24:13 彼は【主】の宮の財宝と王宮の財宝をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが造った【主】の本堂の中のすべての金の用具を断ち切った。【主】の告げられたとおりであった。
24:14 彼はエルサレムのすべて、つまり、すべての高官、すべての有力者一万人、それに職人や、鍛冶屋もみな、捕囚として捕らえ移した。貧しい民衆のほかは残されなかった。
24:15 彼はさらに、エホヤキンをバビロンへ引いて行き、王の母、王の妻たち、その宦官たち、この国のおもだった人々を、捕囚としてエルサレムからバビロンへ連れて行った。
24:16 バビロンの王は、すべての兵士七千人、職人と鍛冶屋千人、勇敢な戦士を、すべて、捕囚としてバビロンへ連れて行った。

 こうしてエルサレムの人々の多くが捕囚としてバビロンに引かれて行きました。

2.エレミヤが語る主のことばに従わない人々
 預言者のエレミヤは、この時代に活動していた預言者です。エレミヤは、エルサレムの人々が捕囚に引かれる前、今のままではこの国は亡びると言って繰り返し警告しました。しかし、人々はエレミヤの預言した主のことばに従おうとはしませんでした。では、今度はエレミヤ書を見ることにしましょう。どこを開いても良いのですが、例えば18章を見てみましょう。エレミヤ書18章(旧約聖書p.1276)です。
 ここで、主はエレミヤを陶器師の所に行かせました。4節に、「陶器師は、粘土で制作中の器を自分の手でこわし、再びそれを陶器師自身の気に入ったほかの器に作り替えた」とあります。それから、エレミヤに次のような主のことばがありました。6節から8節までをお読みします。

18:6 「イスラエルの家よ。この陶器師のように、わたしがあなたがたにすることができないだろうか。──【主】の御告げ──見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、イスラエルの家よ、あなたがたも、わたしの手の中にある。
18:7 わたしが、一つの国、一つの王国について、引き抜き、引き倒し、滅ぼすと語ったその時、
18:8 もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す。

 このように主は、もし民が悔い改めるなら、下そうと思っていた災いを思い直すとおっしゃいました。すなわち、ユダの国を滅ぼすことを思い直すとおっしゃいました。そして、11節で主はエレミヤに言いました。

18:11 さあ、今、ユダの人とエルサレムの住民に言え。『【主】はこう仰せられる。見よ。わたしはあなたがたに対してわざわいを考え、あなたがたを攻める計画を立てている。さあ、おのおの悪の道から立ち返り、あなたがたの行いとわざとを改めよ。』

 主は民に悔い改めるよう言いました。しかし12節、

18:12 しかし、彼らは言う。『だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行うのだから』と。

 人々の心は神から全く離れてしまっていました。それゆえ、エレミヤが語る主のことばは人々の心に全く届きませんでした。

3.巻き物を燃やしたエホヤキム王
 主のことばが心に届かなかったことは、エホヤキム王も同じでした。今度は36章を見てみましょう。エレミヤ書36章です。

36:1 ヨシヤの子、ユダの王エホヤキムの第四年に、【主】からエレミヤに次のようなみことばがあった。
36:2 「あなたは巻き物を取り、わたしがあなたに語った日、すなわちヨシヤの時代から今日まで、わたしがイスラエルとユダとすべての国々について、あなたに語ったことばをみな、それに書きしるせ。
36:3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。」
36:4 それでエレミヤは、ネリヤの子バルクを呼んだ。バルクはエレミヤの口述に従って、彼に語られた【主】のことばを、ことごとく巻き物に書きしるした。

 エホヤキムの時代に主はエレミヤに、主のことばを巻き物に書き記すよう命じました。それは、主が3節のように考えていたからでした。もう一度3節を読みます。

36:3 ユダの家は、わたしが彼らに下そうと思っているすべてのわざわいを聞いて、それぞれ悪の道から立ち返るかもしれない。そうすれば、わたしも、彼らの咎と罪とを赦すことができる。

 主はユダを滅ぼすことを決して望んではおられませんでした。何とか人々が悪の道から立ち返ることを願っていました。そして彼らの咎と罪とを赦すことを望んでおられました。そのために、エレミヤに主のことばを巻き物に書き記すよう命じました。その巻き物を、エホヤキム王は何と、暖炉の火で燃やしてしまいました。21節から24節までをお読みします。

 36:21 王はエフディに、その巻き物を取りに行かせたので、彼はそれを書記エリシャマの部屋から取って来た。エフディはそれを、王と王のかたわらに立つすべての首長たちに読んで聞かせた。
36:22 第九の月であったので、王は冬の家の座に着いていた。彼の前には暖炉の火が燃えていた。
36:23 エフディが三、四段を読むごとに、王は書記の小刀(こがたな)でそれを裂いては、暖炉の火に投げ入れ、ついに、暖炉の火で巻き物全部を焼き尽くした。
36:24 王も、彼のすべての家来たちも、これらのすべてのことばを聞きながら、恐れようともせず、衣を裂こうともしなかった。

 これは恐ろしい光景ですね。王は主のことばを聞かずに燃やしたのではなく、聞いた上で燃やしました。王の心には主のことばが全く響かなかったのでした。恐ろしい鈍感さです。
 しかし、このような鈍感な心を持っているのは、「旧約の時代」の人々だけではありません。「イエスの時代」の人々も鈍感な心を持ち、パウロたちの「使徒の時代」の人々もまた鈍感な心を持ち、そして現代の私たちの時代においても、多くの人々が、このエホヤキム王のような恐ろしい鈍感な心を持っています。ヨハネの福音書は、このように心の鈍感な人々が時代を越えて、いつの時代にも存在することを、時代を重ねることによって描いています。

4.時代を越えて存在する鈍感な人々
 ヨハネの福音書10章に戻ります。1節、

10:1 「まことに、まことに、あなたがたに告げます。羊の囲いに門から入らないで、ほかの所を乗り越えて来る者は、盗人で強盗です。

 先ほども言いましたが、このイエスのことばの背後には、エホヤキム王の時代に、外国人の略奪隊がユダに攻め入ったことがあります。ですから、エレミヤの中にはイエスがいて、主のことばを人々に必死に語っていたことを、ヨハネはここで描いています。永遠の中を生きるイエスはエレミヤの中にいて、主のことばに耳を傾けようとしない人々に向かって叫んでいました。しかし、人々の反応は鈍いものでした。6節、

10:6 イエスはこのたとえを彼らにお話しになったが、彼らは、イエスの話されたことが何のことかよくわからなかった。

 人々の心が鈍いのは、いつの時代においても同じです。その人々に向かってイエスは言います。9節、

10:9 わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。

 このようにイエスは私たちを招き、救いへと導いてくださいます。或いは11節で、イエスはこのように言います。

10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

 しかし、鈍い心を持つ人々は、20節のように言います。20節、

10:20 彼らのうちの多くの者が言った。「あれは悪霊につかれて気が狂っている。どうしてあなたがたは、あの人の言うことに耳を貸すのか。」

 エレミヤの時代の人々も、ほとんどの人々はエレミヤが語る主のことばに耳を貸しませんでした。また、使徒のパウロの時代にも、多くの人々はパウロが語る主のことばに耳を貸しませんでした。このようにしてヨハネは、心の鈍い人々が時代を越えて存在することを示しています。
 そして10章の後半、季節は冬でした。23節に、「時は冬であった」とあります。この冬は、エレミヤの時代にエホヤキム王が主のことばが記された巻き物を暖炉の火で燃やした冬です。次のページの35節に、イエスは「聖書は廃棄されるものではない」と言っています。これは、エホヤキム王が暖炉で巻き物を燃やしてしまったことを批判しています。そして40節でイエスは、ヨルダン川を渡りました。39節までイエスはエルサレムにいましたから、40節でヨルダンの西から東側に移動しました。これは、エレミヤの時代の人々が、バビロンへ捕囚として引かれて行ったことを示しています。バビロンはヨルダンの東側にありますから、これはバビロン捕囚の出来事を示します。この時、バビロンに引かれて行った預言者はエゼキエル、そしてダニエルですから、イエスはこれらの預言者とともにおられました。

5.永遠を感じてイエスを信じる
 きょう私たちは、神のことばに耳を傾けない人々が時代を越えて存在することを学んでいます。きょうの聖書箇所のヨハネ10章は、永遠とはどういうものなのかを、私たちに非常にわかりやすい形で示してくれているのではないでしょうか。私たちも、かつては神のことばに全く鈍感でしたし、今も多少は、或いはかなり鈍感な面があるでしょう。ですから、エレミヤの時代の人々の鈍感さもわかります。そのようにエレミヤの時代の人々に感情移入することができます。すると、エレミヤの時代にいるイエス・キリストが私たちに語り掛けて来て下さいます。それは、今も生きておられるイエス・キリストが、現代の私たちに語り掛けて下さっているのと同じことです。こうして、私たちはイエス・キリストが永遠の中を生きているのだということを感じることができます。そうしてイエス・キリストが永遠の中にいることを、ただ何となく感じるだけでなく、イエス・キリストは実際に永遠の命を持つ神の御子なのだと信じるなら、私たちにもまた永遠の命が与えられます。私たちに永遠の命が与えられるなら、神の御子イエス・キリストとの交わりを、より一層深めて行くことができます。そして、ヨハネ10章30節でイエスは「わたしと父とは一つです」と言っていますから、私たちは御父と御子との交わりに入れられます。
 ヨハネの福音書の執筆目的を、ヨハネは次のように書いています。

「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。」(ヨハネ20:31)

 私たちは、イエスが永遠の中を生きていることを感じることによって、イエスが神の子キリストであることを知ることができます。永遠の命を持つのは神だけだからです。奇跡を行う者が神の子キリストではありません。モーセもエリヤも奇跡を行いましたが、モーセもエリヤも神の子キリストではありませんでした。永遠の中を生きる者こそが神の子キリストです。そして、そのイエス・キリストを信じる者もまた神の子とされて、永遠の命が与えられます。
 ヨハネはこの目的のためにイエスが永遠の中を生きていることを描きました。ところが、紀元2世紀以降、どういうわけか、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの福音書と同様に、イエスの約30年間の地上生涯を描いた書であると思い込まれて来ました。それゆえ私たちには、永遠の中を生きるイエスのことが、なかなか見えて来ませんでした。
 しかし、今や私たちは永遠の中を生きるイエスの姿をヨハネの福音書を通じて、もっとはっきりと見ることが出来るようになりました。永遠の中を生きるイエスは、神のことばを信じようとしない人々に向かって叫ぶ預言者たちの中にいました。エレミヤや他の預言者たちは神のことばに鈍感な人々に迫害されて様々な苦難に遭いました。それはまたイエス・キリストが苦難に遭ったということでもあります。きょうのヨハネ10章では、ぜひ、この時代を越えたイエスの苦難を感じ取りたいと思います。

おわりに
 このように永遠の中を生きるイエスを感じることで私たちは、私たちの霊性をより一層豊かにすることができます。私たちが豊かな霊性を持つなら、私たちが祈る時にも、より豊かな神との交わりの中で祈ることができます。このようにして、私たちの霊性は益々豊かにされて行きます。
 ヨハネは何と素晴らしい福音書を私たちのために書いてくれたことでしょうか。これは、素晴らしい贈り物です。こんなに素晴らしい贈り物が私たちには与えられているのだという喜びを持って、今週も信仰の道を歩んで行けるお互いでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

8月25日礼拝プログラム

2013-08-22 07:42:05 | 礼拝プログラム
インマヌエル沼津キリスト教会
8月25日礼拝プログラム

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

8月第4聖日礼拝順序

 司  会             矢崎兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  かいぬしわが主よ      303
 交  読  詩篇119:145~160
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  けがれ果てた身に      306
 讃 美 ③  キリストにはかえられません 465
 聖  書  ヨハネ10:1~6、40~42
 説  教  『エレミヤの中のイエスの叫び』 小島牧師
 讃 美 ④  主とともに罪に死に     312
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

愛弟子とは私たちであるという確信(2013.8.21 祈り会)

2013-08-22 02:21:04 | 祈り会メッセージ
2013年8月21日祈り会メッセージ
『愛弟子とは私たちであるという確信』
【ヨハネ19:25-30、Ⅰヨハネ4:7-11】

はじめに
 昨日の8月20日は、1年前に日本人ジャーナリストの山本美香さんがシリアの内戦の取材中に銃撃を受けて亡くなった日でした。そして1年後の今もシリアでは内戦が続いています。昨晩の日本テレビの報道番組を私は見ましたが、シリアの状況はさらに悪化しているようです。戦争は、国同士の戦争も悲惨ですが、身内同士の争いである内戦は、本当に悲惨だと思います。身内同士であるのに、どうして互いに愛し合うことができないのでしょうか。

1.神に愛されている自覚が足りない私たち
 さきほど交代で読んだヨハネの手紙第一4章11節で、ヨハネは、

4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と書いています。私たちは、「神がこれほどまでに私たちを愛してくださった」という自覚が、まだまだ全然足りないのではないかと私は最近考えるようになりました。「神がこれほどまでに私たちを愛してくださった」という自覚が私たちに足りないために、私たちは未だに互いに愛し合うことができないのかもしれません。それはクリスチャンであっても、そうです。クリスチャンである私たちは、神が私たちを愛して下さっていることを知っているつもりでいますが、まだまだ全然足りないのではないか、私はそのように考えています。なぜなら、もし自分が神に愛されているという自覚が十分にあるのなら、イエス・キリストの十字架のそばにいた「愛する弟子」というのは、自分自身のことであることに、気付かなければならないはずだからです。それは、ヨハネの福音書19章26節の「愛する弟子」のことですね。

19:26 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます」と言われた。

 この「愛する弟子」というのは、実は私たちのことです。それにも関わらず、私たちの多くは、この「愛する弟子」というのは使徒ヨハネのことだと考えています。或いは、この「愛する弟子」はラザロのことだと考える聖書学者もいます。イエスはラザロを愛していたので、ラザロの墓に案内された時に涙を流した。イエスはそれほどラザロを愛していた。それゆえ、この「愛する弟子」とはラザロのことである、というわけです。或いはまた、この「愛する弟子」は長老ヨハネであると考える聖書学者もいます。使徒ヨハネではなく長老ヨハネであると言うのです。皆、他人事のようにして考えてしまっています。確かにイエスは使徒ヨハネも、ラザロも、長老ヨハネも愛していたのでしょう。しかし、イエス・キリストは私たちのことも愛して下さっています。どうして私たちは、「愛する弟子」とは自分のことであると思わないのでしょうか。ヨハネの手紙第一4章の9節から11節までを、もう一度交代で読みましょう。

4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

 神がこれほどまでに私たちを愛して下さったのに、どうして私たちは十字架のそばにいた「愛する弟子」は使徒ヨハネだとかラザロだとかと、他人事のように考えてしまうのでしょうか。この十字架の現場に立ち会った「愛する弟子」とは私たちのことです。このことを私たちは揺るぎない確信を持って、そう考えなければなりません。もし確信できないとしたら、神が私たちを愛して下さっているという自覚がまだまだ十分ではないということになります。

2.ヨハネが描く神の愛の大きさを感じる
 かく言う私も、もちろん最初は「愛する弟子」を他人事のように思っていました。しかし、ヨハネの福音書への理解が深まる中で、「愛する弟子」とは自分のことであるという確信が与えられるようになりました。

 私は1年ぐらい前から、ヨハネの福音書とは、こういう書であるという本を何とか書きたいと思いつつ、書いては破棄し、書いては破棄し、ということをずっと繰り返して来ています。どういう書き方をしたらヨハネの福音書のことを理解してもらえるのか、悩みながら書いては破棄し、また新たな構想のもとで書き始めては破棄し、ということを繰り返しています。そうして最近考えていることは、私の原稿を読んで下さる読者がヨハネの福音書をマタイ・マルコ・ルカの福音書の延長線上で理解しようとしている間は、私の書くことに賛同しないだろうな、ということです。
 ですから、まず私が取り組まなければならないのは、マタイ・マルコ・ルカの読み方に縛られている人々をその縛りから解放することであろうと思います。そのためには、マタイ・マルコ・ルカの延長線上でヨハネを読むなら、ヨハネが描く神の愛の大きさを十分に感じることができないことを知っていただくことが有効ではないかと今私は考えています。そして、そのための図を描いてみました。



 私たちはマタイとマルコとルカの福音書を私たちが普通に持っている【過去→現在→未来】という人間の時間観で読んでいます。しかし、ヨハネの福音書は、マタイ・マルコ・ルカの福音書と同じ読み方で読んではならない書です。この図に書いたように、ヨハネの福音書は、永遠の中にいる神と私たちを感じながら読む福音書です。
 私が持っているイメージを、単純な図でどのように表現したら良いのか苦心したのですが、この図から感じ取っていただきたいことのポイントは、人間の時間観では、時間の流れに私たちが縛られているということです。「旧約の時代」があり、「イエスの時代」があり、「使徒の時代」があって、そして「私たちの時代」があるという時間の流れに私たちは縛られています。
 一方、その下の図では、私たちは時代の変遷からは解放されて御父・御子・聖霊の三位一体の神と同じ並びの中にいます。神は【過去・現在・未来】が一体の永遠の中にいますから、その神との交わりの中に入れられている私たちもまた、永遠の中にいます。すると、「旧約の時代」、「イエスの時代」、「使徒の時代」も一体となります。私たちは、その中にいますから、イエスの十字架は紀元1世紀の出来事だという縛りからも解放されて、私たちがイエスの十字架のそばにいたとしても、いっこうに構わないことになります。また、旧約の時代に神がイスラエルの民に注いだ愛は、旧約の時代のイスラエルの民だけに注がれた愛ではなく、私たちに注がれた愛でもあるということになります。そして使徒の時代に注がれた愛もまた、私たちに注がれた愛と感じて良いわけです。
 先日の18日の礼拝で私たちは、ヨハネの福音書2章を開いて、そこに「旧約の時代」にイスラエルの民がエジプトを脱出した時の過越の恵みと、「使徒の時代」にガリラヤ人たちに注がれたペンテコストの日の恵みのことが書いてあることを学びました。それらの恵みもまた、私たちに注がれていると感じて良いわけです。それぞれの時代の恵みは、それぞれの時代に生きた人々だけに注がれた恵みではなく、全部、自分たちに注がれた恵みであると感じて、いっこうに構わないわけです。構わないというよりは、そう感じなければならないと言うべきでしょう。

3.愛弟子として十字架のイエスを見上げる私たち
 イエス・キリストを信じて永遠の命が与えられて、永遠の中に入れられている私たち愛弟子は、イエス・キリストの十字架のすぐそばに立ち、十字架に付けられたイエスを見上げます。そして、イエスを見上げる私たちにヨハネは、

4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

と言っています。
 ですから私たちは互いに愛し合わなければなりません。私たち人間が持っている時間観、すなわち【過去→現在→未来】という一方通行の流れの時間観は強烈です。私たちは、その強烈な縛りから、なかなか離れられないかもしれません。しかし、聖霊の働きによって御父と御子との交わりの中に入れられるなら、時間の一方通行の流れの時間観から解放されて、イエスが「愛する弟子」とは私たち自身のことであるという確信を持つことができるでしょう。

おわりに
 11日の礼拝でも開きましたが、最後にヨハネの手紙第一1章の1節から4節までを交代で読んで、終わることにしたいと思います。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 御父と御子との交わりの中に入れられ、ヨハネが描く神の大きな愛を感じることができる私たちでありたいと思います。そして、この素晴らしい恵みを多くの方々にお伝えできる私たちでありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

最初のしるしと第二のしるし

2013-08-18 23:57:36 | 礼拝メッセージ
2013年8月18日礼拝メッセージ
『最初のしるしと第二のしるし』
【ヨハネ2:1~11、4:46~54】

はじめに
 私たちの教会の礼拝説教では先月の第二聖日から、ずっとヨハネの福音書の学びを続けています。今日で6回連続になりますが、これからもしばらくは続けたいと願っています。必要に応じて、時々は他の箇所を開く時もあると思いますが、しばらくはヨハネの福音書を開き、この福音書が発信している壮大なメッセージを、皆さんとともに分かち合いたいと願っています。それは、ヨハネの福音書を知れば知るほど、神がどれほど私たちのことを愛して下さっているのか、もっともっとわかるようになるからです。マタイ・マルコ・ルカの福音書によっても神の愛はわかりますが、ヨハネの福音書からは、さらに神の愛の大きさを知ることができるようになっています。しかし、私たちは今までヨハネの福音書をマタイ・マルコ・ルカと同列に並べて読んでいましたから、ヨハネが伝えたかった神の愛を十分に感じ取れているとは言えません。ヨハネがせっかく素晴らしく壮大な神の愛のメッセージを私たちに向けて発信してくれているのですから、私たちは残るところなく、吸収したいと思います。
 いま私たちの周囲の霊的な環境はどんどん悪化しています。そういう中で私たちは神の愛を周囲の方々にお伝えして行かなければなりません。しかし、霊的な環境が悪化していますから、今までなら伝わったことでも、伝わらなくなって来ています。ですから私たちは、もっと大きなレベルで神の愛を語らなければ、なかなか伝わって行かないだろうと思います。私たちはこの教会で、今まで感じていた神の愛の大きさを遥かに上回る大きさで神の愛の大きさを分かち合い、そしてそれを周囲の方々にお伝えできるようになりたいと思います。

1.永遠の中を生きるイエスを描いたヨハネの福音書
 イエス・キリストは永遠の命を持っています。ヨハネの福音書は冒頭からそのメッセージを発しています。ヨハネの福音書の書き出しはこうです。

「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
 この方は、初めに神とともにおられた。
 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。」(ヨハネ:1-4)

 このように、イエス・キリストは天地が創造される以前から存在していて、今も生きておられますから、永遠の命を持っています。ヨハネの福音書はこの永遠の中を生きるイエス・キリストを描いています。一方、マタイ・マルコ・ルカの福音書は紀元30年頃までの30年あまりのイエス・キリストの地上生涯を描いています。マタイ・マルコ・ルカが30年あまりのイエスの地上生涯を描いていますから、4番目に書かれたヨハネの福音書もまた同じようにイエスの30年あまりの地上生涯を描いているのだと私たちは思い込んでしまっていますが、ヨハネは永遠の中を生きるイエスを描いています。永遠の時間の中にあってイエスの地上生涯の30年あまりというのは、わずかな期間に過ぎません。もちろん、この30年あまりの「イエスの時代」が非常に大きな意味を持つのですが、「イエスの時代」の前後の「旧約の時代」と「使徒の時代」もまた同様に、大切な時代です。そして、ヨハネは「イエスの時代」よりは、むしろ、それ以外の「旧約の時代」と「使徒の時代」に注目しています。
 ヨハネの福音書は謎の多い書物とされていますが、それはマタイ・マルコ・ルカと同じように地上生涯のイエスを描いていると思い込んで読んでいるためです。例えば、きょう後で見るヨハネ2章4節のイエスの母に対することばの、「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」という言い方は、すごく違和感がありますね。何でイエスさまはこんな冷たい言い方を母親に対してするのだろうと思います。或いはまた、2章13節から16節に掛けての「宮きよめ」と呼ばれる記事も奇妙な箇所として有名です。ここでイエスはエルサレムに上り、宮の中に牛や羊や鳩を売る者たちと両替人たちがいるのを見て、宮から追い出しました。同様の「宮きよめ」の記事はマタイ・マルコ・ルカにもありますが、マタイ・マルコ・ルカの場合は十字架の直前にイエスがこのようなことをしたことが記されています。それなのにヨハネの福音書には何故、2章という早い段階で「宮きよめ」があるのか、注解者たちを悩ませています。また、同じ2章からもう一つ奇妙な箇所を指摘すると、23節に、「イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた」とあります。ここでイエスはエルサレムでしるしを行ったとヨハネは書いているわけですが、きょう、先ほど朗読していただいた4章のしるしが「第二のしるし」ということでした。2章11節に「最初のしるし」がありますから、こっちの2章23節のほうが「第二のしるし」ではないだろうか、と思うわけですが、ヨハネは4章のしるしを「第二のしるし」としています。これは一体どういうことだろう、ということになるわけです。
 これらの奇妙な箇所は皆、ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカと同じように地上生涯のイエスを描いていると思い込んでいるために奇妙だと感じるのです。ヨハネの福音書は永遠の中を生きるイエスを描いており、紀元30年頃の「イエスの時代」よりも、むしろ「旧約の時代」と「使徒の時代」のイエスに注目しているのだとわかれば、奇妙なことではなくなります。

2.出エジプトとペンテコステの日のヨハネ2章
 では、そのことを、2章を見ながら説明して行きます。2章の1節から11節までは、「カナの婚礼」と呼ばれる記事が記されています。ここで私たちが紀元30年頃の「イエスの時代」の縛りから解放されて、なるべく「旧約の時代」と「使徒の時代」のことを思い巡らすなら、ここにはモーセがイスラエルの民とともにエジプトを脱出する前のことと、ペンテコステの日のことが描かれていることが見えるようになります。
 ここで、今話したようなエジプト脱出の前のこととかペンテコステの日とか細かい出来事を特定できることを不思議に思う方がおられるかもしれませんが、特定できるのは、「旧約の時代」と「使徒の時代」のそれぞれの時代の中に時間の流れがあるからです。今日は詳しくは説明しませんが、「旧約の時代」については「創世記の時代」が1章に、「出エジプト記の時代」が2章に、「レビ記・民数記・サムエル記の時代」が3章に、そして「列王記の時代」が4章以降にあります。そして、それぞれの時代の中を生きるイエス・キリストのことが書かれています。先週の説教では、4章のイエスは預言者エリヤの中に、6章のイエスは預言者エリシャの中にいて父のことばを人々に伝えたのだという話をしました。旧約の預言者たちには聖霊が注がれていましたから、イエスはその預言者たちの中にいて、父のことばを人々に伝えていました。そしてモーセもまた聖霊が注がれた預言者でしたから、イエスはモーセの中にもいました。そのモーセの「出エジプト記の時代」のことが2章に描かれています。
 そして2章には、さらに「使徒の時代」のペンテコステの日のことも描かれています。こうしてヨハネは、永遠の命を持つイエス・キリストが紀元30年頃の「イエスの時代」だけでなく、「旧約の時代」にも「使徒の時代」にも同時にいることを示して、イエスが永遠の中を生きていることを示しています。

3.恵みの上のさらなる恵み
 また、ヨハネは「旧約の時代」と「使徒の時代」とを重ねることで、私たちが恵みの上にさらに恵みを受けたのだということも示しています。1章の16節と17節を見て下さい。

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

 16節の「恵みの上にさらに恵みを受けた」というのは、律法の恵みの上にさらに聖霊の恵みを受けたということです。律法は神が人々を愛しているが故に人々に与えたものです。神は愛するご自分の民が神から離れることのないように律法を与えました。ですから律法は神の愛の表れであり、律法は恵みです。しかし律法を形式的に守るようになってしまうと、律法には神の愛が詰まっているのだということを感じることが難しくなります。そこで神はイエスを信じる者には聖霊を注いで、神の愛が直接心の奥深くにまで届くようにして下さいました。これは素晴らしい恵みですね。こうして17節にあるように、恵みとまことがイエス・キリストによって実現して、私たちは神の大きな愛の中にいるのだということを聖霊の働きによって感じることができるようになりました。

 ヨハネの2章に戻ります。私たちが「イエスの時代」の縛りから解放されて「旧約の時代」のイエスと「使徒の時代」のイエスを思い浮かべることができるようになるなら、2章4節のイエスの母に対することばも、それほど奇妙ではなくなります。
 イエスは「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」と言いましたが、ここでヨハネは「イエスの時代」の母マリヤのことは、ここでは関係がないということを私たち読者に教えてくれているのですね。マリヤは「イエスの時代」のイエスにとっては母でしたが、「旧約の時代」のイエスと「使徒の時代」のイエスにとっては母ではありませんでした。ですからイエスは「あなたはわたしと何の関係があるのでしょう。女の方。」と言ったのですね。

4.モーセの中にいた「旧約の時代」のイエス
 ここで「旧約の時代」のイエスはモーセの中にいました。「使徒の時代」の説明は後にして、「旧約の時代」のほうを先に説明すると、この2章にはモーセがイスラエルの民を率いてエジプトを脱出するまでのことが描かれています。イエスが水をぶどう酒に変えた奇跡は、モーセがナイル川の水を血に変えたことであると考えてよいでしょう。出エジプト記では、ここから一連の十の災いが始まり、十番目の災いとして過越の出来事があってイスラエルの民はエジプトから脱出します。2章13節の、「ユダヤ人の過越の祭りが近づき、イエスはエルサレムに上られた」という記事は、モーセの時代の過越の出来事のことを示します。
 このモーセの時代の過越の出来事とイエス・キリストの十字架とは切っても切れない関係にあります。イスラエルの民がエジプトから脱出する時、神はエジプトの地のすべての初子を打ちました。ただし、イスラエルの民の家だけは過ぎ越して行きました。この時、イスラエル人たちは、いけにえの羊の血を家のかもいと門柱とに塗り付けたので、それを見て神はイスラエル人の家を過ぎ越して行きました(出エジプト記12章)。こうしてイスラエルの民はエジプトを脱出することができて、奴隷状態から解放されて救われました。ヨハネの福音書のイエスもまた、過越のいけにえの小羊としてほふられ、十字架で血を流しました。このイエスの十字架の血を信じる者は罪の奴隷から解放されて救われます。
 2章15節の過越の祭りでの「宮きよめ」の記事ではイエスが羊も牛もみな、宮から追い出しています。これは、羊や牛ではなく、イエスご自身が過越のいけにえであることを示しています。こうして、ヨハネの福音書の2章のこの箇所にはモーセがナイル川の水を血に変え、十の災いの十番目には過越の出来事があって、イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から解放されて救い出されたことが描かれています。永遠の命を持つイエスは、預言者モーセの中にいて、イスラエルの民と共にいました。
 
 ここまでが2章の「旧約の時代」のことです。次にこれから、2章の「使徒の時代」のことを話しますが、ちょっと一服しましょう。
 皆さんの中には、もう「旧約の時代」のことだけで、お腹が一杯と思ってらっしゃる方もいるかもしれませんね。しかし、神さまは私たちに惜しむことなく、残るところなく愛を注いで下さる方です。私たちはもまた、神から注がれる愛をこぼすことなく、残るところなく受けたいと思います。「旧約の時代」の過越の恵みだけでも私たちにとっては十分な恵みですが、私たちはここでさらに「使徒の時代」のペンテコステの日の恵みも受けます。これが、「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである」(ヨハネ1:16)ということです。
 皆さんは、胃がんの検診のバリウムの検査を受けたことがありますか。私は先月、近所の愛鷹病院に行って、バリウム検査を受けて来ました。この検査では、まず発泡剤を飲んで、発砲したガスで胃を膨らませて、その後でX線を通さないバリウムを飲んで、胃の表面に流し込み、がんによって胃の表面に変化が生じた箇所が有るか無いかをX線で透視しながら診るようになっています。この時、発泡剤を飲んで胃がガスで満たされるためにゲップが出そうになります。しかし、X線検査の担当の先生は「絶対にゲップをしないで下さい」と何度も言います。ゲップをすると、せっかくガスで膨らんだ胃がしぼんでしまうからです。しぼんでしまうと、胃の表面の細かい凹凸がわからなくなってしまいます。
 きょう皆さんは「旧約の時代」の過越の恵みの話だけで十分にお腹が膨らんだことと思いますが、ゲップをしないで、さらに「使徒の時代」の聖霊の恵みもお腹に入れていただきたいと思います。これがヨハネの福音書が発信している大きな神の愛のメッセージだからです。私たちはこの大きな愛を残るところなく受ける者でありたいと思います。

5.ガリラヤ人たちに聖霊を注いだ「使徒の時代」のイエス
 この2章の「使徒の時代」には、ガリラヤ人の弟子たちに聖霊が注がれたことが描かれています。きょうは使徒の働き(使徒行伝)は開きませんが、使徒の働きを見ると、聖霊が注がれたのは、まずガリラヤ人たちに対してで、それからユダヤ人たち、それからサマリヤ人たち、そして異邦人にも聖霊が注がれたことが記されています。
 この婚礼はガリラヤのカナであったと2章1節にありますから、まずガリラヤ人たちに聖霊が注がれたことがここで描かれています。11節の最後に、「それで、弟子たちはイエスを信じた」と書いてありますね。イエスが復活した後の「使徒の時代」においては、イエスを信じる者に聖霊が注がれるようになりましたから、この「弟子たちはイエスを信じた」という文が、ガリラヤの弟子たちに聖霊が注がれたことを示しています。
 水がめの水をイエスが良いぶどう酒に変えたことは、水のバプテスマに替わって聖霊のバプテスマを弟子たちが受けたことを示します。この良いぶどう酒というのは、イエスの血のことです。イエスが十字架で流した血は、水では決してきよめることができない私たちの心の内側の罪をきよめることができます。1章でイエスを見たヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」(ヨハネ1:29)と言い、「その方こそ、聖霊によってバプテスマを授ける方である」(ヨハネ1:33)と言いました。2章のカナの婚礼でイエスが水をぶどう酒に変えた奇跡は、弟子たちが聖霊のバプテスマを受けたことを示します。これは素晴らしい祝福の恵みですから、婚礼という祝福の場面に良く合います。10節で宴会の世話役は言いました。

「だれでも初めに良いぶどう酒を出し、人々が十分飲んだころになると、悪いのを出すものだが、あなたは良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」

「良いぶどう酒をよくも今まで取っておきました」という世話役のことばから、聖霊のバプテスマの恵みがこれまでのどの恵みと比べても最高に素晴らしい恵みであることがわかります。これが1章16節と17節でヨハネが書いた、

1:16 私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。
1:17 というのは、律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。

ということです。「旧約の時代」の神が人々を愛し、注いだ恵みも大きなものでしたが、「使徒の時代」の恵みはさらに大きなものでした。ヨハネの福音書は、このように「旧約の時代」と「使徒の時代」とを重ねることで、私たちを愛していて下さる神がいかに大きな恵みを私たちに与えて下さっているかということを教えてくれています。この神の愛の大きさはヨハネの福音書がイエスの地上生涯だけを描いていると思い込んでいるなら、決して感じ取ることができないものです。私たちはこの神の圧倒的な愛をこぼすことなく受け取りたいと思います。

6.最初のしるしと第二のしるし
 さて、このカナの婚礼の場面では、まずガリラヤ人たちに聖霊が注がれました。ヨハネはこれを11節のように「最初のしるし」と呼びました。そして先ほども言ったように、使徒の働きにはガリラヤ人に聖霊が注がれた次にはユダヤ人、その次はサマリヤ人、そして異邦人という順番に聖霊が注がれたことが記されています。ヨハネの福音書もまた、まさにその通りになっています。2章23節を見て下さい。

 2:23 イエスが、過越の祭りの祝いの間、エルサレムにおられたとき、多くの人々が、イエスの行われたしるしを見て、御名を信じた。

とあります。この、エルサレムの多くの人々がイエスを信じたということが、ユダヤ人たちに聖霊が注がれたことを示しています。ユダヤ人たちは、まずペテロやヨハネらのガリラヤ人たちに聖霊が注がれたのを見てペテロのことばに耳を傾け、そうしてイエスを信じ、聖霊が注がれたのでした。
 次いで、サマリヤ人たちに聖霊が注がれたことが示されているのがヨハネ4章のサマリヤ人の箇所です。4章40節と41節をお読みします。

4:40 そこで、サマリヤ人たちはイエスのところに来たとき、自分たちのところに滞在してくださるように願った。そこでイエスは二日間そこに滞在された。
4:41 そして、さらに多くの人々が、イエスのことばによって信じた。

 ここにサマリヤ人たちがイエスを信じたことが記されていますから、これはサマリヤ人たちがイエスを信じて聖霊が注がれた使徒の働きの記事と重ねられています。このヨハネ4章のサマリヤ人の箇所は、使徒の働きのサマリヤ人に聖霊が注がれた箇所(使徒8章)と比較しながら丁寧に読むと非常に面白い箇所です。きょうは、もう時間がありませんが、また機会があったら、この箇所をじっくり読むことをしたいと思います。
 そして、サマリヤ人の次に異邦人にも聖霊が注がれた箇所が、きょう聖書朗読で読んでいただいた4章の46節から54節までの箇所です。きょうはここは簡単にしか見ることができませんので、予め聖書朗読で読んでおいていただきました。46節に、

4:46 イエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。

とあります。この王室の役人というのは、異邦人のことであると読み取らなければなりません。そして53節に、

4:53 それで父親は、イエスが「あなたの息子は直っている」と言われた時刻と同じであることを知った。そして彼自身と彼の家の者がみな信じた。

と書いてあります。「彼自身と彼の家の者がみな信じた」とありますから、ここで異邦人にも聖霊が注がれたことが示されています。使徒の働きでは、コルネリオという異邦人とその親族や友人たちに聖霊が注がれたことが記されています(使徒10章)。割礼を受けているガリラヤ人・ユダヤ人とサマリヤ人たちだけでなく、割礼を受けていない異邦人にも聖霊が注がれたことは、驚くべきことでした。このように異邦人にも聖霊が注がれることがわかったことで、パウロたちによって異邦人伝道が精力的に行われるようになりました。それゆえ、ヨハネはこの、異邦人に聖霊が注がれた出来事を、「第二のしるし」と呼びました。54節ですね。

4:54 イエスはユダヤを去ってガリラヤに入られてから、またこのことを第二のしるしとして行われたのである。

 ヨハネはまず、ガリラヤ人たちに聖霊が注がれたことを「最初のしるし」と呼びました。ここからペテロたちによってイエス・キリストを宣べ伝える伝道の働きが開始されました。こうしてユダヤ人たち、サマリヤ人たちもイエスを信じて聖霊が注がれるようになりました。しかし、これらの人々は割礼を受けている人々でした。割礼を受けていない異邦人にも聖霊が注がれたことは本当に画期的な出来事でした。それゆえヨハネをこの出来事を「第二のしるし」と呼び、第二のしるしから、異邦人への伝道の働きがパウロたちによって行われるようになりました。
 これがきょうの説教のタイトルにもなっている、「最初のしるし」と「第二のしるし」です。「最初のしるし」からユダヤ人伝道が始まり、「第二のしるし」から異邦人伝道が始まりました。伝道を行ったのはペテロやパウロたちでしたが、聖霊を注いだのは天に昇って父のみもとにいるイエスでしたから、ヨハネの福音書ではイエスの働きとして描かれています。

おわりに
 このように永遠の命を持つイエスは、「使徒の時代」においても「旧約の時代」においても、そして現代においても御父・御子・御霊の三位一体の神として働き続けています。
 私たちは、この神の大きな愛を残るところなく受け取る者でありたいと思います。ヨハネの福音書の理解を深めて神の愛の大きさをもっと深く知り、そして、この素晴らしい恵みを、多くの方々と分かち合うことができる者でありたいと思います。
 お祈りいたしましょう。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

8月18日礼拝プログラム

2013-08-15 09:19:10 | 礼拝プログラム
インマヌエル沼津キリスト教会
8月18日礼拝プログラム

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

8月第3聖日礼拝順序

 司  会             西村兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  シャロンの花         55
 交  読  詩篇119:129~144
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  救いのおとずれ       473
 証  し             廣瀬神学生
 聖  書  ヨハネ2:1~11、4:46~54
 説  教  『最初のしるしと第二のしるし』 小島牧師
 讃 美 ③  御霊は天より        173
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ルカが感じていた旧約の時代のイエス(2013.8.14 祈り会)

2013-08-14 21:34:14 | 祈り会メッセージ
2013年8月14日祈り会メッセージ
『ルカが感じていた旧約の時代のイエス』
【ルカ24:13~44】

【前半:13~24】
24:13 ちょうどこの日、ふたりの弟子が、エルサレムから十一キロメートル余り離れたエマオという村に行く途中であった。
24:14 そして、ふたりでこのいっさいの出来事について話し合っていた。
24:15 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。
24:16 しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。
24:17 イエスは彼らに言われた。「歩きながらふたりで話し合っているその話は、何のことですか。」すると、ふたりは暗い顔つきになって、立ち止まった。
24:18 クレオパというほうが答えて言った。「エルサレムにいながら、近ごろそこで起こった事を、あなただけが知らなかったのですか。」
24:19 イエスが、「どんな事ですか」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
24:20 それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。
24:21 しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、
24:22 また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、
24:23 イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。
24:24 それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」

はじめに
 11日の礼拝ではヨハネ6章を開いて、ヨハネの福音書はこの箇所でイエスが旧約の時代の預言者エリシャの中にいて父のことばを語り、奇跡を行っていたことを書いている、という話をしました。さらにエリシャだけでなく、モーセ、エリヤ、イザヤ、ミカ、エレミヤ、エゼキエル、ハガイらの中にもいて父のことばを語っていたということを話しました。すると、K姉が帰り際に、「もうイエスさまのことで胸が一杯」と言って帰って行かれました。この日の礼拝の最後の感謝のお祈りはK姉にしていただいたのですが、言葉があまり滑らかに出ず、どこか、たどたどしい感じがありました。それは、メッセージがK姉の心の奥深くに届いて、霊的に本当に恵まれていたからだったのだな、ということが、K姉の帰り際の「もうイエスさまのことで胸が一杯」という言葉でわかりました。それで、私も「ああ、イエスさまは本当にそういう方なんだな」ということを改めて確認できて感謝な礼拝でした。

1.ヨハネの書いていることは真理か
 私としては、ヨハネの福音書には、こう書いてあるという説教の仕方をしました。ヨハネが「旧約の時代」を「イエスの時代」に重ねていることは間違いのないことです。しかし、このヨハネの書いていることが、間違いのない真理として捉えて本当に良いのかどうかについては、私としては一抹の不安を持っています。もしかしたら、これはヨハネ独自の考えで、他の使徒たちは、そうは考えていなかったのではないかという一抹の不安があります。というのは、「○○の福音書」というタイトルが付いている福音書は、新約聖書に収められている四つの福音書の他にもいろいろあるからです。「トマスの福音書」、「ペテロの福音書」、「ユダの福音書」、「マリヤの福音書」など、いろいろあります。これらのものの多くは2世紀以降に書かれ、作者の創作が入っていて真理を示していないだろうということで新約聖書の中には収められていません。ヨハネの福音書の場合は、少し微妙な位置にあると思います。ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの福音書より20~30年ぐらい遅く書かれました。そして、11日の礼拝でも話しましたし、この祈り会でも説明して来たように、マタイ・マルコ・ルカの福音書とは根本的に違う構想のもとに描かれています。ですから、もしかしたら、ヨハネの福音書はヨハネのオリジナルな創作であって他の使徒たちが感じていたこととは違うのではないかという一抹の不安を私は持っています。
 しかし、不安は持ちながらも、たぶん大丈夫だろうとは思っています。なぜなら、新約聖書にどの福音書を収めるかということ、即ちトマスの福音書はダメだけどヨハネの福音書はOKというようなことは、歴史的経緯から言えば編集会議で決められたというよりは、教会の礼拝で朗読される中で淘汰されて来たものであると言われているそうだからです。教会の礼拝の中で聖書朗読が為されるうちに、理性ではなく霊性によって自然と淘汰されて、新約聖書からマタイ・マルコ・ルカ・ヨハネの四つの福音書は、はずすことができない福音書とされたからです。そして、11日の礼拝でK姉が霊的に満たされていた様子を拝見して、ヨハネが書いたことはヨハネが独自に考えたものではなくて、真理なのだということを私も確信することができました。
 ただ私自身は確信できたとしても、これからヨハネの福音書の真理について広めていくためには、この問題については、霊性だけではなく理性においても、ある程度はきちんと解決しておかなければならないだろうと思っています。そして、きょう開いているルカの福音書24章の「エマオの途上」と呼ばれる箇所は、この問題について有力なヒントを与えてくれているだろうと考え、きょう、ご一緒に読んでみることにしました。
 
 この24章の「エマオの途上」を、長くなるので前半の交読は24節までにしましたが、ここから後半に入って、25節から44節まで交代で読むことにします。きょう、話題にしたいのは専ら今から読む25節以降です。先ほど読んだ24節まででは、二人の弟子がエルサレムからエマオという村に行く途中、イエスが二人に近付いて来て、一緒に歩き始めたことが記されていました。二人の弟子はこの近付いて来た人物がイエスであるとは気付いていませんでした。そして、二人の弟子は、ナザレ人イエスが十字架に掛かって死に、墓に葬られたが、墓が空っぽになったことがエルサレムで話題になっているのだとイエスに話しました。ここまでが24節までのことです。続いて25節から44節までを交代で読みましょう。

【後半25~44節】
24:25 するとイエスは言われた。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。
24:26 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」
24:27 それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。
24:28 彼らは目的の村に近づいたが、イエスはまだ先へ行きそうなご様子であった。
24:29 それで、彼らが、「いっしょにお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もおおかた傾きましたから」と言って無理に願ったので、イエスは彼らといっしょに泊まるために中に入られた。
24:30 彼らとともに食卓に着かれると、イエスはパンを取って祝福し、裂いて彼らに渡された。
24:31 それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった。
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
24:33 すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、
24:34 「ほんとうに主はよみがえって、シモンにお姿を現された」と言っていた。
24:35 彼らも、道であったいろいろなことや、パンを裂かれたときにイエスだとわかった次第を話した。
24:36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。
24:37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。
24:38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。
24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」
24:41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。
24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、
24:43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。
24:44 さて、そこでイエスは言われた。「わたしがまだあなたがたといっしょにいたころ、あなたがたに話したことばはこうです。わたしについてモーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就するということでした。」

2.ルカはヨハネと同じことを感じていたのか
 25節で イエスは弟子たちに言いました。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。」ここでイエスは、イエスのことは預言者たちが既に予言していたことなのだと弟子たちに言いました。そして27節でこう言いました。

「それから、イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた。」

 イエスは「聖書全体の中」で、ご自分について書いてある事柄を説き明かしたとルカは書いています。私たちは、例えばイザヤ書53章などはイエスについて書かれたことだと知っています。或いは、少し前にイエスが宣教を始めた頃に会堂でイザヤ書61章を朗読して、これは自分のことだと会衆に言ったことなども見ました。このように私たちは、旧約聖書でイエスについて書いた箇所があることを部分的には知っています。しかし、ヨハネの福音書は、旧約聖書のほぼ全てがイエスのことについて書いているのだということを示しています。そして私たちが知りたいのは、ルカはどのように考えていたかということです。もしルカもヨハネと同じように考えていたのなら、他の使徒たちも同様に考えていたということになるでしょう。27節でルカは、イエスは「聖書全体の中」で、ご自分について書いてある事柄を説き明かしたと書いています。これが、文字通り聖書全体にイエスのことが書いてあるのか、或いはイザヤ書53章のように聖書全体の中の一部なのかということになります。
 ルカは44節で、もう一度同様のことを書いています。44節でルカはイエスが「モーセの律法と預言者と詩篇とに書いてあることは、必ず全部成就する」と言ったと書いています。「モーセの律法と預言者と詩篇」ということは、旧約聖書のほぼ全体ということです。旧約聖書の三区分では、律法、預言者と諸書の三つに区分しています。律法はモーセ五書、すなわち創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記です。預言者は、イザヤ、エレミヤ、エゼキエルと十二の小預言書、さらにヨシュア記、士師記、サムエル記と列王記も含まれます。これに詩篇が加われば、旧約聖書の大部分を網羅します。イエスは、これらの全部が自分について書いていると言っているのでしょうか、それともこれら全部の中の一部が自分について書いていると言っているのでしょうか。ひいき目に見れば、前者ですね。ヨハネと同様にルカも、聖書全体がイエスについて書いていると考えていたとして良いだろうと思うわけですが、ここは少し慎重になり、もう少し検証してみたいと思います。

3.聖霊の働きを実際に目撃していたルカ
 ルカは、ルカの福音書の続編として使徒の働きを書きました。使徒の働きには聖霊の働きが書かれています。ルカはパウロの伝道旅行の一部に同行していましたから、聖霊の豊かな働きについて知っていました。例えば、パウロが初めてアジヤからヨーロッパに渡った時、ルカは同行していました。使徒の働きの16章(新約聖書p.260)をご一緒に、交代で読んでみたいと思います。使徒の働き16章の6節から12節までを交代で読みましょう。
 
16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
16:8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。
16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。
16:11 そこで、私たちはトロアスから船に乗り、サモトラケに直航して、翌日ネアポリスに着いた。
16:12 それからピリピに行ったが、ここはマケドニヤのこの地方第一の町で、植民都市であった。私たちはこの町に幾日か滞在した。

 10節に、「私たちは」とありますから、ルカはパウロがアジヤからヨーロッパへ渡った時にパウロに同行していました。
 11節と12節にも「私たちは」とありますから、ルカはパウロと共にピリピの町へ入ったのでした。こうしてルカはパウロに同行して聖霊の働きを目撃し、パウロのヨーロッパ伝道が聖霊の働きによって進められて行ったのだということを、自らの体験で知っていました。
 そのルカが「旧約の時代」の聖霊の働きについて、次のように書いています。使徒の働きを、あと、もう2箇所開きたいと思います。まず、1章16節

1:16 「兄弟たち。イエスを捕らえた者どもの手引きをしたユダについて、聖霊がダビデの口を通して預言された聖書のことばは、成就しなければならなかったのです。」

 ルカは、聖霊がダビデの口を通して預言したと書いています。続いて、最後にもう1箇所だけ、28章25節、

28:25 こうして、彼らは、お互いの意見が一致せずに帰りかけたので、パウロは一言、次のように言った。「聖霊が預言者イザヤを通してあなたがたの父祖たちに語られたことは、まさにそのとおりでした。」

 このようにルカは、預言者には聖霊が注がれていたことを認識していました。そしてルカは、ルカの福音書では、「イエスは、モーセおよびすべての預言者から始めて、聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」と書いていますから、ルカは、ヨハネと同じように、イエスご自身も聖霊として預言者の中にいて預言していたと考えていたとして良いのではないかと思います。ルカはヨハネほどはハッキリと認識していなかったかもしれませんが、御父・御子・御霊が預言者の中にいたとルカは感じていたのではないかと私は考えます。そしてヨハネは、もっとハッキリとした形で永遠の命を持つ御子イエス・キリストが旧約の預言者の中にも、使徒たちの中にもいたということを示したのではないでしょうか。

おわりに
 しかし、今まで私たちは、このことを捉え損なっていたのですね。私たちは、これまで、旧約聖書のすべての中にイエスがいるとは考えていませんでした。
 今になって、どうして私たちがそのことを示されるようなったのか、それは良くわかりません。わかりませんが、K姉の様子などを見ると、聖霊の働きが再び活発になっているのかもしれません。
 ですから、きょう少なくとも一つ言えることは、私たちは霊的にもっと整えられて、聖霊の働きを敏感に感じることができる者でなければならないということだと思います。聖霊が私たちに何を求めているのかを、敏感に感じ、霊に燃えて、主に仕える者でありたいと思います。
 お祈りいたします。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

イエスが預言した父のことば(2013.8.11 礼拝)

2013-08-11 19:56:44 | 礼拝メッセージ
2013年8月11日礼拝メッセージ
『イエスが預言した父のことば』
【ヨハネ6:1~13】

6:1 その後、イエスはガリラヤの湖、すなわち、テベリヤの湖の向こう岸へ行かれた。
6:2 大ぜいの人の群れがイエスにつき従っていた。それはイエスが病人たちになさっていたしるしを見たからである。
6:3 イエスは山に登り、弟子たちとともにそこにすわられた。
6:4 さて、ユダヤ人の祭りである過越が間近になっていた。
6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」
6:8 弟子のひとりシモン・ペテロの兄弟アンデレがイエスに言った。
6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」
6:10 イエスは言われた。「人々をすわらせなさい。」その場所には草が多かった。そこで男たちはすわった。その数はおよそ五千人であった。
6:11 そこで、イエスはパンを取り、感謝をささげてから、すわっている人々に分けてやられた。また、小さい魚も同じようにして、彼らにほしいだけ分けられた。
6:12 そして、彼らが十分食べたとき、弟子たちに言われた。「余ったパン切れを、一つもむだに捨てないように集めなさい。」
6:13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった。

はじめに
 先週の8/6は広島の原爆の日、9日は長崎の原爆の日でした。そして今週の15日は終戦の日です。8月は私たち日本人にとって平和の尊さについて思いを巡らすべき月となっています。そして昨年からは8月の20日も加わったと私は考えています。昨年の8月20日、シリアのアレッポでシリアの内戦を取材していた日本人ジャーナリストの山本美香さんが銃撃を受けて死亡しました。彼女はクリスチャンではなかったと思いますが、私は、彼女は十字架の死を恐れずに、平和のために十字架に向かって行った人だと思っています。
 私も方法は違いますが、たとえ行き着く先が十字架であろうとも、彼女のように平和のために十字架に向かって行ける者でありたいと思います。そして、いま私が平和のためにできることは、ヨハネの福音書とは、実はこのような書であったのだということを日本に、そして世界に広めることだと思っています。私は、そのために伝道者として召し出されたのだと今は確信しています。
 どうして礼拝の説教の場で、私の個人的な思い入れを、私がこんな風に告白するのか、礼拝の説教とは本来は神様のメッセージを取次ぐもので、牧師の個人的な思い入れを吐露する場ではありません。それにも関わらず私がヨハネの福音書への思い入れを大胆に語るのは、このヨハネの福音書が、世界を平和に導く大きな可能性を秘めているからです。

1.福音書の読み方のコペルニクス的転回
 「コペルニクス的転回」という言葉を皆さんはご存知でしょうか。空に見える星の動きについて、天動説から地動説に変わったことで世界が大きく変わったことになぞらえて、ある物事によって世界が大きく変わることを言います。例えばインターネットの登場などは、「コペルニクス的転回」と呼んで良いだろうと私は思います。私がインターネットのホームページを初めて見たのは、確か私が東京で働き始めた1995年か、そのちょっと前ぐらいだったと思いますが、本当に驚きました。それまでは、私たち一般人は情報を専ら受け取るだけの側でした。情報を広い地域に向かって発信するにはテレビや新聞、雑誌、本などのマスメディアを利用しなければなりませんでした。今でもそうですが、一般人がマスメディアを利用するのは簡単なことではありません。それがインターネットの登場で、誰でも気軽に世界に向けて情報を発信できるようになりました。この時、私はつくづく、そういう世の中になったんだと本当に驚いたことを良く覚えています。
 そして私はヨハネの福音書もまた、世の中を「コペルニクス的転回」と呼べるほど大きく変える可能性を秘めていると考えています。なぜなら、まず私たち読者の側が、ヨハネの福音書の読み方を大きく改めなければならないからです。新約聖書には、皆さんご存知の通り、四つの福音書が収められています。マタイの福音書、マルコの福音書、ルカの福音書があって四番目にヨハネの福音書があり、どれも福音書という書名が付いていますから、ヨハネもまたマタイ・マルコ・ルカと同じようにイエスの生涯について記した書であると私たちは思い込んでいます。しかし、ここに大きな思い違いがあります。確かにヨハネの福音書もイエスの生涯を描いた書ですが、イエスの生涯の中のどの時代に重点を置いているかという点でマタイ・マルコ・ルカとは根本的に異なります。マタイ・マルコ・ルカはイエスの地上生涯に重点を置いています。地上生涯というのは、イエスがこの世にヨセフとマリヤの子として生まれてから十字架に掛かって死ぬまでの約30年間の生涯のことです。しかし、イエスは永遠の命を持つ神の御子です。イエスは創世記の天地創造以前から現代に至るまで、そして未来永劫にわたって、ずっと存在しています。この天地創造以前から未来永劫までの全てがイエスの生涯です。イエスの地上生涯は、その中のわずか30年あまりに過ぎません。マタイ・マルコ・ルカの福音書はこの30年あまりのイエスの地上生涯に注目しています。一方、ヨハネの福音書は、この30年以外、つまりイエスの地上生涯以外のイエスの生涯に注目しています。
 ヨハネの福音書はマタイ・マルコ・ルカの福音書が描いていない、イエスの地上生涯以外のイエスの生涯を描いています。これは皆さん、福音書の読み方としては「コペルニクス的転回」と呼べるのではないでしょうか。そして、このコペルニクス的転回によって様々な変化がもたらされるでしょう。その変化については、また後で述べることにして、まずヨハネがどのようにして、イエスの地上生涯以外の生涯を描いているのかを、6章を見ながら説明して行くことにします。

2.力を抜いて読むべき「イエスの時代」
 6章1節から13節までの箇所は、「五千人の給食」と呼ばれ、マタイ・マルコ・ルカの福音書にも同様の記事が記されています。5節から見ます。5節から7節を読みます。

6:5 イエスは目を上げて、大ぜいの人の群れがご自分のほうに来るのを見て、ピリポに言われた。「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」
6:6 もっとも、イエスは、ピリポをためしてこう言われたのであった。イエスは、ご自分では、しようとしていることを知っておられたからである。
6:7 ピリポはイエスに答えた。「めいめいが少しずつ取るにしても、二百デナリのパンでは足りません。」

 私は今日のこの説教の原稿を作っていて、この5節から7節までを皆さんにどう説明したら良いのか、少々悩みました。なぜなら、この5節から7節までは、話の流れの上では必要な箇所かもしれませんが、内容的にはハッキリ言って、どうでも良い箇所だからです。「どうでも良い」と言うと言い過ぎかもしれませんが、そんなに力を入れて読まなくても良い箇所だということです。ヨハネの福音書には力を入れて読むべき箇所と力を抜いても良い箇所とがあります。この力の入れ加減と抜き加減がわかるようになって来ると、ヨハネの福音書は本当に抜群に面白いです。例えば、野球のバッティングなどでは、バットを持った手に力を入れるのはインパクトの瞬間だけで良いです。ピッチャーがまだボールを投げない間は全身をリラックスさせて、それからボールが投げられたら、まず下半身に力を入れ、次第に上半身、そして腕にも力を入れ、最後にインパクトの瞬間にだけ手に力を入れるという具合になっていると思います。サッカーもそうですね。サッカーの選手は常に全力で走っているわけではなく、状況に応じて、力を抜いて体を休ませています。そうでないと90分間体力が持ちません。
 ヨハネの福音書も力を入れて読むべき箇所と力を抜いても良い箇所とがあります。今まで私たちがヨハネの福音書のことが良くわかっていなかったのは、全部を真面目に読もうとしていたからなのかもしれません。ヨハネの福音書の場合、イエスの地上生涯に関する箇所は、あまり真面目に読まなくても良い箇所です。ヨハネはイエスの地上生涯以外の「旧約の時代」と「使徒の時代」に重点を置いていますから、「イエスの時代」のことはハッキリ言って、ふざけたこと(或いは冗談のようなこと)を書いています。5節でイエスは「どこからパンを買って来て、この人々に食べさせようか。」と言っていますが、「パンを買う」というのは、マルコとルカの福音書では弟子たちが言ったことです。ですから、ここではイエスは冗談を言っているという程度に思っていれば良いと思います。そんなに真面目に考える必要はありません。また7節で「二百デナリのパンでは足りません」とピリポが言っているのは、マルコの福音書で弟子たちが「二百デナリものパンを買ってあの人たちに食べさせるように、ということでしょうか」と言ったことへの突っ込みのように見えます。ここも真面目に考えないほうが良いです。先々週、開いたヨハネ1章の、弟子たちがイエスに聞いた、「ラビ。今どこにお泊りですか」もそうですが、ヨハネの福音書には、このように所々、あまり真面目に読まないほうが良い箇所がありますから、注意が必要です。
 ヨハネの福音書は力の抜き所が分かって来ると、本当に面白いです。この福音書は力を入れるべき所では力を入れ、そうでない所はリラックスして読むことで、神様との交わりを一層深めることができるようになっていると思います。

3.力を入れて読み取るべき背後の「旧約の時代」
 では、ヨハネの福音書の「五千人の給食」の箇所で力を入れて読まなければならないのは、どこでしょうか。それは9節と13節であると言えると思います。9節、

6:9 「ここに少年が大麦のパンを五つと小さい魚を二匹持っています。しかし、こんなに大ぜいの人々では、それが何になりましょう。」

 ここでヨハネは「大麦のパン」と書いています。「五千人の給食」の記事で「大麦のパン」と書いてあるのはヨハネだけで、マタイ・マルコ・ルカには「大麦」は無くて、ただの「パン」です。また、ヨハネは魚を「小さい魚(オプサリオン)」と書いています。マタイ・マルコ・ルカでは「魚(イクスス)」です。ここでヨハネは、この「五千人の給食」の記事はマタイ・マルコ・ルカのそれとは異なると読者に注意を促しているようです。そして13節、

6:13 彼らは集めてみた。すると、大麦のパン五つから出て来たパン切れを、人々が食べたうえ、なお余ったもので十二のかごがいっぱいになった

 ここにも「大麦のパン」とありますね。実は、この箇所は旧約の列王記の時代のエリシャの「大麦のパン」の記事と重ねてあります。列王記第二4章の42節を見てください(旧約聖書p.638)。ここに「大麦のパン」とあります。42節から44節までをお読みします。

4:42 ある人がバアル・シャリシャから来て、神の人に初穂のパンである大麦のパン二十個と、一袋の新穀とを持って来た。神の人は、「この人たちに与えて食べさせなさい」と命じた。
4:43 彼の召使いは、「これだけで、どうして百人もの人に分けられましょう」と言った。しかし、エリシャは言った。「この人たちに与えて食べさせなさい。【主】はこう仰せられる。『彼らは食べて残すだろう。』」
4:44 そこで、召使いが彼らに配ると、彼らは食べた。【主】のことばのとおり、それはあり余った。

 ヨハネの福音書とは人数と大麦のパンの数が異なりますが、その他は非常に良く似ていますから、ヨハネの「五千人の給食」の記事と列王記のこのエリシャの記事とが重ねられていることは明らかです。

4.預言者の中にいて父のことばを語ったイエス
 では、このようにして「イエスの時代」と「旧約の時代」とを重ねることで、ヨハネは何を描こうとしたのでしょうか。それは、永遠の命を持つイエスが預言者の中にいて父のことばを語っていたのだということでしょう。それは、この箇所だけからでは言えないことですが、ヨハネの福音書の様々な記述を総合するなら、そのように言うことができます。
 まず、ヨハネは冒頭の1章1節で、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と書いて、イエス・キリストが創世記の天地創造より前から存在していたことを明らかにしています。しかも、イエス・キリストは「ことば」であったとヨハネは言っています。
 また、イエスは「わたしはその方から聞いたことをそのまま世に告げるのです」(ヨハネ8:26)と言っています。「その方」というのは、天の父のことです。イエスは天の父から聞いたことをそのまま世に告げていると言っています。或いはまたイエスは、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)とも言っています。これらのことから、永遠の命を持つイエスは旧約の時代にあっては天の父と一つになって、父のことばを語っていたということを読み取ることができます。イエスは旧約の預言者の中にいて、父のことばを預言していました。旧約の預言者には聖霊が注がれていましたから、預言者の中にはイエス・キリストがいたのでした。そして、イエスが預言者の口を通して父のことばを語っていたのでした。
 ですから、列王記のエリシャの中にはイエス・キリストがいて天の父のことばを人々に語り、また様々な奇跡を行いました。それは、エリシャだけでなく、エリシャ以外の預言者たち、たとえばモーセ、エリヤ、イザヤ、ミカ、エレミヤ、エゼキエル、ハガイらの中にもイエス・キリストはいて、天の父のことばを人々に語っていました。
 何週間か前に開いたヨハネ4章でイエスは井戸端でサマリヤの女に「わたしに水を飲ませてください」(ヨハネ4:7)と頼みましたが、これはエリヤがやもめの女に「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください」(Ⅰ列王16:10)と頼んだことと重ねられています。それは、つまりイエスがエリヤの中にいて、父のことばを人々に語ったということです。

5.永遠の命をこの世で実感できる恵み
 では、このように「旧約の時代」のイエスをヨハネの福音書から感じ取ることで、どのような恵みが私たちにもたらされるのでしょうか。それは、御父と御子との交わりに入れていただき、私たちが、今現在、この世に生きていながらにして、永遠の命が与えられていることを実感できるということではないでしょうか。永遠の命が与えられているということは、これからずっと先の未来まで生き続ける、というのとは違うのですね。そうではなくて、過去も現在も未来も一体になった時間の中を生きるということです。
 永遠の命を持つイエス・キリストは「旧約の時代」にもいて、「イエスの時代」にもいて、「使徒の時代」にもいて、現代にもいます。「旧約の時代」のイエスは今もいます。それはイエスが、過去・現在・未来が一体の時間の中にいるからです。そして、そのイエス・キリストを信じるなら、私たちもまた神の子とされて、永遠のいのちが与えられます。そして、旧約の時代のことが、ずっと身近に感じられるようになります。イエス・キリストが旧約の時代の預言者たちの中にいることを感じることができるなら、預言者たちの時代を随分と身近に感じることができます。そして、自分にも永遠の命が与えられたのだということを、感じることができます。このことを、自分が死んでから知るのではなく、今、この世に生きながら感じることができます。これは素晴らしい恵みであり、大きな喜びです。
 以前も開いたことがあるかもしれませんが、ヨハネの手紙第一の1章をご一緒に読んでみたいと思います。ヨハネの手紙第一(p.465)の1章1節から4節までを交代で読みましょう。

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、
1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──
1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 ヨハネの手紙第一のこの部分は、ヨハネの福音書を抜きにしたら、まったく理解できないことです。この部分はヨハネの福音書の助けがあって初めてわかることです。また、ヨハネの福音書も、このヨハネの手紙第一の助けがあってわかることです。このように、ヨハネの福音書とヨハネの手紙第一は、お互いに補い合っている文書です。1章1節、

1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、

 これはまさにヨハネの福音書が描いたイエス・キリストのことですね。2節、

1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──

 この2節で、ヨハネは私たちに永遠の命を伝えると言っています。これも、ヨハネの福音書の助けが無ければわからないことです。一般的に永遠の命と言えば、ずっと昔の過去から、これからずっと先の未来までという直線的な時間観の中で永遠の命を考えると思います。しかし、ヨハネの福音書が描いている永遠の命とは、過去も現在も未来も一体になった時間の中を生きることです。きょうヨハネの福音書の6章で私たちは、イエス・キリストが預言者エリシャの中にいることを見ました。これが永遠の命です。3節、

1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 こうしてエリシャの中にいて御父のことばを語った御子イエス・キリストを感じることができた私たちは、御父および御子イエス・キリストとの交わりの中に入れていただくことができました。4節、

1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 御父と御子イエス・キリストとの交わりの中に入れていただくことができた私たちは、この世にいながらにして、永遠の命を与えられたことを感じることができますから、これは素晴らしい恵みであり、全き喜びです。

6.ヨハネの福音書が世にもたらすコペルニクス的転回
 こうして私たちは、ヨハネの福音書のことが良くわかるようになったことで、ヨハネの手紙第一のことも、良くわかるようになりました。ヨハネの福音書のことがわからないうちは、ヨハネの手紙第一のことも良くわからないということです。
 このように、ヨハネの福音書がわかってくることで、いろいろなことがわかるようになります。ヨハネの手紙第一だけでなく、聖書全体の読み方も変わって来ます。例えば、詩篇の詩人の中にもイエス・キリストがいるのだということがわかると、詩篇の読み方も変わって来ます。いま私たちは礼拝での聖書交読では、詩篇119篇をずっと交読しています。詩篇119篇は「ことば」への愛を告白している詩篇です。119篇の詩人が「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。」(詩篇119:105)と詠んだのは、詩人が自分の中にいるイエスを無意識のうちに感じていたからだろうと読み取ることができます。
 このようにしてヨハネの福音書の読み方が変わることで聖書全体の読み方も変わり、いろいろなことがわかって来ます。これが最初に言った「コペルニクス的転回」です。コペルニクスの時代からニュートンの時代に掛けて、天体の動きは天動説でなく地動説で説明しなければならないことがわかったことで、人類はニュートン力学を得ることができました。ニュートンはリンゴが木から落ちる運動も、空の天体の運動も、同じ運動方程式で表すことができることを示し、これをきっかけにして科学技術が飛躍的に発展しました。そして20世紀に入って人類は飛行機やロケットを飛ばすことができるようになり、私たちの暮らしはさらに大きく変わりました。人類が天体の動きを天動説で理解している間は、ロケットを飛ばすことなど不可能です。いま私たちはロケットで人工衛星を打ち上げているおかげで、気象衛星によって台風の情報を得ることができますし、衛星中継で海外の様子をテレビで見ることもできますし、GPSの電波を受信できる端末を持っていれば、自分がどこにいるのかの正確な位置も知ることができます。これが天動説から地動説への変化がもたらした「コペルニクス的転回」です。
 ヨハネの福音書は「イエスの時代」を読み取るべきものではなく、背後の「旧約の時代」と「使徒の時代」を読み取るべきであることがわかったことも「コペルニクス的転回」です。このことにより、私たちは三位一体の神についての理解を深めることができます。そしてまた、人間のことも、もっと良くわかるようになるでしょう。なぜ人類は現代に至るまでヨハネの福音書の背後に存在する「旧約の時代」と「使徒の時代」に気付くことができなかったのか、これは非常に興味深い問題です。限られた人しか聖書を手にすることができなかった時代なら、わからないでもありません。しかし、グーテンベルクが印刷機を発明し、翻訳聖書が世に出回るようになってからは、多くの人が聖書を手にし、しかもへブル語やギリシャ語、ラテン語ではなく、自分が普段使っている言語で読むことができるようになりました。それにも関わらず、ヨハネの福音書は謎に包まれたままでいました。なぜ人類はヨハネの福音書を解読できなかったのか、この問題は、聖書学や神学の領域を越えて、歴史学や哲学や社会学、認知科学や脳科学の領域など、広範な学問分野に興味深い研究課題を与えることになります。そして、これらの研究が進めば、私たちは人間のことが、今よりももっとわかるようになるでしょう。そうすれば、平和を実現できずに争いばかりしている人間の愚かさにも、気付くことができるかもしれません。

おわりに
 きょう私たちはヨハネの福音書の「五千人の給食」の箇所を開きました。イエス・キリストはわずかなパンと魚を何倍にも増やして私たちに与えて下さるお方です。私たちはこの世の狭い世間の中で、いろいろな悩みを抱えて苦しんでいますが、少し広い世界に目を向けるなら、実は素晴らしい恵みの世界が大きく広がっていることに気付きます。「イエスの時代」のイエスだけに注目するのでなく、「旧約の時代」や「使徒の時代」、そして現代に生きるイエスに目を向けるなら、私たちには永遠の命が与えられ、御父と御子イエス・キリストとの交わりの中に入れていただいているという素晴らしい恵みが与えられていることに気付きます。このことに感謝しながら、今週も信仰の道を歩んで行くお互いでありたいと思います。
 お祈りいたします。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

8月11日礼拝プログラム

2013-08-06 11:47:58 | 礼拝プログラム
インマヌエル沼津キリスト教会
8月11日礼拝プログラム

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

8月第2聖日礼拝順序

 司  会             西村兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  救い主イエスと       409
 交  読  詩篇119:113~128
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  主と主のことばに      391
 讃 美 ③  いのちのみことば      180
 聖  書  ヨハネ6:1~13
 説  教  『イエスが預言した父のことば』 小島牧師
 讃 美 ④  キリスト 教会の主よ    229
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

すべての世代・民族が一つになる恵み(2013.8.4 礼拝)

2013-08-06 10:14:02 | 礼拝メッセージ
2013年8月4日礼拝メッセージ
『すべての世代・民族が一つになる恵み』
【ヨハネ3:11~16、12:32】

はじめに
 きょうの聖書箇所はヨハネの福音書の3章と12章です。
 先週は1章を開き、「あなたがたは何を求めているのですか。」「来なさい。そうすればわかります」というイエスの呼び掛けに応答してイエスに付いて行くなら、やがて私たちは愛弟子としてイエスの十字架を間近で見ることになる、という話をしました。
 その前の週は、私たちはイエスの愛弟子であり、愛弟子としてイエスの十字架を間近で見るのだという話をしました。ヨハネの福音書は、私たちが愛弟子としてイエスのすべてを目撃することができるよう、愛弟子の座を私たちに用意してくれています。そうして、私たちはイエス・キリストの十字架を間近で見ます。
 このように先週も先々週も十字架に関係する話でした。私たちはイエス・キリストの十字架を間近で見るよう、招かれています。
 そして今日、先ほど聖書朗読で読んでいただいた3章と12章も十字架の箇所です。
 実は、先週の時点では私は、今週は1章の残りの部分を見て、それから来週は2章というようにして、3章へと入って行こうかなと漠然と考えていました。しかし、どうも、それではダメな気がして、なかなかプログラムが決まりませんでした。私自身は1章の続きの部分と考えているのに、もっと別の箇所をやったほうがいいのではというモヤモヤした気分が抜けなかったのでプログラムの決定が遅れ、結局、3章と12章を聖書箇所にしました。すると今度は聖書の「交読」の箇所も詩篇119篇の続きではなくて、イザヤ書52章が示されましたので、ああ、これが「聖霊によって禁じられる」ということなのだなと思い至り、納得しました。
 「聖霊によって禁じられる」という表現は、使徒の働きに出て来る表現です。第二次伝道旅行に出たパウロは、当初はアジヤでみことばを語ることにしていましたが、結局ヨーロッパに向かいました。それはアジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたからだ、ということが使徒の働きに書いてあります。その箇所(使徒16:6-10)をお読みします。

16:6 それから彼らは、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
16:8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。
16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤへ出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

 こうして、当初はアジヤでみことばを語ることを考えていたパウロでしたが、聖霊によってアジヤでの伝道を禁じられて、ヨーロッパ伝道へと導かれて行きました。
 今回、私が聖霊によって禁じられたのは、ヨハネの福音書の1章に、先週に引き続いて留まることでした。そして聖書の交読も詩篇119篇の続きではなく、イザヤ書の52章を示されました。そうしてイザヤ書52章を示されたことで、私は今日の礼拝が「8月の第1の礼拝」であることを私が忘れていたのだということに気付かされました。8月は私たち日本人が戦争と平和について考えるべき重要な月です。その8月の第1の礼拝なのだから、ちゃんと平和に関するメッセージを語りなさいと示されたというわけです。ですから今日のこの礼拝のメッセージは、私たちは、平和のためにどう関わって行ったら良いだろうかということを意識したものです。
 
1.イザヤ書の平和のメッセージ
 きょうの聖書交読の箇所のイザヤ書52章の7節から15節までを、もう一度、交代で読んでみたいと思います(旧約聖書p.1213)。

52:7 良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる」とシオンに言う者の足は。
52:8 聞け。あなたの見張り人たちが、声を張り上げ、共に喜び歌っている。彼らは、【主】がシオンに帰られるのを、まのあたりに見るからだ。
52:9 エルサレムの廃墟よ。共に大声をあげて喜び歌え。【主】がその民を慰め、エルサレムを贖われたから。
52:10 【主】はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。
52:11 去れよ。去れよ。そこを出よ。汚れたものに触れてはならない。その中から出て、身をきよめよ。【主】の器をになう者たち。
52:12 あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。【主】があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。
52:13 見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。
52:14 多くの者があなたを見て驚いたように、──その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた──
52:15 そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。

 イザヤ52:7は、実は私の召命のみことばです。召命のみことばというのは、伝道者としての使命を与えられて召された時に主から与えられたみことばのことです。私はこの52章7節の中の「平和を告げ知らせ」という箇所に、ビビビと感じて、主が私を伝道者として召しているという確信が与えらえました。きょうはその召命の証しまでは、する時間はありませんから、それはまた、別の機会にさせていただきたく思いますが、今回、私はこのイザヤ書52章を改めて読み直してみて、私の召命のみことばは、7節だけではなく、今、ご一緒に読んでいただいた7節から15節までの全部なのだなという気がしています。
 いま私たちはこの沼津教会でヨハネの福音書の学びをしていますが、このイザヤ書52章の7節から15節に掛けては、いま私たちが学んでいるヨハネの福音書と、非常に良く重なることに、今回私は気付かされました。
 ヨハネの福音書のイエス・キリストは最後の晩餐の最後に天の父に祈りますが、その祈りは、私たちが一つになるために捧げられた祈りでした。イエスはヨハネの福音書の最後の晩餐で天の父への祈りの中で次のように言いました。

「わたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。」(ヨハネ17:22,23)

 そしてイエスは十字架に掛かって死に、よみがえって弟子たちの前に現れた時に、三度も「平安があなたがたにあるように」(ヨハネ20:19,21,26)と繰り返しました。この「平安があなたがたにあるように」は英語の訳(NIV, NKJV, TEV)では”Peace be with you.” です。Peaceですから、「平和があなたがにあるように」ですね。新共同訳では「あなたがたに平和があるように」となっています。私たちの新改訳聖書はpeaceを「平安」としていますが、私は新共同訳の「平和」のほうが良いと考えています。このpeaceはギリシャ語の原語では、「エイレーネー」です。この「エイレーネー」を日本語で「平安」と訳すのか「平和」と訳すのかということですが、私は「平安」というと個人の心の平安という意味あいが強いと感じています。しかしイエスは、私たち一人一人の個人の心の平安も大事だけれども、それだけでなく、私たち皆が一つになって世界が平和になることを望んでおられるのだと私は思います。ですから、私は「平安」ではなく「平和」と訳すべきではないかと考えます。
 随分と細かいことにこだわっているようですが、これはとても大事な問題だと私は考えています。というのは、このヨハネの福音書のメッセージを個人の救いのメッセージと捉えるのか、もっとスケールの大きな世界の平和のメッセージと捉えるのか、という問題になるからです。私は断然、世界の平和でなければならないと考えています。それは、私の召命の問題、何のために召されたかということにも関わって来るわけですが、イザヤ書の52章の7節以降を読むなら、神である主は世界の平和を望んでおられるのだということがわかりますから、ヨハネの福音書のメッセージもイザヤ書のメッセージと同じであろうと思うのです。
 イザヤ書52章に戻って、10節を見ていただきますと、

52:10 【主】はすべての国々の目の前に、聖なる御腕を現した。地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る。

とあります。「すべての国々…、地の果て果てもみな、私たちの神の救いを見る」とありますから、これは世界の平和のことを預言しています。もちろん基本単位は個人の救いですが、一人一人の個人の救いの結果、世界全体の平和がもたらされることのほうが、もっと重要なことと言えるでしょう。いくら個人的に救われていても、世界全体が不穏なままでは、個人の平安も脅かされます。
 この世界全体を救ってくださる主がどのようなお方か、12節を見ますと、

52:12 あなたがたは、あわてて出なくてもよい。逃げるようにして去らなくてもよい。【主】があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ。

とあります。主は私たちの前を進み、同時にしんがり、最後尾にもいて下さいます。これは空間的には主は一番前と一番後ろに同時にいて下さるということですが、時間的には主は永遠の中におられることを示しています。前の方を進む者たちは、時間的には先を進んでいます。後ろの方を行く者たちは時間的には後ろを進んでいます。主は時間的にも前にも後ろにもいて下さるということは、主は永遠の時間の中におり、その中に入れられている私たちもまた、永遠の中にいるということになります。これが、私たちには永遠の命が与えられるということでしょう。
 私たちは永遠の時間の中に入れられているのでなければ、世界の平和はもたらされないだろうと私は考えます。
 きょうのタイトルは「すべての世代・民族が一つになる恵み」としました。この「すべての世代」というのは、現代における子供たちからお年寄りまでのすべての世代という意味ではなくて、アダムからエバに始まって現代に至るまでの人類のすべての世代という意味です。ヨハネの福音書を読み解くなら、そういうメッセージが伝わって来ます。すべての世代が一つになるとは、すなわち過去も現在も未来もない永遠の時間の中に身を置くということです。
 私は一つの時代だけで世界が一つになるのは無理だと考えます。過去へのこだわりは個人によって、また民族によってかなりの温度差があります。この温度差がある以上、なかなか一つにはなれないでしょう。しかし過去も現在も未来もない永遠の時間の中に共に身を置くなら、過去に何があったとしても主にあって赦していただき、また私たち人間も互いに赦し合い、一つになることができるのではないかと思います。
 先日、サッカーの東アジアカップの日韓戦で韓国人のサポーターがソウルのスタジアムで「歴史を忘れた民族に未来はない」という横断幕を掲げたことが問題になりました。私も少しはハングルが読めますから、ニュースでスタジアムの横断幕の映像を見て、確かにそう書いてあると思いました。
「역사를 잊은 민족에게 미래는 없다. 」(ヨクサルル イジュン ミンジョゲゲ ミレヌン オプタ.歴史を忘れた民族に未来はない)と書いてありました。
 こういう横断幕がスポーツの場に持ち込まれることには私は非常に戸惑いを覚えます。私は前にお証ししたように、私が教会に導かれたのは韓国人が教会に誘ってくれたおかげですから、韓国人にはかなり好感を持っているほうだと思います。しかし、このサッカー場の横断幕などを見ると良い気持ちはしません。過去の事にこれほどまでに執着している人々がいる間は、平和は訪れないだろうと思います。私たちはこのように、過去から未来へという一方通行の時間の流れの時間観の中にいたのでは、平和を実現することはできないでしょう。しかし、過去も現在も未来も一体の永遠の中にいるイエス・キリストを信じて私たちもまた永遠の中に入れられるのなら、私たちは一つになることができます。
 イエス・キリストの十字架は、私たちが一つになるために必要なことでした。イザヤは52章12節で、「主があなたがたの前に進み、イスラエルの神が、あなたがたのしんがりとなられるからだ」と預言した直後の13節から、

「見よ、わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。」

と言っています。そして14節、

「多くの者があなたを見て驚いたように、その顔だちはそこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた」

と言っています。この「彼は高められ、上げられ、非常に高くなる」というのはイエス・キリストの十字架のことです。そうしてイザヤ書は52章から53章へと入って行きます。53章にはさらにイエス・キリストの十字架の場面が生々しく預言されています。
 イザヤ書52章から53章に掛けては、このような流れになっていたのですね。今まで私は、私の召命のみことばであるイザヤ書52章7節とイザヤ書53章とが、こんな風につながっていたのだということに、全く気付いていませんでしたが、ヨハネの福音書の理解が深まったことで、イザヤ書の理解もまた深めることができて感謝に思っています。

2.イザヤと重なるヨハネの平和のメッセージ
 それでは今日これまでイザヤ書52章で学んだことを、もう一度ヨハネの福音書を見ながら、確認したいと思います。
 まず12章のほうから見ましょう。ヨハネの福音書12章32節です。

12:32 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。

「わたしが地上から上げられるなら」とは、イエス・キリストの十字架のことです。こうして、私たちのすべてがイエス・キリストの十字架のもとに引き寄せられます。これは、イエス・キリストを信じる者も信じない者もすべてです。そうして信じる者には永遠の命が与えられて、信じない者は永遠の滅びの中に入れられます。私たち信じる者は愛弟子としてイエス・キリストの十字架を間近で見て、あらゆる世代の愛弟子が一つとされます。前回と前々回に話したように、愛弟子は次々とバトンリレーが行われ、現代の私たちへとつながっています。このすべての愛弟子が一つとされます。こうして私たちは過去・現在・未来という時間の流れとは関係のない永遠の中に入れられて、主とともに一つにされます。主に赦され、また私たちも互いに愛し合い、赦し合うことで、「歴史を忘れた」とか「忘れていない」とかとは異なる永遠の時間の中で一つになることができます。


3.十字架を仰ぎ見て生きる私たち
 3章も見ましょう。14節から見ることにします。

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

 「モーセが荒野で蛇を上げたように」というのは、民数記に書かれていることを指します。ここは、重要ですので、ご一緒に見たいと思います。民数記21章を見て下さい(旧約聖書p.269)。21章4節と5節を読みます。

21:4 彼らはホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立った。しかし民は、途中でがまんができなくなり、
21:5 民は神とモーセに逆らって言った。「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」

 荒野にいたイスラエルの民は、主とモーセに不満を言いました。この不満は初めてのことではありません。主はイスラエルの民にマナを与えて養っていましたが、彼らは不満ばかり言っていました。この神に逆らう人々の姿は、私たちのことでもあるでしょう。私たちは普段は神に従っているかもしれませんが、何かあると不満を言って神から離れてしまいます。6節と7節。

21:6 そこで【主】は民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、イスラエルの多くの人々が死んだ。
21:7 民はモーセのところに来て言った。「私たちは【主】とあなたを非難して罪を犯しました。どうか、蛇を私たちから取り去ってくださるよう、【主】に祈ってください。」モーセは民のために祈った。

 こうして民は悔い改めましたが、これも毎度のことです。民は神に逆らっては悔い改めることを繰り返しています。悔い改めた時には、もう神から離れまいと思うわけですが、すぐに神から離れてしまいます。8節と9節、

21:8 すると、【主】はモーセに仰せられた。「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる。」
21:9 モーセは一つの青銅の蛇を作り、それを旗ざおの上につけた。もし蛇が人をかんでも、その者が青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた。

 もし蛇にかまれても、青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きました。これと同じように、十字架に付けられて上げられたイエスを仰ぎ見て、この十字架は私たちを救うためのものなのだと信じるなら、永遠の命が与えられるのだとヨハネの福音書3章でイエス・キリストは言いました。

4.十字架を仰ぎ見る私たちは一つ
 ヨハネの福音書3章に戻ります(新約聖書p.177)。もう一度14節から読みます。私が14節を読みますから、皆さんは15節を、そして16節をご一緒に読みましょう。

3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。
3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 ヨハネが、この福音書で特別に十字架の日を設けて、私たちが愛弟子としてイエス・キリストの十字架を間近で仰ぎ見ることができるようにしてくれたのは、このように私たちが永遠の命を持つためでした。
 私たちが永遠の命を持ち、永遠の時間の中ですべての世代と民族が一つになるなら、私たちは平和な世界を実現することができるでしょう。イエス・キリストの救いは、決して個人の救いだけのためにあるのではありません。個人の救いが基本単位ではありますが、それは、地の果て果てもみな、私たちの神の救いをみて、世界が一つになるためです。ヨハネの福音書は、こういう壮大なスケールのメッセージを発しています。

おわりに
 今週の6日は広島の原爆の日、9日は長崎の原爆の日です。私はこの沼津に来てから、「核兵器廃絶平和宣言都市」という看板をあちこちで見て、非常に感銘を受けました。それは私がイザヤ52:7を召命のみことばとして与えられ、人々に平和を告げ知らせるために主に召し出されたからです。そして、ヨハネの福音書の理解が深まった今、このヨハネの福音書の壮大な平和のメッセージを、この沼津の地から発信するために、この沼津教会に遣わされたのだと確信しています。
 きょうの8月の第一の礼拝で、主は私に平和のメッセージを取次ぐように示されました。主は私たちの一人一人にも平和のために働くよう、おっしゃっています。そのために一人一人、自分に何ができるか、思いを巡らす8月でありたいと思います。それは平和の祈りであるかもしれませんし、共にヨハネの福音書の理解を深めて、この福音書の平和のメッセージを多くの人々に知っていただくことかもしれません。一人一人にとって、平和と向き合う夏でありたいと思います。
 お祈りいたします。
 (祈り)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

8月4日礼拝プログラム

2013-08-02 09:43:54 | 礼拝プログラム
インマヌエル沼津キリスト教会
8月4日礼拝プログラム

 礼拝はどなたでも参加できます
 お気軽にご出席ください

8月第1聖日礼拝順序

 司  会             矢崎兄
 奏  楽             矢崎姉

 前  奏
 讃 美 ①  ベツレヘムに生まれて    103
 交  読  イザヤ52:7~15
 使徒信条
 主の祈り
 祈  祷
 讃 美 ②  カルバリ山の十字架     120
 讃 美 ③  私たちは一つ        450
 聖  書  ヨハネ3:11~16、12:32
 説  教  『すべての世代・民族が一つになる恵み』 小島牧師
 讃 美 ④  神はひとり子を        26
 献  金
 感謝祈祷
 頌  栄  父・子・聖霊の       271
 祝福の御言葉
 後  奏
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

モーセ・アロンから現代の神学生までのつながり(2013.7.31 祈り会)

2013-08-01 13:55:52 | 祈り会メッセージ
2013年7月31日祈り会メッセージ
『モーセ・アロンから現代の神学生までのつながり』
【ルカ1:5~25、57~80】

 きょうは、少し長いですが、ルカの福音書1章5節以降のザカリヤとエリサベツに関する記事の全てを交代で読むことにします。まずルカ1章の5~25節、

1:5 ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。
1:6 ふたりとも、神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた。
1:7 エリサベツは不妊の女だったので、彼らには子がなく、ふたりとももう年をとっていた。
1:8 さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、
1:9 祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった。
1:10 彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていた。
1:11 ところが、主の使いが彼に現れて、香壇の右に立った。
1:12 これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、
1:13 御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。
1:14 その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。
1:15 彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊に満たされ、
1:16 そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。
1:17 彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」
1:18 そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」
1:19 御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。あなたに話をし、この喜びのおとずれを伝えるように遣わされているのです。
1:20 ですから、見なさい。これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」
1:21 人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。
1:22 やがて彼は出て来たが、人々に話すことができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、口がきけないままであった。
1:23 やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰った。
1:24 その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言った。
1:25 「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」

ここから後は、マリヤへの受胎告知の記事がありますが、ここは飛ばして、
続いて、同じルカ1章の57~80節、

1:57 さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産んだ。
1:58 近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜んだ。
1:59 さて八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名づけようとしたが、
1:60 母は答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません」と言った。
1:61 彼らは彼女に、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません」と言った。
1:62 そして、身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねた。
1:63 すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚いた。
1:64 すると、たちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえた。
1:65 そして、近所の人々はみな恐れた。さらにこれらのことの一部始終が、ユダヤの山地全体にも語り伝えられて行った。
1:66 聞いた人々はみな、それを心にとどめて、「いったいこの子は何になるのでしょう」と言った。主の御手が彼とともにあったからである。
1:67 さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言った。
1:68 「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、
1:69 救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられた。
1:70 古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。
1:71 この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。
1:72 主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、
1:73 われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、
1:74 75 われらを敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。
1:76 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、
1:77 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。
1:78 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、
1:79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」
1:80 さて、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいた。


はじめに
 前々回から、水曜日の祈祷会ではルカの福音書を開いています。前回はルカ4章の、イエスが悪魔の誘惑に遭っている場面を見ました。神の子であるイエスは旧約聖書のサタンの誘惑を退けました。しかし、人間の私たちはサタンの誘惑にまんまと引っ掛かってしまっているのではないか、という話をしました。サタンの誘惑は、福音書の始めのほうにあります。この福音書の始めのほうは、旧約の時代とつながっています。サタンは、その旧約と新約の分断を謀ったのではないかと私は感じている、という話をしました。

1.新約の受胎告知を挟む旧約の祭司ザカリヤ
 サタンの策略があったのかどうかは別としても、私は多くの人々が旧約と新約は別々のものであると思ってしまっているように感じています。しかし、旧約の時代と新約の時代は、別々のものではなく、つなぎ目がわからないぐらいに滑らかに連結しています。きょうの箇所のルカ1章は、そのことを実に良く表していると思います。ルカの福音書の1章全体を眺めてみると、マリヤへの受胎告知の場面が、祭司ザカリヤの場面にサンドイッチされる形で、完全に挟み込まれています。祭司という聖職は、旧約の律法と切っても切れない関係にあります。その祭司の場面の間に、マリヤへの受胎告知の記事がサンドイッチの具のようにして挟み込まれているのです。このような構造になっていますから、旧約と新約の境い目は全く存在しないことになります。なぜなら、新約の時代のマリヤへの受胎告知の、前にも後ろにも、旧約の祭司のザカリヤの記事があるからです。
 5節を見ますと、

「ユダヤの王ヘロデの時に、アビヤの組の者でザカリヤという祭司がいた。彼の妻はアロンの子孫で、名をエリサベツといった。」

 この事から、祭司ザカリヤと妻のエリサベツは共に、アロンの子孫であったことがわかります。アロンというのは、モーセのお兄さんで、レビ人の家系です。つまり、ザカリヤとエリサベツの息子であるバプテスマのヨハネは、レビ人の祭司の家系の血を引いている、ということです。

2.モーセ・アロンからサムエル・ダビデへ、そしてヨハネ・イエスへ
 ザカリヤはアビヤの組に属していたということで、このアビヤの組とは何だろうかと思って、下の脚注の引照を見ると、歴代誌第一24章10節と書いてあります。そこで、第一歴代24章10節を見ると(ご一緒に見ましょう、旧約聖書のp.723)、「第八はアビヤに」とあります。その上の段の24章1節を見ますと、これは「アロンの子らの組分け」であることがわかります。
 ダビデは晩年にアロンの子らを24組に分けて、それから、くじを引かせて、奉仕のために神殿に入るアロンの子らの順番を決めました。ダビデは自分が生きている間に神殿を建てたいという願いは適いませんでしたが、息子のソロモンに神殿の建設を託しましたから、この組分けは、ソロモンの時代の神殿での奉仕に備えるものでした。24章の手前の23章のおしまいの方に、その神殿での奉仕の内容の概略が記されています。第一歴代23章の25節から32節までを読みます。

23:25 ダビデがこう言ったからである。「イスラエルの神、【主】は、御民に安息を与え、とこしえまでもエルサレムに住まわれる。
23:26 レビ人も、幕屋を運んだり、奉仕に用いるすべての器具を運んだりする必要はない。」
23:27 これらは、ダビデの最後のことばに従って数えられた二十歳以上のレビ族の数である。
23:28 彼らの役目は、アロンの子らを助け、庭のこと、脇部屋のこと、きよめて聖なるものとすることに関する【主】の宮の奉仕をし、神の宮で奉仕をすることである。
23:29 並べ供えるパン、穀物のささげ物である小麦粉、種を入れないせんべい、平なべ、混ぜ合わせたもの、また、各種の量や大きさを計ること。
23:30 立って朝ごとに【主】をほめたたえ、賛美し、夕べにも同じようにすること。
23:31 安息日、新月の祭りおよび例祭の時に、定められた数にしたがって絶やさずに【主】の前にささげる【主】へのすべての全焼のいけにえのこと。
23:32 彼らは、会見の天幕の任務、聖所の任務、および、【主】の宮で奉仕をする彼らの同族アロンの子らの任務を果たさなければならない。

 このように、ダビデが定めたアロンの子らの奉仕の形態に従って、祭司ザカリヤは神殿に入って奉仕をしたのですね。このレビ人の家系と王のダビデの家系との関係は、非常に興味深いものがあります。ダビデに油を注いだのはサムエルでした。それを命じたのは神でしたが、実際に油を注いだのはサムエルでした。歴代誌の系図を見ると、サムエルはレビ人の家系です。しかしサムエルは祭司ではなくて預言者でした。アロンとモーセの兄弟も、同じレビ人でしたが、アロンが祭司でモーセは預言者でした。このように祭司と預言者というのは、違うのですね。サムエルは預言者で、ダビデに油を注ぎました。そして、バプテスマのヨハネも、父親のザカリヤは祭司でしたが、ヨハネは預言者でした。そしてバプテスマのヨハネは、ダビデの家系のイエス・キリストにバプテスマを授けました。この関係は、非常に興味深いと私は思います。サムエルがダビデに油を注いだことと、バプテスマのヨハネがイエス・キリストにバプテスマを授けたこととは重なるのですね。ここからも、旧約と新約とは分かちがたい関係にあることがわかると思います。

3.そしてさらに現代の神学生へ
 今日はまだ、ルカの福音書は1章5節しか見ていませんが、もうそんなに時間がありませんから、途中はずっと飛ばして、バプテスマのヨハネが生まれてからの所を見たいと思います。66節を見て下さい(新約聖書p.108)。1章66節、

1:66 聞いた人々はみな、それを心にとどめて、「いったいこの子は何になるのでしょう」と言った。主の御手が彼とともにあったからである。

 「この子」というのは、バプテスマのヨハネのことですね。主の御手がバプテスマのヨハネとともにありました。私が今使っている聖書は、BTCに入学した時に買ったものを、そのまま使っていますが、この66節の「この子」という所に書き込みがしてあって、「我々BTC生」と書いてあります。この書き込みを私が、いつ、どういう状況でしたのか全く覚えていませんが、たぶんBTCの先生の誰かが説教で私たちBTC生を励まして下さった時のものなのだと思います。神学生には主の御手が置かれていて、教会の皆さんは「いったいこの子は何になるのでしょう」と期待して送り出して下さっているんですよ、というような説教ではなかったかな~と思います。
 牧師は、人々をイエス・キリストのもとに導くという重要な役割を担っています。ベネディクトスと呼ばれるザカリヤの讃歌でザカリヤは歌っています。76節から79節までを、交代で読みましょう。

1:76 幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、
1:77 神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。
1:78 これはわれらの神の深いあわれみによる。そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、
1:79 暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」

 まだ十分な働きがまだできていない私が言うのも恐れ多いですが、牧師はこのような役割を担い、人々をイエス・キリストのもとにお連れします。そして神学生はそれに備えて学びを深める時を持っています。
 いまBTCに在籍しているインマヌエルの神学生は3人しかいません。そのうちの一人がいずみ神学生です。100以上あるインマヌエルの教会の中で、この大切な働きのために神学生を送り出している教会は今は3つしかなく、そのうちの1つが私たちの沼津教会です。そして私たちはいずみ神学生を背後で支えています。この大切な役割の一部を担っている沼津教会を、主が祝福して下さらないはずがありません。

おわりに
 きょうはザカリヤとエリサベツ、そしてバプテスマのヨハネの記事を通して、神様の御前でのご奉仕がモーセとアロンの時代からサムエルとダビデの時代、そしてバプテスマのヨハネとイエス・キリストの時代にまでつながり、さらには現代の神学生とそれを支える私たち教会の働きともつながっていることを話しました。神学生を送り出すことで、私たちがこれらのことと太くつながっていることは本当に素晴らしい恵みです。このことを覚えて感謝のお祈りを捧げたく思います。
(祈り)
コメント
この記事をはてなブックマークに追加